母の危機感と家庭の味。   作:スポポポーイ

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母の期待感と娘の彼氏。

 この日、千葉県某所では局所的な大寒波に見舞われておりました。

 

「ようこそ、雪ノ下家へ。比 企 谷 く ん」

「……ども」

 

 発生源はもちろん千葉を代表する拗らせお母さん。天候すら支配する氷雪系最強な母は伊達じゃない。春のポカポカ陽気が嘘みたいな氷点下です。……卍解みたいだろ。ウソみたいだろ。始解なんだぜ。それで(比喩表現)。

 

「……帰りたい」

「玄関まで来て何を言っているの、比企谷くん。……もう手遅れよ」

 

 想定外な彼女の母親からの(物理的に)冷たい微笑でのお出迎えに、秒で心が折れる彼氏くん。

 そんな彼氏くんを文字通り首根っこを摑まえて、ここまでズリズリ引き摺りながら連れてきた娘で妹な彼女ちゃんは若干後悔しながら頬を引き攣らせております。

 

 あれれー、おかしいぞー? 前回夕飯にお招きされたときは割と受け入れられてたと思ったんだけどなーと彼氏くんが首を傾げる横で、とたたたーっと歩み寄ってきたお姉ちゃんがご挨拶。

 

「雪乃ちゃん、おかえり。あと比企谷くんはいらっしゃーい」

「ただいま、姉さん。それで、これはどういう状況なのかしら?」

「え、それここで聞いちゃう? 本当にここで聞くの? ……命知らずかな?」

「……やっぱり後でこっそり教えてちょうだい」

「なにそれこわい」

 

 そんな不穏過ぎる姉妹の会話にガクブルと顔が青褪め、俄然帰りたくなってきた普段は兄で息子だけど、今日は彼氏で義弟で義息子な感じでお送りしている捻くれボーイ。及び腰です。逃げ腰です。腰が抜けてないだけ上出来なんです。

 そもそも、何故にこんな物騒この上ない突撃彼女の実家お宅訪問な状況になっているかと言えば、別に彼氏くんから彼女ちゃんへ家ついて行ってイイですかとか聞いたわけではありません。以前に自分の母親と彼女を引き合わせたときのあれやこれやな対応が巡り巡って因果応報で悪因悪果な感じでつまりは自業自得なわけです。ざまぁっ!

 

「陽乃、雪乃。いつまでお客様を玄関で待たせるつもりですか? 早く案内してさしあげなさい」

「はーい」

「ええ、そうね。比企谷くん、こっちよ」

「……お邪魔します」

 

 そうこうしているうちに痺れを切らした母親からの死刑宣告……もとい処刑台へのご案内…………でもなく、おもてなしの指示が出ました。そう、おもてなしです。一字一句丁寧に読み上げるあの『オ・モ・テ・ナ・シ』でお馴染みなあれです。間違っても相撲部屋的な『カ・ワ・イ・ガ・リ』ではありません。そのはずです。きっとそう。そうに決まってる。根拠もなにもないけど、でも、きっと、たぶん、おそらく、めいびー……。

 

「それでは比企谷くん。ご迷惑おかけするけど、よろしくね」

 

 極寒の微笑みという何とも形容しがたい表情を浮かべるお母さん。

 

「……比企谷くん、覚悟決めてね?」

 

 ニコニコ笑顔が標準装備なはずの強化外骨格な仮面から、すっとーんと表情が抜け落ちた真顔で告げるお姉ちゃん。

 

「その、よくわからないのだけれど、先に謝っておくわ。……ウチの母と姉がごめんなさい」

 

 そんな二人からの言葉に戸惑い、怯え、血の気の引いた深刻顔で頭を下げる彼女ちゃん。

 

 然して、言われた当人たる彼氏くんはと言えば────

 

「もうどーにでもなーれ」

 

 開始五分経たずに早くも現実逃避してました。

 

 

 そんなこんなで、ドキッ! 拗らせた家族愛! 地雷だらけのリアル脱出ゲーム in 雪ノ下家! はっじまーるよー。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 最初っからクライマックスな玄関での攻防をなんとか生き抜いた絶賛グロッキー状態の彼氏くん。

 そんな彼が案内された場所は、雪ノ下家のリビングルーム。日本語風に言えば居間です。そう、客間でも応接間でもなく、辞書を引けば『家族がふだんいる部屋』と記されているような場所です。ヤバイ。

 

 とりあえず座ったら? というお姉ちゃんからの一言で、冷や汗ダラダラな彼氏くんが彼女ちゃんと隣り合うような形で高級感あふれる革張りソファに腰を下ろします。程よい弾力とふっかふか感が両立された座り心地抜群なソファのはずなのに、彼氏くんの居心地が妙に悪いのは何ででしょうか? うーん……、謎だ。これは迷宮入りだね。まちがいない。真実はいつも藪の中。蛇だっていい迷惑です。

 

「……どうぞ」

「あ、どもっす」

 

 そんな緊張で固まる彼氏くんの目の前に、お高そうな白磁のティーカップに淹れられた紅茶が差し出されます。

 いつもの部室なら落ち着ける紅茶の香りに、彼氏くんは何故だか緊張が増すばかり。無理もないです。だってこれ淹れてくれたのさっきから酷薄な笑みを浮かべてるお母さんだもん。毒入りかな? いや、それともカップの飲み口に直接塗られてるパターンかも。まさか雑巾の搾り汁とかじゃないよな? と勝手に疑心暗鬼に陥る息子くん。ミステリー小説の読み過ぎだね。……バカだなぁもう、千葉のお母さんが本気になったらそんなすぐバレるような手段を講じるはずがないじゃないか。死体から毒が検出されない新薬ぐらいは用意するよ。どこぞの真っ黒な組織もビックリだ。ショタ谷くんになったら荒ぶる元祖お母さん降臨で怪獣大決戦だね。……千葉の平和が危うい。

 

「どうしたの比企谷くん。飲まないの? 冷めちゃうよ?」

「いや、そんな喉渇いてないんで……」

「そんな不安そうな顔しなくても、毒なんて入ってないよ?」

 

 お姉ちゃんからの紅茶を勧める問い掛けに、それとなくお茶を濁そうとした彼氏くんでしたが、間髪入れずに告げられた言葉にビクッと肩を震わせて思わずフリーズ。

 どうみても図星を突かれた人間のリアクションです。本当にご愁傷様でした。

 

「あら、心外ですね。私がお客様にそのような粗相をするとでも?」

「ハチマン ソンナコト オモッテ ナイデス」

「比企谷くん、片言になっているわよ。気をしっかり持ちなさい」

 

 横合いから発せられた冷たいプレッシャーに凍りつく彼氏くん。あれ、おかしいな? 俺いつの間に四界氷結喰らったの? と思考放棄させることで何とか自我をキープ。彼氏くんの魂魄が悲鳴を上げてます。

 さすがに見兼ねたのか、そんな彼氏の危機に彼女ちゃんがヘルプに入りました。

 

「姉さん、比企谷くんで遊ぶのはそれくらいにしてちょうだい」

「えー? そんな人聞きの悪い……。わたしはただ比企谷くんに紅茶をオススメしただけじゃーん」

「とてもそうは思えなかったのだけれど」

「いやいや、雪乃ちゃんの考えすぎだって。でもまぁ、あれだよね。お母さんが淹れた紅茶がご不満ってことはさ、比企谷くんはやっぱり雪乃ちゃんが淹れてくれた紅茶をご所望だったのかな? かな?」

「……そう。つまり、私の淹れたお茶は飲めないと、そういうことですか」

 

 お姉ちゃんからの指摘に、ほんのりと顔を赤らめながらも小首を傾げ、そうなの? っと目で問いかける彼女ちゃん。かわいい。

 一方で、北風どころか北極圏の猛吹雪な勢いで不機嫌オーラを放つお母さん。特に理由のない修羅場が彼氏くんを襲う──!!

 

「あの、いえ…別にそんなことは……」

「……え、比企谷くん。私より母さんの紅茶の方が良かったの?」

「違う! そうだけどそうじゃないんだ、雪ノ下!」

「呼んだ、比企谷くん?」

「雪ノ下さんは呼んでません」

「では私のことでしょうか?」

「ファッ!? あ、いや、違います。その、娘さんの方のことで…」

「おや? ならやっぱり、わたしのことかな」

「違う。違うから。あんたもう黙ってろよ」

「そうは言われましても、ここには”雪ノ下”が三人も居るわけでして」

「しかも、娘に至っては二人も居るからね。それも、とびっきり美人な姉妹が」

「なにこの親子すごいやり辛い」

 

 さっきまでの不機嫌オーラから一転、ここぞとばかりに娘の彼氏に絡んでくる母と姉。めんどくさい。とてつもなくメンドクサイ。どうしてこうなった。

 

「ふむ…。これは由々しき問題ですね……」

「そうだよね。ウチは全員が”雪ノ下”だもんね。混同しちゃうね。混乱しちゃう。たーいへーんだなー!」

 

 あまりにも態とらしいやり取りに、この先の展開を先読みした彼氏くんが頭を抱え、状況を察した彼女ちゃんが狼狽します。お約束だよね。

 

「比企谷くん、知ってる? 人には個人を識別するのにとーっても便利な”名前”ってものがあるんだけど……」

「……ぐっ」

「どうしたのかな? ほらほら、言っちゃえよ。言っちゃえってぇー」

「ゆ、ゆき……」

 

 朗らかな笑顔で明るく声をかけながらも、逃げることは許さんとばかりに眼光鋭く妹の名前呼びを強要してくるお姉ちゃん。

 素知らぬ顔で事態を静観しながらも、ちゃっかりボイスレコーダーを準備するお母さん。

 羞恥で耳まで真っ赤になりながらも、期待に瞳を輝かせ、上目遣いで待ち構える彼女ちゃん。

 

「ゆき、の……」

 

 そして、身悶えながらもなんとか言葉を紡ぎ、ついに彼氏くんがその名前を口にした────と思った矢先。

 

 

「──した家の次女の方」

 

 

 という最低な逃げを打った。

 

「っ……」

 

 静まり返る雪ノ下家のリビングルーム。どっちらけである。比喩ではなく、物理で空気が重い。

 

「……」

「……」

「……」

 

 蔑むような眼差しの母。完全に無の表情で見つめてくる姉。そして、ニッコリ暗黒微笑で距離を詰めてくる妹。

 彼氏くんに突き刺さる三方からの視線が痛いです。とんでもなく痛いです。でも自業自得だから仕方ないね。……擁護? 知らない単語ですね。

 

「……さて、それじゃ茶番はここまでにして本題に入ろっか」

「そうしましょうか」

 

 そうして重苦しい空気のまま次の話題へ。

 どうやら選択肢をミスったために、難易度ナイトメアな現状から本格的な『ハ・ナ・シ・ア・イ』が始まるようです。彼氏くんは心を強く持ってほしい。

 

「答えなさい」

「……はい」

 

 まるでこれから極刑でも言い渡すかのような、鉛のように重苦しい母としての声音。彼氏くんの胃がキリキリと痛みます。これはもう胃潰瘍待ったなし。誰かー? この中で成分の半分が優しさでできている錠剤をお持ちのお客様はいらっしゃいませんかー?

 まぁ、そんな冗談はさておき、一度大きく深呼吸をした彼氏くんも意識を切り替えて真剣に向き合います。同時、頭を高速で回転させて今後の会話をシミュレート。彼女との交際、今後の進路、将来の就職先、あらゆる問答を想定してその最適解を導きます。そう、それはまさにぼっちが誇るべき深き思索。本来、対人関係に割かれるべきリソースをただ自分一人に向け、内省と反省と後悔と妄想と想像と空想とを繰り返し、やがて思想と哲学とに行きつくほどに、無駄な思考力。その力がいま遺憾無く発揮されたと言っていいでしょう。ばっちこーい!

 

「あなたは嫁姑問題というものをどのように捉えているのかしら?」

「……は?」

 

 まるっきり想定の範囲外な質問でした。

 一瞬、これは冗談かドッキリの類かと勘繰った彼氏くんでしたが、大真面目に語るお母さんの姿に冷や汗がタラリ。アカン、これガチだ。ガチのヤツだ、と内心で焦りを隠せません。

 

「ねぇ、知ってる比企谷くん。世の夫婦が離婚へと至る要因として、嫁姑問題っていうのは決して些事じゃないんだよ? 弁護士やってる隼人のお父さんにも確認したから間違いないわ」

 

 そんな隙だらけな彼氏くんを狙い撃つように、追撃をかますお姉ちゃん。目がマジです。

 

「先日、うちの雪乃がそちらのお宅へお邪魔したそうですね。なんでも、そのときに大変なご迷惑をおかけしたとか……母親として謝罪致します」

「っ……! いえ、あれはウチの母親が……」

「どのような理由があったとしても、雪ノ下家の人間である以上はいつ如何なるときでも相応の立ち振る舞いが求められます。雪乃、わかっていますね?」

「……はい。申し訳ございませんでした」

「謝る相手が違います。あなたの責任なのですから、ここから先は自分でどうにかなさい」

 

 厳しい、突き放すような母からの言葉。

 以前までであれば、色々と拗らせまくってる末娘は勝手に打ちのめされて、逃げ出していたかもしれません。けれど、彼女もこの一年で成長したのです。そこにはしっかり反省して受け止めている次女の姿が……! そんな娘の姿にお母さんも思わずニッコリ(当社比)。かと思えば、すぐに表情を無に戻して、一生懸命息を潜めて気配を殺していた彼氏くんへと向き直ります。

 

「それはそれとして、比企谷くん。話を戻しましょうか」

「う、うっす……」

「雪乃の話を聞くに、うちの娘はあなたのお母様から相当な辱めを受けたそうなのだけれど、心当たりはあるかしら?」

「あっ… (察し)」

 

 あるね。あるある。超あるよ。心当たりありまくりな彼氏くんの目から光が消え失せます。……こらそこ、元からとか言うんじゃない!

 

「勘違いしないでほしいのですが、私は別にあなたのお母様を責めているのではありません。男女の違いはあれど、私も同じ子を持つ母親です。ですから、不安に思う気持ちも、色々と質問攻めにしてしまう心境も理解できるつもりです」

「は、はぁ……」

 

 あ、あっるぇー? なんか思ってた反応と違うぞ? という感じで呆けたような相槌を打つ彼氏くん。

 これもしかして俺の無罪放免な可能性も微レ存……? と、そんな風に淡い期待を抱いた彼でしたが、次の瞬間、それは無残にも木端微塵に打ち砕かれるのでした。

 

 

「私が言いたいのは、あなたはそのとき何をしていたのか、ということです」

 

 

 それはまるで煮えたぎるマグマのような、それでいてツンドラに広がる永久凍土のようでもあり、熱く、冷たい、静かなる母の怒り。

 

 

「……『健闘を祈る』だっけ? ずいぶんとまぁ他人事なアドバイスだよね、比企谷くん」

 

 

 ねぇ、比企谷くん。あれだけ大きな口を叩いておいて、わたしの可愛い雪乃ちゃんをもう見捨てたの? あっさり裏切ったの? ねぇ、ねぇ、ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ……。どういうことなの、比企谷くん?

 そんな副音声が聞こえてきそうな仄暗い、虚ろな瞳で問いかけてくる姉のドロドロとした怨念のような憤り。

 

 

「っ……」

 

 

 事ここに至って、どうして今日、自分はこんなにも敵意に満ちた歓迎を受けているのかをようやく悟った彼氏くん。

 息が詰まる? 背筋が凍る? 全身の肌が粟立つ? いいえ、本当の恐怖とは、そんな生易しいものではありません。名状し難いソレは、命の危機に直面しても無意識のうちに『窓に! 窓に!』とか手記に残してしまうほど。……あれ? なんか大したことないように思えてきた! 不思議!

 

「ま、待って! 待ってちょうだい!? 確かにそのことで私は愚痴をこぼしたけれど、なにも母さんと姉さんに比企谷くんを血祭りにあげてほしいなんて思ってないの。……どうせやるなら、それは私自身の手でやるわ!」

 

 現在の修羅場な状況が自分の失言が元だったと気付いた彼女ちゃんが慌てて口を挟みました。後半にしれっと差し込まれた物騒なワードに彼氏くんの血の気が引いています。きっと千葉の名物、踊りと祭りに千葉県民としての血が疼いて出かけてしまったのでしょう。ソーレソレソレー血祭りじゃァァァ!

 

「でも雪乃ちゃん、比企谷くんに容赦なさそうなフリして肝心はところはダダ甘じゃん」

「そ、そんなことは……」

「ダメですよ、雪乃。そういう小さな蟠りが後々の関係にしこりを残すのです。やるなら徹底的に、禍根など一切残す余地なく、殲滅戦こそが良好な夫婦関係を構築するただ一つの常道なのです」

 

 突如として指導が始まる”雪ノ下流夫婦道”。今日も今日とてめんどくさい母子と姉妹によるコミュニケーションでエデュケーションな家族愛は健在です。

 ちなみに、さっきまで瀕死状態だった彼氏くんがどうしてるかと言えば、生温かい眼差しで雪ノ下親子を見守りながら『これが雪ノ下流……(震え声)』とかやってる余裕があるので大丈夫そうです。

 

「ペットの躾でも、軍隊の教育でも同じでしょ? 何事も最初が肝心なの。早い段階で徹底的に上下関係を叩き込むのが基本なんだよ」

「尻に敷く? いいえ、違います。足裏で踏みつけてやるくらいが丁度いいのです。世の男性というのは大抵が潜在的な被虐趣味者だと思って対応しなさい。概ね間違ってないから問題ありません」

「……なるほど」

「なるほど、じゃない。納得するな雪ノ下。そんなことになったら俺は人権救済申立てをすることも辞さないぞ」

 

 でもやっぱりちょっとこわい、こわいです。あとこわい。

 ついでに、思わずをツッコミを入れてしまったことでステルスヒッキーの効果が解けてしまった模様。お母さんの標的が彼氏くんに戻りました。

 

「では比企谷くん。改めて聞きましょうか」

「え、あっ、ヤベッ……ハイ」 

 

 剣呑な雰囲気を微塵も隠す気なく、お母さんは眼光鋭く彼氏くんを見据えます。そこにはあらゆる詐術も詭弁も許さないという確固たる意志が見て取れました。

 

 

「もし仮に、この先、あなた達が婚姻したとして……雪乃とあなたのお母様との間で諍いが起きたとき、比企谷くんはどちらの味方につくのですか?」

 

 

 本当に娘を守る気があるのか、たとえ肉親と敵対しようとも、我が子を支え、共に寄り添っていく気概はあるのかと、それを見極めようとする母の眼差し。

 そこには、名家の当主としての威厳も、辣腕を振るう社長夫人としての矜持も、地方とはいえ六〇〇万を超える県民の代表たる政治家の妻としての沽券もなにもない。そこにあるのはただ一つ。娘を持つ一人の母親としての、揺るがぬ情愛。

 

 他方で、獅子が我が子を千尋の谷に落とすが如く、試練を与えることが、乗り越えるべき壁として君臨することこそが『教育』であると体現するかのような彼女。そうすることでしか親子としての『愛情』を示すことができない不器用な母親だからこそ、別な見方もできるのかもしれない。

 すなわち、彼を将来の義息子として認めているからこその、試練。そう、これは”母親”から”義息子”への試練なのです。そういうことにしておこう。そうしよう。

 

「さぁ、肉親の情を取るか、将来の嫁を取るか。どちらですか?」

「……」

「さぁ…」

 

 俯き、押し黙る彼氏くんに詰め寄りながら、囁くように回答を促すお母さん。更にそこへ、畳み掛けるようにお姉ちゃんも参戦してきます。

 

「さぁ」

「……!」

「さぁ…」

「……!?」

「さぁ、さぁ…」

「さぁ、さぁ…」

「っ……」

 

「さぁーさぁ! さぁ! さぁ! どちらなのですかっ!?」

 

 まるで歌舞伎のような見事な掛け合いで義息子(仮)で義弟(予定)な彼氏くんを追い詰める母と姉。彼氏くんお得意の斜め下な解決法なぞ罷り成らぬと言わんばかりの苛烈な尋問は、きっと彼への期待の裏返しなのです…………たぶん。

 

「俺は……」

 

 そして、ついに口を開いた彼の言葉はしかし、そこで途切れてしまう。

 彼は、何を言うべきなのだろうか。いま一時の安穏を求めるならば、『嫁です』と答えてしまえばそれでいい。それで楽になれるはず。実際、以前の彼ならそうしていたかもしれない。けれど、ある日の休日にまざまざと見せつけられた母の涙を、少年は忘れていない。あの強く気高い、逞しさすら感じていた母親が見せた弱々しい姿を、涙まじりの弱音を、縋るように握られた手の震えを、彼は決して忘れない。

 別に彼が特別マザコンを拗らせているということではなく、いつだって男の子にとって”母親”というのは特別な存在で、極論言ってしまえば世の男子は大なり小なりマザコンなのだ。

 

 ならば彼女への想いは肉親への情に劣るのか。いいや、そんなはずがない。

 この拗らせて捻くれて面倒臭さが天元突破したような少年が、この一年間どれだけの苦難を乗り越え、どれほど苦悩して今この場に居るというのか。間違い続けて、擦れ違い続けて、それでも諦めずに足掻いて抗って、やっと掴んだ彼女の傍にいるための権利をどうして手放せようか。

 

「お、れは……」

 

 微かにこぼれた震える声音が、すべてを物語る。それは葛藤の表れか、それとも……。

 

「俺は……っ!」

「やぁやぁ、すまないね。急な仕事の電話が入ってしまって…………おや、どうしたんだい?」

 

 込み上げる情動に彼氏くんが声を荒げたところで、新たに登場した男性の声がそれを遮りました。

 彼氏くんのキョトンとした目を、次女からのホッとしたような眼差しを、そしてなにより、妻と長女からの邪魔すんなと言わんばかりの鋭い視線を一身に浴びてなお、平然とニコニコ佇む壮年の男性。誰あろう、彼女ちゃんの家族で唯一の男であるお父さんです。

 

「すまないね、比企谷君。挨拶が遅くなってしまって。噂は娘たちから聞いているよ。まぁ、主に陽乃からだけど」

「あっ、いえ、その……お邪魔してます」

 

 朗らかに笑いながら話し掛けてくれるお父さんに、動揺しながらも何とか返事をする彼氏くん。多分、隣にいる彼女の存在が無かったら泣いて縋って土下座しながら拝み倒していたかもしれません。グッジョブすぎる。抱いて!

 そして、一度室内を見渡し、何かを察したような雰囲気のお父さん。彼は諭すような声音で奥さんへと声をかけます。

 

「ふむ……。今日は比企谷君もウチでお昼を食べていくんだろう? そろそろ昼食の支度に取り掛かった方がいいんじゃないかな?」

「……そうですね」

「陽乃、雪乃。二人も手伝ってきなさい。二人の料理は絶品だからね。是非、比企谷君に食べてもらうといい」

「……はぁーい」

「……わかったわ」

 

 登場から一分足らずで緊迫した部屋の空気を一変させ、雪ノ下家が誇る女傑三人をあっさり退けてみせたお父さん。そして、そんな光景を目撃してしまった彼氏くんが、あ、ありのまま今起こった事を話すぜ的な心境で唖然としています。

 そんな彼氏くんの様子にくすりと苦笑しながら、気軽な調子で少年の肩を叩くお父さん。これが大人の貫禄。余裕というものです。ニコニコと穏やかに微笑みながら、目がまったくと言っていいほど笑ってません。…………あ、あれぇ?

 

「ところで、比企谷君」

「は、はい……?」

 

 友好的な相手から感じる微かな違和感。

 一難去ってまた一難。彼氏くんが緊張でゴクリと生唾を飲み込み、それを見計らったようにお父さんは口を開きます。

 

 

「……ちょっと、表へ出ようか?」

 

 

 親指でくいっと窓の外を指差しながら、お父さんはゼロ円なスマイルで告げるのでした。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 玄関で靴を履き、庭へと案内される彼氏くん。

 一瞬、このまま走って逃げ出せばという考えが彼の脳裏を過りましたが、それをやったら色々と終わるなということを本能で察したため、実は命拾いしていたりします。……え? 誰から命を狙われるのかって? …………言わせんな恥ずかしい。

 

「よし、ここなら広さ的にも大丈夫だろう」

「……」

 

 そうして屋敷の裏庭へと連れてこられた彼氏くんでしたが、その目は不信感でいっぱいです。一体、何の広さ的に大丈夫なのでしょうか。外からはもちろん、屋敷からも見えにくい裏庭という立地が更に不安を掻き立てます。果たして助けを呼ぶ声や悲鳴は誰かに届くのか、このまま人知れずここに埋められるなんてことはなかろうか。そんな被害妄想……とも言い切れない考察に顔色が悪い彼氏くんです。

 そんな少年の苦悩を知ってか知らずか、お父さんはガサゴソと持っていたカバンを漁り、中から取り出したものを彼氏くんへと放り投げました。

 

「ほらっ! 君、野球は得意かい?」

「うおっ!? へ? は……? えっ……と、素人っすけど」

 

 唐突に投げ渡された野球のグラブに戸惑い、しどろもどろで答える彼氏くん。さすがにこの状況で、いつものように一人野球なら得意ですとか口走ったりはしないようです。……ちょっと怪しかったけども。

 

「ふむ……。なら、家の前で壁当てとかもしたことは?」

「あ、それなら得意です。二面使って一人ゲッツーとか余裕です」

「……そ、そうか」

 

 ドヤ顔でそんなことを自信満々に宣う彼氏くんに、なんとなく憐憫な眼差しを向けてしまうお父さん。

 

「んんっ……! ともかく、それならキャッチボールは問題なさそうだね」

「ええ、まぁ、そのくらいなら……」

「なら問題ない。早速やろうか」

 

 そう言うなり、お父さんは彼氏くんから適度に距離を取ると、軽くボールを投げて寄越します。

 

 ──パシン

 

 そんな軽い音を鳴らしながらグローブに収まるボール。

 なんとなく訝しそうにしながらも、大人しくボールを投げ返す彼氏くん。

 

「うん、なかなか上手じゃないか」

「はぁ……。どもっす」

 

 そこまで力を入れなくてもボールが届く距離。サイドスロー気味でふわりと投げられたボールは、お父さんが顔の横で構えるグラブにぽすりと収まります。

 

「……すまないね」

「え?」

「どうにも、我が家の女性陣は素直じゃないというか何というか……。普段は何でも卒なくこなすくせに、変なところで不器用なんだよ」

「……知ってます」

 

 唐突なお父さんからの謝罪に、最初はポカンと呆けていた彼氏くんでしたがすぐに苦笑で応えます。なんだか実感がこもってます。

 

 ──パシン

 

 ──ポスン

 

 ──パシン

 

 ──ポスン

 

 暫くの間、そんな風にのんびりとした音だけが裏庭に響きます。

 そうして、ようやく二人の肩も温まってきたという頃合で、お父さんが口を開きました。

 

「……昔から、こうやって息子とキャッチボールをするというのが密かな夢だったんだ」

「そ、れは……」

 

 何気ない調子で語られた父としての夢。

 けれどそれは、少年としては少しばかり返答に困るものでもあった。

 

「一応言っておくけど、娘二人には何の不満もないよ? もちろん、我が子を産んでくれた妻にもね」

「……」

 

 そう穏やかな表情で語る男性の言葉に、嘘はみえない。

 だからこそ、少年は若干の気まずさと、少しの申し訳なさを感じていた。

 

 ──パシン

 

「娘は可愛いよ。だけど、こう……男親の憧れ、というのかな。こういうシチュエーションに夢を抱く気持ちは、同じ男として分かるだろう?」

「……まぁ、はい」

 

 ──パスン

 

 ゆっくりと放物線を描いて届けられたボールを受け取りながら、少年は小さく歯噛みする。

 僅か一五〇グラムに満たない、大して重くもない硬球。それが、ずしりと鉛のように重く感じるのは何故だろう。

 

「だから昔は、葉山君……と言ってわかるかな? 陽乃と雪乃の幼馴染みたいな子でね。その子と一緒にキャッチボールをして遊んだりもした」

「っ……」

 

 ──パシッ

 

 それはつまり、将来、その少年が自分の義息子になると望んでいた証左。

 そんな考えがちろりと頭に浮かんで、少年は惑う。果たして、自分にこのボールを受け取る資格はあるのだろうか、と……。

 

 もちろん、生半可な覚悟で彼女の隣に立つと決めたわけではない。

 だから、誰に何を言われようと、彼女の傍を離れるつもりもない。

 

 それでも、やはり頭のどこかで、心の片隅で、ふと思ってしまうのだ。

 自分は相応しくない。もっと彼女に相応しい誰かが別にいる。そんなネガティブな気持ちが鎌首をもたげる度に、彼は自分自身に問いかける。自分が求めたものが何であったかを、彼女の望んだものが誰であったかを、考えて考えて考えて考え尽くして、理論も論理も摩耗して擦り切れて、そうして最後に残った感情をボールに乗せて、少年は投げ返す。

 

 ──パシンッ

 

「聡い子だった。……いや、違うか。周りの大人たちが、そうさせてしまったんだろうね。幼い頃は無邪気にボールを投げ返してくれたけれど、小学校に入学した頃にはどこかぎこちない笑みを浮かべて、低学年を脱する頃にはもう遠慮が垣間見えた」

 

 それはきっと、彼が知らない、知る由もない、とある青年と雪ノ下家との物語。

 快活そうな小さな男の子が玩具のゴムボールを投げる姿をふと幻視して、そんな少年の傍に佇む儚げな少女の姿に胸の奥が騒めいて、彼は小さく頭を振った。

 

「結局、その子が高学年になる頃には誘うのも不憫になってしまってね。どうやら、雪乃とも()()()あったようだし、それからは年に数回会って話をする程度かな」

「……」

 

 ──パシンッ!

 

「だから、君は何を遠慮することも、恐縮することもない」

「……!」

 

 少し強めに投げられたボールと共に、何気なく告げられた言葉。

 少年がハッとしたように顔を上げれば、悪戯が成功したような、それでいて少しだけ複雑そうな顔をした壮年の男性が小さく笑っていた。

 

 

「さて、それじゃあ……()()()()()()のもここまでだ」

「……え?」

 

 

 途端、ピキリと音を立てて場の空気が切り替わりました。

 なんかそれまでのカッコイイ親父像を醸し出していた雰囲気はガラリと変わり、どう考えても穏やかではない地獄の業火のようなオーラを纏っているお父さん。

 

「フー……ッ!」

 

 大きく息を吸い、静かに吐く。

 そうしてゆったりとした動作で構えられたフォームは、それまでの手投げのようなフォームではなく、ワインドアップポジションからの力強いオーバースロー。

 

「……フンッ!」

 

 ──パシィンッ!

 

 硬直し、茫然としながらも無意識のうちに顔の横で構えていた少年のグラブへ、ロートルとは思えない剛速球が突き刺さった。

 きちんとウェブでキャッチしたはずなのに、何故かジンジンと痺れる掌。正直、もう逃げ出したい気持ちでいっぱいな彼氏くんでしたが、殺気すら感じる眼光にビビって慌ててボールを投げ返します。

 

「比企谷君。君には妹さんがいるんだろう? ならば、少しは理解できるはずだ。娘を溺愛する父親の目の前に、その娘の彼氏を名乗る存在が現れたらどうなるかを……っ!」

「ッ……!?」

 

 ──バッシィィィン!

 

 まるで彼氏くんの顔面を狙うかのようにホップしてくるお父さんの火の玉ストレート。強烈なバックスピンのかかったフォーシームのなせる技です。

 

「ほう……っ! 今のをキャッチするかね」

「は、ははっ……。完全にマグレっすけどね」

 

 不敵な笑みを浮かべるお父さんと、冷や汗ダラダラで頬を引き攣らえる彼氏くん。

 あれ? お、おかしいな。どうして、ほのぼのアットホームなキャッチボール風景が一瞬にしてデッド・オア・アライブな修羅場ドッジボールに早変わりしてるんだろう……わけがわからないよ。

 

「よろしい、ならば次はツーシームだ。……喰らえェェェ!!」

「ちょ、殺気! 殺気抑えきれてないからっ!?」

 

 ──ズバァァァンッッッ!

 

 一球入魂。一撃必殺。

 自分の手元から可愛い末娘を掻っ攫おうとしている不届き者に、修羅と化したお父さんの剛腕が唸りを上げてまっしぐら。彼氏くん、逃げて! 超逃げてー!!

 

 

「貴様なんぞに娘はやらんっ! 死ィィィねェえええええええええ!」

「もはや殺意しかないっ!?」

 

 

 その後、昼食の準備が整ったことを知らせにきた彼女ちゃんが止めるまで、雪ノ下邸の裏庭には壮年の男性による気勢と捻くれた少年の悲鳴が響き渡り、”義父”と”義息子”によるコミュニケーションでエデュケーションな交流が続くのでした。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 夜も更けまして……。

 雪ノ下家のリビングに小さな呻き声がこぼれておりました。

 

「痛っつつつ」

「年甲斐もなく張り切るからです。……はい、もういいですよ」

 

 奥さんから背中やら肩にペタペタと湿布を貼ってもらい、上着を着直す壮年の男性。そう、昼間はっちゃけ過ぎた挙句、最愛の娘からガチ説教を喰らってしょんぼり気味のお父さんです。

 

「なぁに、やはり男親としてはああいうイベントは憧れだったからね。あそこで無理をしなければ漢が廃るというものだよ」

「廃れてしまいなさい、そんな漢気」

 

 心底呆れたような妻からの言葉に、男性は楽しそうにくつくつと笑う。

 

「……そういう君の方こそ、らしくもなく楽しそうだったじゃないか」

「さて、なんのことでしょう」

 

 夫からの悪戯気な眼差しに、ツーンとそっぽを向く女性。

 

「……くくっ」

「……ふふっ」

 

 暫しの沈黙の後、どちらともなく笑い合って、お互いに肩を竦めて溜息一つ。

 お父さんはワインセラーからお高そうなワインを一本。お母さんはキッチンから適当につまみを運んできました。

 

「……」

「……」

 

 無言のままにグラスへと注がれる深みのあるガーネット。向かい合うようにソファに座ると、視線だけで乾杯した二人は静かに杯を重ねます。

 静謐な空気。美味しいお酒。ほのかに香る湿布の臭い……。最後だけちょっと余計だった気もしますが、清閑とした夫婦二人の時間はゆっくりと流れていきます。

 

「……もし」

 

 そうして時計の長針がぐるりと一周した頃でしょうか。ふとお父さんが口を開きます。

 

「もし彼があのとき即答していたら、どうするつもりだったんだい?」

「……盗み聞きとは趣味が悪いですね」

「人聞きの悪い……。扉の向こうから漏れ聞こえてきただけさ」

 

 ジロリと睨む妻の視線に、悪びれる様子もなく飄々と受け流す旦那さん。

 束の間、咎めるように目を細めていた奥さんでしたが、やがて諦めたように息を吐くと苦笑で応えます。

 

「別に、どうもしませんよ」

「……どうだか」

「あら、それはどういう意味かしら?」

 

 納得いってなさそうな眼差しを向けてくる夫に、奥さんが不敵に微笑みました。

 そんな妻からの挑発に嘆息しながら、何かと気苦労の絶えない旦那さんはぼやくように言葉をこぼします。

 

「どうせ、彼があの場で即答するような人間なら見限っていたんだろう?」

「……」

「沈黙は肯定と受け取るよ」

 

 嫁姑問題が拗れる要因は、男性側に問題があると言われることがあります。

 夫の優柔不断な態度に妻は憤り、息子の意志薄弱とした姿勢に姑は意固地になる。どっちつかずだから問題は解決しないし、ことなかれ主義だから何も解消されない。そうして積もり積もった不平不満が夫婦の溝を広げ、やがては家族の絆に罅を入れるのだと。だから男が悪い。旦那の責任。息子の罪。

 

 だがちょっと待ってほしい。そもそも嫁姑問題とは、夫で息子な男性に二者択一を迫れば決着するような問題なのだろうか。

 

「……仮に『嫁』を選んだとしよう。なるほど、その場は収まるだろう。自分を選んでもらえた娘は喜ぶし、自分の娘を優先してもらえた娘の親は安堵する」

「なら、いいこと尽くめではありませんか」

「そうだね。一見するとそうだ。けれど、落ち着いて考えてみれば、それはとても悍ましい話だと思わないか?」

「……」

 

 それはつまり、血の繋がった実の母を切り捨てるということ。

 

「たとえその場しのぎの嘘だったとしても、だ。自分が窮地に陥ったからといって、自らを産み、育んでくれた実母を躊躇なく捨てる。そんな人間に、大事な娘を本当に預けられるかい?」

「……」

「いざというとき、そんな人間が血の繋がりもない嫁を見捨てず、守ってくれるだろうか。自らに危機が及べば、母親と同じようにあっさりと犠牲にするのではないかな」

 

 何事にも例外はあるだろう。けれど、ごく一般的な家庭環境で育った人間にとって、愛する女性と愛する母を天秤にかけられて、即断即決できるものだろうか。仮にできたとして、そんな人間を本当に信用できるだろうか。

 

「かと言って娘を持つ親として、娘を蔑ろにし、『母親』を優先するような人間に可愛い我が子を任せられるはずもない」

「……」

「だからこそ、あの場面で安易な答えに流されず、本気で苦悩し、真剣に苦慮する彼のことを気に入っている。違うかい?」

「……そうですね」

 

 嫁姑問題で誰が一番困っているかと言えば、それはもちろん、嫁と姑自身でしょう。けれど、だからといって旦那で息子の男性が困ってないとなぜ言えるのか。男だって悩んでます。困ってるんです。だから誰も悪くない。上手くいかないのは世間が悪い。

 つまり、世界中の人々がアクシズ教に入信すれば問題は解決するのです(目から鱗)。ほら、簡単でしょう。──誰も傷つかない世界の完成だ(すっとぼけ)。

 

「……試練を課すのはいいけれど、あまりやり過ぎると、彼にも雪乃からも嫌わるぞ」

「あら、さすがは初対面で娘の彼氏を亡き者にしようとして、娘から叱られただけのことはありますね。含蓄のあるお言葉ですこと」

「んぐっ……」

「私も陽乃もフォローしませんから、頑張って雪乃のご機嫌をとってくださいね。せっかく戻ってきてくれたのだし」

「ぐ、ぐぬぬ……」

 

 烈火のごとく怒っていた娘の顔を思い出し、途端に言葉を詰まらせるお父さん。恋する乙女を敵に回したんだもん。仕方ないね。

 

「せ、せめてキッカケ作りくらいは手伝ってくれても……」

「嫌です」

 

 情けなく縋ってくる旦那さんに、鰾膠も無く返す奥さん。お母さんは恋する乙女の味方だからね。仕方ないよね。

 頼みの綱であるお母さんからの助力が得られず、何とか娘との関係を修復しようと必死なお父さん。ブツブツと呟きながら対策を考えます。

 

「クソッ! こうなったら何かプレゼントでも……雪乃が好きなのは確かあれだったか? あの目つきの悪いパンダみたいなキャラクター。…………我が娘ながら、あれを可愛いと思える娘の感性が些か不安なんだが。可愛いか、あれ?」

「……だ、そうですよ。雪乃」

「え?」

「……別に私の趣味趣向を父さんに理解してもらいたいなんて微塵も思っていないから問題ないわ」

 

 お父さんが何気なくこぼした正直な感想に、背後から氷のように冷たい声音で返す娘。お母さんは素知らぬ顔でお酒を楽しんでます。

 

「ゆ、雪乃……? え、いつからそこに?」

「父さんが一人でブツブツと何事かを呟いている頃からかしら。とても不気味だったわ」

 

 いつもの威厳は何処へやら。盛大にキョドって冷や汗を流す父とは対照的に、末の娘は母親譲りの美貌でニッコリ微笑で答えます。まぁ、目はまったくもって笑ってないんですけどね。

 

「んんっ! えっと……あれだ。雪乃、今度お父さんと一緒にディスティニーランドにでも行か──」

「行かない」

「早い!? 断るのが早過ぎるぞ、雪乃! せめてもう少し悩むとか……」

「却っ下」

 

 アタフタ慌てふためきながらも、なんとか末娘のご機嫌を取ろうとするお父さんでしたが、けんもほろろに断られて涙目です。中年親父の涙目上目遣いとか誰得。TS美少女に転生してから出直してきてもらって、どうぞ。

 

「ほ、ほら! あれ、パンさんだったか。実は最近、お父さんもあれにハマっててなー。よーしパパ頑張ってパンさんグッズ買占めちゃうぞー!」

「……そう。父さんもパンさんが好きだったの」

「そう、そうなんだ! いやー、蓼食う虫も好き好きって言うのかな。遠目で見ると案外悪くないと言えなくもないこともなきにしもあらず……」

「なら原題は?」

「……うん?」

 

 ちょっと破れかぶれ気味だったお父さんの不用意な発言に、パンさんガチ勢な娘に火がつきました。

 

「パンさんが好きなのでしょう? なら、原作のタイトルくらいは当然知っている筈よね」

「そ、それは……」

「まさか知らないの? 答えられないの? パンさんが好きだと公言しておきながら?」

「……っ」

 

 ねぇ、父さん。本当にパンさんを好きなら当然答えられる問題よね? なぜ黙っているのかしら? ねぇ、ねぇ、ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ……。どういうことなの、父さん?

 そんな副音声が聞こえてきそうな仄暗い、虚ろな瞳で問いかけてくる末娘のドロドロとした怨念のような憤り。

 

 娘の機嫌を取ろうとしたら地雷を踏んだでござる、な心境のお父さんは顔面蒼白です。これもうわかんねぇな。

 万事休す、絶体絶命、八方塞がり。もはやここまでかと思われた────そのとき。

 

 

 『ハロー、ミスターパンダ』

 

 

 妹の死角からフリップボードを掲げた救世主が現れました。

 そう、誰あろう妹大好きウーマンことお姉ちゃんです。妹の好きなモノに対する雑学知識なんぞ知ってて当然とばかりに超ドヤってます。めっちゃイイ笑顔! そこにシビれる! あこがれるゥ!

 

「ハ、ハロー、ミスターパンダ」

「……正解。では、改題前は?」

 

 まさか正解できるとは思っていなかった末娘。

 胡乱気に目を眇め、疑わしそうにもう一問。妹ちゃんは訝しんだ。

 

 

 『パンダズガーデン』

 

 

 だがしかし、姉よりすぐれた妹なぞ存在しねぇ!! っとばかりにお姉ちゃんがThat's なカンニング! 今ではもう色んな意味で再放送できないぞ!

 

「……パンダズガーデン」

「作者は?」

「アメリカの生物学者ランド・マッキントッシュ」

「ディスティニー版での特徴」

「日頃から笹をたくさん食べることを夢見ており、いざ笹を食べると酔って酔拳をするキャラクターな部分をより強調してデフォルメした点」

 

 矢継ぎ早に出される問題に、よどみなく答える……姉。そして、ものすごい複雑そうな顔でその答えを復唱するお父さん。

 

「……」

「……」

 

 静かに目を瞑って何事かを思案する次女の姿に、戦々恐々としながらもお父さんは黙って耐え忍びます。

 

「……父さん」

「な、なんだい?」

「今度、ディスティニーで親子向け限定のグッズが販売されるのだけれど」

「そうなのか?」

「ええ、そうなの」

 

「……」

「……」

 

「それで手を打つわ」

「アッハイ」

 

 斯くして、機嫌を直した妹ちゃんはすまし顔をしつつ軽くスキップなんかしながら自室へと戻るのでした。そして残された面々はと言えば……。

 

「……陽乃」

「はいはーい」

「助かった。恩に着る」

 

 ふーっと、その場で脱力しながら援護してくれた長女へ感謝を述べるお父さん。

 そんな父の姿にやれやれといった風に肩を竦めながら、長女は意味深そうに微笑みます。

 

「……()()()()()、ね」

「ああ、わかってる」

 

 大きな溜息。疲れたような表情で首肯するお父さんに、言質は取ったとばかりに娘はルンルン気分でその場を後にするのでした。

 後日、このとき気安く承諾してしまった”貸し”が、諦め悪くごねにごねまくっていたお姉ちゃんの海外留学希望を認める決定打に使われたとかしないとか。お父さん涙目。

 

 さて、そんなこんなで再び夫婦二人っきりの時間に戻ったリビング。

 憔悴して項垂れる旦那さんに呆れつつも、どことなく微笑ましそうな奥さんが囁くように口を開きました。

 

「はぁ……。この調子では、来年の今頃はこの家もまた静かになりそうですね」

「うっ」

「陽乃が海外ですか……。突然、国際結婚なんて言い出したらどうしましょう」

「っ……!」

「雪乃も、また家を出るとなると……今度は同棲なんてこともあり得るかしら」

「……っ!? っっっ!???」

 

 お母さんからぼやくように紡がれる不穏な言葉の数々。

 受け入れ難い愛娘たちの未来予想図を突き付けられる度に顔を赤くし、青くして、終いには真っ白に燃え尽きるお父さん。

 

「……姉妹揃ってできちゃった結婚なんてことになったらどうします?」

「────」

 

 へんじがない ただのしかばねのようだ。

 

「……ちょっとからかい過ぎたかしら」

 

 おほほほっと上品そうに口元を隠しながら笑い、奥さんはすっと席を立って旦那さんの隣へそそくさと移動します。

 そうして寄り添うように腰を下ろすと、静かに夫の肩に頭を乗せてご満悦な妻。

 

 

「大丈夫ですよ。私はずっとあなたの傍にいますから」

 

 

 なんだかんだで今日も雪ノ下家は比較的平和です。

 

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