魔法省大臣は人使いが荒い   作:しきり

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秩序

「来たか」

 今にも雨が降り出しそうな曇天の空の下、広大な敷地を有する邸を包囲している者たちの中に、ジェーン・スミスは魔法省大臣の姿を捉えた。見知った警察部隊の隊員たちに挨拶をしながら近づいていくと、その耳が不穏な人々の騒めきを拾い上げたのだろう、キングズリー・シャックルボルトがこちらを振り返る。

「私は君に隠れ穴で大人しくしているようにと言ったつもりだったのだがな」

「今すぐ来いと命じられたものとばかり」ジェーンはキングズリーから僅かに距離を置いて足を止め、軽く目礼をする。「大変失礼いたしました、大臣。どうやら私の思い違いだったようです」

 では、と言って踵を返そうとすると、待て、と呼び止められる。

 マルフォイ家の邸宅はロンドンから離れたウィルトシャーにある。なぜかマグルたちがありがたがって足を運ぶ、ストーンヘンジが立っている辺りだ。

 魔法省に残っている記録によると、マルフォイ家の一族は、遡ること十一世紀の中頃からこの地に住まい、少しずつ領地を広げていったらしい。国際魔法使い機密保持法が成立する以前は、イギリス王室とも交流があったという。自らの領地に住んでいるマグルからは、まるで王侯貴族のように、税を徴収していたという話だ。

「見事な庭だ」キングズリーはそう言うと、ふん、と鼻で笑う。「そう思うだろう?」

 門扉から邸宅までは長い馬車道が続いている。手入れが行き届いた庭の芝生は、高級な絨毯のように美しく整えられ、その上を純白の孔雀が優雅に歩き回っていた。庭園の真ん中にある豪華な噴水から噴き出している水は、時折動物の姿に形を変えている。富と権力の象徴だとは思うが、ジェーンの趣味ではない。本家の庭園の方がずっと美しいと思う。

「維持管理が大変だろうなと」

 ジェーンが表情を変えずにそう口にすると、キングズリーはこちらを横目に一瞥してから、どこかつまらなそうに「確かにな」と同意した。

 売り払ってしまった以前の家にも庭はあった。ここに比べれば猫の額ほどの大きさしかなかったが、それでも手入れは大変だった。両隣の家にはマグルが住んでいたので、魔法を使うわけにはいかなかったからだ。この家ではさすがに、腕の良い庭師を雇うか、屋敷しもべ妖精にやらせているのだろう。

 時刻は日没前、午後八時過ぎだ。あと一時間もすれば辺りは漆黒に包まれる。

 

 

 

「──スミスさん、クィブラーの記事は事実なんですか?」

 ハリー・ポッターはとても丁寧な物言いでそう訊ねてきた。丁度紅茶を飲み干したところだったジェーンは、カップをテーブルに戻し、僅かに濡れていた下唇を指先で拭う。顔を上げれば、ポッターは思わず目を逸らしたくなるほど実直な眼差しで、ジェーンのことを見ていた。

 まだ子供が抜けきっていないこの青年が、あの闇の帝王を討ち滅ぼしたのだと思うと、酷く不思議な気持ちになる。それと同時に、このイギリス魔法界に属する多くの人々──それに加え近隣の国の人々が、こんな子供に重責を背負わせていたという現実を、心から不憫に思った。

 だが、それとこれとは話が別だ。

「その雑誌が出版されてしまった以上、記事の内容が事実であれ虚偽であれ、もはや関係のないことです」

「……それが質問の答えですか?」

「私があれはすべて根も葉もない話だと言ったら信じてくださいますか?」

「もちろん信じます」

「本当に?」

 ジェーンがそう言って眼鏡越しにじっと見つめれば、ポッターはほんの一瞬返事に詰まった。どうやら嘘を吐くのは苦手らしい。それなりの場数は踏み、肝も座っているようだが、嘘は良心が咎めるらしい。

「これは大臣にもお伝えしたことなのでお話ししますが、ザ・クィブラーの記事は概ね事実です。あえて訂正することはありません」

「あんたが死喰い人の残党を国外に亡命させているっていうのも?」

「ロン」

 静かになった室内に、息子を咎めるアーサーの声が残る。

 ジェーンはジニーが持ってきたザ・クィブラーを借り受けると、該当のページを開き、テーブルの上に置いた。そして、まるで個人授業をする教師のように、文章を指先で指し示しながら、ゆっくりと読み上げていく。

「この記事をよく読めばお分かりになると思いますが、これは筆者の推測に過ぎません。筆者は、自らが国外に亡命させていた魔女や魔法使いが、マグル生まれだけであるという証明をしなければならない。さもなくば、現在逃亡中の死喰い人の残党を、マグル生まれの魔女や魔法使いと同様に、国外へ亡命させていると疑われても致し方ないと言わざるを得ない、と書いています」

 雑誌から顔を上げたジェーンは、ポッターの隣に座っているロンを見やり、目を細めてにこりと微笑んだ。

「この通り、リータ・スキーターは自分自身の言葉を決して断定してはいません。ですが、あなたは今、私が死喰い人の残党を国外に亡命させていることを事実だと誤認しているようです。彼女は本当に素晴らしい記者ですね。このように読者を扇動し、ただの憶測に過ぎないことを、事実だと思わせてしまうのですから」

 我ながら大人気ないことだと思う。だが、息が詰まる空間に何日も軟禁されているのだ、この程度の嫌味は許されて良いだろう。少なくとも、ジェーンは死喰い人の国外逃亡に手を貸した覚えはないので、嘘を吐いてはいない。

「じゃあ、ここの部分──何らかの交渉の末に無傷で解放された、というのも事実ではないと?」

 ポッターはジェーンがそうしたように、文章を指先で追いかけながらゆっくりと読み上げ、問いかけてくる。

「話はしました」

「誰とですか?」

「お答えすることはできません」

「どうして?」

「お答えすることができないからです」ジェーンは魔法省大臣に対してと同じ返答をする。「ご期待に沿うお答えができず申し訳なく思います」

「もしかして、破れぬ誓いを結んだの……?」

 ほとんど囁くような声で言ったジニーに向かって、ジェーンは困ったように笑ってみせた。

 下手な言葉を口にするよりも、こういう顔をして見せれば、相手が勝手に理解してくれることがある。こちらが否定も肯定もしなければ、万が一の際の言い訳にもなる。何年も魔法省大臣の補佐として働いていると、抜け目のなさにも磨きがかかるようだ。

「で、でも──」

 落ち着きなく席を立ったかと思うと、ジェーンの隣までやってきて空になったカップに新しい紅茶を注ぎ、努めて明るい口振りでモリーが続けた。

「クィブラーに書かれていることが本当なら、ジェーンは大勢のマグル生まれの人たちを救っていたってことよね? 誰にでもできることではないわ。そうでしょう?」

 自分の家族とハリー・ポッターに詰め寄られている姿を見て哀れに思ったのか、客人がこれ以上気分を害さないように配慮してくれたのか。もしかしたら、追い詰められて暴れ出すことを危惧したのかもしれないが。

「破れぬ誓いを結んだことが本当なら、その相手はまだ生きているということになりませんか? 相手が死んでいれば話すことができますよね?」

「いや、ハリー。破れぬ誓いは死後も継続される。誓った相手が死んだとしても、誓いを破れば死ぬんだ」

「だけど、誓いを結ぶためには仲介人が必要だ。クィブラーには、ベラトリックス・レストレンジと、もう一人の死喰い人しかいなかったと書かれてる。しかも、ベラトリックスはこの人との戦闘に負けて、気を失ってたんだろ? だったら、一体誰が仲介人になったんだ? そもそも、もし本当にその場で破れぬ誓いを結んでいたのだとしたら、このインタビューを受けた人がその一部始終を見ていたはずじゃないか。そのときのことを話さないわけがないと思うけど」

「ロン、あなた……」ジェーンの隣にいるジニーが、酷く呆気に取られた顔をして、ポッターの隣にいるロンを見た。「一体どうしたの? まるでハーマイオニーが乗り移ったみたいじゃない」

 ハーマイオニー・グレンジャーはマグル生まれの女性で、選ばれし者の親友の一人だという。闇の帝王を葬るために一役買った人物で、非常に優秀なのだという話をジニーから聞かされた。どうでもいいが、ロンの恋人らしい。選ばれし者と近しい関係にあったことで、自分を含め家族全員が死喰い人に命を狙われることを見越し、両親の記憶を消して国外に逃したという話だ。

 ロンはジニーの言葉を受けた後、自らのポケットに手を入れたかと思うと、一通の封筒を取り出してテーブルに置いた。

「ザ・クィブラーが発売されてすぐ、オーストラリアにいるハーマイオニーに雑誌を送ったんだ。ふくろうが海を超えて手紙を届けられるのか心配してたけど、昨日の夜返事が届いた」

「ハーマイオニーはなんて?」

「もしこの記事の内容が事実なら、ジェーン・スミスは英雄と讃えられるべき人だ」ロンはジェーンのことをじっと睨みながら続ける。「ただし、証言している人の言葉通り、完全なる潔白だと断言することはできない。判断材料が少なすぎるからって」

「過分な評価、痛み入ります」

「僕たちはまだあんたのことを信じられないって言ってるんだけど」

「ええ、それで結構です」

 ここへは信頼関係を構築しに来たわけではない。ジェーンにとっては居心地に配慮された監獄に投獄されているようなものだ。普通、看守たちと仲良くなりたいとは思わないだろう。仲良くしたところで、多少の待遇の改善を見込めるだけで、自由を得られるわけでもない。

 それでも、ジェーン・スミスはここにいる。なぜなら、魔法省大臣にそう望まれているからだ。ジェーンは組織の中で生きている。立場が上の者に命じられた以上は、それに従わなければならない。少なくとも、目に見える範囲では。

「どうして嘘を吐くんですか?」

「どうして嘘だと思うのです?」ポッターの問いに、ジェーンは平然と応じる。「あの記事を信じる所以は何でしょうか。あなた自身のインタビュー記事を掲載させたのが、ザ・クィブラーだからですか? 自身のインタビュー記事を正しく掲載したのだから、今度も正しいはずだと? リータ・スキーターにそこまで肩入れされているとは、意外ですね」

「あの記事を書いたのが誰であれ、あなたは自分自身で概ね事実であることを認めましたよね? あえて訂正することはないと言いました。ここにいる全員がそれを聞いています」

「私は最初にこう申し上げました。ザ・クィブラーが出版されてしまった以上は、記事の内容の真偽はもはや取るに足らない問題であると。その証拠に、あなた方は私の言葉尻を捉えて、馬脚を現すのを今か今かと待っておられる。私の言葉は信用に足るものではないと、そう思っていらっしゃる」

「ですから、あなたが本当のことを言ってくれれば──」

「何をもって本当のことだと判断されるのですか? あなた方が満足のできる返答をすれば、それが本当になるのですか?」

「そうやってのらりくらりと言い逃れをしようとしても、僕たちにはあんたがこの場をうやむやにしようとしているのが丸わかりだからな」

「ご明察です。私からこれ以上お話しできることは何もないので、適当に話を合わせておりました」

 そう言いたい気持ちを抑え込み、ジェーンは唇を緩く引き結ぶ。

 そもそも、今問題にするべきは、ジェーン・スミスの罪の真偽ではない。査問会は既に行われ、裁定は済んでいる。下級補佐官の職務は剥奪され、ケンタウルス担当室に左遷された。それで終わったはずだ。

 ジェーンは小さく息を吐くと、険しい面持ちを浮かべ、黙って若者らの話に耳を傾けていたアーサーを見た。

「死喰い人の残党たちは、そのMr.サットンを人質にして、以降は何か要求をして来ているのですか?」

「いや、今のところはまだ何もないようだ」

「人質を取ったからには、何らかの要求はして来るでしょう。周辺の姿現しは封じているのですよね?」

「ああ、そう聞いているよ」

「ある程度の食料の蓄えはあるでしょうが、それもすぐに底をつくはずです。飢えを凌ぐために、食料を要求してくる可能性は高いと思いますが」

「だったらそのまま餓死させればいい」

 予想に反する言葉を聞いて、ジェーンは思わず口を閉じ、ポッターに目を向けてしまった。ポッターは酷く冷えた、恨めしそうな表情を浮かべ、テーブルの焦げた傷を睨んでいた。

 ジェーンはすぐに、ポッターがここにいる理由を理解した。

 ポッターはもうすぐ、闇祓いとして魔法省で勤めることになるのだろう。魔法省大臣としては、少しでも早く職務に就かせ、経験を積ませたいと考えているはずだ。此度の籠城戦にも、可能なことなら参加させたかったに違いない。

 だが、そうはしなかった。

 なぜなら、ハリー・ポッターは死喰い人の残党など死ねばいいのだと、そう思っているからだ。もちろん、繰り返すようだが、何かを思うことはその人の自由だ。かくいうジェーン・スミスも、彼らには死んでもらった方が都合が良いと、そう思っている。

 しかしながら、魔法省という組織を通して考えた場合、非人道的な虐殺は控えるべきだというのが、ジェーンが出す結論だ。

 目には目を、歯には歯をというマグルの言葉がある。こちらが受けた仕打ちの分だけなら、相手に報復しても構わないという、法典に記されているありがたい文言だ。だがそれは同時に、受けた仕打ち以上の報復をしてはならないという決まりでもある。

 それならば、善良な魔女が悪名高い魔女を殺した罪に問われないように、その逆もまた、不問に処さなくてはならないのだろう。国家を跨いだ数々の犯罪に手を染め、殺人すら厭わなかった、かのゲラート・グリンデルバルドですら、闇の帝王にその命を奪われるまでは、生きたままヌルメンガードに囚われていたのだから。

 どの国の魔法界からも、脱獄した死喰い人の残党たちを殺したところで、抗議の声が上がることはないだろう。イギリスの魔法界に属する魔法族たちからはむしろ、アズカバンから囚人が脱獄したと聞かされる度に肝を冷やし、怯えながら暮らさなければならないのなら、ジェーンと同じようにさっさと殺してくれと、そう言う声が上がるに違いない。死喰い人に殺された家族、友人、仲間がいる者ならば、彼らの死を望むのは当然のことだ。

 それでも、魔法省大臣となったキングズリー・シャックルボルトは、死喰い人を積極的に殺そうとはしないだろう。自分自身の中にある殺意には蓋をして、職務を全うしようとするだろう。理性的で人道的な魔法省大臣として振る舞い、死喰い人にすら慈悲を与えようとするだろう。

 殺されないだけ良い──それは温情のようにも思えるが、実際には、生きたまま地獄を味わえという意味でもあるように、ジェーンは思う。

 生き残った死喰い人たちの目的が何なのかは分からない。闇の帝王の仇を取りたいのか、鬱憤を晴らしたいのか、ただただ命が惜しいのか。中には、やり残したことがある者もいるのかもしれない。

 例えば、自分が無慈悲に殺されるのだとしても、恨みを覚えている者を道連れにするために、アズカバンくんだりから遥々やって来た者も、いるのではないだろうか。

「人の世には秩序が必要なのです、Mr.ポッター」ジェーンが静かに声を上げると、ポッターが眼鏡越しに緑の目でこちらを見る。「ルールが存在する以上は、誰であれそのルールに従わなければなりません。人をみだりに殺すことはできないのです。たとえそれが犯罪者であったとしても」

「でも、死喰い人はそのルールに従ってませんよね?」

「だから我々もルールに従う必要はないと言うのですか?」

「死喰い人相手にルールを守る必要はないんじゃないかと言っているだけです」

「イギリスの魔法省は、この国の魔法界に属するすべての魔法族に対して、同じ法律を厳守するよう定めています。人殺しは犯罪です」

「有事の場合は別だと聞いてますが」

「闇の帝王は葬り去られました。有事は去り、平時が訪れています」

 魔法省大臣室で補佐官をしていたときは、それこそルールに則って働かざるを得なかった。故に、融通が効かないと苦情が来ることも多かった。

 だが、魔法省の上層部に位置する大臣室が不正や贔屓を許せば、いずれ収拾がつかない事態に陥るだろうことは、目に見えていた。今までの魔法省大臣から、先方には便宜を図るようにと命じられても、必ず一度は再考するようにと願い出ていた。

 魔法省大臣室が最後の砦だった。そうでなければ、今頃はイギリスの魔法界は崩壊し、秩序なんてものは存在しなかったかもしれない。

 この一年間、死喰い人らが牛耳っていた魔法省が、最低限の機能を保ち続けていたのは、魔法省大臣室が何よりも秩序を厳守していたからだ。

 もちろん、自分がそのルールを捻じ曲げ、逸脱した解釈で法の網を掻い潜っていたことを、ジェーンは素直に認めるだろう。ジェーンは己が犯した罪を、深く、深く理解している。だが、それは有事の際の出来事だったのだと言って、言い逃れをしても許されることなのだろうかという疑念が、未だその胸の奥に巣食っている。

「相手がルールに従わないことが、自分がルールを守らない理由にはなりません。特に、それが魔法省大臣という責任ある立場にいる者ならば尚のこと、自らの感情を律し、秩序を守らなければならないのです」

「……どうしてキングズリーを引き合いに?」

「自分も一緒に行くと言ったあなたを、魔法省大臣は置き去りにしたのではありませんか?」図星だったのだろう、ポッターは目を大きく見開き、ジェーンから視線を逸らした。「死喰い人が憎い気持ちは理解します。ですが、本当に闇祓いを志すおつもりなら、公私の切り替えを学ばなければ、いつまでも実務を経験させてはもらえません。たった一人の暴走が、大勢の仲間の命を危険に晒すこともあります」

「そんなことは──!」

 ジェーンが言い終えるのを待たず、ポッターは感情のままに何かを叫びかける。だが、周りの人々の眼差しが自分に向けられていることに気づくと、ゆっくりと息を吐き出した。しかしながら、完全に口を噤むことはできなかったようだ。

「──そんなことを、あなたに言われる筋合いはありません」

 ジェーンは負け惜しみのようなその言葉を聞きながら、この青年の若さを実感していた。

 その後、隠れ穴の空気がますます冷え込んだことは言うまでもない。

 沈黙を嫌ったアーサーが、場の雰囲気を和らげるために小さく咳払いをしてから、脱獄をした囚人たちの今現在の状況について話し出した。

「マルフォイ家の邸の周辺は、魔法警察部隊に完全に包囲されている。それから、邸内には家族しか知らない、外と繋がっている隠し通路があるそうだ。もしものときはそこから突入することになるかもしれない」

 死喰い人が降伏するわけがないと、ロンが言った。その通りだとジェーンも思う。

 過去には、捕まってアズカバンに投獄されるくらいなら、戦って華々しく死ぬことを選んだ死喰い人もいた。大勢を巻き込んで自爆をする準備をしている可能性も否定はできない。

 選ばれし者が闇の帝王を葬り、生き残った死喰い人の残党らをアズカバンに投獄したことで、地の底まで落ちていた魔法省の評価は、僅かながら浮上していた。それなのに、脱獄した死喰い人の残党らが、マグルのみならず、マグル生まれの魔法使いまで殺したとなれば、魔法省は今以上の責苦を受けることになるに違いない。

 故に、最も優先すべきは、人質の命だ。

 それからしばらくすると、隠れ穴に光り輝く一匹のオオヤマネコが飛び込んできた。キングズリーの守護霊だわ、とジニーが声を上げた。テーブルの上に降り立ったオオヤマネコは、その場に腰を下ろすと、なぜかジェーンの方を見た。

「死喰い人の脱獄の経緯だが、アズカバンの看守がザ・クィブラーを囚人にくれてやったことがきっかけらしい。脱獄の際に、吸魂鬼を何体か連れ出している。それと、人質はどうやらウェズリー・サットンだけのようだ。自分の口で、スキーターにインタビューを受けたから、クィブラーを買って読んでくれと触れ回っていた、という報告を受けた。思うところはあるだろうが、気に止む必要はないぞ、Miss.スミス」

 随分と長い伝言を伝え終えると、オオヤマネコは霞のようにスッと消え去った。

 この伝言を受けて、ジェーンはアーサーの説得を振り切り、隠れ穴を後にしたのだ。結局、パーシーは早朝に出て行ったきり、隠れ穴に戻ってくることはなかった。

 

 

 

 日没後、マルフォイ家の邸宅の窓に灯りは見えない。警察部隊員の装備にある双眼鏡を借りて隅々まで覗いてみたものの、すべての窓にはカーテンが引かれ、中の様子を窺い知ることはできなかった。

 今のところはまだ、立てこもっている死喰い人たちからの要求はないが、もう間もなく交渉が始まるというのが、魔法省大臣の考えらしい。闇の魔法使いのスペシャリストである元闇祓いが言うのだから、そうなのだろう。

 かつての味方を売り、自分とその家族だけが許された代償がこれだ。魔法省からの要請で死喰い人の残党狩りに参加した結果、そのときに捕えられた者も少なからずいるので、マルフォイ家は余計に恨みを買っている。実際は自宅を占拠されるだけで済んでいるが、魔法省大臣の判断が少しでも遅れていたら、今頃は家族全員が死の呪文により、呆気なく殺されていただろう。

 大臣の仕事はどうしたのですかとジェーンが問うと、キングズリーは自分の優秀な補佐官たちが何とかしてくれているはずだと言った。大臣室は今、酷く悲惨な状態だろうと思い、ジェーンは心の中でかつての同僚たちを労う。

「人質は生きていると思うか?」

 簡易的に設置されている作戦本部のテントの外側で、支給されたパサパサのサンドイッチを食べていると、紙コップに入れられた紅茶が目の前に差し出された。顔を上げれば、そこにはキングズリーが立っている。

「私には分かりかねます」

「君はもう私の直属の部下ではないのだ、Miss.スミス。忌憚のない意見を聞きたい」

「はあ」返事ともため息ともつかない声を出し、ジェーンは差し出されている紙コップを受け取った。「魔法省の職員は総じて大臣の直属の部下ですので」

 ジェーンはサンドイッチの最後の一口を頬張り、温い紅茶で押し流すようにして飲み込んだ。

 邸宅に変化はない。あまりにも静かだ。念の為、隠し通路の先にも警察部隊が詰めているそうなので、もし通路を見つけ出せたとしても、こっそり逃げ出すことは不可能だろう。

「多少は痛めつけられているかもしれませんが──」ジェーンは双眼鏡を覗き込み、変化のない邸宅を観察しながら言った。「人質は生きていると思います」

「その根拠は?」

「もし私が死喰い人なら、この時期に脱獄は企てません。闇祓いと警察部隊員の多くは未だ残党狩りの手を緩めてはおりませんから。少なくとも、あと二、三年、可能なら五年から十年は待って、一連の記憶が程々に風化された頃を見計らい、こっそり脱獄します」

「ほう」

「彼らには脱獄を急いだ理由があるのかもしれません。何らかの取引を持ちかけようとしているのなら、人質は生かしておいた方が有力な交渉材料の一つになります」

「何か心当たりでも?」

 ジェーンは返事をしなかった。あると言えばあるし、ないと言えばないからだ。

 死喰い人の中には、理由があって脱獄した者もいれば、ただそれに便乗して脱獄しただけの者もいるだろう。適当な大義名分を与えれば言いなりになる駒は、多ければ多いほど良いに決まっている。闇の帝王の弔い合戦だとでも言えば、彼らは大いに張り切るはずだ。

 ジェーンが確信しているのは、コーバン・ヤックスリーの脱獄の動因だけだ。

 あの男はジェーン・スミスを恨んでいる。ロンドンの街中でジェーン・スミスを殺してやると罵声を上げていたそうなので、まず間違いはないだろう。ヤックスリーは何を置いてもジェーンを殺したいのだ。ジェーンを殺せば、それでヤックスリーの鬱憤が晴れるかどうかは分からないが。

「ヤックスリーの他には誰が脱獄をしたのですか?」

「カロー兄弟とルックウッド、ドロホフ、ラバスタン・レストレンジ、ソーフィン・ロウルと、残りは取るに足らない者たちだが、厄介なのが一人紛れていてな」

「誰です?」

「フェンリール・グレイバックだ」

「グレイバックもここに?」

「いや」キングズリーは一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をした。「あいつは単独で動いているようだ。死喰い人は純血主義の集まりだからな、基本的に人狼を下に見ている。ヴォルデモート卿の支配下ならまだしも、あいつにしてみれば死喰い人と行動を共にするメリットはない。今はどこかに潜伏し、満月の夜になるのを待っているのだろう」

 グレイバックは近年では最も名の知れ渡った凶悪で残忍な人狼だと言われていた。子供ばかりを標的にし、故意に人狼症に感染させる。

 人狼症とは満月の夜に変身した人狼に噛まれると感染する病だ。放置すれば失血死、適切な処置をすれば命は助かるものの、自らも人狼になってしまう。

 イギリスの魔法族たちは、死喰い人らと共にフェンリール・グレイバックがアズカバンに投獄されたことを、密かに喜んでいた。あれほど積極的に人間を人狼症に感染させようとする人狼は、人々にとって脅威でしかない。もう満月の夜に、我が子がグレイバックに襲われる心配はないのだと、そう安心していた親は大勢いたはずだ。

「後は追わせているのですか?」

「狼人間捕獲部隊に捜索させてはいる」思わず頬を引き攣らせてしまったジェーンを一瞥し、キングズリーは皮肉っぽく笑った。「さすがに一任することは憚られたので、魔法警察特殊部隊の精鋭を派遣しておいた」

 狼人間捕獲部隊は、その名の通り、人狼を捕獲するために存在している部隊だ。だが、この部隊が活躍したという話を、ジェーンは魔法省に勤め始めてから一度も聞いたことがない。そも、何年もフェンリール・グレイバックを野放しにし続けていたのだから、その貢献度は瑣末なものだろう。

「そういえば──」キングズリーは、たった今思い出したというふうなわざとらしい表情を浮かべ、続けて言った。「君は以前、狼人間捕獲部隊に人狼を雇用してはどうかと進言したことがあるそうだな」

「誰から聞いたのです?」

 そうジェーンが問いかけても、キングズリーはにこりと笑うだけだ。

 恐らくは、補佐官の誰かから聞いたのだろうとジェーンは思う。その話を知っていて、今もまだ補佐官を続けている人物は、極々少数だ。

「魔法省に入りたての頃の話です。コーネリウス・ファッジには鼻で笑われ、一蹴されました」

「私はそう悪い提案でもないと思うが」

「ただの若輩者の戯言ですので、どうかお忘れください」

 そもそも、今はこんな話をしている場合ではない──そう考えたジェーンは、再び双眼鏡を覗き込み、邸宅の方向を注視する。するとそのとき、邸宅の玄関が僅かに開くのが見えた。

「大臣」ジェーンがそう声をかけ、僅かに双眼鏡を持ち上げると、キングズリーが同じように双眼鏡を目に当てた。「玄関です」

 薄く開いた玄関扉からは微かな光が漏れ出ていた。足元に人影が伸びている。隙間から先端が淡く光る杖先が覗き、次の瞬間、何かがこちらに向かって放たれた。

 そして、いつも魔法省の天井付近を絶え間なく飛び交っている飛行機に酷似したそれは、不気味に青白く発光しながら、暗闇の庭園を抜けて、真っ直ぐに魔法省大臣を目掛けて飛んできたのだった。

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