【改稿中】銀髪幼女にTSしたニートな僕が過ごした1年間   作:あずももも

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14話 春→夏 3/3

ようやく。

 

ようやく……。

 

「晴れた――……暑い」

 

ようやっと梅雨が明けて夏になったらしい。

 

4時台から明るくなってきて朝日にきちんと起こしてもらえるしあわせ。

幼女だろうがニートだろうが虫けらだろうが糸くずだろうが嬉しいものは嬉しい。

 

明るさの代償に外はうだるようになって湿気が相対的にマシになってセミが朝から晩までうるさくなる。

 

嬉しさでつい準備もそこそこに家を出て夏な朝を20分くらい歩く。

最近は半強制的な引きこもりモードだったから気持ちいい。

 

「…………………………………………」

 

でもその辺のお店のガラスに映る僕の顔は不満そう。

 

だってもう服は下着から順に汗を吸い始めているんだもん。

気持ち悪い。

 

空気がまとわりつくあの感じ。

梅雨のそれとはまた違うヤな感じ。

 

そりゃまあ前みたいに「男」って感じに汗臭くはならないけどさ……。

っていうかお風呂に何日か入らなくても平気ってどうなんだろう?

 

新陳代謝が綺麗にできる子供だから臭くなりにくいのかな?

いや、でも小学生でも汗臭くはなった気がするけど……うーん。

 

とにかく夏は充分に楽しんだ。

 

所要時間は30分だ。

お手軽だな。

 

そんな僕はさっさと引き返してきて家の中へ。

 

床に着かないようにって気をつけながら下着以外をするすると替えていく。

服を脱ぐたびにエアコンの冷たい風が肌から熱を吸い取ってひんやり心地。

 

「あ――……」

 

ごくらく。

 

「…………………………………………」

 

いやいや。

 

せっかくなんだからもうちょっと外へ出よう。

もうちょっと涼んでからだ。

 

 

 

 

ときどきごくたまにたまーにだけど女性の服に慣れるための練習ってことで家を出るときはいつもの男装……野球帽にパーカーにズボンにリュックっていう少年らしい格好をしておいて、繁華街のあらかじめ調べておいたビルの中のきれいなトイレの個室で女の子の服に着替えるときがある。

 

つまりは女装の練習だ。

けども肉体的にはむしろこっちが正常。

 

よっぽどに気が向いたときで、かつ他に予定がなくて着替えを持ち歩いても疲れ過ぎなさそうなときだけ。

 

玄関まで来て「やっぱりいいや……だるいし」ってなって引き返すのも多いから勢いも重要みたい。

 

もう通算で4回くらいはしたんじゃないかな?

外での女装。

 

とっくに女な幼女だけど念のためにって「女装 外 ばれない」とかでがんばって調べたんだ。

 

まだ女性用のトイレに入るのには抵抗感があるし、そもそも入るときには少年の格好だしとこれまた困ったことになるから上の階の人が来ないような共用トイレが狙い目。

 

どうしても空いていなければ諦める口実になるしな。

 

そのままの格好で適当にぷらっとして適当なものだけ買って帰る。

そんなこともある。

 

どうしてもだめでもどうせニートなんだ、何年かかけて慣れればいいんだしって気楽に。

何事も気楽なのが大切だって最近の本で読んだし。

 

最初は「外で女の子の服を着る」って意識しちゃって心臓がばくばくして着替えるだけで汗をどばどばかいて手が震えて「やっぱり今日は調子悪いみたい……」って帰っちゃったりしていたものだけど、今日くらいになるともう平気だ。

 

目立たない服で出かけて出先のトイレでいちど服を脱いでから女の子らしい服装に替えるっていうのにも慣れてきた感がある。

 

「ぬぬぬぬ……」

 

だから僕はこうしてトイレの中で気張っている。

 

けど駄目だった。

 

「はぁ……」

 

いそいそと着てきた服をリュックに詰めてがらがらとトイレから出てとぼとぼとその辺の外が見える系のガラス張りの壁に近づく。

 

背が低すぎて鏡を見て全身をチェックなんてのは物理的に高さが足りなくてできないもんだからこうして見るしかないのが悲しい……。

 

幼女が主体的に使用することを想定していない設計者の怠慢だ。

 

いやまぁ共用トイレで着替えとかいうのは駄目なんだけどね。

必要な人が使っていないんだったら良いよね?

 

リュックの中は湿度が高めだ。

 

着て来た服がここに来るまででちょっとだけじとっとしているリュック内の感触を思い出しながら、ガラス越しに町を見下ろしながら細かいところを直す。

 

夏休みで肉体的な同世代が多い時期だけどあまり目立つのもよくないし……っていうわけで今日は無難に下条さんに選ば「され」た流行りだっていうシャツとスカートの組み合わせ。

 

スカートなんて絶対やだって思ってたけど風が吹くのならズボンよりもずっと涼しいのがいい。

 

「♪」

 

冬は絶対に履かない。

電車の風物詩だもんね、寒い中ふとももむき出しでじっと耐えてる女の子って。

 

で、こういう無難な服を持ってきたのも計算ずくだ。

 

このくらいの年の女の子は……いや子供はみんなそうか、だいたい母親に選んでもらっているだろうしディスプレイで似たものが多かったし、髪の毛と全身のカラーリングさえ無視すればどこにでもいる年相応の……できれば中学生の女の子に見えると思う。

 

多分。

 

夏ってことでつばがぐるんと広い帽子もどんな格好にでも合うしな。

 

未だに慣れない人からの視線を切りつつそれでも見られていることを意識しながらの女の子の格好……女装の練習にはぴったりなんだ。

 

この帽子、本当に便利。

 

視界が極端に悪くなることを除けばそのほとんどが気にならなくなるし、滅多なことでは顔も見られないしな。

 

見上げたときだけ、つまり僕が見せたいときだけっていうのはとてもいい。

 

快適。

 

パーカーっていうこんな真夏でも必需品なアイテムが使えないし日の光でよけいにつやつやして目立つだろうこと間違いなしな銀色の長髪を隠せない中で普通の格好をするんだから、こうでもしないとな。

 

いくら夏休みとはいっても平日の午前でお店もまだ開きはじめのこの時間帯だ。

繁華街を避ければ厄介ごとにも巻き込まれないだろう。

 

そう思った僕は暢気に歩き出した。

 

 

 

 

なるべく人通りが少なくて日陰の多い道を選んで歩いて、この体だとそこそこの距離にある広めの運動公園に着く。

 

もう疲れたけどまだまだ大丈夫。

この体は体力が無いんだけど休んだら案外動けるってのは把握済みだ。

 

おとといから毎食何口分かずつ多めに食べてきたし汗拭きタオルも替えの下着も手元にある。

どうしても疲れた場合に備えてタクシーの番号も登録済み。

 

「よしっ」

 

これなら梅雨でさびついた体をほぐすついでにちょっとは鍛えられそうだ。

せめて基礎的な体力だけでもつけないとこの先が思いやられるしな。

 

所詮は子供だからたかが知れてるけど、子供だってインドアとアウトドアでははっきりと運動能力に差が出てたはずだし、今からでもまだ間に合うはずだ。

 

……筋トレしてみようってして腹筋がいちどもできなかったのはいい思い出。

今でもせいぜいが4、5回止まりだけど0よりはマシ。

 

ま、適当にゆっくりとトラックをぐるっと歩いて回るだけなんだしたいしたことじゃない。

どれだけがんばったとしてもせいぜいが数キロだろう。

 

この体で10キロも歩いたら数日は筋肉痛と疲れとで寝込むだろうしムリは禁物だ。

 

前の、一歩一歩の歩幅が段違いの体だったらジョギングとかでもっといけたんだけどなぁ……つくづく脚の長さが悔やまれる。

 

先は長い。

気楽にいこう。

 

「ふ――……」

 

おっと。

 

ここに来るまでですでに息が切れ始めているし脚もときどき痛くなるからゆーっくりと。

こう、だるだるって歩かないとちょっとやばいかも。

 

早速に今の僕が幼女だって認識させられて鬱々する。

 

「…………………………………………」

 

自然の中って良いよね。

 

町中も良いけど人と射線的なものが交差するって思っただけでストレス感じるヤワな心してるし、半径1メートル以内に人が居るとなんだかやっぱりストレス感じるしでのんびりできないし。

 

それに比べてこういう広い運動公園的なところとか旅行先の観光地、それもバスとかロープウェーとかで行く場所とかだと人の気配が少なくって素敵。

 

それにしても人がいないなぁ……素敵だ。

 

いや居はするんだけどみんな町中に比べて距離があるし人の数そのものが少ないし、そもそもあんまりじろじろと見てきたりはしないから快適。

 

帽子のつば越しでも視線っていうのはなんとなく感じるよね。

不思議なことに。

 

いるのもほとんどはスポーツウェアなスポーティかお年寄りばっかりだしな。

 

おかげでぼーっと歩いていてもぶつかられる心配もないし迷う心配もない。

疲れてきたとき用に座る場所をちらちら探しながら歩くめんどくささもない。

 

精神的にとっても楽だ。

こんなことならもっと早く来ればよかったかも。

 

だけどここまで来るだけでも疲れるからなぁ……よっぽど気合いが入っていないと難しいものがある。

 

やっぱり僕の根本はどうしようもない根暗で怠惰で引きこもりらしい。

人間ってのはそう簡単に変われるものじゃないってのは男から幼女に変貌してよく知っている。

 

諦めよう。

 

地味に肩と背中が重くってじっとりとしていた、服を詰めてきたリュックもロッカーに預けて身軽になったしでさっさっと歩く。

 

自転車とか走る用のとは違う歩く用のトラックに入ると両側が高い木で囲まれてきて涼しい木の息が吹いてきて木陰でさらに涼しくなって蝉の声が降ってくる。

 

……夏だなぁ……。

 

太ももから腰までが一気に涼しくなって気持ちがいい。

 

……うん。

 

男に戻っても夏は短パンとタイツにしよう。

スポーツウェアにすれば町中でも目立たないだろうし。

 

あとは寝る前の「起きたら戻ってますように……」っていう祈りが通じるかどうかだな。

 

 

 

 

「あ――――……」

 

疲れた感じの声が僕のちっちゃい口からあーっと出ている。

 

だいぶ歩いた。

体が重い。

そもそも脚の感覚がなくなってきてからだいぶ経つ。

 

あんまり履かないからおニューのスニーカーもまだまだ硬いしな。

 

けど、たったの4キロもしないうちにこれかぁ。

 

先は長い。

 

まぁ子供の足ならこんなもんだろう。

男の体でのジョギングなら結構楽でサイクリングならかなり楽な距離なんだけどな。

 

でもまぁ一気にこの道のりだ、この体にしてはそれなりどころかかなり歩いたっていってもいいだろう。

下着はぱんつの中の布までぐっしょりだしものすごくだるいし。

 

そもそもで家からここまででそれなりだしな。

 

1時間のウォーキング、ここまで大変だとは…………気楽にいこう。

 

と、汗が髪の毛伝いに染みこんでいくのを感じながら自販機のそばへ惹かれていく。

体の疲れか、それとも髪の毛が汗を吸っているせいか頭まで重いし。

 

こんな暑くて疲れたあとはぐーっとビールとか炭酸割り……はダメだから冷たい炭酸飲料……も泡がダメでただの冷たいだけのものしか選択肢がないのが悲しい。

 

この体、アルコールもおおいに受けつけはするけどしゅわしゅわだけがダメだからなぁ。

開けたまま放っておいて炭酸を薄くするかしないと飲めないのが欠点だ。

 

なんで炭酸だけがダメなんだろうな?

 

他のものはみーんな前のときとたいして違わないのに。

 

そもそもこの体じゃ買いたくても買えないけどな、アルコール。

悲しいことに。

 

旅行のときとか以外じゃ昼間っから外で飲んだりなんてもともとしなかったけどさぁ……こう、呑めないって思うと呑みたくならない?

 

そういうのを楽しむんだったらせいぜいがビアガーデンとかいいかも。

騒々しいし僕には合わない場所だけどな。

 

「ふんっ。 ……ん――……っ」

 

そんなことを思いつつ自販機に向けて精いっぱいに足先から指先までを伸ばしてみたけど、それでも上の段の飲み物を選べないっていうのを今さらながら知ってもやっとしつつ、いちばん下の段の適当なジュースをがこんって買う。

 

この体、貧弱だからなぁ。

低血糖にでもなったら困る。

 

僕は甘味はダメだけど普通のジュース程度なら平気だ。

あとはカクテルもいける。

 

飲んだら口直しで苦いのか辛いのにするけど。

 

飲み物を選んでいるうちにお腹が空いてきていたのに気がついた。

時計を見てみるともうお昼からそれなりだ。

 

………………準備は早かったんだけどなぁ。

やっぱり移動でどうしても時間がかかるんだ。

 

ちまちま休みながら歩いてたしスマホも見てたしこんな時間になってたのに気がつけなかった。

 

往復で自転車も使えないしな。

物理的に足が届かないどころかそもそも座れないっていう……。

 

自転車にも乗らなくなって3ヶ月か。

 

そろそろタイヤがぺたんこになっているかもしれない。

安いのでいいからやっぱり子供用の自転車とか買っておくべきだろうか?

 

と、つま先で立ってぎりぎりでボタンを押して買ったジュースを「しゃがむのは楽だな」なんて思いつつ冷たいのを取り出して飲もうと思って気がついた。

 

「うげ……」

 

これ、プルタブが硬いやつ。

つまりは僕の敵だった。

 

指の力すらない僕にとってプルタブってのは天敵だ。

 

珍しいのを選ぼうとしたのが悪かったか。

 

今の僕は爪の先まで柔いらしい。

すごく弱いっていうか薄いっていうか……爪を切るときの音がぜんぜん違うしな。

 

だからいい感じのプルタブならともかくとして普通のプルタブ以上の悪い感じの缶はなにかの道具がないと開けられない有様だ。

 

僕は自販機の前でぼけーっと立ち尽くす。

 

「困った」

 

困った。

僕は困っている。

 

無理やり開けて万が一のことがあったらいやだし。

大丈夫だとは思うけどこの弱々しい体だしなぁ。

 

そんなことを思って万が一を思い出して玉ヒュン的な感覚。

 

玉ないんだけどそれに近い感覚。

あれは男女共通のものだったのか……まあおんなじ人間だしな。

 

でも、近いって言っても前のときよりもうちょっとうしろの……おしり近くで感じるんだけど、なんて呼べばいいんだろ。

 

尻ヒュン?

股ヒュン?

 

「…………………………………………」

 

なすすべなく缶に詰められた冷たい液体を思ってごくりと喉が鳴る。

 

……小中学生じゃあるまいしバカな考えをわきにおいておくとして、さてどうしたものか。

 

どこかで適当な硬いカード的なものを手に入れるか通りがかる大人を待つか。

 

いや、別に学生とかでもいいんだけど。

僕より爪が強そうな人だったら誰でも。

つまりは大半の人間だ。

 

だから僕は大半の人間以下ってことになって悲しい。

 

だけどこういうときにはこの見た目が役に立つ。

 

幼い子供でしかも女だっていうのは人の警戒心をゼロにするらしい。

何か話しかけても、よっぽど忙しそうにしている人以外はたいてい立ち止まって最後まで聞いてくれるしな。

 

「よし」

 

誰か適当な人に開けてもらおう。

 

そう思ったら今度は一向に人が通りかからない。

日陰でのベンチを選んだからかちょっとトラックから逸れているせいか。

 

ふだんはあちらから寄ってくるくせにいざ用があるときには姿がない。

 

なんてことだ。

 

両手はすっかり冷たくてひんやりしていた水滴もただの水になりつつある。

 

「…………………………………………」

 

しかたなくのこのことトラックのほうへ歩く。

 

いくら少ないとは言っても視界には何人かは居たんだ、こうしてちょっと待っていれば……と、来た来た。

 

僕の視界の隅……上の隅っこには人のシルエット。

 

よし、ここは新技で行こうか。

 

なぁに、ここで通りすがるだけの人だから遠慮は要らないしすぐに忘れてくれるはず。

 

「んんっ」

 

喉の奥を調節して、高めかつちょっとだけ甘えた感じの声で営業用の笑顔を作って。

さらに小首をかしげつつ上目づかいを演出しながら両手を差し出すようにして。

 

うむ。

 

これで見た目どおりの幼女な演技は完璧だな。

 

「すみませぇん、あの、このフタ、開けられなくって。 開けて欲しいんです」

 

僕の喉から信じられないくらい甘えた声が出る。

 

家で散々練習したから耐性は着いている。

けど甘えられたら男の僕なら何でも買ってあげたくなる声だ。

 

ロリコンとかじゃなくったってたいていの人なら絆されるだろう声。

僕もがんばればできるじゃないか。

 

これなら舞台とかに出てもイチコロだろう。

 

なんてどうでもいいことを考えながら視線を上げてみる。

 

……その人は事務職の格好をした女性でスニーカーを履いているらしい。

 

表情筋と喉の筋肉をがんばりつつ顔を上げていった先には――ワイシャツの上の膨らみの上にはどこかで見たような顔があった。

 

「え?」

 

え?

 

……え?

 

あ。

 

あの、この人って。

 

「け、ど………………………………」

 

何を言おうって考えてたのか分からなくなって僕はフリーズする。

 

僕からたったの1メートル足らずのところで立ち止まってくれてしまったのは――思い出したくもない、あの人だったらしいから。

 

「すみません勘違いで」

「………………………………あら! あらあら、かわいらしい格好だと思ったら響さんじゃないですか!! わー、かわい――!!!」

 

その声にびびって後ずさるも遅く、悪魔さんはすっと歩いてきたかと思うとかがんできて僕の両手を缶ごと包み込む。

 

やめて。

 

離して。

 

お家に返して。

 

「お久しぶりです! お元気でしたか!? おひとりで運動ですか? こんなに暑いのに偉いですねー! 夏休みのトレーニングとかでしょうか? それにしてもこんなところでお目にかかれるなんて思ってもみませんでした!」

 

うん。

 

僕もまさかって思った。

 

なんで居るの……?

 

「あ、このプルタブですね? 硬いですよねぇこういうの……けど私なら大丈夫です!」

 

僕は大丈夫じゃない。

 

10秒前の僕の愚かな行動を無かったことにしたいって願う。

 

どっか行って?

 

「あとそのスマイル……とっても素敵です! その甘え方もとってもキュートで、私……やられてしまいました!! メロメロです!!」

 

そのまま気を失ってくれたら良かったのにな。

 

缶を取り上げられた代わりに手を握られて、さらにはがっちりとホールドされた。

 

このまま走ってでも逃げたいんだけど近距離で話されているからうまく声が出ないし、そもそもびっくりしすぎているのと疲れが一緒に来て体がうまく動かない。

 

た、助け……。

 

「…………………………………………」

 

声が出ない。

 

なんてことだ……。

 

今井さんは立ち上がる。

僕の腕が上にちょっとだけ引っ張られる感覚。

 

顔はもちろん見えない。

だって身長差は圧倒的なんだ。

 

「今日もこんなに暑いので私もちょうど休みたいところだったんですっ! 一緒に少し休みましょう! 久しぶりですし! あ、あちらのベンチがちょうど木陰でよさそうですね!」

 

「あ」とか「ちょっと」とか言おうとしながらぱくぱくしているうちにずるずるされて座りたくなくなったところにすとんと座らされる。

 

もうダメだ。

 

「ついでに私も喉が渇きましたしすっきりしながらおはなししましょう! 少し待っててくださいね! どれにしようかなー?」

 

持っていかれた。

 

僕のジュース。

 

返して?

 

「…………………………………………」

 

悪魔もとい鬼さんはあのときとなんら変わることのない強引さ。

 

僕に背を向けながら「今日は暑いですねー」とかものすっごく意味のないことを話しかけてきながら選んでいる様子。

 

この前は気がつかなかったけど、髪、意外と長かったんだな。

まぁずーっと僕の顔を見続けていたしな、あのときは。

 

今日は後ろで縛っているらしくって彼女が左を右を見るたびにひと房がぶんぶんしている。

 

犬みたいだな。

なんとなくだけど。

 

このスキにともちょっと考えて試そうとしたけど、なんと足がすくんでいる。

っていうか、腰が抜けている……?

 

「………………………………」

 

しゅるって髪の毛がベンチに落ちる。

 

あ……。

 

髪の毛まで見られた……しかも今はスカートじゃん……。

 

「おぅ……」

 

この前よりも格段に悪い状況にとうとうメンタルまでがメルトし始める僕。

 

僕はもうおしまいだ。

 

…………どうしようもない状況だけど、1個だけ学んだことがある。

 

帽子って視線を切ることができて注目されにくくて僕自身もすごく楽だけど……こうして知り合いになってしまった人を先に見つけて逃げるってのができないんだっていうとっても大切なこと。

 

索敵範囲が狭いって前から分かっていたのに気づかなかった。

 

「…………………………………………」

 

せめて。

 

事務所とやらに連れて行かれそうなときに備えて通報画面にはしておこう……。

 

そうすれば、気がついたら衣装を着て人前にほっぽり出される未来だけは回避できるだろう。

 

けど……あぁ、防犯グッズはリュックの中。

 

肝心なときにことごとく駄目な僕は打ちひしがれるしかなかった。


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