【web連載版】君が紡いだ輝く世界を、この目に焼き付けて 作:桐崎大河
教室の机に頬杖をついて、窓の向こうに広がる景色を見下ろした。
特筆すべきことなど何もない、白と黒の濃淡だけで成った景色が、そこには広がっている。
──僕は、色が見えない。
あの川に沿って並んだ桜は、あの名古屋の街並みは、あの雄大な空は、果たして何色なのか。
それが、僕にはまるで分からない。
だから僕は、星宮月海に興味を持ったのだろう。灰色に荒んだ景色のなかで唯一、色を持った彼女に。
***
「ごめん、ノート見せてくれる?」
「うん、いいよ」
授業の前半は保健室にいたから板書できなかったところがあって、と申し訳なさそうに星宮月海は言い、僕のノートを受け取った。
けろりとした様子で、見たところ、特に熱や腹痛があったようには思えない。授業をサボりでもしたのだろうか。
しかし、定期考査ではいつも成績上位者一覧(トップ20の成績の人が貼り出される)に名を連ねる彼女。
その思考は矛盾していた。偏見、かもしれないが。でも十中八九その通りだと思う。
単純に気になって、どうして保健室に居たのか尋ねようとしたが、ふと中学生の頃に隣の子が生理で保健室に行っていたのを思い出した。
よくよく考えてみれば年頃の女の子にそんな質問をしたら何を言われるか分からない。
まさに生理だとか、人には言えない恥ずかしいことの場合もあるだろう。だとしたら、腹痛や熱といった痕跡を隠しているだけなのかもしれない。
あいにく僕は色恋沙汰とは疎遠な男子なので、女の子についての情報はそこまで持ち合わせておらず、勝手にそう解釈して、勝手に話しかけ辛くなっていた。
周囲は休み時間特有の喧騒で溢れ返っていて、ここだけが静寂に包まれているようで……──。
そんな空気になんとなく息苦しさを感じていると、
「君のノート、赤だらけだね」
静寂を切り裂くように、彼女が呟いた。心臓がドキッと悲鳴をあげ、色が見えない自分が、“格好を装うためだけに”赤ペンのみ使用していたことを今更に思い出す。
今まで会話をなるべく避けていたからか、ここでボロが出てしまったようだ。
もちろん、それだけで自分が色が見えないことを疑われるというのはない──まさかないと思うが、そう思っていてもどうしても手に汗を握ってしまう。
「あー……その、忘れちゃって、青ペン」
人に話しかけられることも、それが女子なのも、危うい状況に陥ることも、なんだか今日はイレギュラーなことが多い気がする。
「ふーん。そっか」
咄嗟に出てきた言葉が、彼女の訝しげな表情を消したことにひとまず胸を撫で下ろした。
すると今度は何を思ってか、彼女は途端にペンケースを漁りだした。あったあった、と潜めたような声とともに出てきたもの。
「はい青ペン、貸してあげる。さすがに赤だけじゃ、ノートあとで見づらいでしょ?」
「いや……あの」
どこまで僕を追い詰める気なのか、こいつは。もしかして秘密を既に知っていて、僕が焦ったり慌てたりしているのを楽しんでいるのではないか。そうも思えた。
そもそも青ペンなんて言われても全て灰色で意味がないうえ、彼女が差し出してきたのは、よりにもよって僕の赤ペンと同じ製品の色違い──、
つまり僕が持てば区別できず、混同して分からなくなるだけということだ。
どちらが青か分からず、2分の1という確率を頼りに赤ペンを返そうなんてした時には、いよいよ変に思われる。
人の好意を無下にするな、という言葉が一瞬だけ脳裏をよぎったが、こんな時に限ってそれは残酷すぎる。
しかしそれはその通りで拒むのも罪悪感が残るし、いつまでもこうして静止してる訳にはいかない。
「……じゃあ、ありがとう」
「ノートを見してくれたお礼」
結局は区別がつかなくなるのを恐れて、青ペンは胸ポケットに1日中こもった後、彼女のもとへ返された──。
これが彼女との最初で最後の会話になるだろうと思っていた。少なくとも、自分から話しかけることは、この先ないはずだった。
彼女のことを、僕はずっと意識していた。この文字通り灰色の世界で色を持っているのは星宮月海、彼女のみ。それだけに、意識しないというのは無理な話だ。
それでも僕は、彼女と関わろうとは思わない。
色が見えるから。ただそれだけの理由で彼女と関わろうとするのは、どこか後ろめたさに似た気持ちがあった。
まるで商品として飼育しているに過ぎない牧師と家畜のような、利益を求め合うだけの、そんな淡白な関係になることを恐れたのかも、しれない。
とはいえ、それらを踏まえないとしても、彼女は僕が関わるような人物とは言いがたかった。
髪の毛は淡い栗色(と、聞いたことがある)で、このところはポニーテールとロングヘアーを行ったり来たり。
人よりかなり薄い白の肌、それに似合ったブレザーの裾やら袖口からは、セーターが覗いている──そういう、先生によっては注意されるかもしれない点があったものの、決して度を越えたマネはしない。
話せばよく笑い、困った人がいれば声をかけ、雑務も進んで引き受ける。彼氏がいたなんて噂もあって、いわゆる上流階層の人間だ。
人が集い、信頼され、愛される。そんな人柄の彼女。明らかに、僕とは程遠い存在だ。
あまり関わらないようにしよう。だから自分から話しかけることは、この先ないだろうと思っていた。
しかし、それから1週間ほどが経った──ちょうど桜が散り終わった頃に、僕は彼女と2度目の会話を交わしていた。
***
階段を登りきった先、『立ち入り禁止』と大々的に書かれた扉を開けると、誰もいない開放的な空間がそこにあった。
屋上──。昼休みになると、僕は毎々、弁当箱を片手にここを訪れる。
立ち入り禁止とはなっているけれど、特に先生が見回っている訳でもなく、ましてや生徒の気配はないに等しい。
と、誰にも邪魔されない素晴らしい空間なのだが、天候が荒れている時は使えない、というのが玉にきずだ。
しかし今日、僕以外にもこの屋上を探し当ててしまった輩がいるらしい。前々から予想はしていたことだが。
片手でフェンスの網目を掴みながら、どこか遠くを眺める女子生徒が、そこにはいた。
「──!」
栗色のポニーテールが風に揺れた。その時点で、見間違えるはずがない。
それは、紛れもなく星宮月海だった。
分かりやすく訳ありな佇まいで、これはなにか声をかけた方がいいのか、屋上での昼食は断念するべきか、頭の中で疑問が錯交した。
しかし、彼女の頰に涙が伝ったのを見て──、
「──大丈夫?」
気付けば、そんなことを口走っていた。大丈夫じゃないから泣いてるのではないか、と目を背けたのは声に出してから数秒後のこと。
僕も普通なら、泣いていてる人がいれば見て見ぬフリをして空き教室なり別の場所を探したことだろう。でも、どうしてか彼女を放っておくことは出来なかった。
「古川くん……?大丈夫って、なにが?」
その瞬間、目に焼き付いた。まるで、時が静止したかのように鮮明に。振り向いてみせた彼女の表情は、それ程までに印象的なものだったのだろう。
依然として涙は流れたままなのに、だけれどほとんど無表情の──そんな彼女の、見たことのないような面持ちが。
「なにがって……どうして、泣いてるの?」
それはとても哀しく、とても懐かしかった。頭の奥底でゾワリと疼く何かがいる。何かが頭から出たがっている。
たまらなく頭が熱くなって、胸がトゲを持った何かに締め付けられるような、この感情は何なのか。
「……あれ。私、いま泣いて……?」
誤魔化しているようには、とても見えなかった。頰に触れた手が濡れていることに、彼女はひどく困惑しているように見える。
そんなことがあるのか。自分が泣いているのに気付かないなんて。何があったのかは分からないが、少なくとも正気の沙汰ではない。
「気付いてなかったの?」
再びどこか遠くを向いて、
「……そうみたい」
ぼそりと呟くように、彼女は言った。
その声は、とても冷たかった。冷たくて、重たくて、いつも教室で弾けるような笑顔を見せている彼女が発したものとは、とても思えなかった。
「……──死ぬんだ、わたし。感情が、あるにはあるんだけどね。でも乏しくなって、脳が破壊されていく。みんなには秘密にしてたけど。自分が泣いていることすら、分からないなんてね」
沈黙を切り裂くように、彼女が言う。その口から紡ぎ出される言葉は、ただ衝撃でしかなかった。頭をハンマーで殴られるような、そんな衝撃。
いまだに理解が追いついておらず、混乱した感情だけが先走っている状況だ。──死ぬ?脳が破壊される?
生まれてたかだか16年の高校生には、とても実感が湧くような言葉ではない。
そんななか、今更になって僕は気付いた。
彼女の、フェンスの網目を掴んでいない方の手には、その言葉を裏付けるような、手中に収まりきらない量の薬が握られていることを。
それを見ると、胸が熱くなった。鼓動が激しくなった。先程よりも明確に、頭の奥底が疼いた。
ひどく息苦しいような、悲しいような、そんな何とも言えない感情の正体。頭の底から出たがっていた何か。
それはきっと、あの日に感じたものだ。
──ごめんね、勇太。
死ぬ間際に、それらしい様子で寝台に横たわりながら、母は言った。まるで骨と皮と血だけで出来たような細い腕を握りしめ、あの時、僕は何を思ったのか。
自分が何も出来なかったことが、ただ悔しかった。母は死にゆく運命なのだ。もう足掻くことも、抗うこともない。
それ以外のことは、よく覚えていなかった。
病室を埋め尽くした心電図異常アラームと、慌てて駆け込んできた医師たちの声と足音だけが、ただぼんやりと、僕の鼓膜を震わせるだけだった。
どこか胸がざわつくようなこの気持ちも、彼女を放っておかなかったのも、そのせいなのかもしれない。
確かに言われてみれば、彼女と母は似ている。顔が似ている訳ではない。性格も違う。でも、何かが似ていた。
雰囲気だとか佇まいだとか、そんな言葉が近い気がする。
「どうして、そんな秘密を僕なんかに……?」
と尋ねたものの、母のこともあってか、なんとなく答えは分かっていた。それでも、聞けずにはいられなかった。
彼女は、おもむろに空を仰ぐ。
「分からないや。もう、疲れたのかもね。ありもしない感情を装って偽りの笑顔を浮かべて。だから誰でもいいから嘘偽りなく接せられる相手が欲しかった、のかも」
長いため息をつくように言って、再び顔を下ろすと、
「ごめんね。ホント何言ってんだろうね、私。もう戻るよ」
またしても冷たく重たい声でそう言って、彼女はすぐ傍らを通り過ぎていった。
彼女の後ろ姿。それはこの世界で唯一色を持っているものなのに、どこか色を持ってない他人よりも、ずっと色が乏しい気がした。
ボロボロで、目に見えて壊れかけていた。
***
家に帰ってからも、僕は未だに星宮月海のことが頭から離れないでいた。ソファに寝転がりながら、ふと居間の片隅に置かれた仏壇が目に入る。
見ていると、再びあの病室での母の姿が蘇ってきた。気付けば、僕は起き上がって仏壇の前で正座をしている。
「あの時は、なにも出来なくて──」
無意識に、そんな言葉が口から出てきていた。それが今日の星宮月海と関係があるのかは、分からない。
「ごめん」
なにかと不自由なく世話をしてくれた母。果たしてそれが色を見えない息子を哀れんでのことなのかは、今となっては知る由もないが。
だけれど、僕は何もしてやれなかった。当時は小学生だったから仕方がない、なんていうのは言い訳だ。小学生なら小学生なりに、出来ることがあったはずだ。
遺影の中の母は、相変わらず取り繕ったような笑顔を浮かべている。形でそれを見せる一方、ごめんねとでも言いたげな表情にも見えた。
死ぬ間際も、そうだった。
どうして、謝るんだよ。謝らないといけないのは、なにも出来なかった僕の方なのに。迷惑をかけた、僕の方なのに。
──死ぬんだ、私。
もしこのまま彼女に、星宮月海に関わろうとせずに何もしないで、それで彼女が死んでしまった時、僕はどう思うのだろう。
死を迎えると分かっている人間を見て見ぬフリをして、そしていざ本当に死んでしまった時、果たして僕はどう思うのだろう。
同じ過ちを繰り返した、なんて思うのだろうか。
どうしたら、いいと思う?
遺影のなかの母に聞いても、何一つとして答えてはくれなかった。しごく当然の話だけど。
その日の夜、僕は寝ようとしても、なかなか寝付けなかった。瞼の裏に、あの無表情のまま涙を流している彼女の顔が浮かんで、消えてくれなかった。