「――クロウは?」
物思いにふけっていたミザリィがふと気がつけば、空になった皿の向こう側から、赤い光と黒い光、二対の瞳に見つめられていた。
「え、クロウ?」
子供たちはいつの間にパイを食べ終えてしまったのだろう。ぽっかりと記憶に穴が空いていた。まるでうたた寝でもしてしまっていたかのように。
「うん、どこかへ出かけたの?」
それはミザリィにとってあまりに唐突な質問だった。クロウが何をしているのか、彼女自身も一人残された最初こそ気になっていた。しかし、サーラが戻ってきたときのことを考え支度を進めているうちに、気付かないままに意識の外へと追いやってしまっていたのだ。
「夕方にはここにいたでしょ? でも今はいないじゃない?」
「ああ……たしかに、そうね。クロウならあなたを見送った後、すぐに屋根裏に上がっていって……それっきり見ていないわね。まさかずっと籠もっているのかしら」
「そうなの? じゃあわたし見てくる!」
聞くが早いか飛び跳ねるようにテーブルを離れたサーラは、パタパタと厨房の方へ走っていく。
その後ろ姿を二人は座ったまま見届けた。そして彼女の背中が見えなくなると、ミザリィはナイトの方へと向き直った。
「ところで」
サーラが部屋を離れたためだろうか。話を切り出したミザリィは少し声色を変えていた。
「ナイトくん。あなたは一体、何者?」
核心を突くような突然の質問に、少年は内心どきりと震えた。彼に落ち着いて考えるだけの意識の余裕があれば、彼が何者であるか知られようが何の問題もないとすぐに気付けたのだが。
「え? 何者って、なんですか急に」
「ここまで歩いて、それもサーラちゃんの案内についてきたんでしょう? ただの子供にはつらすぎる道のりだったと思うのだけど」
途切れた会話の空白を軽快な音が埋めている。少女の気配はだんだんと遠ざかり、階下にも響く足音は確実に上へ登っていく。
「ああ、そんなに難しく考えないで? もう気付いているとは思うけど、私もサーラちゃんもなんというか、普通のヒトではないの。だからあなたも、その……私たちと同じ? だったら嬉しいな、なんて」
足音が止まり、さほど遠くはない場所でお姫様が大きな声をあげている。その声とともに聞こえてくるのは、小さく柔らかな手が木板を叩く軽い音。金属製のドアノッカーほど鋭く鳴らせはしないし、硬い靴底ほど強く響かせもしないが、静かな部屋を一周するには十分な音だった。
「ごめんなさいね。いきなり変なことを言うおばさんだなぁって、思ったんじゃない?」
「いや別にそんなことは」
「そう? それなら良いんだけど……サーラちゃんがお友達を連れてくるなんて、あんまり珍しいことだから、つい立ち入ったことを聞いてしまったわ」
そうしている間にも斜め上から、音と声とが聞こえてくる。
ドンドンガタガタと、強く叩かれ揺すられる音を立てるのは、きっと閉ざされた扉だろう。
「ねぇいないのー? ねーえー! くろーおーー!」
少年は思った。壁越しにもよく透るきれいな声だと。話の途中でありながら壁を見上げる少年を、ミザリィは微笑ましく眺めていた。
「今日は、いつまでここに居られそうなの?」
ミザリィが新たな質問を投げかけたのは、ナイトが顔を下ろすのを見計らってのことだった。
「うーん、いつもどおりなら、朝が来るまで、なんですけど……すぐかもしれないし、まだしばらくは時間があるかもしれなくて……」
歯切れの悪い様子から、少年にもなにか事情があるのだろうとミザリィには察することができた。
「そう……いつ頃かは分からないけど、そのうちお迎えが来ると言ったところかしら」
「まあその、そんなかんじです。すみません」
「ううん、気にしないで? ……あ、それじゃあ、もう一つ質問」
「えぇ、あー、なんですか?」
その表情には、まだ何かあるのかとうんざりしたような色が浮かびつつある。
「ごめんなさいね、これで最後にするから。それに今度はもっと簡単な話、まだお菓子は食べられそうかしら?」
「えっと、ボクがですか?」
「他の人のおなかについて聞くと思う? お祭りでいっぱい食べてきたかもしれないけど、ここへ来るのにすっかりぺこぺこになったんじゃない?」
「まあ、はい。食べられますけど」
「ふふふ、よかった。もうおなかいっぱいだーとか、眠くってそれどころじゃないーとか、そんなふうに言われたらどうしようかってヒヤヒヤしていたのよ」
少年の答えに満足したのか、ミザリィはこれまでの表情から考えれば露骨なまでの笑顔を浮かべ、少年に喜びを伝えた。
「今のそんなに大事なことだったんですか? まあ結構食べられると思います、村の方では全然食べていないので」
ナイトもつられて笑いながら、つい口を滑らせたように答えを上乗せしてしまっていた。
「それは運が悪かったわね。でもそのおかげで、これから良いことがあると思ってちょうだいね」
「まだお菓子があるってことですか?」
「すぐに分かるわ、慌てないで」
笑顔で少年を制しながら、ミザリィはまじまじと彼の顔を眺め回す。ナイトはあまり目を合わせられず、ちらちらと部屋を見渡すのだった。
「うん、やっぱりあなた、笑顔のほうが素敵だわ」
「え?」
唐突な話題の転換に、すっかり集中力が切れてしまっている少年はまるでついていけなかった。
「自分では気付いていないかもしれないけど、サーラちゃんが上に行っちゃって私が話しかけたときね、あなたすごくカチカチな顔してたのよ。でも今は……さっき、上の方を見上げていたときもそうだったかしらね。それまでよりもずっと柔らかくてかわいらしい表情になってる」
「いやそんなまさか」
「あら、照れた顔も悪くないわね」
「や、やめてくださいよもう」
からかわれていると薄々感じながらも、ナイトにはどうするべきなのか分からなかった。結局ナイトは、顔の前で手を振りながら救いを求めるように、しばらく周囲を見回し続けるのだった。
「ミザリィ、クロウいないみたいだよ」
屋根裏から戻ってきたサーラの姿を認め、ナイトは二つ重なった安堵を覚えた。少年が期待した通りにミザリィの注意が少女に向けられたおかげで、どんな顔をすれば良いのかも分からないような状況からは、ひとまず解放されたのだ。
「あら……降りてくるのを見た憶えはないし、じゃあ窓から出ていった、とか? あの人の考えることは分からないわねぇ」
「ねー」
ミザリィの語尾を真似るように、サーラが間延びした声を出す。椅子を引いて立ち上がったミザリィは歩み寄りながら、サーラに微笑みかけるのだった。
「ねぇサーラちゃん?」
すぐそばでしゃがみこんだミザリィが耳打ちするように囁くと、少女は瞳の中で炎を燃え上がらせた。
「いまから? いいの!?」
「もちろん」
喜びを浮かべかけたサーラだったが、その色は満面に広がりきる前にせき止められてしまった。ミザリィは表情の変化をすぐに察したが、サーラは質問されるのを待つことなく口を開く。
「でもクロウがいないよ?」
やはりこの子はそう言うのだなと、ミザリィは反射的に思う。それは落胆ではなく、むしろ感動に近いものだった。
「うぅん、そうね。気になっちゃうよね」
「クロウ楽しみにしてくれてたよ? のけものにしちゃうのはいやだな」
「わかるわ、すごくわかる。あなたは優しいものね」
顔をサーラと同じ高さに合わせ、正面からその目を見据えてミザリィは語りかける。
「でもね、サーラちゃん。クロウがいつ戻ってくるかも分からないし、ナイトくんもいつ帰らなきゃいけなくなるか分からないの」
「ナイトもう帰っちゃうの!?」
少女の驚愕は、少年を連れてきた後のことなど全く考えていなかった証拠なのだろう。けれどミザリィはそんな様子に対応するのも慣れているようで、調子を変えることなく諭すように語り続ける。
「すぐにとは言わないけれど、そうね。考えてみて? 彼にだって家があるの、ずっとここに居てもらうわけにはいかないでしょう」
「あー、うー……そっか、そうだよね……」
「私だってクロウも一緒の方がいいと思うわ。だけど、彼を待っている間にナイトくんの帰る時間がきてしまったら、それはきっと皆にとって悲しいことだと思うの。クロウが帰ってきたら、その時にもう一度お祝いしましょう」
「とちゅうで帰ってきたら?」
「途中で? ……そうね、それなら彼も一緒に四人でお祝いできるわ。早く帰ってきてくれるならそれが一番ね」
「うん!」
「ありがとう。それじゃあテーブルに戻って、ナイトくんと一緒に待っていてくれる?」
「わかった。ナイトにはわたしが説明するよ」
「さすがサーラちゃん、頼りになるわ」
ナイトの視線を受けていたミザリィの背中が立ち上がる。二人だけの話は終わったのだろうか。主にサーラが発する言葉の断片はテーブルまで届いていたが、少年にはその全貌まで把握できてはいなかった。
ミザリィは軽く振り返ったものの、そのまま厨房へと歩いていき、サーラはまっすぐにテーブルへと向かってきて自分の椅子に飛び乗るように座った。
「何を話してたの?」
「あのね。わたし、今日がたんじょうびなの」
「え、本当? すごい偶然だ」
「ね! ナイトが来てくれてうれしい!」
「えへへ、それほどでも」
朗らかに始まった二人の会話だったが、少女の笑顔は長くは続かなかった。
「ねえ、ナイトもうすぐ帰っちゃうの?」
トーンが落ちた少女の声に引きずられ、返すナイトの言葉の中にも暗さを帯びた色が混ざる。
「うん……帰りたくないけど、多分、あんまり長くは居られないと思う。ごめんね」
「いいよ。ナイトにもかぞくがいるもんね」
「あ、あー。まあその、それはちょっと、あれなんだけど」
少年は言いにくそうに口ごもり、少女は首をかしげる。
無言の質問に圧迫される少年を救うように、奥の方から金属音と共に柔らかな声が流れてきた。
「お待たせしました、お嬢様にお坊ちゃま」
厨房から戻ってきたミザリィは、車輪のついた台を両手で押しながら現れた。そこに乗せられた盆の上には、アップルパイを乗せていたものよりも更に一回り大きな、半球に取っ手をつけたような形の蓋を被せられた大皿と、湯気を立てている三つのカップが並んでいた。
「ミルクがあったのをすっかり忘れていたわ。さっきは出さなくてごめんなさいね」
軽い調子で謝りながら、ミザリィは台車の大皿をテーブルに残ったアップルパイの皿と交換し、小皿に乗ったカップをそれぞれの椅子の前に配っていく。
「いや、全然。大丈夫ですよ」
「ミザリィは気がきくねー」
ナイトは申し訳無さそうにされていることで、むしろ悪いことをしたように思えてしまった。彼は喉の渇きなど感じてはおらず、飲み物がなかったことにも、そう言われるまで気付きもしなかったのだ。
しかしミザリィはそんな事情を知る由もない。もっとも、彼女の態度もそれほど悪びれている様子ではないのだが。
配膳を終えたミザリィは、テーブル中央に置かれた大皿の蓋に手をかけ、銀色の半球を持ち上げた。
中から現れたのは、ホイップクリームで包まれたホールケーキ。上面には幾つものイチゴやクリームの山が不規則にそびえ立ち、十本のロウソクが円を描くように並び灯されていた。
「さあどうぞ、お姫様」
うやうやしく両手でケーキ上のロウソクを示され、サーラは大きくうなずいて身体を乗り出す。少女はそのまま息を吸い込み、口を閉じて頬を膨らませながら二人に目線を送った。
その意味を測れていたかはともかく、ミザリィもナイトもうなずき返した。それを確認したサーラは目尻を下げ、すぼめた口から勢いよく空気を吹き出した。
ふーっと風音を立てながら、振られる首の動きに合わせて吐息が右往左往する。冷たい風はケーキの上を綺麗に撫で回し、全ての灯火は一息の内に消し去られた。
「「お誕生日おめでとうございます!」」
二人の声が重なり、落ち着いた拍手が鳴り響く。
「ありがとう! ありがとうございます」
お姫様は左右の二人それぞれに、かわいらしくも威厳を持ってしっかりとお礼を告げる。
「……ミザリィ!」
一度深く呼吸して、サーラが従者に呼びかける声は打って変わって楽しげに弾み、僅かに保たれていた厳かな表情は脆くも崩れ去った。
ミザリィは全て心得ていると言わんばかりに、名を呼ばれると同時に動きはじめていた。どこからか取り出した長いナイフを右手に握り、ケーキを八つに切り分けていく。
「わたしそれ! イチゴが二つのってるところね」
「はいはい、姫のおおせのままに」
閉ざされた白い部屋の中では、三人の笑い声がこだましていた。