全てを守れるほど強くなりたい   作:ジェームズ・リッチマン

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*これはSS速報で連載していたものをハーメルン用に加工した作品です*


第一章 井の中の稚魚
そこに貴女がいたから


 それは剣道部に入部する六年前の出会い。

 それは剣道道場に通う一ヶ月前の別れ。

 今でも、その時の出来事を鮮明に覚えている。

 

「ああ……私はなんてことを……」

 

 河原の橋の下で出会ったのは、綺麗な後ろ姿の女性だった。

 辺りに散らばる黒い砂を前にして、なんというか彼女は、普通じゃなかった。

 

「どうかしたんですかー?」

 

 駆け寄った私の、半分の心配。もう半分の興味。

 だけど彼女の顔を見た時、私の興味半分は跡形もなく凍てついてしまった。

 

「ぁあああッ……私は……」

 

 人が、心の底からの悲嘆に苦しむ顔を見た。

 美しい女性なのに、悲しみはここまで人を苦しそうにさせてしまうだなんて。

 

 その日は大切な出会いの日でもある。

 けどそれは同時に、私の中で大きな何かが変わった瞬間でもあったのだ。

 

「足りない、これじゃあ足りない……」

 

 彼女は涙ぐんだ声で、黒い砂をかき集めている。

 当時の幼い私にはその意味がわからなかったけれど、その歳なりに同情の想いはあった。

 

「間に合いっこない……」

「あの……」

 

 だから声をかけた。

 “大丈夫ですか”と、肩に手を触れた。

 その時、さっと振り向いた彼女が私を睨み、鋭い目で動きを射とめた。

 

 そして、一瞬だけ口を大きく開いた後、彼女の喉がコクリと鳴って、次の瞬間には、逆に私の両肩が掴まれていた。

 

「ぁ……」

 

 それがどこか怒りの形相のように見えてしまって。

 どうして私に向けられているのか分からなかったから。

 

 それに、何よりも。

 

「美樹さやか……!」

 

 会ったことがないはずのない人が私を知っていた事が、怖かった。

 

「期待はしないわ。けど答えて……あなたは今、何年生?」

「さ、三年生……です」

 

 瞬きしない目が私を逃さない。

 

「……カナメ、っていう子、知らないわね」

「う、うん……知らない」

「やっぱりまだ越してないか……」

 

 そこで初めて、女性は私から目を逸らした。

 女性の目は赤く充血し、涙で濡れて、きらきらと光っていて……場違いな感情だとわかっていても、その時確かに私は“綺麗だな”と感じたのを覚えている。

 

「あの、なに……なんですか? お姉さん、誰なんですか?」

「……」

 

 女性は伏目で私を胸辺りを見た後に、また目を見た。

 そこにはもう、悲嘆も怒りも浮かんでいない。

 

「私のお願い、聞いて貰っても良いかしら」

 

 この人は、悲しまないと、怒らないと、こんなに綺麗な顔をしてるんだ。

 

「聞いてる?」

「はっ、はいっ!」

「このお願い、どうか受け止めて生きてほしいの……私が今更、貴女へ偉そうに言えることではないのだけど」

 

 バカな私にも伝わるよう、滑らかに言葉を紡ぐ女性の努力と反して、噛み砕かれた意味は私の頭に届いてはいなかった。

 

「あ、あの」

 

 だからまずは聞いておきたかったのだ。

 

「お姉さんの名前は……なんていうんですか?」

「……」

 

 半分開いた口が、何文字かの息を吐いた気がした。

 

「……私、ね。そう……」

 

 思いついたように長い黒髪を後ろで束ねたその後に、言葉は紡がれた。

 

「私のことは、“煤子(すすこ)”と呼んで。美樹さやか」

 

 

 

 私はあの時の事を、今でも思い出せる。

 煤子さんとの大切な出会いを。彼女の語らぬ想いを。

 

 記憶は時間と共に色あせて、あの人の顔もはっきりと思い出せなくなってしまったけれど。

 まだあの時の日々は、私の中に残っているんだ。

 

 だからこそ今、私はやっと後悔し始めている。

 

 

 

「剣道部、やめなきゃ良かったな……」

「ん? どうしたの?」

 

 呟きに、隣を歩くまどかがひょいと顔を覗き込んできた。

 

「あ、もしかして今の、出てた?」

「てぃひひ……ばっちし出てたよ、さやかちゃん……」

「あっちゃあー」

「うーん。けど上条君も、さやかちゃんには頑張ってほしいはずだよ? 私も、さやかちゃんには続けてほしかったな……」

「……うーん」

 

 恭介が入院してから一週間が経つ。

 あれは不運な事故だった。この国の年間で見れば、よくある事故だ。

 

 けれど、彼の左腕に与えた影響はあまりにも大きすぎた。

 温和に、綺麗に微笑んでいた彼の表情に、深い影を落とすほどに。

 

「またね、さやかちゃん」

「うん。また明日ー」

 

 それで私の周囲の事情も色々と動いたんだけど、これがまた複雑でね。

 頭脳明晰のさやかちゃんをもってしても、なかなか上手いこといかないんですわ。

 

 

 

「うーん……」

 

 ベッドの上で天井を仰ぐ。

 すん、と鼻を鳴らせば、顔の隣の、乾いて嫌な臭いが薄れた竹刀が感じられる。

 

「顧問になんて言おっかなぁー!」

 

 今更なんて言えばいいんだろう。

 ものすごい適当な良い訳をつけて退部して、一部の先輩にも迷惑をかけたのに。今更どんな顔で戻れば良いのか。

 そもそも、戻るべきなのか。そんな必要がどこにあるのか。考えないでもないことだ。うーん。

 

 けれど、私が剣道部をやめるきっかけとなった恭介は、気にせず続けてほしいと言うし……。

 でもまた入部すると、そう頻繁にはお見舞いにいけなくなるしなー……何より一部の先輩が面倒臭いしなあ。

 ああ、見舞いにいかないとしても、顧問になんと言えば……。

 

「……」

 

 私はベッドの脇を竹刀でばしばし当たった少し後で、ぐっすり寝た。

 

 


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