「日が昇る前に帰ってくるのよ? わすれものはない? 危ない事はしないでね? 足元にも気をつけて……」
再三繰り返される言葉を遮るように、氷のような少女の両手が持ち上がる。
屈み合わせた目線に割り込んだのは、カボチャを模した編み籠と細く小さな青白い指。
「もう、だいじょうぶよ。子供あつかいしないで」
心配の意味を知ってか知らずか、少女は煩わしそうに首を振る。
「ねえねえ、もういいでしょ?」
ソプラノの声に不満気な響きは無く、冷たく弾む息遣いが、わくわくと逸る少女の心を物語っていた。
今にも走り出しそうな体をやっとのことで抑えているのだろう。そう感じた瞬間、彼女は抱いていた不安がひどく下らないものに思えてしまった。
白い顔をした女は諦めたように、また思わず吹き出したようにも一息つくと、身を乗り出して膝をつき、うずうずとたたずむ小さな両肩を抱きしめて囁いた。
「いってらっしゃい。サーラちゃん」
交錯した二人の頭は互いに顔を見せなかったが、穏やかな声と軽く背を叩く優しい手、そして少女にのみ感じ取り得る温もりが、その表情をどんな言葉よりも雄弁に伝えていた。
「うん! いってきます、ミザリィ!」
抱き返された腕から満面の笑みを受け取り、彼女もまた安心に満たされていく。
慈しみでいっぱいの声に送り出され、少女は月に背に向け足を踏み出した。黒く赤い大きな外套をひるがえし、古い家屋を取り囲む深い森へと消えていく。
静かに佇む黒い影は何をするでもなく二人を見守っていた。
前ばかりを見て走り出してしまった少女の姿に目を細め、彼は高まる期待に思いを馳せていた。
伝説とは良いものだ、いくらでも付け入る隙がある。
ましてそれが浮かれた祝祭ともなれば尚の事、人々も警戒を忘れてくれる。
死者の魂が舞い戻る夜、幽霊に扮装した子供たちが村を練り歩き歓待を求める夜。
子供たちへのもてなしは死者へのもてなし。ならば行列に並ぶおばけが一人増えたところで何の問題があるだろう。
かわいいお姫様が人知れず遊びに行くには最高の条件だと思った。それ以上のことは何も考えていなかった。
それで良い、それが良いのだ。細かく予定を立てるほど野暮なことはない。成り行きに任せてこそ、自然は極上の驚きをもたらしてくれる。
杜撰であってこそ面白い。これはそういう戯れだ。
昇り来る月も沈む日も、あらゆる光が遮られようと、サーラと呼ばれた姫君は一人黄昏の森を行く。
より正確には一人と一羽。羽毛のように足取り軽く、するすると進む黒い翼を飛び跳ねるように追っていた。
馴染みの薄い森の中、霧が立ち込める影の中、されど少女に迷いはなく、右腕に提げられたまま荒れ狂っていた編み籠が一切の道標を遺せなかった理由は、ただその中身が空だったという一点でしかない。
赤い目をした黒い鳥が導いてくれる。その絶大な信頼が少女から不安を消し去っていた。
気がつけば、その鳥はいつも少女のそばにいた。彼がいつからいたのか、少女はもう憶えてはいなかった。
進んでは止まり、幾度となく振り返る大きな鳥。少女が進めば同じく進み、付き従うように導く大鴉。
霧の中に浮かび上がる濡羽色は、あるいは少女にしか見つけられないかもしれない。しかしそれは少女にとって、見失うほうが難しい紅の星だった。
視界の悪さなど気にも留めず、足場の悪さに気付くこともなく、少女の足取りは踊るように。底の厚いストラップシューズが木の根につまづくこともなければ、朱と菫色のエプロンドレスを木枝が貫くこともなく、木々が自ら道を開くかのように、少女の足取りは一筋の淀みすらも纏うことはなかった。
どれほど森を駆けていたのか、少女は気にするべくもない。
目的地へと走ることが既に楽しいのだ。行く手の木々が薄れ森が終わりを告げていることに、少女は微かな寂しさすら覚えたかもしれない。
森を抜け出した少女を待っていたのは、銀色を散りばめた漆黒の青空。
思わず両手を広げていた。なにがおかしいのか自分自身もよく分からないまま、少女は笑いながら草原に背を預けていた。
よく茂った草と分厚い外套はまるでベッドのように少女の身体を優しく受け止める。笑い声がおさまってなお、少女は宇宙を楽しげに眺めていた。
ふと、視界を何かがよぎった。
二度、三度と繰り返すうち、少女の目がようやくその姿を気に留める。
それは星空を飲み込む黒い翼。その闇の中でたった一つ、紅の星だけが煌々と輝きを放っていた。
異彩の光に釣られるように、上から横へと視線を動かした少女は、地平に一つの灯りを見た。
刹那、あっと声を上げながら少女は思い出す。
村でたくさんの友達が待っている、存分に楽しみなさい。クロウがそう言っていた。だからあの黒い鳥だけを供に出かけてきた。
――あそこにいけば友達がいて、楽しいパーティが始まる。
もしかしたらもう始まっているかもしれない、はやく行かなくちゃ。
期待に胸が高鳴るようだった。
知らないところへ一人で遊びに行くなんて、初めての経験なのだから。