12月も半ばとなれば、日の沈むスピードはちょっと待ってと言いたくなるほどに速い。少し油断をしていれば夕焼けを見逃し、早仕舞の太陽は地平線に顔を隠してしまうだろう。日に日に短くなる太陽の運行は紛れもない冬の足音。シーズンオフのキャンプを楽しむリンにとっては歓迎すべきことで、好ましいものだった。
しかしそれも普段であればのこと。現状のリンにとっては全くもって有り難くない。
日没の早さを恨めしく思いつつ、リンは恐る恐る用心しながら暗い山道の前方に注意を払っていた。
時刻は18時を過ぎたところだ。本来の予定ならばとっくにテントの設営を終えて夕飯に取り掛かっていていいはずなのだが、それがどうしたことかリンは未だに重い足を引きずってキャンプ場を目指していた。
今日一日でおよそ150kmの距離を共にした旅の相棒たる“YAMAHA·ビーノ”も今は脇に抱えられ、道先を照らすライトの役割に徹している。
「ふぅ……ふぅ……本当に、大丈夫なのか……?」
遮られた視界に、リンは不安そうに呟いた。
道の両側は木立に覆われ、街灯も見当たらない。車通りや人通りなんて見込めるはずもなく、ビーノのアイドリングだけが響く真っ黒な山中にさしものリンも心細い思いがしてくる。
ライトの先にはまだ何も現れてはこない。
このまま怪しい道を進むことへの心配もあったが、とりあえず今のリンにできることは電話口で伝えられた大垣の助言を信じることだけだった。でなければはるかに遠回りをしてキャンプ場に辿り着くしかないのだ。
リンはこの旅の不運を思い返していた。
信州は伊那、山梨から遠く離れた陣馬形山へと向かう道中でのことだった。
試験明けに予定していたなでしことの二人キャンプが相方の風邪で中止となり、代わりに病床からスマホ越しのナビゲーションを受けて長野を旅することになったリン。
斉藤によって“私の屍を越えてゆけキャンプ”と名付けられたそれは途中でなでしこの見舞いに来た大垣も加わって賑やかさを増しつつ、少々の波乱に見舞われながらも一人と一台(+2名)の旅路は概ね順調に進んでいった。
だが、長旅の疲れをほぐそうと立ち寄った駒ケ根の温泉と、ミニソースカツ丼がいけなかったのかもしれない。湯上りと満腹による心地よい気だるさに誘われてうつらうつら舟をこいだリンは、そのまま夢の世界へ旅立ってしまい――目が覚めたときにはもう辺りはすっかり暗くなっていたのだった。
慌てて温泉を飛び出しビーノを急がせる。市街地を離れ人工の明かりも乏しくなり、目的地まであとわずかというところまで来たのだが……
「ま、まじか」
キャンプ場へ続く道の半ばで目にした看板にリンは言葉を失う。対向車線を遮るように置かれた単管バリケードと、真ん中に掲げられた白地に赤丸の斜め一本線。それはこの道が封鎖されていることを意味している。
『通行止めなうⅡ』
この日二回目の遭遇となる通行止めに、失意の呟きと写真を思わずなでしこに送るリン。
それから慌てて別のルートを探すも、そうすると追加で三時間は掛かることが判明。キャンプ場への到着は21時以降となってしまう計算だ。
青ざめるリンだったが、そこへ手にしたスマホに着信の通知が表示される。
「大垣?」
思いがけない相手からのコールに訝しみつつ、リンは電話に出る。
「もしもし?」
『あ、しまりん? 電波繋がってよかったー。そこの通行止めなんだけどさ、多分そのまま通れると思うぞ』
「え? 通れる……って、思いっ切り看板あるけど」
『それ多分置きっぱなしになってる奴だ』
「本当に?」
『騙されたと思ってさ。あ、くれぐれもゆっくりな。もし通れなくて引き返してもロスは10分くらいだしさ――』
その言葉を信じてリンは今ビーノを降り、こうして進んでいるのだ。他に良いアイディアも思い浮かばず、取れる手立ては無いに等しかった。あてが外れてしまった場合どうするのかは……できれば考えたくはない。
「はっ、はっ……」
50ccの車体とはいえ、傾斜を押して歩くのは体力を使う。緊張と負荷の二つの要因で心臓を鳴らすリンには、祈るように一歩ずつ足を踏み出すその時間がやけに長いように感じられた。
やがてしばらく歩いていると、行き先を示す看板がようやくリンの前に姿を現した。
“陣馬形山キャンプ場”
天空のキャンプ場と呼ばれた標高1445mに位置する絶景の野営地。
あと一息とばかりに気合を入れたリンは、最後の坂を越えるべくビーノを押す手に力を込める。
そうしてリンが辿り着いたのは――
「ほ……本当に抜けられた……」
両脇に茂っていた木々が途切れ、リンの眼前に視界が開ける。
道を抜けた先では山頂にほど近い斜面の一角がぽっかりと切り拓かれ、星空へと露地を晒していた。小さな炊事場と避難小屋に、段々畑のように棚のつけられたテントサイト。その奥にある電波塔を横切って木道の階段を登ると、そこは伊那谷を一望する陣馬形山の頂上だ。
吹き下ろす夜風を浴びながらキャンプ場に足を踏み入れたリンは、息を大きく吸い込むとそのままビーノのハンドルに盛大に突っ伏した。
「何も無くてよかったっ」
無事に道中を切り抜けてキャンプ場へと辿り着いたことに安堵の溜め息を漏らす。
これがもしリン一人だけだったらどうなっていただろうか。おそらく通行止めの先へ進むことなく、絶望的な回り道を余儀なくされていただろう。そうすると遊び半分で受けていたナビゲーションは今日一番の大きな役目を果たしたことになる。助言をくれた大垣にも感謝せねばなるまい。
「っと、そうだ」
今も心配しているであろう二人に無事を伝える必要がある。連絡を取ろうとスマホを手にしたリンであったが。
「あ、ここ圏外なのか……」
アンテナが一本も立っていないことに気が付いて仕方なくポケットに戻す。
二人には悪いが、連絡はもう暫く後になりそうだ。
「それにしても……凄いな」
キャンプ場を見渡したリンは目を丸くして呟いた。
音に聞く絶景が――ではなく、その人の多さ故にだった。
陣馬形山のキャンプ場内にはテントを張る一連のスペースが上下に四段設けられている。そのいずれにもキャンパーが押しかけ、寿司詰めのように並んだ天幕が夜景に向いて軒を連ねていた。溢れそうな駐車場もビーノを停めるにすら難儀しそうな有様だ。
「え、えっと……」
こんな事態は全くもってリンの想定外だ。
戸惑いながらもひとまずは駐車場の端にビーノを置き、自分のテントを張る場所を探そうと下段から順に見て回る。
この日は少し風はあったがキャンプに支障が出る程ではなく、外で焚き火に興じる人々も多かった。
あるソロキャンパーは熱心に薪を小割にして火にくべている。トライポッドから下げた鍋での調理に余念がないようだ。また別のグループはタープに吊るしたランタンの下で乾杯を上げているところだった。年配の男性から若い女性まで、様々な年齢層が寄り集まって何事かを話している。通りすがったツールームテントの中からは家族連れの団欒の声がする。何やらボードゲームで盛り上がっているらしく子供のはしゃぐ声が聞こえてきた。
思い思いに過ごしている他の人々のキャンプの様子を覗いながら突き当りまで歩いたリンは立ち止まって振り返り――そして頭を抱える。
どうにもしようがない。テントの間隔は既に目一杯狭まっていてとても割り込めたものではなかった。よしんば無理やり入り込んだとしても隣が近くて落ち着けないし、迂闊な場所を取ろうものなら他所の焚き火の火の粉でテントを穴だらけにされてしまうだろう。キャンプを楽しむどころではない。
事前情報でもっと穴場的なキャンプ場をイメージしていたリンは、あまりのギャップに衝撃を受けていた。一体このキャンプ場の何がこれほどの客を引き寄せたのかリンには想像もつかない。今年のキャンプで一番混雑していた麓キャンプ場を上回る密度だった。
リンの表情が僅かに曇る。せっかく長い距離を苦労してやって来たというのに、これではあんまりだ。そもそもこうした状況を嫌っての冬キャンである。リンからすればたまったものではない。
とはいえ到着が遅れたのは自分のせいなので文句を言っても仕方がない。気を取り直して他の場所も見て回ろうとするものの。
「やばいな……ここもちょっと無理そうかも」
リンの眉間にしわが寄る。次の段に行っても状況は変わらず、焦りが生まれてくる。このままではテントが張れないかもしれない。それではキャンプ場に来た意味がない。自然、リンの歩調も早くなる。
それだけでなく気掛かりなことはもう一つあった。
リンは歩きながら訝しげに周囲を見回した。
先程から自身が妙に注目を集めているような気がしてならないのだ。設営場所を探してウロウロしているとやけに他のキャンパーと目が合う。何やら物珍しいとでもと言いたげな、興味津々といった視線。あまり居心地のいいものではない。確かに女子高生の趣味としては変わっていることはリンも自覚しているが、ファミリーや女性客も多い今日のキャンプ場でそれほど目を惹くものかと首を傾げていた。自分の格好を見ても特に浮いているとは思えず、疑問符ばかりが増えていく。
既に疲れを覚え始めていたリンだったが、そんな折りにふと
「ん?」
前にもこんなことがあったような、と一瞬デジャブを感じてキョロキョロと振り返るもそれらしい姿はない。ここは山梨から150km以上も離れている長野県のキャンプ場だ。流石に麓キャンプ場のときのようにはいくまいと考え直す。あるいはキャンプへ行きたくて仕方ないなでしこは、ついに時と空間を超えてリンの元へ届くことに成功したというのだろうか。(リンちゃん。今、あなたの心の中に直接語りかけています)。各地のキャンプ場で耳にする謎の声。その呼びかけに誘われた少女は富士山に隠された謎を解き明かし、やがて
――なんちって。
さて、そんなくだらないことに意識を傾けていたからだろうか。歩き出そうとしていたリンは、次の瞬間急に目の前に飛び出してきた小さな女の子を避けることができなかった。
「うお!?」
着込んだ上着がクッションになって衝撃はそれほど無かったが、相手はリンよりずっと小柄だ。ふらふらとよろけた女の子を支えようとリンはとっさに手を伸ばした。
「あっ、すみません! こら、走ったら危ないでしょ!」
同時に近くのサイトから、一部始終を目撃した母親らしき女性がよって来る。
「だ、大丈夫?」
心配したリンは女の子の顔を覗き込むが、女の子はきょとんとしてリンの顔をじーっと見つめるばかりだった。その反応にどうかしたのかとリンが首を傾げたとき――
「ねーおかーさん、
「――え?」
思考が空白に塗り潰される。
突然叫んだ女の子の言葉にリンは着いていくことができなかった。初対面の彼女の口から自分の名前が飛び出してきた、その奇妙な事実を認識するまでに数秒を要する。
「こーら! やめなさい、人を指ささないの!」
女性が女の子を叱り、それから愛想笑いを浮かべてリンに会釈する。女の子はご機嫌でテントの中にかけ戻っていく。
「ちょっ……待って――」
我に返ったリンが反射的に女の子を呼び止めそうになったとき、またもや複数の覚えのある
耳をすませたリンに二人の少女の会話が聞こえてくる。溌剌とした一方の声は、やっぱりなでしことしか思えない。どうしてかは分からないが、この山梨から遠く離れたキャンプ場に彼女が居るようだった。けれどこっちはまだいい。本当の問題はもう一つの方。僅かに違和感があるけれども確かに覚えもあるその声はまるで――自分自身の声のようではないか。
“なでしこ”と“リン”の会話。聞こえてきたそのやりとりを認識したとき、リンの脳は混乱に陥った。ありえない、聞き間違いだろうか、そんなはずがない。リンの頭の中が疑問符で埋め尽くされていく。いても立ってもいられず、リンは音の発信源を探して向かっていった。
それは割とすぐ近くのサイトから発せられていた。
大きなツールームテントの前室で過ごす子供たちが、ラックの上に置いたタブレットで何かを視聴している。子供たちは画面に釘付けになっていて、リンはそれをやや後ろから覗き込む。
液晶に映っているのは何かのアニメで、ちょうどオープニングが流れているところだった。ポップなミュージックに合わせて画面にタイトルが踊っている。
『ゆるキャン△』
リンは呆然とその文字列を眺めた。
次いで既視感のあるキャラクターたちが動き出す。どうやら登場人物の名前は『リン』と『なでしこ』というらしい。二人は何やらキャンプの話をしているようだった。
はっきりと聞いたその声はもう疑いようもない。リン自身となでしこのものに本当にそっくりだったのだ。
「なんだこれ……」
目眩を感じて一歩二歩あとずさる。今目にしているものが何を意味するのかリンには全く理解が及ばないでいる。
どうすればいいのだろう。何も見なかったことにしてキャンプを続けるべきなのだろうか? それとも引き返してキャンプ場を後にするべきなのだろうか? あるいはこの場に乱入して一体全体これは何なのか説明を求めればいいのだろうか?
いくつかの選択肢がリンの脳裏をよぎるも、どれもあまり正しいとは思えない。パンクした脳みそがサボタージュを決め込んだらしかった。
ただ途方に暮れながらも、たぶん今日思い描いていたはずのキャンプが遠い所へ行ってしまっただろうことにぼんやりと気付く。それがリンにはひどく残念だった。
頭が真っ白になり、フリーズしたリンはなすすべもなくその場に立ち尽くしていた。何かきっかけが無ければ、暫くそのまま動き出せなかったかもしれない。
ところがそこへ横合いから声が掛けられたことで、事態は更に思わぬ方向に動いていく。
「まさか……リンちゃん?」
震える声がリンの耳朶を打つ。
「あ……えっと、トム……さん……?」
顔を向ければ、そこに立っていた男に果たしてリンは見覚えがあった。
以前、本栖湖で居合わせたリンと共になでしこを助け、その後も麓キャンプ場でなでしこから共に鍋を振る舞われた、とある一人のキャンパー――
混迷極まるリンに降りかかった思いがけない出会いだった。
――――――――――
そのサイトは陣馬形山キャンプ場の最上段に設けられていた。両隣から張り出されたガイロープに少々脅かされている小さなスペースに、間借りするような形でワンポールテントが収まっている。男の背に着いてそこへやってきたリンは、勧められるまま焚火の前のローチェアに腰を下ろした。
ぼんやりと薪の炎に目を落として考え込む。周囲の賑わいは依然として盛んだというのに、リンにはまるでどこか遠い異国の出来事のようだった。馴染み深いはずのキャンプシーンがなにかチグハグで、気温とは別の尺度でどこか薄ら寒く、喧騒は膜一枚隔てたかのように曖昧模糊として耳に響いている。
頭の中には先程の映像がこびりついて離れなかった。
偶然などではない。あれは間違いなく自身とその周辺の人物をモチーフにしているはずだとリンは確信していた。名前と容姿や声が似通っているだけならば百歩譲ってそういうこともあるかと言い聞かせられたかもしれない。だがリンにとって幸か不幸か、短い時間で垣間見えた映像の内容は、麓キャンプ場でキャンプするリンとそこへやってきたなでしこだったのだ。リンの記憶にも新しいそれは、ついこの間
その事実がリンの思考を迷宮へと誘う。自身の過去の体験が映像作品として他人に視聴されている――真面目な顔でそれを言う所を想像したら、ヤバいやつだという感想しか浮かんで来なかった。いけないクスリに手を出したのかと自分でも思うだろう。だがそうとしか表現できないからリンも困っている。
あるいは手の込んだ悪戯か。
ちら、とリンはここまで自分を案内してきた男に視線を向ける。コンテナからガスバーナーを取り出して湯を沸かす男の様子はどこかぎこちないようにも見えた。動画投稿者なら方法はともかく動機としては考えられないこともない。“知り合いのJKにドッキリ仕掛けてみた!”と突然振り返ってプラカードでも掲げ、リンのリアクションをサムネイルに仕立てる。そちらの方がまだ非常識ではあってもかろうじて現実的な、納得のいく説明足り得るはずだ。
「はい、どうぞ。あったかいお茶を飲んだら少しリラックスできると思うからー……ああ、うん……参ったなあ」
茶を淹れ、コンテナの上に腰を下ろしながらシェラカップを差し出した男をリンは唇を結んでじっと睨みつけた。その視線の圧を受けた男は一瞬たじろぐと、弱りきった表情で首を振る。リンに確信を抱かせるには十分な反応だ。
「さっきのやつ、何だか知ってるんですよね」
ポツリと呟いたリンの声に男はしばし迷い、それから溜め息を零す。
「そうだね……たぶん、リンちゃんよりは少しだけ。でも本当のところ僕にもよく分からない。最初に言っておくけど、凄く突拍子もない話になるけどいいかな?」
リンは頷き、男の語る言葉へと耳を傾けた。それがどのような結果を生むか、想像もつかないままに。
――――――――――
「ゆるキャン△……私と、なでしこが主人公のアニメ……」
その言葉を転がすようにリンは呟いた。
男が語った内容はリンの想像を遥かに超えたものだった。男の視点によればリンやなでしこはとある作品の登場人物であるらしかった。アニメにもなっているその作品の名前こそが“ゆるキャン△”――先程リンが目にしたものの正体はそれだというのだ。
「あの、本気で言ってるんですか?」
「そうなるよね。正しい反応だと思うよ」
言葉に少し険が滲んでしまうのは仕方ないことだろう。やや温度の下がったリンの態度に男は苦笑する。
「ただ僕にはそうとしか言えないんだ。他にリンちゃんが見たものを説明できない。無茶苦茶だってのは分かってる。けど……」
男は視線を周りに向けた。今もどこからかリンとなでしこの声が小さく聞こえている。リンは口をへの字に曲げ、それを見た男は心底困ったというように力なく笑った。
この場に集う多くのキャンパーたち。リンとも同じ趣味をもつ人々――だが今日はその一部に、“ゆるキャン△”を楽しむ人々を内包している。それが普段とは違う決定的な差だ。リンは溜め息をついた。
「分かりました……とはなりませんけど、一応そういうこととしておきます。だとするとトムさんは違うんですよね……ええと、つまりその作品の中には出てこない人というか」
「少なくとも僕の認識においてはそうだね。リンちゃんたちは僕と出会わなかったし、カレーめんをなでしこちゃんにあげたのだってリンちゃんだった。本来なら僕は部外者で、こうして話すこともありえないはずなんだ」
リンの問いにそう答えた男はがっくりと項垂れると、懊悩するように頭皮を掻きむしる。
「我ながらこんな馬鹿な話はないよ、信じてくれだなんて言えないし思ってもない。リンちゃんがこんなこと知る必要はなかったんだ。気の利いた当たり障りない嘘で誤魔化せればよかったけど……ごめん、ちょっと難しかったなぁ」
「あ、いや、そんな責めるつもりは……確かにわけが分かりませんけど、別にトムさんのせいってわけじゃないんですし」
悄然とした男の様子にリンは慌てて否定するが、男はどこか居心地が悪そうに体を揺すった。
「確かに、僕が故意に引き起こしたわけじゃないし、そんなことはできないよ。でも……リンちゃんたちに会えるかもしれないって期待がなかったわけじゃないんだ。ああごめん、これじゃなんかストーカーみたいだね。悪気はないんだ。そうじゃない」
額に手のひらを当てて男は頭を振った。それから深呼吸して、まっすぐリンを見る。その様子からはまるで証言台にでも立っているかのような緊張が滲んでいた。
「本栖湖、麓、そしてここは作品の舞台になってるんだ。僕のキャンプ地が君たちの足跡と重なったときにこれが起きてる。これで僕は原因じゃないって、胸を張って言っていいのかな?」
懺悔するように述べられた男の話にリンは目を丸くした。
「そういうことですか。じゃあトムさんが私達と出会ってたのって……」
「一度目は本当にただの偶然なんだ。本栖湖は人気のキャンプ場でゆるキャン△抜きでも純粋にキャンプをしてみたかった。二度目は……そうだね、僕にとっては奇跡みたいなものだったよ。そっちの世界に迷い込むなんて不思議だけど、僕にとっては楽しくて、そしてリンちゃんたちには無害だと信じ込んでた」
何かしら思うところがあったのだろう。憧憬の込められたような言い方で遠くを見ながら男は呟いたが、それから居ずまいを正すと真面目な顔になってリンに向き直った。
「だけど……今回は違った。だから僕はもうキャンプをやめることにするよ」
「え?」
唐突な宣言に不意を突かれたリンが戸惑いの声を上げるも男は話し続けた。
「もう二度とこういうことが起きないようにって考えたら、それが僕ができる最善の方法かなって。これで罪滅ぼしになるかは分からないけどね。変なことに巻き込んでごめんねリンちゃん」
寂しそうに笑ってそこまで言うと男は天を仰いだ。それを聞いたリンもまた複雑そうな表情を浮かべて押し黙る。
陣馬形山の風が吹き抜けて焚き火を揺らし、リンは身震いする。男は薪を一つ追加して、それから二人の間にしばしの沈黙が降りた。
「あの、一つ言いたいんですけど」
少し腑に落ちない気分で焚き火を見つめながら暫く考え込んでいたリンが、意を決して口を開いた。
「ん? ああ、どうぞどうぞ。どうしたのリンちゃん」
「キャンプ、別にやめなくていいんじゃないですか」
それが思いがけない一言だったのか、男は目を瞬かせてリンを見る。どうしてそんなことを、とでも言いたげな顔だ。
「いや、もう嫌になったとかならいいんですけど……そう聞こえなかったので」
「あ、ああ、ごめんね気を使わせちゃって……けどこれ以上同じことを繰り返すのもリンちゃんたちには申し訳ないからさ」
そんなリンの指摘に男は恥入るように眉間を抑えたが、リンはあっけらかんと言い放つ。
「でも原因が何なのかは分からないですし、キャンプしなければ解決と決まったわけでもないと思うんです」
男が困ったように眉を寄せる。
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれないよ。僕だけならまだしも、こうやってリンちゃんを巻き込んだ以上は被害を防ぐ方法を考えておかないと」
「そうですか。けど巻き込んだとか被害とか、そういうのがよく分からなくて」
何と言うべきかリンは言い淀んだが、控えめながらもはっきりとこう告げた。
「ただ私のせいで望まない選択をさせたって言われると、それはちょっと嫌なんです」
そう言って困ったように頬をかくリンに男ははたと目を見開き、狼狽えて視線を泳がせる。
「いや、それは……だけどこんなことになってリンちゃんだって嫌じゃないのかな」
「キャンプ場で知り合いに会うことがですか?」
「えっ?」
そのリンの言葉に、男は心底意外そうな、意表を突かれたような表情を浮かべた。
「そうじゃなくて、もし自分の人生がフィクションだって分かったらその……ショックじゃないの? リンちゃんにとったらアイデンティティに関わる問題だと思って……」
戸惑ったようにリンに向けられる言葉。
気を使うような、腫れ物にでも触るかのような態度は、今日男に出会ってからのやりとりの節々に滲み出ていた。それこそ混乱していたリンでも違和感を覚えるほどに。
それが責任感によるものなのか、罪悪感によるものなのか、あるいはそれ以外の何か後ろめたさによるものなのかはリンには伺い知れない。だがそれはリンにしてみればただ一方的に向けられた不釣り合いな感情だ。
「いや、そんなこと言われても。正直どこまで事実か分かりませんし。あなたの人生は作り物ですって他人に言われたら素直に受け容れるものなんでしょうか」
なんか変なことにはなってるみたいですけどと言って茶をすすったリンを、男はあっけにとられて見つめていた。
リンからすれば何がなんだかさっぱり分からない。ただ、自分がアニメの世界の住人だなんて突拍子もない言いがかりのようなもので、それで存在意義を心配されたり、あまつさえ同情されたりだなんていうのは噴飯物の出来事だ。
「だって、それを言うなら逆に私がトムさんを架空の人物じゃないかって言ったならどうなんですか」
だからそんな男の態度が気に入らず、少しムスッとしてリンは言い放つ。
「トムさんは
そんなリンの問いかけに男は二の句を継げず、ただ口をモゴモゴと動かすばかりだった。
それから思い出したように手に持ったシェラカップの中身に口をつけ、一息に飲み干した。長く長く息を吐き出して力の抜けた笑みを浮かべるが、そこに先程までの打ちひしがれた弱々しさや諦念はなく、どこかすっきりとしたものへと変わっていた。
「“我思う故に我あり”、か。本当だよ……何をやってるんだろうね僕は」
ポツリと男は呟いた。
「勝手にリンちゃんの人生を紛い物と決めつけて、上から目線で空回りしてたんだ……ごめんねリンちゃん、いや、志摩さん。本当に、失礼いたしました」
そう言うと男は膝に手をついて深々と頭を下げる。その行動に驚いたのはリンだった。
「うぇっ!? そんな別にっ……あ、いや私こそすみません。ちょっと生意気でした」
突然の謝罪に慌てふためいたリンもまた、あたふたしながらもつられて頭を下げる。
「いや、僕が思い上がってた。リンちゃんはリンちゃんで紛れもない自分の人生を生きてる。それが僕の世界でアニメになってようがいまいが関係なしにね。それを忘れてたら怒られるのも当然だよ」
憑き物が落ちたような朗らかな声色にそれまでどこか漂っていた緊迫感は無縁だった。キャンプ場を取り巻く空気もこころなしか弛緩する。普段を取り戻したその姿に、リンもまた肩の荷が下りたような感覚を覚えるのだった。
――――――――――
「それでどこまで本当なんですか。えっと、ゆるキャン△……でしたっけ。ドッキリとかじゃないんですよね?」
シェラカップを満たしていたお茶が空になった頃。暫く静かに焚き火にあたっていたリンが、今更ながらに事の真偽に疑問を呈した。ここまでの全ては男の話一つでしかなく、映像にしたって作ろうと思えば決して不可能というわけではない。女の子の件だって無関係なりんちゃんが絡んだ偶然で処理できてしまうのだ。それにしたって手が込み過ぎているとは思うが、告げられた事実の奇妙さを前にすれば証拠と呼べるものは貧弱だ。信じる体で話を進めては来たものの、リンだって怪しい話に疑いを持たないほど純粋ではない。
「どっきり? ああ、僕の仕込みじゃないかってことか。まあ、そういうことにしておいてもいいよ。全部僕のほら話。リンちゃんも今までどおり。誰も傷つかない健全な嘘。どう?」
「いやその場合はなんでこんなことされたのか別の意味で怖いんですけれど……」
少し引いたようにリンが言うと、男はそれもそうかと困った様子で頭をかく。
「気になるのは分かるけどさ、証明かぁ。あまり気が進まないなあ」
「架空の存在扱いされる根拠くらいは知っておきたいです」
「そう言われると弱いね……凄いねリンちゃん、同じ立場なら僕は確かめる勇気がないかもしれない」
「まるでSF映画みたいじゃないですか」
好奇心に爛々と目を輝かせたリンに男はなるほどと苦笑して、しかしどうしたものかと悩んだ様子を見せるが、ややあってアイデアを思いついたのか荷物の中から何かを引っ張り出した。
「あいにく原作の漫画とかは持ってきてないけど、これだったらどうだろう?」
そう言って取り出したのはホットサンドメーカーと何かの入った紙袋。
「あれ、もしかしてこれって――」
何かを察したリンに対し、男はにやりと笑った。
「話してたらお腹が空いちゃったからさ。晩御飯にしよっか」
焚火台の上に乗せられた二つのホットサンドメーカーからバターの焦げる香ばしい匂いが漂い始めた。火加減に気を配り、裏返しつつ中身を確かめる。具材はそのままで食べられるため、好みの焼き色が付けばその時点で完成だ。
フタを開けば押し潰されて少し平らになった豚まんが見事な狐色になっていた。ふっくらの表面は揚がったようにサクサクの食感となり、冷え切っていた中の具もアツアツの肉汁がこぼれ落ちるようなジューシーさを取り戻している。
「餃子のたれはありますか?」
「持ってきてるよ」
小皿にたれをあけた後、それぞれの豚まんにフォークが差し込まれた。
ザクリとした手応え。バターの甘やかな香りと豚まんの香ばしさがリンの鼻へと抜ける。ふわっとした皮には僅かに酸味のあるタレが絡み、ややもすると単調な味わいにアクセントを付けている。いくらでも食べられてしまいそうだった。
「うま……」
美味しいものを食べれば自然と顔が綻んでくる。今日一日の出来事を束の間忘れて食事の喜びに浸っていたリンは、ほうじ茶に口をつけてほうと吐息を零した。
「初めてやってみたけど本当に美味しいね。流石はリンちゃん」
そこへ同様に舌鼓を打っていた男の感想を聞きつけ、リンは当然のごとく気になっていたことを尋ねにかかる。
「あの、トムさんが私のやろうとしてたメニューを知ってたのってやっぱり……ゆるキャン△でってことですか?」
「そう、陣馬形山で紹介されたキャンプ飯がこれだったからね。僕にとってホットサンドメーカーを買う後押しになったよ」
そう言って笑う男だが、リンは複雑そうな顔だった。
「そう、ですか。ゆるキャン△……本当に?」
豚まんはリンがキャンプ場に来る直前に買ってきたもので、メニューの内容を事前に知るというのは予知能力でもない限り不可能だ。どうにも拭いきれない薄気味の悪さ――リンの行動が記された“ゆるキャン△”なるものの存在が、にわかに現実味を帯びてリンにのしかかってくる。
「……実はさっきからずっとなんだか注目されてる気がしてたんです」
「うん?」
「もしかして、私はコスプレしてやってきた気合の入ったファンに見えるんですかね」
「まあ、そういうこともあるかもしれないね」
微妙そうな表情で呟いたリンに男は眉をもち上げて同意を示した。
「みんな、私が冬にキャンプするのが好きってことを知ってて」
「うん」
「今までどんなキャンプしてたかも知ってて」
「そうだね」
「じゃあ今まで入った温泉、とか、と、トイレ、とかもっ……!」
「あー、そうきたかぁ……」
重大な事実に突き当たってしまったリンは露骨に平静を欠いた。自分の行動を必死で思い返して視線が目まぐるしく泳ぎ、つまびらかになるアレコレを想像して口をパクパクと開閉し、耳までサッと赤くなった。
「おっと、心配しないで。それに関してはひとまずリンちゃんは慌てず、どうか落ち着いて聞いて欲しい」
わなわなと震えるその様子を流石に見かねた男がリンの尊厳を救うべく助け舟を出す。
「プライベート覗かれるのがそもそも嫌だってのは承知だよ。でもそれは一から十じゃない、主眼はあくまでキャンプだからさ。例えばそうだね、旅番組の温泉風景を見て赤面したり顔を顰める人がいるのかって話。だからそれ以上に嫌なものは考えなくていいんだよ」
平坦な男の語り口によってリンは少しだけ落ち着きを取り戻す。さまよっていた視線はとりあえず再び人を捉えることに成功するが、しかし未だに両頬は火照っている。
「むう……それじゃ、やっぱり入浴シーンはあるんですね……」
「まあ、否定はできないね」
忌々しいといった表情を浮かべたリンに、男は申し訳なさげに肩をすくめる。
「ただ少なくとも作中で悪意ある描き方なんて一度もされなかった。それどころか多くの人が憧れや共感を抱いたんじゃないかな。そうだ、リンちゃんに贈られたあだ名を教えてあげようか」
「あだ名?」
「“キャンプ場からシーズンオフを無くした少女”」
リンがぽかんと口を開ける。そしてそれを見た男はまるでいたずらが成功したみたいな表情を浮かべ、くつくつと面白そうに笑った。
「まったく、リンちゃんにとっては迷惑な話だろうってね。でもそれだけの人を冬キャンプへ、ソロキャンプへと導いた。リンちゃんのキャンプがそのくらい楽しそうに見えたんじゃないかな。それに――」
一度言葉を切り、男の眼差しはまっすぐリンへと向けられる。
「たとえ何だろうと結局は外国よりも遠い場所での話だからさ。リンちゃんからすれば空想みたいなもんだよ。だから僕が言いたいのはつまり……あまり苦しまないでってことかな」
男の言葉を受けリンは考え込んだ。内容の真偽を今ここで確かめるすべはなく、単なる慰めでしかないのかそうでないのか、リンには判断がつかない。だがその言葉に込められた男の心遣いはリンにも察することができた。
一つ深呼吸をして、それからリンは男に問いかける。
「……私、変じゃありませんでしたか……その、ゆるキャン△の中で」
焦燥と羞恥を脇へ押しやり、半ば自分に言い聞かせるようではあるが、何とか折り合いを付けようと努力するリン。そこへ掛けられる男の言葉もまた、そんな背中を押すものだった。
「うん。恥じる必要も悲しむ必要もないよ。胸を張ったらいい。まあ、僕が言うことじゃないかもしれないけどね」
その言葉が、スッと腹に落ちる。
「……ありがとうございます。ちょっと落ち着きました。確かに
そんなに複雑に考える必要はないのかもしれない、とリンは思った。ゆるキャン△の存在を信じるということはすなわち、“リンの世界ではない世界”を肯定することだ。果たしてそんな絵空事がリンの身の回りにどれほど影響するというのだろう。
それに、もし男の言うことが本当だとしたら。どうでもいいことだと冷めた態度の自分の裏で、どこか誇らしい気がする自分がいることもまた確かだった。自分のしていたことが――たとえ世界を隔てた限りなく遠い人々の間でだったとしても――認められているのが、リンだって嬉しくないわけではない。
胸を張れと男は言う。そんなふうに自分の人生を肯定されることは、リンにとってはあまりない経験だった。
リンが何となく温かな気持ちになっていると、隣のサイトで親子が焚火の準備を始めた。テンションの上がった子供が薪を前に叫び声を上げる。
「お前ら全員、刀のサビにしてやるぜー!」
「……うん?」
微笑ましげに隣に視線をやったリンだが、途中で妙な既視感に襲われてピタリと動きを止めた。何だろうかと一瞬思案する。顔を戻せば何故か男が俯き加減で口元を手で隠していた。羞恥の予感が頭を過る。
「あっ……」
既視感の正体に思い至ったリンが徐々に茹で上がっていくのを見て、男は気まずそうに視線を逸らした。
短い沈黙の後、男に向かってリンは口を開く。
「あの……やっぱり、キャンプやめてもらっていいですか」
消え入るようなリンの声に男は苦笑いを返した。
――――――――――
それから男が夜景を見に陣馬形山の山頂へ行くというので、少し迷った末にリンもそれに倣うことにした。せっかくだからという思い半分、他所様のサイトに一人居残る具合の悪さが半分だ。椅子から腰を上げて男の後ろへと続く。
木道を登り切ると額を打つ風がリンの前髪をさらう。
キャンプ場の賑わいに比べれば山頂に見える人の姿はまばらとなっていた。三脚にカメラを構えた幾人かの他は、時折散歩がてらの登山客が思い出したようにサイトからやってくるのみ。遠のいた喧騒はヒュウヒュウと耳元を切る風の音によってかき消され、そのためかさほど離れたわけでもないこの狭い広場はキャンプ場とはまた異なる雰囲気をもっているようにリンには感じられた。
こんもりと突き上げた小高い丘のような陣馬形山の頂からは、遮るもののない伊那の夜景が眼下へと広がっていた。煌々としたビルの輝きと、その間を縫って流れる車のヘッドライト、いくつもの光源によって形作られる点描のような街の明かり。星々の眩む白い光が盆地に滞留し、その向こう側に中央アルプスの影が真っ黒な壁のように茫洋と佇んでいる。
「山頂からの景色……やっぱり格別だなぁ」
「凄い…」
賑わうキャンパーの明かりに邪魔されることのないその景色は天空の野営場を標榜する陣馬形山の真骨頂だろう。感嘆の吐息を零したリンは、ここを訪れた多くの人と同様にスマホを掲げて夜景を写真に収めようとする。
「あ、ここ電波ギリ入るんだ」
その際にスマホのアンテナが立っているのを発見し、自身がなでしこと大垣に何の連絡も入れていないことを思い出す。大急ぎでメッセージを打ち込み、ついでに夜景の写真を添付する。
「これでよしっと」
「どうしたの?」
「いえ、なでしこたちに連絡入れそびれてて……どうやらここなら電波が入るみたいなんで」
「えっ?」
それを聞いて何故か驚いた様子の男だったが、その間にもピコン、と通知の音が鳴って返信が帰ってくる。なでしこからだ。『すっごく心配したんだよ〜><』という旨のエモーショナルなメッセージに加え、律儀に夜景の写真にも言及してくれる丁寧さに思わず笑顔が零れる。
「なでしこちゃんから?」
「はい。随分と心配かけたみたいです」
「そっかそっか……ああ、よかったぁ」
すると途端に大袈裟なくらい安堵したような態度を男が示すものだから、いったい何をそんなに喜んでいるのか分からなかったリンは思わず首を傾げた。
「ああいや、ちゃんとつながってるって分かったからさ。たぶん大丈夫だと思う。僕のときもそうだったからね」
「あの、何がですか?」
「帰り道の話だよ」
要領の掴めない男の話に疑問を浮かべたリンだったが、そう聞かされて目を瞠った。
「僕も今まで気にしたことなんてなかったんだけどね。でも、もしリンちゃんが元の世界に戻れなかったらどうしようって思ったらさ。どうも心配になって」
考えてみればその通りだった。リンに自覚はないものの二つの異なる世界の壁を超えたとすれば、元いた場所へ戻れるかどうかの懸念はして然るべきだったのだ。そうと分かりにくいが、言ってしまえば今のリンは迷子同然ということになる。
「その、トムさんはどうやって戻ったんですか?」
「それが戻ったという意識すら無くて。普通にキャンプして一晩明かしたら、それでおしまい。多分朝起きたときには元の世界だったんだと思う。それと同じならリンちゃんも大丈夫とは思うんだけど……」
身も蓋もないような男の回答に思案げな顔になるリン。果たしてちゃんと元の日常に帰れるのかどうか、心の奥底をちらりと不安の影が過る。なにより自力でどうにかなる問題でもないのが悩ましかった。
「それにもしかしたら、世界を越えたのはリンちゃんじゃないかもしれないね」
「え?」
だがそんなリンを他所に男はポツリと呟くのだった。
「このキャンプ場自体がリンちゃんの方の世界に丸ごと置き換わった可能性だってあるんじゃないかってさ。だって、電波の届く所にはなでしこちゃんがいるってことでしょ?」
そう言うと男は再び夜景に視線を向け、感慨深そうに顎をさする。
「何だか不思議な感じだよ。そうすると今僕らが見てる夜景は僕の世界とリンちゃんの世界、どっちなんだろうってね?」
そんな言葉に釣られてリンもまた夜景へと目を戻した。
夜天に映える絶景は相も変わらずにそこにある。勿論リンにはどちらかなんてことが分かるはずもなく、ただ綺麗だなという感想が浮かんでくるだけだった。二つの世界、自分がそのどちらに居るのか――そんなものの見方でこの景色を眺めることになるだなんて、ここへ来る前には考えてもみないことだった。
訳の分からないことだらけだとリンは溜め息をつく。思い描いていた通りのキャンプであろうはずもない。不安だってある。今日一日で身に振りかかった出来事はあまりに容易くリンの許容量をオーバーし、溢れかえった水たまりのような感情に今も振り回されている。
けれど、うんざりの一言で片付けるというのともまた違った。悪態と共に吐き捨ててしまうには少しばかり複雑な心の動きがそこにある。言い表そうとすれば捉えどころなく、それは実に――奇妙で、恥ずかし気で、温かで、綺麗で、世界観が変わるようで、そしてひたすらに不思議で――だからこそ、きっと特別な夜なのだろう。
「まあ、もしもの備えは必要だろうし」
ぼんやりと思案に暮れていたリンは男の声でふと我に返る。気が付くと男がスマホを手に取ってリンに差し出していた。
「念の為僕の連絡先を教えておこうか。万が一戻らなかったときのための手段として……勿論そんなの考えたくないけどね」
堪らずリンは身構える。確かに想像もしたくないが、いざというときの命綱を用意するべきなのはもっともだ。ただリンとしては頼らずにすむことを祈るばかりである。
「あ」
「ん?」
画面を突き合わせて連絡先を入力し終えたそのとき、リンの方のスマホへ着信があった。表示された名前はなでしことなっている。男へ一瞬目配せして断りを入れてからリンは電話を受けた。
「もしもし」
『リンチャン!! 夜景の写真アリガトウ!!』
だが直ぐにリンの表情は冷ややかな半眼に変わる。
「大垣だな?」
『ククク、よく分かったな』
相変わらずふざけた調子の大垣に呆れながらもリンは一応気になっていたことを尋ねる。
「ねえ、さっきの通行止めなんで通れるって知ってたの?」
『あー前に家族で出かけたときに似たようなことがあってさ、引き返そうとしたら地元の人が教えてくれたんだよ。工事の人が看板置き忘れてるけど通れるって。しまりんが送ってきた写真、理由も書いてないし柵も端に寄ってたからもしかしてと思ってなー』
「なるほど……」
今回はその経験に助けられたというわけだ。
「とにかく助かった……ありがと」
『いいってことよー』
ふと男の様子を覗うと、なんだか微笑ましげな顔でリンを見守っていた。そういえば男は“ゆるキャン△”でこのときのことを知っているはずだと思いあたる。もしかすると大垣から電話がかかって来るのも既定路線なのかもしれないと思うと、なんだか見透かされているような気がして少し恥ずかしい。
『……あのさ、今度野クルでクリスマスキャンプすんだけど……』
そんなことを考えていたら電話の向こうで大垣が控えめに話を切り出した。
『しまりんも来ないか? たまにはグルキャンも楽しいと思うぞ』
「大垣……」
それは野クルからの思わぬお誘いだった。ただ、脈は薄いと見られていそうな出方を覗うような物言いに、ふとリンは考え込む。
確かに普段のリンであればすげなく断っていたかもしれない。だが今は――
「うん……分かった。考えとくよ」
グルキャンに及び腰だったリンにしては驚くほどの素直さで、自然に承諾の言葉が出ていた。一拍おいて電話の向こうで上がった歓声にリンは苦笑する。らしくないと思う一方で、自身のこの選択に納得もしていた。知り合いの声を聞いてどこか安堵していたという面もあるかもしれない。ここ暫くは誰かの居るキャンプが珍しいものではなくなっていることを考えると、悪いことにはならないだろうという予感もあった。何よりも友人たちと結んだ約束はリンを日常と繋ぐこの上ない縁で、不思議とそれが心細さを払拭してくれるような気がしたのだ。
電話を切ったリンを見つめる男は意外そうにしながらも、どこか嬉しそうな様子で笑っている。
「……とまあ、念には念を入れたんだけどさ……僕の取り越し苦労な気がするよ。やっぱりここリンちゃんの世界なんじゃない?」
肩をすくめてそろそろ山を降りようかと言う男に、リンは静かに頷いた。
満員の野営地へ向かって木道を降りていくと風は弱まり、賑やかな音が大きくなるにつれ山頂での空気は薄れ去っていった。代わりに埃っぽさと煙の匂いが鼻を掠める。
許されるのであれば山頂にテントが張りたいだなんてつい考える。その方がずっとリンの好みだ。
「あのさ、僕はちょっと早いけどもう引っ込んじゃうから、良かったらテント前のスペース使ってよ。リンちゃんのなら十分張れるでしょ?」
サイトに戻って来るなり男はチェアやテーブルを片付け始めると、リンにそう提案した。
「え、本当ですか? あ……私も手伝います」
リンにとっては渡りに船だ。テントサイトに空きはない。車中泊ができるわけでもないリンは今晩の寝床を確保しなければどうにもならず、男の過去の経験を鑑みるに一晩明かす前にキャンプ場を離れるのも気が進まなかったのだ。
「あの、ありがとうございます」
「はは、でもやっぱりちょっと窮屈だね。どうせなら上でキャンプが出来れば良かったのに……きっと綺麗な夜景が撮れたろうになあ」
手を動かしながらそうぼやく男もまたリンと同じようなことを考えていたらしい。リンと男の感性にはどこか似通った部分がある。
「そういえば、今回はキャンプ動画撮らないんですね」
「ん、ああ、混むと思ってたし案の定僕のサイトもこの有様だもの。あんまりいい出来になりそうもないからね」
静かなBGMと環境音で構成された四尾連湖の動画をリンは思い出す。道具や風景、所作の一つ一つが主役となる短編のような作品を見ると、“ああ、自分はこんないい場所でキャンプをしたんだな”と改めて思わされる。それに比べればなるほど、互いのテントの張り綱がクロスするような今日のサイトではそのようにいくわけもない。
「惜しかったですね。そういえばなんでトムさんはキャンプ動画を撮り始めたんですか?」
「僕の? 何だろうね、理由なら色々だけど……」
なんの気無しに尋ねたリンの問いかけに男は焚火台を畳みながら暫く唸って、それから思いついたようにこう言った。
「あ。うん、リンちゃんのせいだよ」
「……何がですか?」
「僕がソロでキャンプを始めたのはまあ、リンちゃんのおかげだからさ」
何の冗談かとジト目を向けるリンに、男はからりと笑って答えた。
友達や家族と夏に一、二回こなすレジャー――そんなキャンプのイメージをガラッと変えたのが“ゆるキャン△”だったと男は言うのだ。
「今でこそテレビでも取り上げられるようになってるけど、その頃一人でキャンプってやっぱりまだ馴染みなくて全然ピンとこなかった。でもリンちゃんがソロで楽しんでる姿を見てそんな世界があるって知って、それから色々自分なりに調べてさ」
「あー……そう言われるとその、なんと言うか……」
「暫くずっとキャンプにカレーめん持ってきてたし、やたらと松ぼっくり集めたし、薪割るときはちゃんと刀のサビにしたし」
「ちょっ!? いやもう忘れてくださいそれ恥ずかしいんでっ!」
ごめんごめんと笑って謝罪する男にどうも悪びれた様子は無く、赤くなりながらリンは渋面を作る。
「でもそれが楽しかったわけなんだよね。ソロキャンプって色々と自由にやれるんだって気付いてさ、そこから転げ落ちるみたいにハマっちゃって、自分の理想を追いかけてみようって気になった」
活き活きと語る男の様子を見たリンは、ふと先程自分に教えられたあだ名を思い出した。
そうして次第に気付く。
キャンプ場からシーズンオフが無くなったのはきっと自分のせいだけではないのだ。
「だからリンちゃんの過ごし方に憧れた結果があれらの動画だったりするわけだけど……どうだろう、僕のキャンプはリンちゃんのお眼鏡に叶ったかな?」
「……それは、はい。私は結構好きです。トムさんの動画」
別にお世辞でも何でもない。確かにリンは動画を気に入り、ちゃんと自分の意思でチャンネル登録をしていた。
きっとリンだけではない。もしリンのキャンプを見て冬キャンプに踏み出した人が居たのなら、そうした人たちを見てキャンプに憧れる人々もまたその先にいるのだ。リン自身、祖父からの影響を受けたし、きっと祖父もまた人生の何処かで影響を受ける何かがあったのだろう。
その流れが、
「うん……良かった。そう言って貰えたのなら本望かな」
リンの評価を男はどこか嬉しそうに、どこか名残惜しそうに、噛みしめるように聞き入っていたが、やがて満足したように息を吐いて男はテントの入り口を潜ろうとする。
「じゃあ僕は休むことにするから、どうぞあとは好きにしていいよ。おやすみ。元気でね」
そんな男にリンは最後に伝えておくべきことがあったと思い出して咄嗟に口を開いた。
「そういえばなでしこのやつが言ってました。トムさんの動画に出てくる道具が気になるって」
投げかけられたリンの言葉に男は立ち止まり、不思議そうな顔で肩越しに振り返る。
「だから、次の動画からはできたら道具の名前も載せておいてください。私も楽しみにしてるんで」
何ということはないささやかな要望――それを聞いた男は一瞬目を見開くと、それから和らぐようにフッと目を細めた。
「そっか……分かったよ。ありがとう、リンちゃん」
それだけ言うと、男はテントの中へと消えていった。
あとに残されたリンは荷物を取りにビーノへと向かった。
夕飯を終え歓談の時間を過ごすキャンパーたちの間を抜け、駐車スペースの隅に置かれた愛車へ歩み寄ると、括り付けた道具を下ろして男のサイトに戻る。
ようやく出番がやってきたキャンプ道具たち。そんな有様にリンはやれやれと苦笑混じりの溜め息を零した。
「旅、下手だなあ……私」
通行止めに阻まれ、あまり多くの場所は回れず、やっと辿り着いたと思えばとんでもない場所までやってきた。だがトラブルが多いほど思い出も深いというのは間違いないのだろう。少なくとも、スマートな旅路では掴めない何かを今リンは握りしめているのだから、それで満足するとしよう。
袋からポールを引っ張り出す。設営にはだいぶ遅い時間だが大した問題はない。月明かりでも簡単に立てられるのがウリのテントだ。今日のキャンプ場は、いつもと違って十分なほどに明るいのだから。
――――――――――
フライシート越しにも分かる明るい日差しが、瞼の裏でリンの意識を掘り起こす。インナーテントはぽかぽか春のようで、氷点下対応のシュラフの中は汗ばむほどだった。外はいい天気のようだ。
「ふぁあ……」
テントの中でリンは目を覚まし、寝袋のジッパーを開けて伸びをした。しょぼつく目をこすりながらスマホで時間を確認すると、「げ」と呟く。思いの外いい時間だ。のそりと起き上がってテントの入り口を開放する。
本日は晴天なり。雲のない青空がどこまでも広がり、遠く輝く白銀の峰をくっきり浮かび上がらせている。陣馬形山キャンプ場は夜景が有名だが、昼の眺望もまた見事だった。
清々しい空気の中、たった一人この景色を独占できることにリンはそこはかとなく満足感を覚える。
「一人?」
他に宿泊者はいない。昨晩からそうだったはずだ。だがどことなく違和感をリンは覚えていた。
このテントサイトをずらりと埋めた光景をどこかで見たような気がしていたのだ。しかし、それが何故なのかは分からない。
「それと、あれ、何だったかな」
もう一つ、何かとてつもなく大事なことを忘れている気がするのだ。例えばそう、一人だけ世界の秘密に気付いてしまったような、途方もない話が何処かその辺に転がっていた気がするのだが……
「あー、昨日あれ読んでたんだっけ」
テントの床に転がっている『第4の壁を超えたものたち』という本を思い出す。よく分からないが、ややこしい夢を見たような気がするのはそのせいかと納得させる。
「さて、帰りにまた温泉よっていくか」
長野は遠く帰り道にも時間がかかる。一日の旅程を考えながら、気合を入れてリンはサイトの片付けに取り掛かるのだった。
――――――――――
早いものでもう12月も後半戦へと突入し、この一年が――僕にとっては目まぐるしくも素晴らしい一年が、もうすぐ終わろうとしている。
世の中は年の瀬に向けて慌ただしくなり、ご多分に漏れず僕の回りも同様だ。年内に行けるキャンプのチャンスもせいぜいあと一回なのが残念なところであり、ここ暫くの僕はそれを後悔の無いものにできるよう準備に余念がない。
惜しむらくは陣馬形山でのキャンプが叶わなかったことだろうか。仕事の都合もさることながら、リンちゃんがそこをいつ訪れたのかが定かではないため、時期を合わせて訪問することは困難だったのだ。
もったいないことをしたと思う。本栖湖、麓の二回と同様に素晴らしいキャンプになったに違いないのだから。
そんな未練がましさに突き動かされた僕は、ついついこんなものを作ってしまった――陣馬形山を訪れた体の、架空のキャンプ紀行録。そこで前回同様リンちゃんと出会ったならどんなことが起きただろうというささやかな(そして見方によっては痛々しい)想像の産物だ。遅くに辿り着いたリンちゃんを迎えて労い、ほんの少し談笑し、絶景に目を瞠るといった、それまでの出会いと変わらない些細なエピソードのはずだったのだが。
よほどそのキャンプに執着しすぎたのか、ある晩僕は夢を見た。
あまりはっきりと覚えてはいないが大筋で僕の考えていた妄想と同じ、陣馬形山でリンちゃんと出会う、そんなシナリオだった。だが不思議なことにそれは僕の思い描いた穏やかなもというよりは衝撃的な内容を含んでおり、目覚めたときはやけに心臓がどきどきしていたことを思い出す。リンちゃんの目の前でやたら“ゆるキャン△”という言葉を使ったような気がするのだが、夢特有の都合のいい曖昧な不整合性なのか、それとも重大な意味を持つのか、今となっては定かではない。
ともかく僕はそのことによって折り合いを付け、次のキャンプ計画へと進もうとしている。
珍しくも僕は自分の動画投稿チャンネル上で告知を出していた。12月の24日、25日の日程で、富士山YMCAでクリスマスキャンプを行うというものだ。勿論このタイミングはクリキャンを意識してのことで譲れないものだったのだが、平日にも関わらずよく休みが取れたものだと自分でも驚きだ(上司に有給申請したら、なぜかすんなり通ってしまった)。おかげで心置きなくキャンプの準備を進められる。
今回は告知を出した通り動画の撮影も兼ねるつもりなので、よりいっそう気合が入るというものだ。以前に貰った要望の通り使用する道具の詳細についても触れられるように、手持ちのキャンプギアのメーカーや品名を改めて確認もしなければならない。やるべきことは色々とあるが、この準備期間のワクワクというのもキャンプの楽しみだと思う。
そうして慌ただしく過していた僕に、あるとき一件のメッセージが届くのだった――