少しだけ長い夜のこと   作:D_P_cataconb

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 銀が石床で飛び跳ねて、甲高い音が鳴り響く。暖かな談笑に満たされていた空気は、突如として降り注いだ鋭い音によって引き裂かれた。

「びっくりしたぁ」
 にわかに訪れた静寂を破ったのは、とても驚いているようには聞こえない間延びした声。けれど、そんな何気ない一言によって、凍りついた時間は再び動き始めた。
「あっ、ご、ごめんなさい」
「手が滑った? 大丈夫、気にしないでいいのよ。代わりくらいいくらでもありますからね」
 恥じ入るような声色は罪悪感のあらわれなのだろう。ナイトは自分の指先をすりぬけたフォークが床へ落ちていくさまを、ただ見ていることしかできなかったのだから。
 優しくおおらかに響くミザリィの声も少年の耳には届かず、彼女の動作も目に入らないまま、少年も立ち上がろうとしていた。
 しかし、やはりその椅子は彼が座るには足が長すぎたのだろう。向きを変えようとした拍子に体勢を崩したナイトは、その椅子ごと大きく身体を傾けてしまった。続けざまに床を打った少年の身体と木の椅子は、つい先程の銀食器とは対照的な、重くて大きな鈍い音を響かせる。
「あらあら大丈夫? 怪我は無い?」
「ちょ、ちょっと、めまいが」
 心配そうに歩み寄るミザリィに対して、弱々しい返答だけがかろうじて届けられた。

――ずっと夜でいられるような気がしていた。ここの空気は外よりも随分と楽に思えたから。
 けれどそれは、願望混じりの錯覚だったのだろう。やはり時間が止まってくれたわけではなかったらしく、一時は明瞭になった視界も着々と霧に覆われて、体も思い通りに動かなくなっている。
 きっと、もう朝は間近なのだろう。あるいは既に、夜は明けているのかもしれない。想像上の青空と共に這い寄ってきた感情は、寂しいながらも満足感にも似ていて、飽きるほどに味わってきた虚しさとは違うもののように思えた。

「だいじょうぶー?」
 器用に上体を曲げ、椅子に座ったまま覗きこむサーラの目に写ったものは、困った顔のミザリィと、床に倒れ伏すナイトの姿。少年は差し出された手を頼りに立ち上がろうと震えていたが、危機感というものから限りなく遠い少女の気を惹いたのは、おぼろげに霞む彼の体そのものだった。
「それなに? 氷みたいに向こう側がすけてるの、どうやってるの?」
 燃え盛る瞳をぱちぱちと瞬かせながら少女は尋ねる。しかしよろよろと視線を上げた少年も、満足な解答を持ってはいなかった。祭りの夜に地上で目覚めても、太陽が顔を出すよりも先に、気付けば暗闇の中、音しか届かない土の下に帰ってしまっている。当然それは彼自身の意志ではないし、どのような仕組みでどんな経過をたどっているのかなど知る由もなかった。
「へえ、他の人からは……そんなふうに、見えてるんだ。おもしろいね」
 少年の不器用な笑みは力なく、震える声色と合わせて、少女の陽気さにわずかながらも影を差した。

「ちょっとだけ、失礼」
 椅子ごと派手に転倒した割に少年は声もあげず、ミザリィは最初その事態をあまり重く受け止めてはいなかった。けれど伸ばした手にかけられる力はあまりに弱く、辛そうな少年の表情を見た彼女は、直ちに考えを改めた。
 彼は自力では立ち上がれそうにない。そう判断したミザリィはすくい上げるようにナイトの体の下に腕をまわす。しかし持ち上げようと力を込めたその瞬間、直面したのはさらなる違和感だった。両腕に乗せた少年の身体は綿の詰まったぬいぐるみを思わせる軽さで、抱き抱えている間にも刻一刻と、その体重が失われていくように感じられたのだ。

「ナイトどうしたの? 病気?」
 跳ねるように椅子から降りた少女の声が、音の空白に浸透していく。
 サーラを不安にさせてしまう、何か返答しなければ。焦燥が加わり、ミザリィの困惑は更に深まっていく。こんな事態は想像もしていなかったし、とっさにそれらしい答えを作れるような知識も持ち合わせてはいなかった。
――彼ならなんと答えるだろうか。
 そんな言葉とともに、ミザリィの脳裏に薄ら笑いの面影がよぎる。他ならぬサーラがこの調子なのだから、彼ももっともらしく役に立つことを言ってくれるのではないか。どうしてこんな時に限ってあのひとは……。

「帰る時間が、来ちゃったかな……心配ないよ、眠い、だけだから」 静まり返った部屋にかろうじて響いたナイトの声は、さらに薄く、さらに小さく、けだるげなものになっていた。
 不意にすぐそばからあがった声に、ミザリィは我に返った。無意識にクロウを頼ろうとしていた自分が恥ずかしくなる。自分がしっかりしなければと軽く頭を振り、抱き上げた少年を運ぶべき先を見据え歩きだす。
「ほんとにだいじょうぶ? つらそうな顔に見えるよ?」
「平気……平気だよ、うん」
 ミザリィは隣を歩くサーラにちらりと視線を向けはしたものの、二人の会話にあえて口を挟む気にはなれなかった。
 運ばれている間にも、ナイトの姿は徐々に透明度を増していく。少年が存在するという事実そのものが希薄になっていくかのようだった。

 頬を冷たい空気がかすめて、少年は自分が運ばれていることを実感する。霞がかった視線の先には、まっすぐに前方を見つめている、優しく凛々しい女性の顔があった。
 どこか心安らぐその時間は、けれど長くは続かなかった。ぐったりしたままの彼が降ろされた先は、彼の知らないふかふかとした場所。名残惜しさを感じなかったわけではないが、柔らかく体を受け止めてくれる綿や身体を包んでくれる布には、言葉なくして慈しみを伝えてくれる腕とは違った優しさがあった。

「ちゃんとしたベッドじゃなくてごめんなさいね……」
 心底申し訳無さそうなミザリィの声を聞きながらも、当のナイトは何を謝られているのか分からなかった。彼が憶えている限り、こんなにも快適な寝床には初めて寝転がったのだから。
 その心地よさ故だろうか。ナイトの意識は急速に遠のいていく。何か、もっと、言わなければいけないことがあったような気がする。それなのに、眠くて眠くて仕方がなくて、何も考えられなかった。そばにいるはずの二人の声が、やけに遠くから聞こえてくる。返事をしたい気持ちはあるのに、何を言えば良いのか分からない。

 薄れゆく意識の中でも、ナイトは手を握られたことにはすぐに気付いた。それは雪のように冷たい、細くて小さいその中にあふれる程の活力を秘めた、ここまで彼を導いてくれた手だった。
 ほとんど聞き取れないほどに遠のいた声の中から、少年の耳はかろうじて”夜”という単語を捉える。それが自分の名前を呼ぶものであることに気付いて、少年の意識はわずかに鮮明さを取り戻す。重いまぶたをこじ開けると、白くぼやけた視界の中に二つの炎が浮かびあがる。無意識に緩んだ口元から、小さなつぶやきがこぼれ落ちた。
「またね」
 ナイトの心はただ安らぎに満たされていた。心地良い疲労は平和な安眠をもたらしてくれそうで、少年はそれ以上なにかを考えることなく、その意識を手放した。

「ねえ、ミザリィ? ナイトどうなったの?」
 大きなソファに横たわっていた少年の姿は、夜明けに飲まれる星のように跡形もなく消え失せた。二人の視界に捉えられたまま、少女にその手を握られたまま、彼は忽然と消え去っていた。
 支えを失った毛布は初めから何も覆っていなかったかのようにあっけなく崩れ落ち、わずかに沈んでいた乳白色のクッションも元通りの形に膨れ上がった。
「そうね……お迎えが来るとは聞いていたけれど……」
「おむかえ?」
「そう、お迎え。でも、まさかこんなふうに消えちゃうなんて……ちょっとびっくりね?」
「うーん、びっくりしたー。それよりミザリィ、ナイトがまたねって言ったの、聞こえた?」
 ミザリィが少しだけ考える素振りをしていると、サーラはその返答を待つことなく言葉を続ける。
「あーあ、ひとりでおわかれ言って勝手にいなくなっちゃうんだもんなあ」
 ため息交じりに口をとがらせた少女は、毛布の下に残った僅かな空間をにらみつける。
「きっと彼にも事情があったのよ、怒らないであげましょう?」
「べつにおこってないよ? ざんねんに思っただけだもん」
 少女はその空間に腕を伸ばし、毛布を持ち上げ覗き込み、あてもなく探り手を動かす。けれど、やはり、その下には何も隠れてはいなかったのだろう、大きく乗り出した少女の体は、膨らみなおしたクッションを再び押し込むばかりだった。

 納得いくまで探りきったのか、それとも単に飽きたのか。手を止め何かを考えていたサーラは不意に顔を上げ、ミザリィに尋ねる。
「ねえねえ、今日はここで眠ってみてもいい?」
 ぱたぱたとソファを叩きながら、きらめく瞳の少女が言う。その両眼が放つ輝きを、ミザリィはよく知っていた。夜更けの前に見たのと同じ、未知へと向かう期待に満ちた、鮮やかに緋く楽しげで、どこか不穏な色だった。
「どうして? ここからじゃベッドは遠すぎる?」
「ううん、なんだか気持ちよさそうに見えたから、一回やってみたいなって思ったの。ベッドの方がよかったら、もうやらない」
 すまし顔で首を振るサーラを見て、ミザリィは幸せそうに微笑みうなずいた。
「ふふ、そういうことね。うん、面白そう、やってみましょうか。きっとクロウも賛成してくれるわ」
「あたりまえじゃない。クロウはわたしのこと分かってくれてるんだから」
「あらあら、ふふふ。それじゃあ、そうね。明日起きたら感想を聞かせてくれる?」
「うん!」
 勢いよく姿勢を変えてソファに腰掛け、いそいそと靴を脱ぎ始めたサーラを、ミザリィは慌てて引き止める。
「まってまって、寝る前にすることがあるでしょう?」
「ん……はみがき!」
「正解! さあ、行っておいで。その間に着替えも用意しておくからね」
「はーい」
 お姫様を送り出しながら、ミザリィは考えを巡らせる。サーラがまどろみの中へと潜り込むには、まだまだ長い時間が必要になるだろう。ましてや、眠そうな素振りなどまるで見せていない、あのお姫様が。


そしていつかの真夜中に

 サーラが夢を見始めてからどれほどの時間が経過したのか、ミザリィにはよくわからなかった。明るさが変わらない密室の中で、ただずっと愛らしい寝顔を眺めていた。外では昇った日が再び沈んでしまっているようにも思えたし、ほんの瞬きの間しか過ぎていないようにも思えた。

 彼女が時間に気を向けたのは、まどろみにも似た陶酔に、よぎった影があったから。上階の落とし戸をきしませて、するりと這い出た黒い影。あえてその顔を見るまでもなく、それが何者の影なのか、覚めた彼女にはすぐに分かった。

「ずっと上にいたの、クロウ? だとしたら、サーラちゃんが呼びに行った時にどうして出てこなかったのかしら? 聞こえなかったとは思えないけれど」

 影のような男は足音を立てることなく、まるでなだらかな坂を滑るかのように階段を下りながら彼女への答えをさえずった。

「もちろん聞こえていましたよ、それに見えてもいましたとも。想像できますか? 私を呼びに来たサーラに……ああ、あの子が私を呼ぶ声に、息を潜めて居ないふりを通すのが如何に困難で心痛むことか。うっかり返事をしてしまわないためにハンカチの支度まで検討したくらいです」

「ああそうなの、それはもう大変だったんでしょうね」

「ええ、それはもう、ね」

 ミザリィの皮肉を受け流しながら、クロウはソファの背もたれに外側から肘を突き、寝息を立てるお姫様を挟むように二人は向かい合う。

「それで? 結局、全部あなたの筋書き通りだったということでいいのかしら?」

「はて、一体なんの話でしょうか」

 クロウは屈託のない笑顔でミザリィを一瞥し、彼女の返事を待つことなくその視線をサーラの寝顔へとよどみなく滑らせる。

「……まあいいわ。きっとそう言うだろうと思ってました」

「さすがはミザリィ、私の考えることもお見通しですか。しかし、意外と悪い気はしませんね」

「はいはいそうね、まったく何を言っているんだか」

 ため息交じりのミザリィにわざとらしく笑ってみせると、クロウはまたサーラへと顔を向ける。

「ああ、それにしても、何度見ても素晴らしい寝顔ですね。あなたもそう思うでしょう? 久しぶりに疲れる一日でしたが、これだけで全てが報われてしまいますよ」

 眠り姫を見据えたまま、クロウは一度跳ねるように動き、上体を低く落としていく。背もたれに添わせた腕は、柔らかで大きなクッションに沈み込み、床に座っていたミザリィからはすっかり見えなくなっていた。大きく身を乗り出し、背筋を反らせてお姫様の寝顔を覗き込む姿には、子供じみた無邪気さと蛇を思わせる不穏さとが同居していた。あの腰の浮き様では、足も床についていないだろう。見るからに身体への負担が大きそうな体勢は、疲れたという言葉からは随分とかけ離れているように思えた。

「よしなさいよ、薄気味悪い。サーラちゃんを怯えさせたいの?」

「はは、ひどい言われようだ。疲れていると気分もささくれ立つと言いますし、あなたも無理せず休んで構いませんよ?」

「お気遣いありがとう。でも疲れだとか眠気だとか、誰かさんのおかげでもうずーっと縁がないのよね」

「ん、ああ、そうでしたね。まあそう気を悪くしないでください。今回はあなたも良い思いをしたではありませんか」

「良い思い? そうね、あなたはさぞ楽しかったでしょうね? 私には何も知らせずに留守番を押し付けて、自分だけで好き勝手企んで。サーラちゃんが出かけた先のお祭りだって、どうせあなたは、どうにかして見ていたんでしょう?」

 見慣れないミザリィの剣幕に圧され、乗り出していた身体を戻しながら、クロウの顔にもまた珍しく薄ら笑いと入れ替わるように真剣な眼が現れる。

「ミザリィ……あなたとて、友達を連れてきたサーラの笑顔を間近で見られたではありませんか。視線を交わして、言葉も交わして。私は遠くから見ていることしかできなかったのに、それもあなたは、何も知らずに……ああ、事前に何も知ることなく、まっさらな気持ちでその瞬間を迎えることが出来た! その純粋な感動がどれほど貴重で羨まし――」

「んぅ……」

 

 それは、夢現の境界をさまようお姫様から身じろぎとともにあがった、ささやかな抗議。徐々に加熱する騒音が耳障りだったのだろう。二人の会話よりも遥かに小さなその声は、それでも彼らに聞き逃すことを許さなかった。クロウは思わず息を呑み、ミザリィは呆れて目を閉じ首を振る。サーラが再びすやすやと安らかな寝息を立て始めるころには、飛び交っていた全ての声は霧のように散って消え去り、すっかり熱を冷まされてしまった小さな部屋は静寂に支配されていた。

 表情をこわばらせ固まっていたクロウも、再び安定した姫の眠りにほっと一息をつく。自責の念を覚えながらミザリィと目を合わせると、彼女は唇に人差し指を当て、片目をつぶってみせた。彼女の表情が和らいでいることに気付き、クロウは咳払いでもするかのように軽く握った拳で口元を隠し、目を逸らしながら誰にも聞き取れないような声でぶつぶつと何かを呟いた。

 クロウの狼狽えようが面白く映ったのだろうか。ミザリィは少しだけ首を傾げて微笑み、ささやき声で提案する。

「場所を移しましょう? あなたには言いたいことも、聞かせてもらいたいことも、まだまだたくさんあるんだから」

 しかし彼は言葉を返すことなく、ただ視線だけを彼女に向けた。

「もう、そんな顔しないで? 私だって、その、なにも怒ってるだけってわけじゃないんだから……ねえ聞かせて? サーラちゃんはどんな時間を過ごしたの?」

 先に立ち上がったミザリィに促されたクロウは、名残惜しそうにサーラの寝顔を一瞥し、渋々と言った様子で立ち上がる。

「仕方ありませんね。覚悟なさい、長い話になりますよ」

「ふふっ、そうこなくっちゃ。あぁ、そうだ、アップルパイ、あなたの分もとってあるのよ。まあ、もうすっかり冷めちゃってるけど」

「それはありがたい。熱いのは苦手なんですよ」

 

 互いに立ち止まって音を抑えながら笑いあい、そしてクロウが先にその部屋を後にした。数歩遅れて付き従うように、ミザリィもまた歩を進める。足音を潜ませて、階段の上へ、また別の夜へと。

 けれど、あるいは日をまたぐ彼らの会話も、いずれは中断を余儀なくされるのだろう。二人のどちらにとっても、世界の何よりも大切な、少女のにぎやかな目覚めによって。






















 また太陽が昇ろうとしている。あれから何度朝を迎えたのか、今ではもうはっきりしない。今回も彼女は現れなかった。でもきっと、いつかまた出逢える気がする。たとえキミがボクを忘れていても、また友達になればいい。大丈夫、キミから貰った素敵な贈り物を、ボクはずっと持っているから。だから、今度はちゃんと胸を張って答えられるよ。ボクの名前は”夜”だって。






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