「……んー?」
時刻は昼、場所は大学の食堂。蓮子は素っ頓狂な声をあげて首を傾げていた。
「どうしたの、いきなり。また講義忘れて単位落としたの?」
「単位落としたまで行ったことはないわよ、失礼ね!じゃなくて、この前菫子さんに出したレポートがボコボコにされて帰ってきてるのよね…」
「ボコボコって…」
見せられた画面は確かに、ボコボコといって構わないような内容だった。全体の7割以上にダメ出しがあったり、細かいミスを指摘されたりしている。
「菫子さんそんなしっかり中身見ないタイプだと思ってたのに…」
「…適当に書いたのね」
「ぐぐぐ…それっぽく書いたのに…」
そんな事をぶつぶつと呟きながら画面に向かう蓮子をよそに、私は昼食をぱくついていた。まだ昼休みには余裕があるが、蓮子の様子ではのんびりお昼を食べる暇があるのかどうか。時折こちらを恨めしそうに見つめる目線から容易に察する事はできるのだが。
「メリーも書くのてつだってよー、どうせ今日はもう暇でしょ?」
「何で暇なら人のレポートを書かなきゃいけないのよ…。それに私蓮子のとってる講義は専門外だし。私が書いたらきっとすぐバレるわよ」
打つ手なしというように頭を抱える蓮子の頭上から、帽子がずり落ちる。きっと蓮子のレポートも同じように点が貰えないところまで滑落していくことだろう。どうあれ私にはあまり関係のない話だ、と私は食器を返却スペースに返した。
「あれ、メリーもう帰るの?」
「もう今日は暇だからね。久しぶりに本屋も寄りたいし」
「あっじゃあ私も」
無言で蓮子の抱えるレポートを指さす。いくら楽な講義とはいえ講義もレポートも投げ出すのは得策とはいえない。岡崎教授なら何とでもなるかもしれないが、どうやら菫子さんはそこまで甘くもないようだし。
結局最後まで恨めしそうな蓮子の視線を背中に受けながら、私は食堂を後にした。
「これで良し、と」
寄り道ばかりしていたら、いつの間にか日が沈みかけていた。寄り道と言っても殆どが本屋で足止めを食らっただけの事だが。夕飯は家にあるもので作れるし、気になっていた本も買えたし後は帰るだけ───というところで、私の視界を何かが掠めた。気になって目を向けると道の先、曲がり角に黒い尻尾のようなものが揺れていた。
「猫かしら…珍しいわね、今時」
数年前から野良動物は保護や駆除で殆ど数を減らし、実物なんて山登りでもして熊に会うくらいしか出来ないと思っていたが。生き抜く生命力はずっと頑強らしい。物珍しさに、私は後を追う事にした。
曲がり角を曲がり、猫の姿を探す。するともう次の曲がり角に入ったようで、再び尻尾が揺れている。少しずつ足を早めていっても、何故か追いつくどころか尻尾以外を見ることすら出来ない。そうしてどんどん深く追ってしまう。これでは、まるで───
「…!行き止まり…」
何度目かの曲がり角を曲がると、古びた社が鎮座する場所に出た。私の目の前には、それを守るように朽ちかけた鳥居が構えている。だが見渡しても、肝心の猫は何処にも見当たらない。社の屋根でも伝って逃げてしまったのだろうか。とんだ無駄骨だ。仕方なく、元きた道を帰ろうと踵を返す。
そこには、一面の黒が広がっていた。
私が通ってきた狭い道に押し込めるように、黒いナニカが満ちている。中から、2つの眼がぎょろりと開いた。
いや、2つなんてものではない。黒の至る所から、一斉に覚醒したように無数の眼が開かれていく。
「うっ……!」
その異様さに押されて、ゆっくりと後ずさる。視界に入れているだけでも、悪寒が止まらない。だが、道は目の前のみ。あの無数の眼の先だけだ。
呼吸も荒く、私の足は鳥居を超えて後退する。このまま社の側まで行くべきか?だがこのままでは間違いなく逃げられない。周りには高い塀がある。それを私が乗り越えられるはずもない。
そんな事を考えながら後ろに伸ばした足は、だが地面を踏みしめる事はなかった。
がくりと体勢が崩れる。そのまま重力に従い、ゆっくりと後ろに倒れ込み───私を襲ったのは、浮遊感。
無数の眼も鳥居も、急速に遠ざかっていく。周りに広がるのは、純粋な黒。
そのまま闇の中へと、私の体は落下していった───