この世界に神は居ない
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「杏子、最近学校から帰ってくるたびに傷だらけじゃないか。一体どうしたんだい。……父さんに相談してご覧なさい」
「別に……平気だよ」
「……誰かに、ひどいことをされているんじゃないのかい。クラスの子とか」
「されてない。される前に……なんとかしてるもの」
佐倉杏子はある日を境に強くなった。
不安げにおどおどしていたのが一変し、力強く笑うようになった。
それはいつからだっただろうか。
夏休みが終わり、その頃に一度、ふさぎ込んでからだったか。
今では弱々しさなどかけらも無い。
「アタシは負けないよ。誰にだって」
「……モモだって心配しているよ。あまり、無茶なことだけはしないでおくれ」
「うん」
そう返事は返すが、杏子の生傷が絶えることはなかった。
それでも杏子はいじめられっ子らしく屈することはなかったし、弱音も吐かなかった。
むしろ、学業でも私生活でも、精力的に活動することの方が多くなったように、父には思えた。
父が杏子の振る舞いや生傷の由来を詳しく知ることになったのは、それからすぐのことである。
杏子ちゃんの暴力的な行いをどうにかしてもらえませんかと、担任からの電話で発覚したのであった。
「暴力は向こうからやってきてるんだよ」
「やり返してはいけないよ」
「右の頬を殴られて、左の頬を差し出したよ。それでも向こうは遠慮なんてしない。殴れる時には喜んで殴ってくる。父さん、その次は何を差し出したらいい?」
父は答えに窮した。
「悪い奴らに屈しちゃだめなんだ。アタシは負けるつもりはないよ」
杏子は茜色の金属でできたアンクを握りしめ、誓うように言った。
「……杏子、それは? 金属のなんて使ってないはずだけど」
「ああ、これは……信者の方に、いただいたんだ。大事にしてるの」
「おお、そうだったのかい……ならば、うむ。大切に使いなさい」
「もちろん!」
杏子は健やかに成長した。主に精神的に。
だが肉体の方は芳しくない。それは、ひとえに父の不甲斐なさ故であった。
杏子の父は新興宗教の開祖である。
既存のものの教義とは異なる、現代に則し、適した教義を定めたつもりであった。
だが新興宗教というそれだけで人々からの心情は悪くなり、かつて所属していた組織からは破門されたこともあって、地元でも鼻つまみ者としての扱いを受けている。
杏子がいじめられていたのも、日々の糧を得ることすら難しいのも、全てはそこに起因する。
父は日々の暮らしの中でその事実を再確認するたびに、次第に心を病んでいった。
「……杏子、今朝もお祈りしたのかい?」
「うん」
それでも杏子は。杏子だけは、常に高潔に、敬虔に信仰を深めていた。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫だよ、モモ。ずっと離れ離れになるわけじゃない。またすぐに会えるって。ほら、泣かないで」
ある日、かつて父の妻であった女が教会を訪れた。
杏子は別れの理由を詳しく聞いていないが、久しぶりに見る母の顔には卑しさや悪意はない。子供を気遣う母としては疑いようもない人物であることは間違いなかった。
話は、既に何ヶ月も前から父と妻との間で進められていたらしい。
困窮もいよいよ極まり、二人の娘を妻に託そうという話になったそうなのである。
「……杏子。あなたも……」
「アタシは良い。アタシは、この街に残る。この街で、父さんの教えを守っていくよ」
だが杏子はそれを拒んだ。
妹のモモについては心配もするが、杏子にとっては父を放っておけなかったし、信仰し続けた教義を棄てることもはばかられたからだ。
「……そう」
母はそんな答えに対し、露骨に表情を歪ませた。
悪い人間でないことは杏子にはわかる。それでも、父や自分とは価値観が合わない人間なのであろうことは、この時なんとなく察せられた。
杏子と父だけになった暮らしは、依然として質素なままだった。
食うにも困る生活。服は最低限の着回し。住処は教会の寒々しい部屋。
学校での生活も大きな変化はない。杏子は相変わらずクラスでは避けられていたし、陰湿ないじめをうけることもあった。
それでも殴られれば殴り返すし、やられたままでいることはない。
給食を食い溜めすることを卑しいと言われようが、詐欺宗教だと侮辱されようが、杏子の信念が折れることはなかった。
ある頃から、教会に細々と信者が現れるようになった。
杏子が中学に入る直前である。
信者(というよりも寄付)の何人かは杏子が学校で見かけたことのある生徒とその親で、信仰というよりは人付き合いとしてのものでしかなかったのだが、それでも家族が日々の息継ぎをするには十分な足しになるものであった。
後から父が聞いた話では、学校でいじめられていたところを杏子が助けに割って入ったことがあったのだという。
「知らねーよ。弱い奴が悪い奴にいじめられていたから助けただけだ」
杏子はすっかり擦れた口調でぶっきらぼうに言うが、それが照れ隠しであることは父にもわかっていた。
「私は、やはり暴力を歓迎することはできないけれども。立派なことをしたよ、杏子」
「! ……へへ」
貧しく、大変な環境で育ててきた。それでも杏子はこんなにも立派に、より善く育ってくれている。
父は誇りに思うと同時に、現状をどうにかしなければという焦りにも似た思いが日に日に募っていった。
そして本質的盲目的で、人の悪意に疎い父は、努力の選択を誤った。
「佐倉杏子ちゃんだね」
ある日杏子が戻ってくると、知らない男が教会にいた。
ボロの教会に似つかわしくない身なりの良い男。だがその笑みと雰囲気から発せられる気質はこれまでに見たこともないほどに醜悪。
信者でないことは明らかだった。
「この教会の土地のことで、お父さんと大事な話があってきたんだ」
「誰」
「杏子ちゃんのお父さんの、お友達だよ」
教会の奥から、父の声が聞こえる。荒い声だ。言い争いが、取っ組み合いか。いずれにせよろくなことではない。
「出て行って」
「それはできないなぁ。お父さんと大事な話があるからねえ」
「出て行け!」
「ははは、それはできないよ。この土地は、もう君たちの物じゃなくなるからね」
「そんな馬鹿な話……」
「うん。でも、杏子ちゃんのお父さんならきっと……君とこの土地だったら、君を助けると思うんだよね」
「……!」
背後の扉が閉ざされる。
そして物陰から複数人の作業着姿の男が現れ、杏子を遠巻きに囲い込んだ。
杏子はその時、数日前に父が教会の修繕について話していたことを思い出しかけたが、すぐに思索をやめた。
「杏子! 来てはいけない! 逃げるんだ! ……ぐ、ガッ……」
父の声が聞こえる。男たちの下卑た笑いが聞こえる。
杏子は身体を恐怖と、それ以上の怒りに震わせ、近くの長椅子の下に隠し置いていた長棒を拾い上げた。
「なかなか可愛いじゃないの。心中させてやる前に、何本か撮っておくか」
「シスターか……海外にも良い値段で売れそうやな」
じりじりと近付く男たち。
体格は雲泥の差があり、それは長棒をもってしても覆し難い。武芸を僅かにでも飾ったからこそ、杏子は絶対的な不利を悟っていた。
一人くらいならなんとかなる。
しかし、囲まれてはどうしようもない。掴まれて、それで終わり。
自分が何をした?
父が何をした?
悪いことはしていない。だというのになぜ、こんなにも……。
「僕と契約すれば、なんでもひとつだけ願い事を叶えてあげる」
絶体絶命の状況。
そんな窮地の中で、杏子は椅子の上に慎ましく座る“それ”の提案に……内心で悪魔の契約に違いないと勘付いていながらも、喜んで手を伸ばした。
「……父さん!」
魔法少女の姿になった杏子は全ての悪漢を蹴散らした。
そして彼女が扉を開け放った先で見たものは。
「やべえ、このガキ槍を持ってるぞ!?」
「連中はどうした!?」
天井の梁から伸びるロープに首を括らされた、揺れる父の姿であった。
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