静かな部屋に響き渡った、鈍くて小さな軽い音は、玄関の戸が鳴らす音。
サーラちゃんのお帰りかしら。そう思い返事をしながら厨房を出るミザリィだったが、視線を向けた玄関先では一向に扉が開かれる気配はない。
はて、と彼女は首を傾げる。どうして入ってこないのだろう。そもそも普段ならノックなどせず元気良く入ってくるのに。両手がふさがっているのかとも思ったが、扉を叩けている以上、そうとも考えにくい。
ぼんやり彼女が考えていると再び扉に音が鳴る。トントントンと力強く、少し勢いを増した音。
深く考えても仕方がないと、改めて返事をしながら玄関へ向かい取っ手を握れば、扉はさしたる抵抗もなく動きだし、蝶番がきしみを上げて森の空気が流れ込む。緑と青の匂いに紛れて"せーの"とささやく小さな声が耳に届いたような気がした。
草を踏みしめ枝を払い、小さな二つの影が行く。肩で息をする少年一人と、歌を口ずさむ少女が一人、暗闇の深い森の中をソプラノの声が響き渡る。
「ナイト! あっち、みえる? ついたよ!」
少女の歌声と入れ替わりの吉報が、朦朧とした少年の虚ろな瞳に光を戻した。やったのか、朝が来る前に間に合ったのかと、既に時間の感覚を失っていた少年は顔を上げる。はしゃぐ少女が指差す先で、霧の暗幕の向こう側から仄かな青が透けていた。
何も見えないがきっと彼女の家は近いのだろう。ついたと言う割には……などと首をもたげる落胆を意識から追い出して、少年はとにかく前へと足を動かし続ける。
それから幾度目かの、太くうねった大きな根を苦労して乗り越えたとき、木々に遮られていた視界が突然大きく開かれた。
少年の眼前に現れたのは森に囲まれた小さな平野。野の中央に鎮座する古ぼけた家が目に入り、疲労困憊の少年はようやく一息つける思いだった。
「ほら、あとちょっとだよ」
少年は半ば放心状態だった、勢いよく引っ張られるまで自分の足が止まっていることにも気付かずにいたほどに。斜めの力につんのめりながら崩れる姿勢をなんとか正し、少女の加速する足取りに必死で追いすがる。
みすぼらしい煙突から立ち昇る煙が、暗灰色の低い空に溶けていくのが見える。枝葉の覆いを失うと、頭上から凍てつく風が降り注いでくるのが分かった。向かう先には朽ちかけた廃屋。煉瓦の壁も木板の扉も、見るも無惨にボロボロで、角度のせいでよくは見えないが屋根も大差はないだろう。きっと風雨も通り放題で、とても人が住んでいるとは思えない。
けれど少女は迷いも見せず、短い草を踏み鳴らしながら帰るべき家へ突き進む。風に煽られた黒い羽が、二人の背後で空へと舞い上がっていった。
目指した場所はもう目の前。二人との約束も守れたと、少女は達成感で胸を満たしていた。
「じゅんびはいい?」
「う、うん」
友達がうなずくのを見て、少女は右手を肩の高さまで持ち上げた。小さなその手が伸ばされた先は、みすぼらしい木板の扉には似つかわしくない、フクロウを模したドアノッカー。鋭い爪に掴まれた輪を動かせば、黒い金属がぶつかりあってコンコンコンと音が鳴る。
扉の向こうの奥の方から、ぼんやりとくぐもった声が聞こえてきた。それがミザリィの声であることは、サーラには聞く前からわかっていた。
けれど、一向に扉が開かれる気配はない。少女は理解している、ただ帰ってきただけなら普段通りに自分で取っ手に手をかけて入れば良いが、しかし、今は違うのだと。夜の祭りはまだ続いているから、この扉は中にいる人に開けてもらわなければ、お約束が正しく進まない。
村で訪ねられた人たちはみんなすぐに扉を開けてくれたのに、どうしてミザリィは出てきてくれないのだろう。どんなお祭りに参加するのか知っていたはずなのに、返事があったのだから聞こえていないはずはないのに。怪訝な顔になりながら考えるサーラの隣では、ナイトも不安そうな顔で扉と少女にちらちらと、交互に視線を向けていた。
何かを思いついたのか、あるいはただ痺れを切らしたのか、どうしても出てきてもらわなければ困ると言わんばかりに少女は再び扉をたたく。トントントンと音を鳴らせば、今開けますよとはっきりと、聞き取れる声が返ってきた。
にっこりと笑った少女は友達と視線を交差させると、少し遅れて扉が動き出した。蝶番がきしみ、柔らかな光が群青の草地を暖かく照らし出す。流れ出てくるシナモンの甘い香りをすいこんで、呼吸を合わせて"せーの"とささやき、高らかにお約束の言葉を歌い上げる。
「「もてなさなければ悪さをするぞ!」」
「――え?」
息が止まった。おかえりなさい、と言うつもりで扉を開いたのに。驚きのあまり、その声は喉の先へと出る前に凍りついたように止まってしまった。
「ミザリィ?」
おかしな様子のミザリィにサーラは小首を傾げる。行列を出迎えてくれた村の大人たちと同じようにように、それ以上に歓迎してくれると思っていたのに。
「あ、いや、なんでもないの、大丈夫よ」
少し屈んで扉を開いた姿勢で固まり呆然としていたミザリィだったが、鈴を転がすような声にはっと目を覚ましたかのように、見開かれていた目も二度三度とまばたいて微笑みによって細められる。
「おかえりなさい、サーラちゃん」
「ただいま、ミザリィ」
改めて帰宅の挨拶をしながらも、少女の視線はちらちらと動き、遠慮がちに佇む黒い瞳の少年をうかがっている。二人から見つめられる形となった少年は途方に暮れた様子で、どのように口を開いたものかと考えあぐねているようだった。
「そちらのお客様は、どなたかしら?」
「ナイトっていうんだよ! おまつりで会ったの!」
ミザリィは努めて冷静を装いながら問いかけたものの、あまりにも勢いよく飛び出した期待通りの答えに、思わず笑みがこぼれてしまう。彼自身が答えるための僅かな間さえも与えることなく、ぶんぶんと腕を振りながら傍らの少年を紹介する姿はやはり楽しげで、飛び跳ねるように弾む声は、よくぞ聞いてくれましたと言外の言葉が聞こえてくる。
「あ、えと、はじめまして」
対する少年の挨拶はぎこちなく、目を白黒させながらもどうにか声を出していた。もしかしたらという期待は彼も持っていたが、いざ本当に起こってみれば単に嬉しいばかりでもなかったのだ。大人からじっと見つめられるのはきっと初めての感覚で、向けられる目が優しい笑顔だと分かっていてなお、とてもむずがゆいものだった。
「ナイトくん? 良い名前ね。サーラちゃんがお世話になりました、ありがとう」
「いや、そんな、それほどでも」
「ちょっと、ちがうでしょ? ナイトがわたしのおせわになったの。ねぇ?」
「あー、ま、まあ……そうかも」
「ふふふ、二人ともがんばったのね、ここまで大変だったでしょう? さあ、中へどうぞ」
「ミザリィおかしは?」
上品に笑いながら二人を招くミザリィに、サーラは思い出したように問いかけた。
「もちろん」
「やったぁ! ミザリィ大好き!」
「私も大好きよ、サーラちゃん。あらあら、途中で川遊びでもしてきたのかしら?」
抱きついて笑うサーラを抱擁しながら、氷と水が張り付いたエプロンドレスに気付いたミザリィも愉快そうに笑った。少女に外套を脱ぐよう促しつつ所在なさげな少年にも微笑みかけ、立ち上がったミザリィの手により朽ちかけた扉は大きく開かれた。
敷居を一歩またぐと、世界が一変した。どんよりと湿った森の空気は、快適な乾いた風に追い散らされ、扉が閉じるとともにすっかり消え失せてしまった。
劇的な変化を見せたのは空気だけではなく、その光景もまた外から見た印象とは全くの別物だった。そこはどう見ても、打ち捨てられた古い掘っ立て小屋などではなく、少年は自身の疲労も置き去りにされてしまったかのように、濁っていた意識が透き通っていくのを感じていた。
掃除の行き届いた白く清潔な部屋に、何に使うのかわからない調度品や見るからに手の混んだ家具が整然と並べられている。凝らされた意匠の意味など分からなくとも、こんな人里離れた廃墟のような場所に相応しい物でないことくらいは分かった。きっと高貴とか優雅とか言うのはこういうものなんだろうと、知識の乏しい少年でさえも、漠然と感じてしまっている。
「そこにかけてお待ちになってね。すぐにお菓子をお持ちするから」
そう言ってミザリィは、甘い香りを漂わせてくる奥の部屋へと姿を消した。
彼女に示された丸いテーブルには白地に金の模様が入ったテーブルクロスがかけられ、それを囲むよう等間隔に、クッションが張られた高い背もたれつきの椅子が三脚並んでいた。玄関から見て最も遠い一つの椅子にだけは肘掛けがついていて、サーラはさも当然のように、その椅子に腰を下ろしている。
ナイトが内装に気を取られていた間に動いていたのだろう、一体どこへやったのか、猫の頭のような帽子と蝙蝠のような外套は、既に脱ぎ去られ見当たらない。
三つの椅子の前にはそれぞれ空の皿にナイフとフォークが置かれていて、後はお菓子の到着を待つばかりの様相だった。適当な椅子に向かう少年だったが、座ってみるとその椅子の思わぬ高さに驚かされる。足が床まで届かず、なんとなく落ち着かない。右手に座る少女に眼をやれば、その椅子は他と違って肘掛けがついているだけではなく、脚の半ばに足置きが渡されていることにも気がついた。
明るい空間で照らされた少女の肌はきめ細やかに蒼白で、ハニーブロンドの髪は眩く輝いていた。手持ち無沙汰もあいまって、なんとはなしに見つめていると、不意に顔を上げた少女としっかり目があってしまう。小首を傾げ、にこりと笑う少女の視線に耐えきれず、少年は思わず目を逸らしてしまった。
照れ隠しに上を向いたナイトの視界に飛び込んできたのは、窓のない部屋を明るく照らす拳大の瓶。それは、うっかり直視してしまった少年を咎めもしない優しい灯。冷たいけれど明るい、凝縮された夜空の光が閉じ込められていた。
「それが気になる?」
視界の外からかけられた声に、彼は一瞬硬直した。油の切れた歯車のようにぎこちない動きで振り向けば、テーブルに並べられているものより幾分大きな皿を手にしたミザリィが、奥の部屋から戻っているのが見えた。人の頭よりも一回り大きい程度だろうか、白磁の皿に乗せられた狐色のアップルパイが香ばしい蒸気を振りまいていた。
気まずさに頭をかきながら、ナイトは浮きかけていた腰を再び椅子に下ろす。右の方からくすくすと笑う声が聞こえた気がした。
「まあ、私も知らないのだけれど……なんなのかしらね、これ」
ミザリィはアップルパイの乗った皿をテーブルに置くと、頭上で吊られている光へ腕を伸ばす。すらりと長い指先に突かれた光瓶は、どこか楽しげな音を立てる。白い壁紙に映し出された大きな影が、ゆらゆらと揺り動かされていた。
「クロウが――ああ、私の他にもうひとり、サーラちゃんと一緒に暮らしている人が居るんだけどね。彼がどこからか持ってくるの、色んなものを。この部屋にあるものはみんなそう、これみたいな不思議なものも、普通の家具も、この家まるごと彼の拾い物みたいなもので……」
そう話しながらミザリィは視線を下げ、椅子に座った二人に顔を向けた。その目に写ったのは、興味深そうに見上げてくる少年と、ナイフとフォークを両手にアップルパイを覗き込み体を疼かせている少女の姿。
「ああ、ごめんなさい、そんなことよりもお菓子よね。ぐずぐずしていたらせっかくの焼き立てパイが冷めてしまうわ」
言うが早いか、ミザリィは手早く円を四つに切り分け、そのうち二枚の扇型を二人の小皿に取り分けた。
「さあ、召し上がれ」
小皿の上で、生地の間の断面から蜜がゆっくりと溢れ出る。まごつくナイトを尻目に、サーラは慣れた手付きでパイにフォークを刺し一口大に切り取った。艶めく睫毛に彩られた大きな両目が閉じられて、開かれた口の中では鋭い牙が運ばれてくるアップルパイを迎え入れようとしていた。
さくり、さくりと音を立て、生地と果実を噛みしめるほどに少女の頬はほんのりと朱を差しながら緩んでいく。
思わず生唾を飲み込んだナイトも、サーラにならってみようみまねでパイに手を付け始める。
使い慣れない食器だったが、アップルパイは一口食べればそんなことを忘れるほどに、温かくて、甘くて、とてもおいしかった。
少女の視線を感じた少年は同じく笑みを返し、一口、また一口と、甘いお菓子を口に運んだ。
――まさか、サーラちゃんがお友達を連れてくるなんて……年頃も同じくらいかしら。
一つ空いた椅子に座ったミザリィは、和気藹々とお菓子を頬張る二人を眺めて微笑んだ。その目に映る影の形は、少年少女と遠い幻。
――こんな未来も、あったのかしら……ねえ、あなた?