「…っ!」
視界に光が差し込み、とっさによろける。足元にはしっかりと地面を踏む感覚がある。黒いナニカも背後にあった社も何処にも見当たらない。あるのは以前に見た気がする鬱蒼とした竹林だけ。
「ここは……この前に夢で来た」
宇佐見菫子を名乗る少女と出会い案内してもらった竹林、その出口だ。ならば、私は今夢を見ているのか?
だが、私はもちろん眠ってなど居ない。足を滑らせた時に頭でも打ったのかもしれないが、それにしても何も覚えはない。あるのは足を滑らせた時の浮遊感と、自分がどこかに落ちていった様な感覚のみ。
「とにかく、なんとかしないと…」
もし夢ならばその内覚めるだろうが、それまで待っているほど暇ではないのだ。それに、もしかしたら菫子ちゃんにまた会えるとも限らない。夢でその表現はどうとも思うが、他に言葉を知らないので仕方なし。
出口から伸びている道を頼りに歩いていく。何処に繋がっているかは分からないが、少なくとも道があるならその先に誰かしらいるだろう。
いくらか進んで行くと、不意に横から音がした。茂みを走るような音が、段々とこちらに近づいてきて───次の瞬間、木々の間から人影が飛び出して来た。とっさに避けようとして尻もちをついてしまう。
「わわっと、ごめんなさ…あっ!」
「え…?あっ」
目の前でこちらを見下ろしているのは、他でもない菫子ちゃんだった。
▼▼▼
私達は少し進んだ先の開けた場所で座り、私は以前にあった出来事を彼女に話した。即ち、宇佐見菫子という女性が彼女より明らかに年上として存在していること、教えてもらった番号は繋がらないことなどだ。
「……ん〜?つまり、ハーンさんの大学には私の名前を騙った誰かがいる…?それに番号は変えてないんですけど…。ちょっと今試しに何か送ってもらってもいいですか?」
彼女に従い、アドレスにメールを送る。するとすぐに手に持つ端末から着信音が響いた。
「うん、ちゃんと届きますね。でもなんで外じゃ使えないんだろう…?変えたりなんてしてないのに」
「電波が届かないって感じでもなかったし…やっぱり1回ちゃんと会った方が良いのかしら?」
「そうしましょう!ハーンさんって明日ヒマですか?」
「明日は…うん、午後からなら大丈夫」
私の言葉に頷くと、菫子ちゃんは何かを端末に打ち込み始めた。程なくして、私の端末に着信音。やはりここではしっかりと届く彼女からのメールには、一箇所にバツ印の描かれた地図が同封されていた。
「そこ、ウチの学校のすぐ前なんです。明日の3時に、そこで待ち合わせましょう」
地図を私の端末に保存する。地図上に表示されている校名は『東深見高校』。起きたときにこの名前で検索をかければ良いだろう。
その後、しばしの沈黙。隣には、足をぱたぱたとして何やら楽しげな菫子ちゃんの姿があった。その姿は、この夢をとても楽しんでいる感じがして。だから、ふと聞きたくなったのだ。
「ねぇ、菫子ちゃん」
「ん、何です?」
「私、菫子さんに…この夢の事は忘れた方がいいって言われたの。私が今見ているこれは、ただの夢なんだって」
「……」
「でも、貴女は…菫子ちゃんは、すごくこの夢を楽しんでいる気がするの。よく分からない場所に放り出されるのは、差はあっても誰もが不安に思うはずなのに、貴女からは全くそれを感じない気がするの」
私の言葉に、菫子ちゃんは僅かに悩むような仕草を見せる。だが、そんなことは決まっていると言わんばかりに顔を上げ、帽子のつばを弾いて見せた。
「私にとって、この夢はただの夢なんかじゃないんです。私にとってここは───本当に、楽園のような場所なの」
「楽園……」
「そう。私が1番、私でいられる場所。きっとその人は、ここに来たことが無いんですよ。だから、私達が羨ましくてそんなこと言うんです」
「そう…かしら」
彼女が本心からそう言っているのは分かる。だが同時に、どこか狂信めいた、危うさのようなものも感じられるような───
「…ふあ」
と、間抜けな声が私の思考を遮った。声の主を探すまでもなく、すぐ隣から響いた声は間違いなく菫子ちゃんのものだ。
「あー、ごめんなさい今日はここまでみたい…。最近目が覚めるのが早いんですよね…」
「寝過ぎは身体に毒だから、それよりは良いと思うわよ?」
「私としてはずっと寝てても良いんですけど…ともかくハーンさん、明日ちゃんと来てくださいね!」
それだけ言い残して、菫子ちゃんは背後の木にもたれるようにして目を瞑った。程なくして、その身体は霧のように霧散してしまった。
「…目が覚めたのかしら……」
おそらく私も同じように夢から覚めるのだろう。だがあいにくまだ私に眠気は来ていない。少し散歩でもすれば自然と眠くなるだろうと、私は歩き始めた。
誰もいない道に、私の足音だけが響く。どこまでも代わり映えしない景色の中、私は菫子ちゃんと、現実であった菫子さんの言葉を反芻していた。
「菫子さんは、ただの夢だって言っていたけど…」
菫子ちゃんはそれを、羨ましがっているのだと言った。そんなことを言うのはここに来たことが無いからなのだと。だが、逆に来たことがあるのだとしたら?ここで何か危険な目にあって、それを忘れようというのなら、筋は通るはずだ。菫子ちゃんは、微塵も思っていないようではあったが。
「彼女にとっては、楽園……」
「───そう、楽園。彼女だけじゃなく、ここに招かれた全てにとっての、楽園と呼べる場所よ」
背後から、声がした。慌てて振り向こうとして……振り向くのを、やめた。正確に言えば、振り向く事ができなかった。それどころか、私の身体は縫い付けられたようにびくともしない。ただ、背筋に強い悪寒を感じる。
すうと、頭上が暗くなる。辛うじて向けた視線の先には、巨大な日傘のようなものが覆っていて。
「初めまして、私ではないアナタ。束の間の夢は楽しめたかしら?」
背後から聞こえる流麗な声に、私は答えることが出来なかった。