――また夜が終わってしまった。
楽しい時間は矢のように一瞬で飛び去ってしまう。分かっていてもどうしようもなくて、出来るのは別れを惜しむことくらいだ。
村を巡る小さなパレードは終点にたどり着いてしまった。彼らが最初に集まったのと同じ、井戸がある大きな広場へと。
あるいは眠気に誘われて、あるいは母に手を引かれ、目的を果たした子供たちは、一人また一人と列を外れていく。
帰るべき家へと帰っていく幾つもの背中を見送って、最後には一人になる。
いつものことだ。
寂しさには慣れている。すっかり静かになった村の広場にも。
これで、あとは朝まで自由時間だ。まあ、結局一人では特にすることもないけれど。そうとも、こういうのには慣れている。ため息が漏れるのも、めまいに似た感覚も。
せめてお菓子を貰えていれば寂しさを紛らせることもできたのだろうか。どうせ大人はボクを見つけてくれないから、考えても仕方がないことだけど。
来た道へと向き直りたそがれていると、背後で水音が跳ねた。静まり返った広場だからこそ聞こえる、低い方向からの、距離を感じさせる小さな音。
振り返ってみれば、井戸のそばには髪の長い小さな女の子が立っていた。あの子が何か落としたのだろうか、しかしそれにしては石の積まれた井戸は高すぎるようにも思える。明るい色をした編み籠を足元に置き、井戸の縁へと両手をかけて中をのぞきこもうとしているようだ。透き通るような指の下では緑の苔が月明かりに艶めいていた。
けれど井戸は少女の目よりも高く、その視線をすっかり遮っている。もっとも、ただでさえ光が届かない井戸の中を、まして仄暗い夜の底では、のぞきこめたところで何も見えはしないだろう。
だけど、そんなことよりも。今夜はツイているのかもしれない。まだ子供がいるのなら、もうしばらく遊んでいられる。すっかり沈み込もうとしていた気持ちがまた高ぶってくるようだ。
「ねえ、キミ」
とりあえず声でもかけてみようか、そう思って口を開いた。けれど聞こえていないのか、それとも聞く余裕もないほど夢中なのか、少女はまるで意に介する様子がない。
それどころか少女は、ますます井戸へと身を乗り出していく。身長が足りないのなら身体を持ち上げればいいと、片足を井戸の壁面にかけ、力を込めればもう一方の足も宙に浮く。サラサラと揺れる髪の隙間から夕陽のような瞳が見え隠れしていた。
「ちょっ ちょっとまって」
なにかとても嫌な感覚があった。からだじゅうがゾワゾワとして、魂を握りつぶされるような。思わず体が動き、なぜかも分からないままに駆け出していた。これほど焦ったことはなかっただろう。ほんの数秒がとても長く感じられる。
「ダメだっ」
乱れに乱れた呼吸をおさえて、やっと一言絞り出した。その声が届いたのか、楽しげな少女の顔がちらりとこちらを向き、そして――。
少女の姿は消えていた。
声が聞こえた方を向こうと、少し体勢を動かそうと、そう思っただけなのだろう。右腕をわずかに浮かせた直後、少女は左腕から井戸の中へと吸い込まれていった。
一瞬だけ見えた少女の驚く表情が目に焼き付いていた。言葉を失い立ち尽くす耳へ、石と石をぶつけたような硬い音と木の板がぶつかったような軽い音、そして大きな水音が流れ込んできた。
「あ、ああ……」
情けない声と一緒に力が抜けていくようだった。浮き上がろうとしていた気持ちがどん底よりも深くへと落ちていくのを感じる。
知らない光景が脳裏にちらつく。暗闇に囲まれた丸い空、とても怖かった。見えない足かせでもつけられた気分だった。井戸まで行こうとする心も折れてしまったんだろう、尻餅をついてしまったのも仕方がないことだと思う。右腕でかろうじて体を支え、視線を持ち上げれば井戸の上では銀色の月が慎ましやかに光っていた。
些細なことだ。あのまんまるな月はボクの気持ちなんて関係なく光っている。それと同じなんだ。誰だか知らないあの子に何があろうと。
「ああ、きれいだなあ」
ため息とともにひとりごち、乾いた笑いが漏れ、またため息をつく。頭がフラフラするから座っているのもつらくて、そのまま仰向けに寝そべってしまった。
このまま朝までぼーっとしているのもいいか。そんなふうに力なく月を見上げていると、またも小さな音がした。
頭をなんとか起こしてみれば井戸の縁に何か乗っている。内側から伸びているらしいそれが手であると、そう理解するのに数秒かかった。
困惑している間にもさらに一本の腕が井戸の中から現れ、両手の間から伸び上がるようにして頭と体が現れた。
「ぷはぁっ! やっと外だぁ!」
飛び出してきた笑顔が元気いっぱいな声をあたり一面に浴びせかけた。
ツバメのように身体をひるがえして井戸から飛び出し、びしょぬれの少女は石畳へと華麗に着地した。ふるふると大きく震わせた身体に合わせて白金の髪が舞い踊り、星空が地上へと引きずりおろされる。二つの小さな太陽が世界の中心で輝いていた。
「さっき声をかけたの、あなた?」
一息ついた少女は、軽い音を響かせながらゆっくりと歩いてくる。その表情はただただ自信に満ちあふれて見えた。感情の整理が追いつかない。かろうじて自覚できるのは、自分の顔に引きつった笑みが張り付いていることくらいだ。
「だいじょうぶ?」
対照的に自然な笑顔で問いかけられても意識はぐるぐると回るだけで、口をぱくぱくと開閉させるのがやっとだった。少女はしびれを切らしたのか少し屈んで、すっかり動けずに居るボクに青空のような手を差し伸べてくる。
おっかなびっくりその手を取ると、視界がガクンと動かされた。小さな体とその細腕からは思いもよらない力強さで引き起こされ、わけもわからないまま立ち上がっていた。勢い余って再び転びそうになりながらもなんとか踏みとどまれば、満足そうな笑顔に見上げられていた。
「よかった、立てたね!」
そう言って無邪気に手を叩く少女はとても嬉しそうで、まっすぐに見つめてくるものだからボクもつい吹き出してしまった。
夜の闇は彼女に遠慮しているのだろうか。なぜだかあたりが随分と明るくなったような気がした。
「キミ、さっき井戸に落ちてた よね…? 自分で登ってきたの? 大丈夫なのかな、怪我とか」
落ち着いて考えてみれば、最初に心配していたのはボクの方だったはずだ。それがなぜ逆に心配されて、あまつさえ助け起こされているのだろう。
助かるはずがない、無事なわけがない。まして自分ひとりの力で、怪我ひとつなくに這い上がってくるなんてありえない。
「平気よ? わたしつよいから!」
返ってきた答えは何の根拠もなく、けれど反論を許さなかった。
そうか、そういうものか。つよかったら大丈夫なのか。
途方に暮れるボクを置いて、少女はあたりをキョロキョロと見回している。あんなことがあったばかりなのに、不安になったりしないのだろうか。不思議で仕方がない。
「しずかね。もうパーティはおわっちゃったの?」
「うん、まあ。村を回りきっちゃったし、夜も遅いし」
「そうなの? じゃあみんな、もう寝ちゃったのね。せっかく朝まであそべると思ったのに」
しみじみと呟く少女の声は心底残念そうだったけれど、ボクは無意識のうちに笑みを浮かべていた。お祭りの後を一人で過ごさずに済むなんて思いもしなかった。一時はダメかと思ったけれど、やっぱり今夜はツイている。今年の夜はいつもより長い。
「夜明けまでずっと遊ぶつもりだったんだ。ならボクと同じだね」
「うん、だって今日はとくべつだもの。ミザリィもそう言ってたのよ?」
「ミザリィ? ええと、キミのお母さんかな。かわってるね」
「ミザリィはミザリィよ、お母さんじゃないわ」
「え? そ、そう、なんだ?」
「そうよ? じゃあ、あなたの名前は?」
「名前……」
何が"じゃあ"なのだろう。何を考えているのかよく分からなかったが、それよりも質問された内容の方が問題だった。
名前、そんなものは憶えていなかった。ずっと昔は憶えていたかもしれないし、もしかしたら最初からなかったかもしれない。子供たちの行列に混ざっているときは名前なんていちいち気にしないし、会話があっても長く続きはしないから聞かれたこともない。
少し考えてみたものの、ごまかす方法も思いつかなかった。
「ボクには名前なんて無いよ」
「え、なんで?」
「なんでと言われても……。無いものは無いんだよ」
「ふーん……。わかった、じゃあわたしがつけてあげる!」
そうくるとは思わなかった。もっとも、どうくると思っていたのかと問われれば答えられないのだけれど。
「なにがいいかなぁ」
どんな名前をつけられてしまうのだろう。不安もあれば興味もあり、うっすらと期待のようなものさえ感じてしまっていたかもしれない。
「うーん……」
ああでもないこうでもないと、少女は井戸の周りを回りながら首をひねり、あちらこちらへと視線をさまよわせていた。
ソワソワしているボクの前で、彼女は広場を何周しただろう。規則的な足音はどこか心地よくて、ずっと聞いているのも良いかもしれないと思えてくる。
けれどそのうちに足取りも止まり、ついにその時が訪れたらしいことを告げてくる。
「ねえ」
緋色の視線に刺されながらも、もったいぶって開かれる口へと意識が引き寄せられる。
「あなたはなにがいいと思う?」
「そこでボクに聞くの!?」
考えがまとまったんじゃないのかと、思わず大きな声が出てしまった。彼女の気分を害してしまったのだろうか、頬を膨らませて、眉間にも僅かにシワを寄せているようだ。近くの木の上からも驚いた鳥たちが騒ぎだす声が聞こえる。
「だってあなたの名前じゃない」
「それは、そうだけど……。ええぇ…?」
安眠を妨げられて怒っているのだろう、カラスにまで責められているような気がしてくる。気持ちはわからないでもないけど、だけどボクが悪いのか? そんなことはないはずだ。
抗議を込めて鳴き声を睨み返してみても、木の葉に紛れたその姿は判然としなかったが。
「あ、じゃあ決めた! あなたはナイトね!」
高らかに宣言する声に意識が引き戻された。目を離したのは一瞬だろうに、少女の笑顔はすっかり元通りになっている。やはり考えは決まっていたのではないかと疑念が湧いてくるが、それにしたってナイトってまさか。
「いいでしょ? 夜に初めてあったからナイト!」
ああ、やっぱりだ。
そんなの、あまりにも。
あまりにも……。
「ふ、ふふっ もうそれでいいや」
「あはは、気に入ってくれてよかったぁ」
別に気に入ったわけじゃない。けれど敢えて逆らう気力も湧いてこなかった。せっかく考えてくれたんだから貰っておけばいいじゃないか。彼女も得意気な顔をしているし。
「わたしはサーラ。よろしくね、ナイト?」
「うん、よろしく、サーラ」
差し出された手を握り返すと、感じられたのは雪のような儚さ。強く握ったら壊れてしまいそうな気がした。さっきはおそろしく強靭に思えたのに何が違うというのだろう。
「じゃあ、何をして遊ぼうか」
手近な長椅子に二人で腰掛けて見渡してみれば、村がすっかり寝静まっているのがよく分かった。どこへ顔を向けても眼に映るのは闇に沈んだ景色ばかりで、遊ぼうにも何も思いつかない。
一人になった後といえば、いつも朝までふてくされるように過ごすばかりだったから。もっと真剣に遊びについて考えておけばよかった、そんな後悔がこみ上げてくる。
「灯りが消えちゃってるところは訪ねても仕方がないし……。そうじゃなくても、どこの家の戸も叩いちゃったからなあ」
お菓子を求めて村を練り歩く以外に、一体何をすれば良いのだろうか。隣の少女をちらと見れば、幸せそうな顔で飴玉を頬張っては噛み砕いていた。
「おかしおいしいね」
視線を向けられていることに気がついて、彼女はまた楽しそうに微笑みかけてくる。
「そういえば、あなたはおかしもってないの?」
油断していたら急に痛いところを突かれた。
言うべきだろうか、大人はボクが見えないと。だからお菓子は貰えないんだと。
「あ、わかった! もうぜんぶ食べちゃったんでしょ、くいしんぼうのナイトさん?」
「……ま まあね、そんなところかな」
ホッとしている自分に後ろめたさを感じる。でも、いいじゃないか。そう思われたのならそういうことにしてしまおう。伝えたところで彼女にはどうにもできないし、得意気な笑顔を崩してまで同情されたいとも思わない。
「そうだ!」
弾けるように立ち上がった彼女はあたりを見渡し、そして燃え盛る瞳を向けてくる。今度は何を言い出すんだろう、今夜一番のしたり顔だった。
「まだたたいてない戸があるわ!」
「え?」
「わたしのうち! クロウもミザリィもぜったい起きてるから、だいじょうぶ!」
――彼女の家は飛ばされてしまっていたのだろうか。それよりも、さっきのことは言ってしまうのが正解だったかもしれない。
戸惑い言葉に詰まったボクの手をお構いなしに握って、答えを待とうともせずサーラは歩き出してしまった。
やっぱり儚くなんてないんじゃないか。
抑えきれない笑いがどこからかこみ上げてくる。
たった二人になったとしても、まだパレードは終わってない。