劣化して色あせた絨毯の上に、一人のシスターが傅いている。
祈りの先は奇妙なオブジェ。それは多少の知識がある者が見れば、何らかの宗教のシンボルであろうことは察せられる。
しかしその象徴は決して勢力の強いものではなかった。
今や僅かな信徒しかおらず、聖地であろうこの教会も有志が見回るのみ。
それでも、杏子は常に祈ることだけは欠かしていない。
「……」
彼女は家族を失ってからもずっと、ほとんどの教義を忠実に守り続けている。
壊れた椅子と偶像だけが立ち並ぶ廃教会。静謐に祈りを捧げる少女の姿は、完成された美しい絵画のようにも見えた。
「攻撃しないでくれ」
そんな世界に一匹の異物が紛れ込む。
インキュベーター。またの名をキュゥべえ。彼も自身が歓迎されないことをわかっているのか、侵入に際しては真っ先に断りを入れる必要があった。
「……ああ、今はそんな気分じゃない」
「それは良かったよ。珍しいこともあるものだね。普段ならこう言って出てきてもすぐに潰してくるのに」
「何の用? こんな場所にさ。祈りにでもきたのかい?」
「いいや、そういうわけじゃないよ」
「生憎、今は黒グリーフシードは持ってない。来るなら二日後にしな」
「いいや、もうちょっとちゃんとした用があるんだ」
「回りくどいな、ぶった切るぞ」
杏子は右手に槍を生み出し、絨毯に座るキュゥべえの首元に構えた。
「それは困るな」
「さっさと言え」
「そうさせてもらうよ。……ワルプルギスの夜のより正確な出現位置が予測できた」
「へえ」
杏子は意外そうな顔をして、槍を下げた。
キュゥべえの言葉はそれなりに彼女の興味を引くものだったようだ。
「僕が言った最初の予測にほとんど間違いはないだろうね」
「ほとんど、ってどんくらいだ」
「それはなんとも言い難いところだね」
「ふん。まぁ、別にいいけどね」
ワルプルギスの夜。それは杏子にとって無視できない存在だ。
長年魔法少女たちの間で語り継がれてきた伝説の魔女。
それとの対決は、ここしばらくの間は最大の関心事である。
「もう良いよ、さっさと失せな」
「そうさせてもらうよ」
聞きたいことが聞ければあとは用もない。
キュゥべえも機嫌を悪くした杏子に体を潰されたくはなかったので、さっさと退散することにした。
が、インキュベーターとしてのきまぐれか、彼の足が止まる。
「杏子。これは君にとっておせっかいかもしれないんだけど。どうせ祈るなら、その大きなシンボルは修繕しておく必要があるんじゃないかな?」
「二度は言わない。これで最後だ。失せな、妖怪」
「ああ、今度こそね」
キュゥべえの気配が消え、教会に再び沈黙が訪れる。
杏子は祈りの姿勢のまま顔を上げ、シンボルを見上げた。
十字架のようにも見えるそれは、かつての火事による損傷がそのままに残されているせいか、全体が煤けていた。
一部は砕け、左右対称ですらなくなっている。
彼女は何年もの間、この薄汚れたシンボルに向かって祈りを捧げているのだった。
「……――煤子さん」
† 8月25日
「一体、どうしたの」
煤子が夕暮れ前の教会を訪れると、そこにはいつものように杏子が待っていた。
しかし彼女の姿はいつもと少しだけ違う。膝や顔に傷を作り、服もあちこちが汚れている、なんとも酷いありさまだったのだ。
もしや誰かに。
煤子はそう考えて苛立ちを覚えたが、対する杏子がニカリと笑ったのを見て、その考えはすぐに引っ込んだ。
「勝ちました!」
何に、とは聞かない。
言葉足らずだが意味はわかる。
彼女はここ最近、ずっと同じ小学校の男子にいじめられていたのだ。
やられたから、やり返した。教師であれば無責任に叱りつけるのだろうが、煤子は違う。
杏子の少しだけ固くなった手のひらを擦ってやり、小さな頭を優しく撫でる。
「……偉いわ」
「へへ……」
「頑張ったのね」
「はい!」
今はそれで良い。
やられたらやり返す。自分が潰れてしまう前に、自衛しなければならないこともあるのだ。
機会を逃してしまえば、鬱屈とした自分が何年も心に付き纏うことを、煤子はよく知っていた。
ならば一度や二度の暴力が一体何だというのか。
今は自分の矜持を守り抜いた彼女を讃えてやるのが一番だ。
「貴女が努力したからよ」
「えへへ……ううん。それだけじゃなくて、煤子さんのおかげ……」
「……そうかしら」
「はい!」
煤子はもう一度杏子の頭を撫でてやり、その後に傷の手当をした。
簡単な消毒と薬局で揃うものによる、魔法も使わない簡単な処置だ。名誉の負傷を早々にかき消すこともないだろう。
その日は杏子も疲れ果てていたので、主に座学のみが行われた。
杏子は決して学校の成績が悪い方ではなかったが、現状は学校での立ち位置もあってか、集中できていない面があった。これから学年が上がっていくごとに差がつけば、彼女はこの道を諦めてしまうかもしれない。それはあまりにも惜しいことだった。
煤子はさやかに対するそれと同じように、杏子に物事を教え込んだ。
それは学校で習う義務教育的なことだけではない。
全ての根幹を成す基礎的な考え方であり、それらはいわば“思想”にも近いものだった。
とはいえ煤子は合理主義である。内容は至って堅いものであり、宗教的な匂いはこれっぽっちもない。
その教えは意外なことに、杏子にとっては馴染みやすいものであった。
「煤子さんの教えてくれることって、なんだかお父さんの話に似てる気がします」
「……そうなの?」
「はい。なんか……ためになる感じがして」
「……そうね。貴女のためになるような話をしてるとは、思っているわ」
「お父さんもそういう風に考えて、教義を作ったんだと思います。……ただ、お父さんはあの、そんなに……こういう、暴力とかって、好きじゃないですけど。……この怪我を見たら、なんて言うのかな……」
ばつが悪そうにしているが、後悔している様子ではなさそうだ。
煤子はほんの少しだけ彼女の教義について関心が湧いたが、すぐにその考えはやめた。
「何を信じて生きるかは、杏子……それは、貴女自身が決めていきなさい」
「……私が? でも、教義……」
「教義でも、私でも、あなたのお父様でも、自分自身の願いでも良い。信じるものは世の中にあるわ。貴女は……貴女が最も信じられるものを、自分で選択していきなさい」
――たとえ、信じたかったものの一つに裏切られたとしても。
――貴女の中にある折れない一つの何かが、貴女を支えてくれるはず。
† それは8月25日の出来事だった