暑い日差しに、目を開けた。
「……」
暑い。夏の日差しが、私とベンチに降り注いでいた。
見滝原の町並みの上には青。
更に上を仰ぎ見れば、高くに入道雲が昇っている。
懐かしい、あの日の景色だった。
「ほら、干からびちゃうわよ」
「……?」
隣から、ペットボトルを差し出される。
馴染み深い、よく冷えたスポーツドリンクだった。
「ありがとう、ございます」
「いいのよ」
キャップを捻り、口を付ける。
ごくり、ごくりと喉が鳴る。このまま息を止めて、最後の一滴まで飲み干せてしまいそう。
けど、一気に飲むのは良くないことだから、少しだけ。
後はまだ、残しておくことにした。
「……ふう」
涼やかだ。
「お疲れ様、さやか」
「……」
けれど、そこで伸びをしたくなるような、清々しい達成感は無い。
私は、ねぎらいの言葉をくれた彼女に、ついに顔を向けた。
そしてやはり、私は、納得するのだ。
「大変だったわね」
「……煤子さん」
ほむらと瓜二つの彼女の姿に、思わず瞳が潤んでしまう。
黒髪を高いところで縛っただけの、でも、やっぱり私の中では特別だった、彼女の姿に。
「煤子さん……私」
「うん」
「煤子さんが守りたかったもの、守れなかったよ」
「……」
ベンチの上から望める見滝原。
この景色も、あの日々のかげろうにすぎない。
私の本当の見滝原は今頃どうなっているのだろう。
杏子がうまくやっているだろうか。
ほむらが、マミさんがうまくやれているだろうか。
確証はない。そして、……自信もなかった。
ワルプルギスの夜が振りまく底なしの絶望を前にしては、多分……杏子にも、限界が来るだろう。
現状、ほむらが時間遡行してくれていることを祈るしかない。
「……はあ。力をつけて、臨んだつもりだったんだけどな」
「さやかはよく頑張ったわ」
「うん……自分で言っちゃお、頑張った」
「ええ、誇っていいわ。さやか」
「うん……うん……けどね……煤子さん」
ああ、だめだ。涙が止まらない。
「やっぱり悔しいよ」
「……」
「守りたかったよ」
「……」
金色の夕焼けが空を覆う。
伸びる影の中で、杏子は長い棒を振るっていた。
「せいっ」
教えてもらった動きとは、少しだけ違っている。
魔女との実戦の中で最適化され、自分なりに工夫し、改善された型だった。
「はあっ!」
「でも、その構えは少しオーバー気味じゃないかしら」
「……」
後ろから白い手が、棒を握る手を包み込んだ。
そのまま動きをガイドして、懐かしい型を再現してみせる。
「ほら、こう。基本は大事よ」
「……もう、今では私の方が上手いですよ」
「あら、そうかしら」
「……そうですよ、煤子さん」
煤子が背負った夕焼けは眩しすぎて、思わず涙が出てきてしまった。
「真面目にやってきたものね」
「……はい。自分で言えます……頑張って、きましたから……ずっと」
「……ええ」
かんかんと、二つの棒が乾いた音を打ち鳴らす。
軽めの練習。長棒同士の懐かしい打ち合い稽古だった。
からん。
しかし何度やっても、すぐに杏子の棒が先にはたき落とされてしまう。
何度も拾って、何度も握り直しても、二、三回ほど打ち合うだけでまたすぐに落とされる。
「うっ……ぇぅ……」
「ほら、そんな顔じゃ当たらないわよ」
杏子は乱雑に棒を振り回すだけだった。
涙と乱反射する夕陽で何も見えないだけではない。型も何もない振り回すだけの棒術で、力なく暴れているだけなのだ。
「もっと強くならなきゃいけなかったのに……」
「……」
「強くなって、どんな悪い奴にも立ち向かえるように……なりたかったのに……」
杏子の棒の側面が叩かれ、得物が地面に転がってゆく。
「悪い奴が最強だ、なんて、そんな話……あっていいわけないだろ……」
「……」
階段の上に積んだ水滸伝のページが、生ぬるい風に吹かれてぱたぱたと捲れていった。
「身を粉にしても、骨を砕いてみせても、報われないなんてね」
手の中のスチール缶が“ぺこん”と軽く潰される。
さやかの手にあるペットボトルも、小さな音を立てた。
「ひどい話もあったものよね。……本当、ひどい話。本にもできないくらいひどい話よ、こんなのはね」
積み重なった水滸伝を拾い上げ、優しくページを捲る。
「愛と希望のヒーローが、結局は何もできずに息絶えるなんて、そんなのあんまりよね」
杏子はアスファルトに落ちる涙を止めること無く、頷いた。
「精魂尽き果て、全て燃やしきってしまっても、それでも何も守れないだなんて」
本を閉じる。
「ひどい話」
缶をベンチに置く。
「本当にひどい話」
夕陽を背に、輪郭のぼけた黒い煤子が杏子の手を取る。
「ねえ、こんなの望んだ結末じゃないわよね?」
「……当然……です!」
杏子は涙を拭って力強く答えた。
「最後には、愛と勇気が勝つストーリーじゃないといけないわよね?」
麦わら帽子を取り、ベンチから立ち上がった煤子が、さやかの手を取る。
「ねえ、さやか。このままでいいの?」
「……このまま、どうすることもできないよ、今の私にはもう私にはどうしようもないから……うん……わかってる。でも」
夏の日差しに汗ばんだ手が、煤子の手を強く握った。
「論理的でも現実的でもないし、叫んだって虚しいだけ……けどやっぱり、絶対に、こんなの納得出来ない……!」
「うん」
煤子は二人に優しく笑いかけた。
暑い夏の陽の下で。
眩しい斜陽の中で。
「正義は必ず、最後には勝たなきゃいけないわ。……必ず。絶対に、どんな強い相手だとしても、必ず」
空き缶をベンチの上に置き、斜陽を見据える。
「巻き戻しても、祈っても手に入れることのできない、正真正銘本当に、一度きりの奇跡を使ってでも」
陽に灼けそうな水滸伝の表紙に麦わら帽子を被せ、振り返る。
「さやか、杏子」
さやかと杏子は、あの日の煤子と向き合っていた。
ずっとずっと年上のようでいて、近い存在だった彼女に。
「あと一歩が届かないのなら、その奇跡をあなた達に託す。背中を押してあげる」
『この世界の因果と私の因果とは、決して相容れない』
『これは私ではできないこと。だから、あなた達に受け取ってほしい。受け取って、使ってほしい』
『……それがきっと、……道を踏み外してしまった私に残された、最後の使命』