仕事で疲れた主人公は家に帰ってくると、そこには従妹で高校生のアネットがいた。
疲れていて相手をするのは面倒だったが、落ち込んでいる様子に放っておけない。
昔のように甘えてきて、でも成長したことを実感しつつ癒され驚く話。

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ほろ苦い香りが好きな俺の妹

 10月も半分を過ぎた日の、寒い夜風が肌に当たる午後8時。

 夜空は雲が少なく、家に帰る俺へと向かって丸い月が淡い光で降り注いでくる。

 駅を出て静かな住宅街を歩いていく。途中、仕事で疲れた体を動かしてもスーパーに寄るとインスタントや栄養補助食品、缶詰などの食料を買い込んでは1人暮らしの寂しい食事にため息がつい出てしまう。

 栄養バランスがよくない食事を取れるのは若いうちだけだ、と親によく言われているがどうにも就職してからは料理が面倒でたまらない。

 

 俺はまだ21歳だから、少しは若さに任せた不健康な生活でも大丈夫だろう。それに今日は金曜で明日は休みだ。だから家でタバコを吸ってリラックスし、ゆっくり寝れば精神は問題ないはずだ。

 そんなことを思いながらも秋の寒さにスーツだけではもう寒いなと感じつつ、こういう時期だけは今みたいな短髪じゃなく髪を長くしていれば頭も暖かいだろうと考える。だけど俺に長髪は似合わないのは高校生の時にわかっている。

 自分の短い髪を撫でるようにさわっていると、俺が住んでいる1Kの部屋があるアパートへとたどりつく。

 ため息をつきながら短くも長く感じる階段をゆっくりと登り、はじっこにある俺の部屋へたどりつくと誰もいないはずなのに明かりがついていた。

 それを見て3週間ぶりにあいつが来たことがわかり、今回はどんな嫌なことがあってやってきたんだろうと苦笑をしてしまう。

 

 だが、そんな悩みを聞くのもかわいい従妹のためだ。その従妹は幼い頃から一緒に過ごしてきたために本物の妹のようだと思っている。

 ドアノブを掴み、ゆっくりドアを開けると暖かい空気を感じる。部屋が暖まっているのにほっと安心しつつ、入り口側にある台所スペースの向こう側、いつも俺が寝起きしている部屋に彼女の姿が見えた。

 俺は革靴を脱いで通勤カバンと食料が入ったビニール袋を持ったまま部屋の中へ入っていく。

 部屋の中には衣装ケースに本棚。中央には丸いちゃぶ台がある。端にはテレビ台があって、その上にテレビが。台の中にはゲーム機がしまわれている。

 

 ちゃぶ台の隣には通学用カバンや荷物が詰まったボストンバッグが置いてあり、その隣では俺が脱ぎ散らかした服に顔をうずめ、セーラー服を着て畳の床の上でうつ伏せに倒れているアネットの姿があった。

 

 アネットは17歳の高校生で、日本人とフランス人のハーフだ。

 身長は俺より20㎝ほど低い156㎝で、体形はモデルと思うような美しい体のバランスだ。

 腰のあたりまで伸びている、きめ細かく美しい金色の髪は背中にふんわりと広がっている。

 横顔から見える白い肌は透き通るようであり、すぐ隣に膝をついてしゃがむと控えめな胸があることがわかる。

 

「なにをしているんだ、アネット」

「おにいちゃん成分を補給していただけなんだけど」

 

 俺が帰ってきても俺の服に顔をうずめたまま動かないアネットに声をかけると、脱ぎ捨てていた服から顔を離して青色の綺麗な目で俺を見上げてくる。

 ハーフだけどフランスの血が色濃く、西洋人形を連想する綺麗な顔は不満そうな表情を浮かべていた。

 アネットは俺が昨日着ていた、ベランダでタバコを吸ってタバコの匂いがついている服から離れて膝立ちで起き上がる。

 

 そしてすぐに抱き着いてこようとしたために、俺は素早く立ち上がっては抱き着きをかわし、アネットは床へと顔から突っ込んで倒れてしまう。

 アネットをかわした俺は通勤カバンを畳の上へと置き台所のあるスペースへと移動する。そして買ってきた物を棚へと詰めながら倒れているアネットへ声をかける。

 

「なんだ、急に。それほど嫌なことでもあったのか?」

「少しね。だから心を癒すために来たの」

「タバコの匂いがする部屋に癒しか」

「うん。タバコ自体は嫌いだけど、タバコとおにいちゃんの匂いが混じった服の嗅いでいるとそれもおにいちゃんの匂いなんだなって」

 

 棚に物を詰め終わり、少しドキリとする言葉をかけられるがそれはよくあること。

 アネットと出会ったのは俺が6歳の時で、彼女は2歳。でも今のような他人でありながら兄と妹のような関係になったのは幼稚園のあたりからだ。

 幼稚園から帰ってきて、泣き始めたアネットを慰めてから、アネットは今日のように嫌なことがあると俺のそばへ寄ってくる。それは本物の兄のように、俺に助けを求めて。

 

 俺が小学生の時に同じ学校に入ったアネットをからかった奴と大喧嘩をして教師に怒られ、中学生の時は心細くないよう登下校を一緒にしたりもした。4歳差もあるから中学や高校は一緒ではないものの、部活や学校内で時間を潰したアネットと合流して帰るのは日常だった。

 

 いつの頃からか、アネットの求めに応じて俺は兄を演じている。俺になんでも相談してくれるのは信頼されているとわかって嬉しいが、いつまで頼りにしてくれるかが怖くも思う。

 頭を振って暗くなった表情を打ち消すと部屋へと顔だけを出し、まだ倒れているアネットに声をかける。

 

「飯は食ったか?」

「ううん。おにいちゃんに作ってもらおうと思って」

 

 にまーとした可愛さを感じる笑顔で返事をされるが、こう、一般的には女性が男性のためにご飯を作るものじゃないのだろうか。

 女性に対する偏見だと言われれば、それまでだがこうして家へと合鍵を使ってまで入っていたのだから準備しているんじゃないかと期待するのが普通だろう。

 

「今から作れと?」

「大丈夫、大丈夫。ご飯は炊いてあるから」

 

 そう言われ、台所に置いてある炊飯器の中身を見てみるとご飯が3合炊かれていた。

 ……時間のかかる米だけはしっかりやってあるのには感心する。

 けれど、ご飯はあるもの材料はあっただろうか?

 俺は首を傾げながら冷蔵庫の中を見ると調味料や飲み物類はあるが、おかずになりそうなものはない。自分の生活力のなさにひどく落ち込んでしまいそうだ。

 

 だが、俺には心強い味方がいる。そう、それはインスタントや缶詰だ。

 ラーメンを始め、ツナ缶やサバ缶といったものはとてもおかずに適していると思う。それにカップ麺はアネットがいつ来てもいいようにと300円もする高級な物を用意してある。

 さっきスーパーで買ってきた物を詰めた棚を見ると、それらがひととおりあることに安心する。

 

「どういう缶詰が食べたいか言ってくれ」

「……缶詰?」

 

 不思議そうな声を出したアネットは立ち上がって俺の隣にやってくると、缶詰がある棚を嫌そうな目で見てから冷蔵庫へいって扉を開けるも、すぐに閉めた。

 それから俺を押しやっては棚の中を見ていく。

 そうしたあとに深い、とても深いため息が俺に向かって出された。

 

「おにいちゃん、私は女子高生だよ? もっと健康的な物が必要だと思うの」

「健康的な物か」

 

 そう言われた俺はすぐさま棚から栄養補助食品のゼリータイプを掴んで渡そうとするが、俺の手首を掴んだアネットは棚へと俺の手を戻していく。

 

「違う、そうじゃない。そうじゃないの。栄養的な意味じゃなくて、手作りの料理がいいのよ」

「それなら1日前にはメールか電話をしてくれ。材料を買っておくから」

「……だって急に来たくなったんだから仕方ないじゃない」

 

 俺の手首から手を離したアネットは少し恥ずかしそうに顔をそむけ、小声でそう言ってくる。

 確かにアネットの言うとおり、急に来たくなったのなら仕方ないとも思えてくる。俺はアネットの頭に手を置き、雑に頭を撫でまくる。

 手の動きに応じて段々と金色の髪は乱れた様子になっていき、俺に撫でられるままだったアネットは10秒も経つと慌てて離れてはにらんでくる。

 それを無視した俺はアネット用に買っていたカップ麺を棚から取り出す。

 

「それで飯はカップ麺でいいか? アネットのために300円もする高いカップ麺を買っているんだ」

「今回はそれで許してあげる。その代わり、次は料理を作ってよね!!」

「作ってもいいが、つい最近食べたばかりだろう?」

「それってもう4か月も前のことじゃない。これ以上手料理を食べさせてくれないと、私のおにいちゃん成分が枯渇して大変なことになるわよ」

 

 枯渇したらどうなるかが楽しみでもあるが、これ以上怒らせないように変なことは言わないようにしないと。

 

「覚えていたら作ることにしよう」

「絶対だからね!」

「わかったわかった」 

 

 可愛い妹には俺も甘くなってしまうな、と小さい笑みを浮かべると2人分のカップ麺のお湯を沸かすためにポットを持っては水を入れ、ガスコンロの上へと置く。

 お湯が湧くのを待つ間、俺はアネットを連れて部屋の片づけをする。

 脱ぎ散らかしていた服は洗濯機の中へと突っ込み、着ていたスーツは脱いでハンガーへ。

 

 続いてネクタイを外そうとしたが、アネットが手を伸ばして楽しそうにほどいてくれた。ネクタイを取るだけの行為の何がいいのかがわからないが、本人がよければいいか。

 片付けが終わる頃にはお湯も沸き、俺とアネットのカップ麺へお湯を入れる。そうしたあととは2人分の茶碗にご飯をよそい、カップ麺と一緒にちゃぶ台へと持っていく。

 ちゃぶ台越しに向かい合って座ると同時に、俺はアネットへ声をかける。

 

「それで今日はどんな嫌なことがあったんだ?」

「そう、聞いてよ! 今日、先輩の人に告白されたんだけど、まったく失礼な人だったの! あ、きちんと断ったから安心してね。私の彼氏はおにいちゃんになる予定だから」

「俺はまだお前を彼女にするつもりない」

「……まだ?」

「言い間違えだから、そんなキラキラした目で見るな。それにな、俺は恋人にするなら大人の女性がいい。優しさと包容力があれば、言うことはないな。……それで、話の続きは?」

「ふんだ、将来の私に期待するといいわ。それで話はね、男の先輩に呼び出されて告白されたから振ったのよ。そうしたら外国人らしく英語でも喋ってろっていう捨て台詞だったの。私はフランス人の血だから英語は関係ないっていうのに」

「好きになった理由はなんて言われたんだ?」

「綺麗だからってだけよ。今回で告白されたのは4人目だけど、みんな同じことを言うの。私の見た目がそんなにいいものかしら。そもそも見た目が好きなら私がフランス系ってことを知っていてもいいのに」

 

 そう言ったアネットは大きなため息をついたかと思ったら、今度は両手を振り上げると勢いよくちゃぶ台へと叩きつける。

 今までの怒っていた表情から変わり、それは怯えと恐怖が見える。

 

「他に何かされたのか」

「捨てセリフを言う前に無理やり抱き着いてきて胸をさわってきたの。おにいちゃんに教わったとおり、金的蹴りをしたからそれ以上はなかったけれど」

「アネット」

「……なに?」

「ほら、来い」

 

 俺は両腕を軽く広げ、抱き着いてきてもいいという仕草をする。涙目になったアネットはすぐに立ち上がると俺へ飛び込むようにして胸の中へ。

 勢いが強いあまりに押し倒されてしまった俺だが、そのままアネットを優しく抱きしめる。

 

「ぎゅってして。おにいちゃんの感触や匂いを私につけて」

 

 優しく抱きしめていた腕を強めにし、少ししたら優しく。それを5分ぐらい続ける。

 

「もういいか?」

「……うん」

 

 俺の胸元から近い距離で俺を見てくるアネットと見つめあい、さっきより落ち着いた様子になっていたので体を動かして俺の上から落とす。

 畳の上へと落とされたアネットは俺へと両手を伸ばして起こしてくれるよう要求してくる。俺はその手をしっかり掴むと、そのまま引きずってはアネットが座っていた場所へと連れていく。

 それに物凄く不満な表情をし、ひどく大きなため息をついてはちゃぶ台へと頭を伏せるアネット。

 そんなふてくされたアネットを見ながら、さっきの話を聞いて昔を思い出す。

 

 アネットは幼稚園の頃からいじめられていた。

 最初はいじめというより周りと髪や肌の色が違うことに不思議がられていた。それが次第に無視され、集団へと混ざれなくなった。

 理由は金色の髪と白色の肌、青色の目が原因だ。

 日本で生まれ、日本で育ったのに一般的な日本人とは違う外見なために周囲から距離を置かれていた。

 外国人な外見の割に、他の人と同じように自然な日本語が喋れたのも要因のひとつだ。

 いや、日本語しか喋れないからかもしれない。フランス人であったアネットの母親は事故で早くになくなり、日本人である父親とふたりで生きてきたからフランス語を使う必要はなかったから。

 小さい子供は自分たちと違うアネットの見た目にばかり気を取られ、内面のことまで考えるのはとても少ない。

 周囲の人による排他的な意識は幼稚園から中学生まで続いた。

 

 変わったのは高校生からだ。

 同じ人間しか集まらない中学とは違い、高校は様々な地域から人がやってくる。

 だから、今まで気味悪がられていた外見と周囲に同調して意地悪なことをしていた人はいなくなり、一転してアネットの外見は多くの人の興味を強く惹くものとなった。

 今までとは違って好かれるようになったが、それでも中身を知ろうとする人は少ない。それはアネットの美しい外見があまりにも目立つからだ。

 

「私のことを中身まできちんと見てくれるだけでいいのに。……私の外見だけでなびいてくれないおにいちゃんがいるから私は日々頑張れるの」

 

「だが、俺は妹のようなお前を構っているだけだ。見ているとは少し違う気もするが」

「じゃあ私が大人になったら、私のことをきちんと見てくれる?」

 

 アネットは伏せていた顔を勢いよくあげ、まっすぐに俺を見つめてくる。

 その透き通るような青色の目は俺の心の中まで見てくるようで、純粋に見てくるのが辛い。

 今は俺を頼ってくれているが、これから多くの人生経験を積んでいくうちに俺なんかを気にしなくなるんじゃないかと思えてしまう。

 それは一種の恐怖かもしれない。必要とされていたのに、必要とされなくなってしまったら。

 俺はアネットに返事をせず、待ち時間の3分が過ぎたカップ麺のフタを開けていく。

 

「食べるか。腹が減って辛いだろ」

「そうね。体に悪そうなカップ麺とだけど、おにいちゃんが私のために用意してくれたんだもの。麺が伸びておいしくなくなるまえに食べなきゃね」

 

 そうして俺たちは食べ始めると、麺をすする音しか聞こえなくなって言葉がなくなる。

 アネットが言葉の続きを言おうとしなくて安心した。

 俺はアネットのことを大事にしているが、正面から向き合えていない。ただ、頼ってくれるのが嬉しいから相手をしているだけで。

 悩むのはアネットが大人になって俺を必要としなくなってからでいい、と問題を先送りにする。

 

 今、大事なのは腹を満たすための食事だ。こっちを優先しないと人は生きていけない。

 そうして難しいことを考えるのをやめ、カップ麺を食べ終わってから今度は今ここにいるアネットのことを考える。

 アネットは制服姿なことから、学校が終わってすぐにやってきたと思う。

 

 だが、ボストンバッグがある。それはいつもお泊りする場合に持ってくるものだ。つまりは私服に着替える気分ではないものの、泊まりたかったということか。

 

「今日は泊まるのか?」

「もちろん。あぁ、お父さんのことなら許可は取ってあるから大丈夫よ」

「あー、話は聞いてやったんだから今日は帰ってもいいんじゃないか。家まで送ってやる」

「せっかく来たのに?」

「明日は休みだからな。俺にはゆっくり寝る予定があるんだ」

「泊まらせてくれるなら、ご飯を作ってもいいけど。材料がないから、お昼ご飯になるけどね」

 

 ご飯。インスタントなどではない手作りご飯。その言葉の魅力はなかなかに強烈なものだ。

 いかに俺がカップ麺を好きで、手軽な栄養補助食品を愛用しているとはいえども手作り料理というのを食べたい気持ちはある。

 アネットの作る料理はそれほどおいしいというわけでもないが、こう……作った料理になにかしらの感情を感じることが嬉しくなる。

 それに誰かの手料理を最後に食べたのはいつだったか……。

 意識を遠くにやって考えていると、いつの間にかちゃぶ台の上は片付けられていた。

 

「ね、私の手作りを食べたいと思うでしょ」

 

 俺のすぐ横へとやってきて、にんまりとした笑みを向けてくるアネットに対し、すぐに否定しようとするが、この沈黙の時間はなかったことにできない。

 正直に言うなら食べたい。でも明日はゆっくりとしたい気分だ。それにアネットがいるとタバコを吸いづらくなる。どうしたものか。

 

「ほら、素直に食べたいと言って! こんな美人の女の子に作ってもらえるなら嬉しいでしょう!? だから食べたいと言って!!」

 

 考えているあいだに、そんな生意気を言い始めたアネット。それに対して俺はアネットの肩を掴むと別な手で強引に髪をわしゃわしゃとかき混ぜていく。

 さっきと違い、今度は髪全体を撫でまくっていく。

 アネットの髪は手をくすぐるように柔らかく、水のように手の隙間からこぼれていく。

 

「あ、また、ちょ、やめっ!!」

 

 俺の手を掴もうと慌てるアネットの様子が楽しく、つい遊んでしまうも怒ったアネットによって腹を強めに殴られたことによって中断する。

 痛む腹を抑えながら泊まってもいいと許可を出し、早くシャワーを浴びてこいと言う。

 今日は早く寝ることにしよう。それにそろそろタバコも吸いたい。タバコはとてもいい。仕事の疲れを癒してくれる。そしてタバコを吸うという静かな時間が、今の現代人には必要だと思う。

 

 俺がタバコへと思いを向けていると、アネットは乱れた髪のままで俺から離れると気分良さそうに持ってきたボストンバッグから下着やパジャマにスキンケアの道具を出していく。その時にいちいち俺に見せつけるのはなんだろうか。妹として見ているアネットに欲情しろとでも?

 

 とりあえず、小さい胸を見つめたあとに鼻で笑い、通勤用のカバンから携帯灰皿とタバコ、誕生日プレゼントとしてアネットから渡されたオイルライターを取り出す。

 タバコを吸うためにベランダがある窓に手をかけると、俺の挑発に怒ったアネットが背中に服を投げつけてくるのを感じながらベランダへと出る。

 窓を開けた途端に肌に感じる夜の寒さに体を震わせながらも後ろ手で窓を閉め、タバコを1本取り出しては唇にくわえて火をつける。

 口に広がっていく香ばしい煙の味。それを肺いっぱいに入れると気分が落ち着き、頭がすっきりとしてくる。

 

 そうしてタバコの煙を見ながら落ち着いていると、窓が開けられる音がする。振り返るとアネットが俺の口元へと手を伸ばしていた。

 その手をはたき落とし、くわえていたタバコを手に持つ。

 

「なんだ、急に」

「私も吸ってみたい」

「タバコは嫌いだと言っていただろ」

「匂いは嫌いだけど、そんな気分良さそうに吸っているならおいしいのかなって」

「20歳になってからな」

 

 そう言ってアネットのおでこに手を当てて部屋へと押し戻すと、素早く窓を閉める。

 少しのあいだ、窓越しにふくれっ面な顔を向けられたが、勢いよくカーテンを閉められた。

 そうして1人になり、タバコを口にくわえて安心した自分に疑問を覚える。

 

 以前はこんな気持ちはなかったが、アネットが大人になるにつれて心苦しくなることが増えてきた。

 俺はいい大人になれているんだろうか。おにいちゃんと呼ばれるのにふさわしい人間か、と。

 兄として、俺が知っていることは今まで色々と教えてきた。勉強のこと、遊び方のこと、いじめられていたアネットは決して変な外見じゃないと。

 タバコを深く吸い、煙を口から吐き出しながら今までのことを思い出してしまう。

 手間がかかるも妹のように可愛がってきたアネットが段々と大人になっていくのを見ると、近いうちに俺から離れて行くんじゃないかと考えてしまう。

 それは寂しさが来ると同時に、もう立派な兄でありつづける必要がないという感情がやってくる。

 

 そう複雑な気持ちで 3本目を吸い終わると、ぼぅっとした意識で丸い月を見上げる。

 体がすっかり冷え始めた頃にカーテンが開く音が聞こえ、窓が開けられた。

 振り向くと淡い緑色のパジャマを着たアネットがいて、風呂上りのためか色っぽい表情に一瞬だけ見とれてしまう。

 だが、そんな様子に気づかれたくなく、大げさに体を抱きしめては俺は寒さから逃げるようにして部屋から入る。

 

「あぁ、寒い」

「部屋にいればよかったのに。タバコは吸わないで」

「吸いたい気分だったんだ」

 

 窓とカーテンを閉めると俺は自分の手に息を吹きかけ暖める。

 アネットはそんな俺の様子を見ると、シャワー上がりの手を重ねて心配そうな顔をして暖めてくれる。

 

「風邪になって苦しいのは、おにいちゃんなんだからね」

「これくらいなら大丈夫だ。俺はそれなりに頑丈だからな」

「そんなこと言っていると、風邪を引いても看病に来ないから」

「それでいい。アネットまで風邪を引いてしまったら、お前のおやじさんに怒られてしまう」

 

 少々ひねくれた返事をしていると、アネットは両手でばしばしと俺の胸を叩いてくる。

 いじけながら叩いてくるアネットを無視して部屋にある棚から自分の着替えを出していると、アネットが櫛を持って隣にやってくる。

 その櫛は高校入学祝いとしてプレゼントをした、かまぼこ型をした高級品な手のひらぐらいの大きさをしているツゲの櫛。アネットの髪は太陽の光を反射してキラキラと輝くのは見惚れるほどで、それをさらに美しくしてもらおうと奮発した。

 今でも使ってもらえているのなら、それは嬉しい限りだ。

 

「これを使って」

 

 俺は持っていた下着をそこらに放り投げると、ぶすっとした顔つきのアネットから櫛を取ると笑みが浮かび、こうわかりやすいと可愛いものだなと苦笑する。

 アネットを正座で座らせると、俺は後ろへと回っては立ち膝になって髪を丁寧に()いていく。頭のてっぺんから、腰まである髪の先まで。

 その間、お互いに会話はない。時々アネットの髪をさわってはちょっと湿った感触を楽しみつつ、5分ほどの時間をかけて()いていった。

 

「よし、美人になったな」

「惚れた?」

 

 梳き終わり、我ながら綺麗に整えられたと満足していると自信に満ち溢れた顔をして振り向いてくるアネットのおでこをデコピンして黙らせる。

 

「やっぱりお前はまだまだ子供だな。手のかかる妹だよ」

「なんでよ、自分で美人になったって言っておいてどうかと思うわ」

「見た目は歳相応だが、中身は全然だ。いい女は雰囲気と表情、それに仕草が素晴らしいんだ」

「……おにいちゃんは恋人作ったことないのに、理想が高すぎると思うの」

 

 その言葉は心の奥底へと鋭く突き刺さる。

 決してアネットの前で言葉にはしないが、俺にだって言い訳したいことがある。

 小さい頃からアネットの世話をしていたため、どうしても他の女性とアネットを比べてしまう。見た目も中身も。

 アネットは中身が格別いい女というわけではないものの、悪いところもいいところも知っているだけにアネット以上の女はいないんじゃないかと思ってしまっている。

 

「すぐにとはいかないが、お前に自慢できる彼女を作ってやる。気長に待っていろ」

 

 そう言い放つと、からかわれる前に早くシャワーを浴びることにする。

 俺はさっき放り投げた下着を持って、部屋から出ていこうとする。

 でも、その歩みは止まってしまう。着ているワイシャツが掴まれたからだ。

 振り返ると表情を失い、どこか暗い目をしたアネットが俺をすぐそばで見上げていた。

 何をするまでもなく、じっと見つめてくることに困惑してどうすればいいかわからなくなる。

 

「……アネット?」

 

 そう名前を呼んだ瞬間にアネットは両手でワイシャツの襟を掴んできて、俺はアネットの鼻先にまで引き寄せられた。

 キスをできるほどの近さ。でもアネットはそれ以上何もせず、俺から距離を取って目をそらす。

 

「あ、えっと、その、おにいちゃんは女心や女性に対する色々が足りてないから、付き合った相手の人が失望すると思うの。だから、おにいちゃんは私がずっと見ないといけないっていうか……そう、まだ子供な私の面倒を見る必要があるわ! おにいちゃんがいないと私は生きるのも大変なのよ?」

「確かにお前は手のかかる妹だからな。おにいちゃんは心配しすぎて不安のあまりに夜しか寝られない」

「それ、健康的な睡眠じゃない?」

 

 俺に目を合わせ、さっきとは違って呆れた表情と目を向けてくるアネットの掴んできた手を離させると、俺は今度こそシャワーを浴びるために移動する。

 部屋の仕切りを閉め、服を脱いで裸になるとアネットの匂いがどことなく残る浴室に入っていく。

 すぐに頭からシャワーの温かい湯をかぶり、大きなため息をつく。

 

 アネットの期待が強く、重い。俺がアネットの理想でなくなった瞬間、いったいどんなことを言われるんだろう。それを考えるだけで心が辛い。

 好意を持たれているのはわかる。最近までは兄としての気持ちだっただろうが、高校生になった最近は男性として。それはと恋愛感情な意味合いで好かれているのだろう。でもその気持ちには応えられない。

 単純にまだ高校生という若くて妹みたいなアネットのことを恋愛対象として見ることができないこともある。アネットが大人になってからなら俺の感情が変わるかもしれないが、今はそんな気持ちはない。 

 それに兄妹のような今の関係が俺は気に入っている。だから、このままでいたい。

 

 もし男女の中になってしまったら、怖いという感情を俺は持っている。対等な関係になってしまえば、今までの付き合い方とは変わるために。

 今はおにいちゃんという枠組みで好かれているが、1人の男となってしまったら期待外れと思われるんじゃないかと。

 少し暗い気持ちになってしまったが、冷えた体を温めてくれるシャワーを終える頃には入る前の元通りな気分になっていた。

 浴室から出ると灰色のパジャマに着替えてドライヤーで髪を乾かす。

 

 その後はアネットと一緒に歯磨きをし、隣り合ってテレビを見る。そうして眠くなってきたのは午後11時頃。

 俺があくびをすると、アネットはちゃぶ台を片付けて布団を2つ敷き始める。邪魔にならないよう、立ち上がって壁際で見ていると布団はぴったりと距離を詰めて並べられた。

 

「俺が寝相悪いのを忘れていないか?」

「でもせっかく同じ部屋で寝るんだし、くっついてないと寂しいと思うの」

「前に泊まったとき、俺の足が腹にのっけられて苦しいと言っていたじゃないか」

 

 言葉に詰まるアネットを呆れた目で見つめながら、いつも俺が使っている布団へと入ろうとしたが先にアネットが入ってしまう。

 

「今まで俺の布団で寝ようとしたことがなかったと記憶しているんだが」

「いいじゃない、別に。私がこっちで寝ると何か問題があるっていうの?」

「問題はないが……まぁ、いいか」

 

 これもアネットのわがままというやつだ。俺の布団に入りたくなった理由はよくわからないが、別に寝る布団が普段と違っても寝られないわけじゃない。

 照明のヒモを引っ張り、部屋の明かりを暗くすると俺は布団へと入る。

 小さなオレンジ色の光になった、薄暗い部屋の中。布団に入ってから静かな時間が続き、アネットが大人しいままなのは珍しい。いつもは何か話しかけてくるのに。

 そう思って顔を横に向けると少し嬉しそうなアネットと目が合った。

 

「今日も1日お仕事おつかれさま、おにいちゃん」

「珍しいな。いつもはそんなことを言われないんだが」

「……ねぇ、こういう時は素直にありがとうって言うものじゃない?」

 

 アネットは俺の頬を人差し指で突っついてきて、なんて返事をしようか5秒ほど考えて口に出す。

 

「あー、そうだな。ありがとう」

「それでいいのよ。おやすみなさい、おにいちゃん」

「おやすみ、アネット」

 

 俺の頬から指を離したアネットに寝る前の挨拶をし、俺は天井を見上げる姿勢へと戻ると目を閉じる。

 お互いに話もなく、聞こえるのは呼吸の音だけ。

 次第に俺の意識がまどろみ、落ちていく。

 

「……起きてる?」

 

 眠りに落ちる瞬間に声をかけられ、意識を保つことはできるが体を動かせるほどでもない。

 ぼんやりとした頭でぼぅっとしていると、布団が擦れる音が聞こえてアネットが近くにやってきた気配を感じる。

 頬にそっと柔らかく湿った感触が一瞬だけして「大好きよ、おにいちゃん」と小さい声だけど、とても優しい言葉で幸せな気分を感じて俺は寝てしまう。

 

―――寝ている中、夢でそのことを思い出す。

 

 ふれるだけの優しくも嬉しかった、初めてされたアネットのキス。それは今まで私を見てくれてありがとう、というアネットの感謝の気持ちを感じた。



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