そこに貴女がいたから
それは剣道部に入部する六年前の出会い。
それは剣道道場に通う一ヶ月前の別れ。
今でも、その時の出来事を鮮明に覚えている。
「ああ……私はなんてことを……」
河原の橋の下で出会ったのは、綺麗な後ろ姿の女性だった。
辺りに散らばる黒い砂を前にして、なんというか彼女は、普通じゃなかった。
「どうかしたんですかー?」
駆け寄った私の、半分の心配。もう半分の興味。
だけど彼女の顔を見た時、私の興味半分は跡形もなく凍てついてしまった。
「ぁあああッ……私は……」
人が、心の底からの悲嘆に苦しむ顔を見た。
美しい女性なのに、悲しみはここまで人を苦しそうにさせてしまうだなんて。
その日は大切な出会いの日でもある。
けどそれは同時に、私の中で大きな何かが変わった瞬間でもあったのだ。
「足りない、これじゃあ足りない……」
彼女は涙ぐんだ声で、黒い砂をかき集めている。
当時の幼い私にはその意味がわからなかったけれど、その歳なりに同情の想いはあった。
「間に合いっこない……」
「あの……」
だから声をかけた。
“大丈夫ですか”と、肩に手を触れた。
その時、さっと振り向いた彼女が私を睨み、鋭い目で動きを射とめた。
そして、一瞬だけ口を大きく開いた後、彼女の喉がコクリと鳴って、次の瞬間には、逆に私の両肩が掴まれていた。
「ぁ……」
それがどこか怒りの形相のように見えてしまって。
どうして私に向けられているのか分からなかったから。
それに、何よりも。
「美樹さやか……!」
会ったことがないはずのない人が私を知っていた事が、怖かった。
「期待はしないわ。けど答えて……あなたは今、何年生?」
「さ、三年生……です」
瞬きしない目が私を逃さない。
「……カナメ、っていう子、知らないわね」
「う、うん……知らない」
「やっぱりまだ越してないか……」
そこで初めて、女性は私から目を逸らした。
女性の目は赤く充血し、涙で濡れて、きらきらと光っていて……場違いな感情だとわかっていても、その時確かに私は“綺麗だな”と感じたのを覚えている。
「あの、なに……なんですか? お姉さん、誰なんですか?」
「……」
女性は伏目で私を胸辺りを見た後に、また目を見た。
そこにはもう、悲嘆も怒りも浮かんでいない。
「私のお願い、聞いて貰っても良いかしら」
この人は、悲しまないと、怒らないと、こんなに綺麗な顔をしてるんだ。
「聞いてる?」
「はっ、はいっ!」
「このお願い、どうか受け止めて生きてほしいの……私が今更、貴女へ偉そうに言えることではないのだけど」
バカな私にも伝わるよう、滑らかに言葉を紡ぐ女性の努力と反して、噛み砕かれた意味は私の頭に届いてはいなかった。
「あ、あの」
だからまずは聞いておきたかったのだ。
「お姉さんの名前は……なんていうんですか?」
「……」
半分開いた口が、何文字かの息を吐いた気がした。
「……私、ね。そう……」
思いついたように長い黒髪を後ろで束ねたその後に、言葉は紡がれた。
「私のことは、“
私はあの時の事を、今でも思い出せる。
煤子さんとの大切な出会いを。彼女の語らぬ想いを。
記憶は時間と共に色あせて、あの人の顔もはっきりと思い出せなくなってしまったけれど。
まだあの時の日々は、私の中に残っているんだ。
だからこそ今、私はやっと後悔し始めている。
「剣道部、やめなきゃ良かったな……」
「ん? どうしたの?」
呟きに、隣を歩くまどかがひょいと顔を覗き込んできた。
「あ、もしかして今の、出てた?」
「てぃひひ……ばっちし出てたよ、さやかちゃん……」
「あっちゃあー」
「うーん。けど上条君も、さやかちゃんには頑張ってほしいはずだよ? 私も、さやかちゃんには続けてほしかったな……」
「……うーん」
恭介が入院してから一週間が経つ。
あれは不運な事故だった。この国の年間で見れば、よくある事故だ。
けれど、彼の左腕に与えた影響はあまりにも大きすぎた。
温和に、綺麗に微笑んでいた彼の表情に、深い影を落とすほどに。
「またね、さやかちゃん」
「うん。また明日ー」
それで私の周囲の事情も色々と動いたんだけど、これがまた複雑でね。
頭脳明晰のさやかちゃんをもってしても、なかなか上手いこといかないんですわ。
「うーん……」
ベッドの上で天井を仰ぐ。
すん、と鼻を鳴らせば、顔の隣の、乾いて嫌な臭いが薄れた竹刀が感じられる。
「顧問になんて言おっかなぁー!」
今更なんて言えばいいんだろう。
ものすごい適当な良い訳をつけて退部して、一部の先輩にも迷惑をかけたのに。今更どんな顔で戻れば良いのか。
そもそも、戻るべきなのか。そんな必要がどこにあるのか。考えないでもないことだ。うーん。
けれど、私が剣道部をやめるきっかけとなった恭介は、気にせず続けてほしいと言うし……。
でもまた入部すると、そう頻繁にはお見舞いにいけなくなるしなー……何より一部の先輩が面倒臭いしなあ。
ああ、見舞いにいかないとしても、顧問になんと言えば……。
「……」
私はベッドの脇を竹刀でばしばし当たった少し後で、ぐっすり寝た。