ゆっくりと目を開ける。
目覚めは日曜の朝のように緩やかだった。
『……』
私は、自分がベンチに腰を降ろしていることを自覚できた。
自分には下半身しかなく、それ以外の部位は青い炎のようなもので構成されているということも。
『……』
揺らめく顔を、ベンチの隣に向ける。
隣の席には、潰れていないスチールのコーヒー缶が置かれていた。
『……』
夢の中で……いや。
魔女の結界の中で、煤子さんと話していた。
煤子さんは私の励まし、力をくれた。
……いや、それは正確じゃないか。
昔にくれた力を、今日ここで目覚めさせてくれたのだ。
『ありがとう、煤子さん。これで……』
炎の身体が、急速に元の姿を取り戻してゆく。
背骨を、肋骨を、内臓を、神経を、筋肉を、脂肪を、皮膚を、体毛を。
それは魔法少女が持つ治癒魔法とは比べ物にならないほどの力。
半分以上消し飛んだ身体を再構築する奇跡。
「これで戦える」
胴体、腕、頭、全てが復活し、魔法少女の衣装を纏う。
「……正義は、必ず勝つ!」
そして左腕の篭手でしかなかったセルバンテスが、全身を包み込む。
銀の装甲は左腕だけに留まらず、腕から胸へ、胸から身体へと延長し、一式の鎧となって全身を覆い尽くした。
「いくぞ!」
最後に顔を隠すフルフェイスのヘルムを装着すると、私は坂から飛び立った。
あの暗雲に蔓延る魔女たちを、一刀両断するために。
川の端で、水面から死体が立ち上がった。
『……』
首のない杏子が立ち上がり、濡れる身体が滝のような雫を落とす。
『ワルプルギスの夜は随分、街の方へ侵攻しちまったらしいな』
首からロウソクのように灯った赤い炎は、離れた場所に浮かぶワルプルギスの夜を見据える。
ワルプルギスの夜が通り過ぎた後でも、まだ川岸には強風が吹き荒れていた。
杏子の赤い裾はバタバタと風に吹かれ、濡れた生地は既に乾きつつあるが、首から灯った炎が風に巻かれて消える気配はない。
『……アタシはまだ負けちゃいねーぞ、オイ』
首なしの杏子が水面を歩く。
怒りを込めた強い足取りで、一歩、一歩と、ワルプルギスの背を追う。
『アタシは……ここだっつってんだろーがッ! このクソ野郎!』
『キャハ…………』
ワルプルギスの夜が侵攻をやめ、笑いが止まった。
背中にただならぬ悪寒を感じ取ったのだ。
すぐ目の前にいる二人の魔法少女よりも遥かに危険な、その魔法少女の燃える闘志を。
『もういっぺん殺してみやがれ! ワルプルギスッ!』
『――キャハ』
ワルプルギスの夜が進路を逆転させた。
『アハ、アハハハハアハハハハハハ!』
嵐の中に使い魔が充填される。
ワルプルギスの夜の中にはまだまだ、多くのエネルギーが貯蔵されていた。
使い魔を呼び出すだけならば、その余力は無限であると言ってもいい。
『ヒヒィィイイィィッ』
『アォォオオオォォッ』
白馬や狼が、空から川へと押し寄せる。
数多の動物たちによる行軍は、もう一つの川が空から流れ落ちてくるような壮大さで、たったひとりの杏子の元へ向かっている。
『……今のアタシには、全部見える。あんたらの、ちっぽけすぎる灯火がな』
槍の合成を介さずに、杏子の左手にブンタツが握られた。
赤黒い双頭の槍。あらゆるものを断ち切る、彼女の決戦重装だ。
だが今は、それとはまた別の武器がある。
『クソ野郎にひれ伏したクソッタレ野郎共……意志も心もない、強い奴にへこへこする金魚の糞なら――もっと強い
杏子が灯す炎の中から、怪しげな紅が輝いた。
『“ロッソ・ファンタズマ”!』
炎の揺らめきが不協和音となって鳴り響く。
『……!』
その瞬間、使い魔の群れの白馬たちは動きを止め、痙攣し、そしてすぐに目を赤く光らせた。
『ゥルルルゥ……ゥルルルァアッ!』
白馬の群れが暴れだし、他の周りの使い魔を狂ったように蹴り潰し始める。
ゾウも小人も関係ない。白馬以外の全ての使い魔を敵として見定め、駆け回る。
杏子の炎に心を奪われ、意のままに操られてしまったかのように。
『……やれやれ、陰気な能力だな、こいつは』
空から一頭の白馬が降りてきた。
それは長年の飼育されてきた愛馬のように洗練された動きで、杏子の傍らで立ち止まる。
杏子も迷わず、その白馬の使い魔の背に跨った。
『やっぱアタシは、こいつでガンガンいくのが良い』
頭の上でブンタツを三度回し、杏子を乗せた白馬は空へと駆け出した。
全身を銀の鎧に包んだ騎士は大剣を片手に、マントをひらめかせながら空を飛ぶ。
白馬に跨る聖女は両剣を片手に、白馬に跨りながら空を翔ける。
数多の可能性と因果を束ねたその欠片が、今この時、彼女たちを軸に収束した。
あったかもしれない未来の力と、誰かが背負うはずだった法外な力の一端。
それら全てを吸収し、二人はより強い存在へと変身したのだ。
ありえない力。ありえるはずもない力。
けどそれこそ、今二人にとって、何に代えても必要なものだった。
暁美ほむらは、盾に手をかけたまま動きを止めた。
過去に戻ることを躊躇したわけではない。巴マミにもそれはわかる。
先ほどまでこちらへ侵攻してきたワルプルギスの夜が、急に停止したかと思いきや、その進路を逆転。
もと来た方向へと戻ってゆくのだ。
「……? なに、これ」
「使い魔もこっちへ来ない……いえ、むしろ使い魔達は、こっちとは逆の方へ向かってる……?」
何かがおかしい。何かが起きている。
見滝原から、標的を過疎地へと変えたわけでもあるまい。
「……あの使い魔達は、どこへ目指しているというの?」
「一斉に、ひとつの方向に向かってるわね……ワルプルギスの夜を基点に、どこかへ攻め込んでいるみたいだけど」
暴風域は川の水も巻き上げて、薄い霧を発生させているためか、視界は遠方まではっきりしない。
その向こうに何があるのか、視認することは叶わなかった。
しかし、声は聞こえた。
『討ち取ったりッ!』
「!?」
「この声は」
「そんなはずは……確かにあの時、杏子が死んだのを……!?」
何が起こっているのかは定かで無い。見知らぬ危険があるのかもしれない。
それでも、この時間を諦めていた二人は、真相を確かめることに躊躇はなかった。
「いきましょう、暁美さん」
「ええ」
二人はまもなく、圧倒的な光景を目にすることとなる。
「!?」
「避けて!」
少し走る間に、霧の中から巨大な物体が飛来した。
視界の悪い中である。正面からでなければ、二人共咄嗟に避けられなかったかもしれない。
軽自動車ほどの大きさの物体は、緩い放物線を描いて地面を抉り、やがて止まった。
「……何かしら。街にある物にしては、綺麗すぎるわね」
「わからない、向こうから飛んできたということは……魔女の一部? でもこれ、どこかで……」
それは四角い、大きな金色の金属だった。
真鍮のようでもあるし、黄金のようでもある。表面の滑らかな金属塊だ。
「あ、歯車!? その破片だわ!?」
「!」
二人が霧の先を見る。
先程から向こう側が、妙に騒がしいことを思い出した。
あの先には……。
白んだ景色を見つめていると、今度は霧が大きく歪んだ。
霧が大きく膨らみ、穴が空き、突風が押し寄せる。
『アハハハハハハ!』
「――」
一瞬だけ降りかかり、過ぎ去っていった巨大な影。
ほむらの真上を、半壊したワルプルギスの夜が暴風と共に通過していった。
『ちっ、タイミングが合わねえか』
霧の中から馬蹄音が近づいてくる。その高い影も見えた。
巴マミはグレーのシルエットにマスケット銃を構え、暁美ほむらは盾を掴んだ。
『結界に突っ込んでやろうかと思ったが、復活が早いな。本体を蹴り飛ばしちまった』
霧を割って現れたのは、白馬に乗った――断たれた首の上に炎を灯した、杏子だった。
当然、二人は驚きのあまりに絶句する。
一番に口を開いたのは、すぐそこに現れていたインキュベーターである。
「君は……君が内包しているその魔力は、一体何なんだい、杏子」
『……』
インキュベーターは柄にもなく動揺しているらしかった。
それもそうだろう。通常ではありえないことが起こっているのだ。
いつかの、どこかの世界での果てしない未来からめぐりめぐった奇跡の欠片であるなど、彼が推測として立てられるはずもない。
インキュベーターがいかに高度な知能を持っていたとしても、彼女からあふれる力の説明はできない。
ただただ、白馬の上の杏子に向かって、疑問を投げかけるのみ。
「その魔力量は尋常じゃない……君の願いでは、瞬間的なものだとしても、そこまでにはならないはず――」
続きの言葉はブンタツの切っ先によって遮られた。
その狭間にあったインキュベーターの頭が、綺麗に吹き飛び、アルファルトを転がってゆく。
『よくアタシの前にノコノコと姿を現せたな。ちったぁ反省しやがれ』
「……佐倉さん、その姿は、一体……?」
『ああ、これかい?』
「その使い魔に乗って……それに、首が」
『首なんざ無くても平気なくらい、強くなっちまったってことかね』
杏子は自分の首の断面から何かを取り出し、掴んで二人に見せた。
二人は一瞬だけ後ろに引いてしまったが、それを見て頭に疑問符を浮かべる。
杏子の手に握られていたのは、赤錆びた金属で作られたアンク。
それが一体何を示すのかは、この場にいる誰にもわからないだろう。
『まあ……信じる心に、限界なんか有り得ないってことだ』
杏子はそう言うと、再び静かに白馬の歩を進めた。
「杏子……!」
ほむらは背を向ける彼女に声をかけようとして、後ろからの音に気づく。
ダカ、ダカ、ダカ。硬い足音が、無数に聞こえてくる。
街に似つかわしくない馬蹄音だ。
それらは霧の向こうから続々と増えてくる。
陶器製の白馬の大群。
使い魔の群れはゆっくりと行軍し、暁美ほむらと巴マミの脇を抜けてゆく。
静かに。だが、しっかりと意思のある足取りで、先頭の杏子を追うように続いてゆく。その数は濃霧のせいもあり、とても数え切れそうにない。
二人は目を赤く輝かせた使い魔たちが恐ろしかったのだろう。
その場で身動きを取ることも、物音を立てることもできなかった。
『さて』
杏子が馬の足を止めると、使い魔達も停止した。
『じゃあもう一丁ワルプルギスをぶっ殺して、結界に突入してみるか!』
ブンタツを掲げ、杏子が叫ぶ。
『いくぞお前ら!死ぬまで戦え! “ロッソ・ファンタズマ”!』
『『『ォォオオオォオオオ!!』』』
白馬の群れの背が燃え上がり、首のない杏子達が上に現れた。
全ての馬が杏子を乗せ、全ての杏子はブンタツを握り、それを高く掲げ雄叫びをあげている。
辺りを埋め尽くす魔法少女の大隊。
希望に溢れるというよりは、それが味方であったとしても恐怖を覚えるほどの壮観だ。
『突撃!』
『『『ォオオォオオオォッ!!』』』
合図とともに、白馬の大隊が動き出す。
自分たちの脇を騎馬が疾走してゆくのを見送って、そこで初めて二人は気付く。
“ここからの戦いは、彼女だけのものなのだ”、と。