もうすぐ、講義の始まる時間だ。私は手持ち無沙汰に端末をいじくっている。座る席はもちろん最後尾、ノートPCを開いて板書をとる形式の現代の大学では最後尾は実質的な自由行動を意味しているのだ。まぁ、最近は岡崎教授が最後尾にいるせいで半ば行動が強制されているところがあるが。いつもなら既に来ているはずの教授も、今日はまだ来ていない。
そして、始まるほんの1分前になって、早足で講堂に入ってきたのは───岡崎教授、1人のみだった。
最近代理だかでずっと講義を受け持っていた菫子さんの姿は、ない。
他の受講者は特段気にしている様子もない。この場にいる殆どの人間にとって彼女は、ただ岡崎教授の代理に過ぎないのだから。けど私は、彼女が自分の前に居ないことに、言いがたい違和感を感じていた。
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「あの、岡崎教授」
目の前の情報を聞き流しながら、講義は終わりを告げ。私は奥で片付けをする岡崎教授に尋ねていた。他ならぬ、菫子さんについて。
「今日は、宇佐見さん…菫子さんの講義じゃないんですね」
「彼女は出張よ。といっても臨時講師みたいなものだから、私にも全然情報が入ってこないんだけど」
「はぁ…」
「なんか、掴みどころがないのよね。受け答えくらいは勿論出来るけど、常にどこか上の空っていうか…そうね、
「夢…ですか?」
「夢遊病、とは言わないけど。研究者の端くれだから、私も似たようなものね」
そう言うと、彼女は鍵をひとつ私に投げて寄越した。慌てて受け取りながらも、首を傾げる。
「彼女の研究室の鍵よ。場所は…地図でも見れば分かるでしょ」
「え?」
「貴女の事だから、どうせ彼女に再レポートでも出されたんでしょ?メールで送るのが一般的だけど、彼女それ用のアドレスとか無いみたいなのよ。だから出すなら、印刷して投げといた方が早いわよ」
言うだけ言って、岡崎教授はさっさと講堂から出て行ってしまった。ここに残っているのは、私だけ。
「………」
レポートなど出されてはいない。つまり菫子さんの研究室による理由は無いし、ならば鍵を返してさっさと帰るべきなのだ。
そうするべき、なのに。
気づけば私は、彼女の研究室の前にいた。
「…いやいや。用もないのに、こんな端まで来るなんて…」
我ながら馬鹿馬鹿しい。さっさと帰って、まだ陽もあるうちにメリーでも引っ張って喫茶店にでも行く方が建設的だ。
そう、踵を返したとき。ポケットから、端末の振動音が響いた。見ると、メリーからのメールだ。確か、今までに見た夢の内容を思い出しておいてくれと話したような。律儀にメールしてくるメリーらしく、そこには彼女が見たであろうものが列をなしていた。
折角だから、これらについて話をしようと、思い───
───私は、振り向く。背後には、菫子さんの研究室が変わらずそこに、ある。
───この研究室には、何がある?
再び踵を返し、手に持った鍵を差し込む。僅かに軋んだ音を立てて、ゆっくりと扉が開かれる。
───彼女は私に、何を見せた?
狭い部屋の中の、一角に。何かの資料とおぼしき書類が山積みの、小さな机がある。それに、そっと近づく。
───彼女は、“あちら”から持ち帰ったと言っていた。ならば、ならば。
その机の、1番下。鍵穴のついた引き出しに手をかけて、引く。がち、と固い手応えがあり。
ただ、それだけだった。引き出しはゆっくりと、するすると中身を私に晒す。
───
幻想郷縁起と呼ばれた書物が、剥げかけた装丁をそのままに佇んでいる。
これには、メリーが夢で見た全てのものが記されているという。のみならず、まだ見ていないものまでもが、この中にはある。それが今、私の手にある。
「……」
私はそれを、鞄に素早くしまい込むと。逃げるように研究室を後にしたのだった。