彼はきっと私を好きではない。

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夕焼け色の呪い。

「──自分なりに言い訳は付けたけど、ルールはルール。破ったら駄目だよね」

 

 彼女の指先がキラキラと粒子になって、透けていく。

 作られた笑みは不安を必死で押し殺しているのか、僕の事を案じているのか、はたまたその両方なのか。僕には理解できなかった。

 

 彼女が消えていく。全てを出し尽くした僕の為に。

 僕は全てをやり終えていた。ここで死んだって後悔は無い。そんな僕を彼女は繋ぎ止めたのだ。

 

「景一君。私ね。未来から来たの」

 

 僕はそこで初めて彼女の正体を知った。

 

 ◇

 

 午前十一時。彼女、三廻部未来(みくるべみらい)はまだ目を覚まさない。

 僕の腕を抱えて、丸まったまま動かないのだ。

 昨晩は体力を消耗した事は確かである。お互い休日は不定期、重なるなんて稀だ。だからこそ、半日潰しても問題ないと理由をつけて致したのだが……程度ってものがあるだろう。

 呆れつつ、揺さぶりを繰り返した。その成果もあってようやく彼女の意識がうっすらと表れ始めた。「んっ……」と鬱陶しそうな息が漏れる。

 

「いい加減に起きてくれ、未来さん。そろそろ起きて僕の右腕を開放して欲しい」

「……やーだ」

 

 疲れた声。僕の腕をより自分の体に密着するように抱える。ピリピリと痺れている腕に触れられ、表情を歪めた。

 

「このままだと朝ご飯作れないよ」

 

 時間的にはもう昼食だな。そう自分でツッコミを入れながらつぶやく。彼女は無反応だった。

 

「残念。未来さんが好きな卵豆腐買って来たのに。起きないなら僕が二つ食べちゃおうか」

「それは、ダメ……」

 

 のそのそと体を起こす。彼女は本当に気だるげだ。肩から滑り落ちた掛布団を取る素振りすら見せない。その肢体が生まれたままの姿でさらされる。

 お腹に刻まれた数字だけの入れ墨がチラリと見えた。お互いに見慣れるぐらいに見せ合っているから今更だけど、ここまで無防備だとちょっと心配になる。

 初めて会った時からそう言う所は変わっていない。

 

「起きれたじゃん。シャワー浴びて来なよ」

「面倒……」

「そう言わないでよ。このままベタベタなのは嫌でしょ?」

 

 僕は彼女の背中を押して、洗面所に向かわせた。一度脱ぎ捨てた服を羽織る。キッチンへ出向いて、ハムエッグを焼こう。ひとまず炊いてあるご飯を二人分よそった。

 でき上がったものを皿に盛りつけて、パックの卵豆腐を二つ出す。

 準備を終えて耳を澄ますと、シャワーの音が遠くに聞こえた。彼女はまだシャワーを浴びているらしい。あまり待つと、冷めるし食べ始めてしまおう。

 

 ごはんの上にハムエッグを乗せて、半熟のきみを崩して麺つゆを垂らす。ごはんと黄身が混ざっていく。この半塾の卵かけごはんが僕は好きだった。

 ちまちまと食べ進めていると、いつの間にか水音が止まっていて、ペタペタと足音が響いた。

 彼女は適当にボタンをとめたワイシャツを着て、肩にタオルをかけている。ウェーブのかかった髪にはまだ水気が残っていた。

 

「おはよう、景一(けいいち)くん。……あ、本当に卵豆腐ある」

「本当にって、僕のこと疑ってたの?」

「だって景一くん、嘘付くじゃん。たまに」

 

 タオルを隣の椅子に掛けて、席に着いた。両手を合して「いただきます」と宣言。朝食に手を付けた。いろいろな所が適当なのに、こういう所はしっかりしてる。線引きが謎だ。

 

「必要と感じた嘘をついているだけだ。僕は悪くない。嘘を付かせる状況が悪い」

「またそんなこと言って。そう言う状況を作っちゃう君も悪いんじゃない?」

「ごもっとも。でも改善しようと思うと、未来さんを追い出さないといけないね」

「それじゃあしょうがない」

「いや、諦めないでよ」

 

 僕の指摘をものともしない未来さんは、卵豆腐のフィルムを開けてご機嫌だ。箸でくぼみを作って、付属のだしを流し込んでいる。この瞬間の彼女は幸せそうで、水を差してはいけない気がした。

 

「本当に好きだよね卵豆腐。普通の豆腐は嫌いなのに」

「普通って、白の豆腐? あれ味がしないんだもん。味がしない豆腐は二流」

「ちゃんとした豆腐は大豆の旨味とか感じられると思うけど?」

「でも景一君が買ってくる奴はそうでも無いよ?」

「スーパーで安いの買うからね。今度一緒に遠出して良いの買いに行く?」

「それはめんどくさいなー。同じスーパーで買えるならこっちがいいよ」

 

 彼女は手の中にある卵豆腐のパックを掲げる。一口食べて「ん~」と悦に浸った声を出す。

 

「ところで景一君。今日はどうする? 出かける?」

「いや、もう昼だし」

「じゃあいつも通り?」

 

 僕は頷く。僕と彼女の繰り返されてきた日常。今日もそれを続けるために問う。

 

「君さえ良ければだけど」

「大丈夫。最近の展示会はもう行ったから」

「そっか。ありがとう。今回もよろしく」

 

 食べ終えた食器を重ねて流しに持って行く。

 

「今日は僕が作ったから、お皿は未来さんが洗っておいてね」

「え~景一君が洗ってくれないの?」

「洗わない。そう言う所はきっちりするって、約束でしょ?」

「でも、私まだ髪を乾かさなきゃいけないし、せっかくの”モデル”なのに不完全な状態でいいの?」

 

 彼女は首を傾げた。それを言われると僕も弱い。仕方なくスポンジを手に取った。満足そうに微笑む彼女に僕は敵わない。

「ごちそうさま」と彼女は鼻歌交じりに食器を片付ける。洗い物をしないだけで、ここまでテンションを上げられる人材は貴重だろうなと思った。

 

 片づけを終えて、自分もシャワーを浴びた。それからリビングへ足を踏み入れる。

 普段からこの場所は片付いていない。埃っぽくて、常に一定の割合で空気に油絵の具の匂いが混ざり合っていた。

 僕が持ち合わせる唯一の異色さ。個性的な物。それがちりばめられたスペース。中心のぽっかりと開けられた場所。未来さんは丸椅子の上に陣取っている。

 さて、今日も始めよう。僕と君の芸術を。 

 

「──お待たせ」

「大分待った。待ちくたびれたよ。石膏像になっちゃうかと思った」

「石膏像って、独特な表現だね」

 

 僕はつい笑ってしまう。彼女の感性は独特だ。深く触れ合って、長い日々を過ごしたとしてもその新鮮さが溢れてくる。僕はそれを自分だけの物にしたかった。

 

「だってここ、学校の美術室みたいじゃない?」

「それにしては手狭だけど」

「広さの問題じゃなくて雰囲気の話。だから、こんなところで待っていたら、そうなっちゃいそう。三廻部未来像! みたいな」

 

 未来さんは自分を抱きかかえる様なポーズを取った。自分の像の真似? そんなことをする人は初めて見た。たぶん彼女は今日も絶好調だ。

 

「ひとまず石膏像になる前に来れて良かった」

「本当。あっ、でもずっと景一君に所有して貰えるならそれでも良かったかなぁ」

「そのよく分からない愛情表現は止めて、未来さん。僕はまだ動く貴方を見ていたい。写しとれていない所が一杯あるんだから」

「……そっか。うれしいな。じゃあ今日はどんなポーズを取ればいいのかな?」

 

 挑戦的な彼女の問いかけ。僕はキャンバスにかけられていた暗幕をはがして、未完成の絵を拝む。

 

 僕だけが見た景色、僕だけが見蕩れた理想。

 

 望みとは遠く、届かない実像がそこにあった。見るたびにどうして僕の腕は見た通りに思い通りに動かないのだろうと思う。

 けれど、そう思った所で上手くなるわけでもない。今日もまた筆を取って、少しでもあの景色に近づくため歩み始める。彼女(りそう)に初めて会った日を思いながら。

 

 ◇

 

 雨が降っていた。近年制度を上げていた天気予報が珍しく予想を外して、僕は思いっきり雨に打たれた。せめて買ったものだけは濡れない様にと、ドンキで安いビニール傘を買う。

 傘をさす。ビニールと水の衝突によって生まれる調べを聞きながら、レジ袋の中にある、新しく買った画材に想いを馳せていた。

 どんな線を引こうか、どんな絵にしようか、アイデアはポンポンと出てくる。周りの事なんて気にならない、没入気味の思考。それが一瞬で吹き飛ばされる。

 そんな目先の事じゃない。自分が生涯をかけてたどり着くべき景色をそこに観たからだ。

 

 空を見上げる女性。

 

 一瞬でそこから目線を動かせなくなる。

 このまま時間が経てば水に溶けていきそうな肌。

 腰まで伸びた黒髪は水気を帯び、このまま磨き上げればショーウィンドウに並ぶ宝石にも負けない艶やかさだ。

 チラリと見える瞳。遠くの青空を写し、輝いて見える。もしあの色を絵の具として手に取れたなら、三日三晩キャンバスに伸ばして、遊びつくせる自信があった。

 

 カシャっと音を立てて、呪いともいえる使命感を秘めた一瞬が崩れる。僕が落としたレジ袋に彼女が反応してしまう。視線がぶつかって、あの綺麗な空色が見慣れた僕の色で塗りつぶされてしまった。

 

「あ、あ……」

 

 変な声が漏れた。がっくりと、無意識の自分のしてしまったことを悔いる。あの瞬間が永遠でないとしても、もう少しの間眺めていたかったと今でも思う。

 そうすれば完璧にあの景色を自分の物にできた気がする。……気がするだけだけど。

 

「何ですか、そんな変な声を出して」

 

 崩れたメンタルを立て直す暇もないまま、胸を突く。彼女が外敵に対してする表情をこの時、始めて見た。

 ストレートな嫌悪感が心苦しい。こんなにキツイのならお酒みたいに水で割って欲しいと思った。

 

「ごめんなさい。あんまりにも綺麗だったから、見蕩れてたんです」

「見蕩れてたって……ナンパですか?」

「かもしれません。初めてなので、よく分からないですけど」

 

 自分でも何を言っているのかよく分からない。恥ずかしくなってきた。そこら辺の大学生の方がもっと上手く口説く。さっさと話を変えてしまおう。

 

「それより、風邪をひきますって。家が近いなら早く帰った方がいいですよ」

「余計なお世話です」

 

『そうします』じゃなくて『余計なお世話』か。少し引っかかった。家出少女、そう言うには大人びているから『家出お姉さん』か?

 ……って、そんな事はどうだっていい。このまま引き留めていたら彼女は間違いなく風邪をひく。

 

「この傘あげます。良いものを見せて貰いましたから」

 

 開いたままの傘を差し出す。僕が代わりに雨に打たれた。ようやく乾いて来たワイシャツの透明度が増していく。でも、このまま彼女が濡れるよりはいい。

 僕の行動に意味を見いだせなかったのか彼女は目を見開いて、戸惑う。当然の警戒だ、僕だって彼女の立場ならそうなっている。

 

「え? でも」

「僕は家が近いので大丈夫ですよ。じゃ」

 

 軽く挨拶をして僕はその場から駆けて立ち去った。

 思えば、もう少しうまく会話をできていれば、確実に再開する手段を確保できたはずだ。僕は出会って五秒で人と打ち解けられる人間ではない。あの行動は正しかったのだと自分を納得させる。

 

 僕の理想の景色。その一部である彼女。そんな存在にもう一度会う事はできないのは残念だ。けれど、悔いはない。本来であれば数十年と時間をかけてたどり着くべき深淵を覗けたのだ。雨に濡れ、傘を失おうとも十分におつりがくる。

 

 安いアパートに帰って、ポケットをまさぐった。鍵を探す途中でカツカツと金属の階段を叩かれる。ご近所さんにグチョグチョに濡れているとこを見せるのは嫌だったけれど、挨拶しないのもマズイ。チラリと横目で伺う。

 

 ──そこには諦めたはずの彼女がいた。はぁはぁと息を弾ませている。

 

「自分で買った物落としていっちゃ……ダメでしょ……」

 

 彼女はビニール袋を掲げて僕に見せる。それは彼女に会うまで自分の思考を占領していたもの。なのに手元にないことに今まで気が付かなかった。

 

「……あ」

「どれだけテンパってたの……。まあ、ともかくちゃんと届けられて良かった」

 

 差し出されたビニール袋を受け取って「どうも」と会釈をした。

 どうしたらいいのか僕には分からなくて無言になる。彼女も同じだったみたいだ。緊張感のある空気がこの場を支配する。

 でもしばらくして彼女が寒さに耐え切れず、一つくしゃみをする。そんな彼女を僕は放っておくことができなかった。

 

「シャワー、浴びてってください。本当に風邪ひいちゃいますから」

「……すいません。じゃあ、お願いします」

 

 彼女は自分の髪を鬱陶しそうにかき上げた。

 今思えば、よく彼女は僕の提案を受け入れたものだ。女性が初対面の、それもよく知らない男性の部屋に乗り込むなんてなかなか勇気が、いや、通り越して無謀だろう。本当なら危機感を覚えて欲しい。招いた僕が言えることじゃ無いのは分かっているけれど、心配になった。

 

「そういえば名前を聞いてなかった。僕は瞬木景一(またたぎけいいち)。あなたは?」

「──マタタギ、ケイイチ……? 漢字はどうやって書くの?」

 

 確かに自分の苗字は珍しい。家族以外にも殆ど聞いた事が無かった。だから彼女は聞き返してしまったのだろう。

 

「瞬く間に、の『瞬』く、木々の『木』。景色が一番と書いて景一」

「……そう。私は三廻部。三廻部未来。未来でいいよ」

「呼び捨てはちょっとハードルが高いな。お姉さん年上ですよね? 未来さんでも良いですか?」

「構わないけど……ごめん」

 

 言いにくそうに彼女は言葉を詰まらせると申し訳なさそうにこちらを見た。

 

「図々しいとは思うんけど、早く鍵を開けて貰えるかな?」

「あ」

 

 僕の間抜けな気付きと同時に、彼女はもう一度くしゃみをした。

 

 ◇

 

「どうしたの? ニヤニヤしちゃってさ」

「いや、未来さんに会った時の事を思い出してたんだ」

 

 あれから二年が経って、僕らは多くの時間を一緒に過ごした。

 その日のうちにお互いの名前を知った。

 一週間後に連絡先を交換して、彼女の趣味の美術館巡りに付き合った。

 一か月後にはアタックを仕掛けられ、それを受け入れた。

 同姓に至るまでにはそう時間はかからなかった。

 激動の一ヵ月を越えてからは大きな進展はない。変化の必要性は感じない。今が丁度いい距離感だ。彼女がどう思っているのかは知らないけれど……。

 

 僕は絵筆を置いて、一息つく。ふと窓を見れば日は傾き、窓から差し込む光が温かみのある色へと変わっていた。

 

「今日は、ここまでにしよう」

「うん。どう、いい感じ?」

「割と、今までの中では一番できが良いかも」

 

 見え始めた理想の完成形。気分の高揚を抑えきれず、自分の声にも明るめの色が乗った気がした。

 

「へぇ、それは期待しちゃうな。見せて?」

「だーめ。絵は完成してからじゃないと見せない主義なんだ」

 

 両手を広げ、キャンバスと彼女の間を遮る。彼女は「ちぇー」と渋々引き下がってこの部屋から出ていく。それを見届けて、自分の書いていた絵を改めて見る。

 かつて見た遠き理想。自分がたどり着くべき領域。そこに片足を踏み入れた感覚が確かにあった。

 

「あと少しだ」

 

 数えきれない失敗を越えて、僕は一瞬の理想郷を再現できる。その高揚感にしばらく身を任せていた。

 

 ▼

 

 絵の具の付いていない筆をクルクルと弄ぶ。完成を控えた絵を挟んで僕と未来さんは向かい合っていた。

 僕はペン回しを続けて。対する未来さんは飽きたのか、とうとうカロリーメイトをかじり始めた。彼女が故郷の味と主張して止まないメープル味。幸せそうに食べている。

 

 作業を始めて数時間。

 あの時見た理想。自分が再現すべきだと思ったもの。それにはかなり近づいている。

 でも、あの時感じた衝撃に及ばない。

 再現は殆どできている。思い描いた残りの工程が済めば終わりだ。

 なのに物足りない。何かが、足りないのだ。それが何かここ最近ずっと考えている。苛立ち、唸り声を上げ続けている僕にうんざりしたのか、未来さんは僕に問いを投げる。

 

「景一君はさ、どうして絵を描き続けられるの?」

「どうしてって?」

「もうずっと筆握っているし、いくら好きなことでも、飽きが来たりすると思うけどなぁって」

 

 丸椅子の上で彼女がプラプラと足を揺らす。

 即座に答えが出せなかった。そんな事をこれまでに考えたことが無かった。

 一度、筆を折ろうとした。けれど、結局僕は止める度胸も無かった。それはたぶん──止めてしまったら、自分が何者なのか、分からなくなってしまうからだ。

 

「僕にはこれしかないからだと思う」

「そんなこと無いと思うけどな……料理だって美味しく作れるでしょ?」

「未来さんと比べての話でしょ。この世には自分より美味しく作れる人は山ほどいる」

 

 勿論、絵の上手い人もだ。彼らは自分だけの武器を持っている。それに並ぶような何かを自分はまだ創り上げられずにいる。

 

「まあ、それもそうだね」

「ちょっとぐらい、『そんなことない』って肩を持ってくれてもいいのに……」

「えー、でも景一君、そういうの嫌いでしょ?」

 

 正解だ。僕はそういう露骨な気遣いが嫌いだった。でも無かったら無いで、違和感を覚える。面倒くさい人間だな。

 

「それで、何で飽きないの?」

「んー、多分もうその領域じゃないんだよ。描いてることが当たり前というか……。それもやっぱり、それしか選択肢を持てなかった人間の戯言なんだと思うけど」

「ちょっと分からないなぁ……」

「だろうね。そんな顔してる」

 

 腕を組みながら眉間にシワを寄せる彼女。少しでも伝わるように考えを整理する。それから自分の行動指針、その源流をくみ取る。

 

「”世の中は遺されたもので回っている”」

「ん? 何それ?」

「座右の銘。憧れの人がよく言ってたことなんだけど……どこだったかな」

 

 散らかっている室内を漁って、平積みになっていた本の中から一冊取り出す。僕のバイブル。さっきの言葉がタイトルになっていた。

 彼女はそれを受け取ってパラパラと目を通す。

 

「世の中は誰かがやって来たことの積み重ねでできてる。例えば学問とかは分かりやすいかな。法則とか定理だとかを先人が解き明かして来た。それによって今、新たな発展に繋がってる」

 

 彼女が相槌を打った。さっきよりかは伝わりやすかったらしい。

 

「だから、お前も後世に残れるような何かを成し遂げてみろってさ。激励だった。……一時期いろいろ考えたんだ。もし、僕が後世に何か遺せるとしたら、それは”何か”」

「それで、絵を描くことだったんだ」

「うん。でも結局、大した結果も残せてないし。何やってるんだろうなーって、思う時もあるけどね」

 

 胸の中に時折浮き上がって来る漠然とした不安。ふだんは奥底に沈めようと躍起(やっき)になっているそれを彼女にさらす。

 すると彼女は「ふーん」と僕のことを上から下まで舐めるように観て、にやりと笑った。

 

「最近特にそうだよね。今日もあんまり筆が動いている訳じゃ無さそうだし」

「これは……あとちょっとで完成だから、慎重になってるだけだって」

 

 苦し紛れにそう言ってみせる。でも彼女はこれっぽっちも信用してないみたいに、じっとりと湿った目で問い詰める。

 

「本当にそうかな? 早く完成させたいのも分かるけど、適度に休憩とか入れないとダメだって」

「そうかな?」

「そうだよ。だから、たまには私に付き合って」

 

  ▼

 

 翌日。僕と彼女は名のある画家の展示会に来ていた。

 言ってしまえば、僕は見るよりも描く方に快楽を見出す人間だ。当然こういった所に訪れることは滅多にない。見た方が当然いいに決まっている。だけれど、気が進まないのだ。彼女に手を引かれない限りは。

 

「未来さん、絵を見るの好きだよね」

「うん、まあね。私の場合、実益も兼ねているけど」

「確か、絵を探しているんだっけ?」

「そうそう。ここ数年で展示されることだけは分かっているんだけどね」

「会った時からそう言ってた。未来さん本当に無計画だよ。そんなあやふやな情報だけでこっちに来るなんて」

「止めてよ、照れる」

「いや、褒めてないから」

 

 修正を入れて、それからも会場をゆっくりと歩く。時折立ち止まって眺め、彼女の疑問に僕が知りうる限りの知識で答えた。

 展示会も半分を回り終えた所でちょっと休憩。二人で並んでベンチに座る。

 

「んーこうして見てると、あれだね。画家って見たまんま描いてないよね。当たり前だけど」

「描いた本人の主義とか主張とか、いろいろ混ぜてる。見た情報を極限まで描いているのも昔はあったんだけど……写真ができちゃったから」

「成程、それで事足りちゃうか」

 

 未来さんは合点がいったのか、ポンと手を打つ。

 

「だから、今となっては現実には無い理想を表現するのが、僕らの務──」

 

 自分で言って気付いた。

 当たり前すぎて、自分の中から抜け落ちていた基本を思い出したのだ。

 

 現実で会った、そこに在った理想を表現しようとしていた。彼女と出会った日、僕が遭遇した、見たままの理想。それを再現することだけに躍起になっていた。

 

 でもそこには僕の主張がない。再現するだけならば写真で十分だ。そう僕の本能が訴えていた。では、その足りないものは何なのか。僕の吐き出したい想いは何なのか。

 

 それは──彼女と過ごした日々だ。僕が感じていた、具現化してない理想。

 これが僕の表現したいものだ。乖離していて混ぜ合わせようとも思っていなかったもの。それが彼女を起点に混ざり合い、脳内のキャンバスに書き足させる。

 

 ピースががっちりと、はまった気がした。

 

「どうかした? 難しい話で、頭がパンクした?」

 

 彼女が屈んで、覗き込む。きょとんと、不思議そうな目だった。そりゃあ、分からない。急に黙り込んで変な顔をしていただろうから。そりゃあ心配もする。でも問題ない。

 僕はこの気付きを、衝動的に書き留めたい。今すぐやらなければ消えてしまう。

 そのためには彼女を更に混乱させることを言わなくてはならない。

 時間は無い。

 

「ごめん、未来さん。お願いがあるんだ。今すぐ……帰らせてもらいたい」

 

 言葉にして、自分の方にも刃が刺さる。彼女がどんな思いで、この言葉を受け取るのか知らないけれど、僕以上にひどく傷つくだろうと思った。

 それでも僕は行かなければならない。自分のこの衝動を、使命感を無くさないために。

 

「デート中に悪いんだけど。本当にあり得ない、馬鹿なことだって────「分かった。いいよ」

 

 自分は突拍子の無いことを言ったのは理解している。けれど逆に彼女の意図を理解できなかった。

 

「……どうして?」

「どうしてって……ん~景一君が真剣な目をしていたから、とか?」

 

 意図的に作られた微笑み。僕にはわかる。ずっと彼女の顔を見続けて来たから。だから彼女が何かを隠そうとしていることを察した。

 

「嘘だ。未来さんはそんな事信じない」

「おっと、見破られちゃったか」

 

 わざとらしく彼女は茶化す。おふざけをしている悪戯っ子みたいな表情。一転。真剣な声色に変わる。

 

「景一君は基本、常識的だしね。逆に今回みたく変な事を言う時って、何か大事なことがある時だから。邪魔したくなかったの」

 

 見破られている。見続けていたのは僕だけじゃない。彼女も傾向から僕の事を読み取れる。僕は彼女にこれ以上なくいろいろな物を握られてしまっているのだと改めて思う。

 

「……ごめん。この埋め合わせは絶対にする」

「当たり前。回らない寿司屋さんでいいよ」

「それはきついな……でも、分かった。デートを途中ですっぽかす男には丁度いい罰になりそうだ」

 

 自虐気味に答える。「でしょ?」と彼女は笑いかけた。

 

「私はもうちょっと見てから行く。頑張ってね」

 

 僕は常識の許すスピードで会場を去る。街中からは全力で駆け抜けた。普段は使っていないさび付いた肉体は悲鳴を上げる。それでもスピードは緩めない。体が壊れてしまってもいいとさえ思った。

 

 頭の中で表現したい色を忘れない様にイメージし続ける。

 

 初めて会った彼女。冷たい、誰も寄せ付かない雰囲気。

 雨と混ざる冷徹な美しさに僕は心奪われた。

 

 今を共にに過ごす彼女。温かくて、安心する空気。

 それを吸っていないと、僕は生きていけない。

 

 家にたどり着いてすぐ靴を荒っぽく脱ぎ捨てる。絶え絶えの息のまま、チューブからパレットに色を吐き出させた。

 彼女を囲む一筋の陽だまりの色で、瞳に秘めた、温もりで凍える冷たさを塗りつぶす。

 出して、混ぜて、水で伸ばして、塗り付ける。その行為をただただ夢中で繰り返した。

 

 指の力が緩んで、筆がからりと床に落ちる。

 

 理想にできた空白。それを埋めてようやく、僕の求めていた景色を完成させた。

 かつての理想。今の理想。二つが混ざり合う両方を超越した一枚。夢にまで見た一瞬を、永遠にできたのだ。

 塗り直した瞳の色が窓から差し込む夕焼けに融けて、この中の彼女もこの景色を見ている気がした。

 

 きっと、現実の彼女もこの夕焼けを見て、帰り道を歩いている。未来さんが帰って来たら、完成した絵を一緒に眺めて飛び切り奮発した夕飯を作ろう。なんて言ってくれるかな。かつて、彼女を見た僕みたいに言葉にできないかもしれない。

 

 まあともかく、買い物に行かなくちゃ。湿布も欲しいし、食材も買ってこないと。

 ガクガクと震える太ももを引きずって、玄関から出た。近くのスーパーで買い物を終え、ヤジロベーみたいに両手にビニール袋を持って、バランスを取る。

 ゆらゆらと揺れながら道を歩き、何だかそれが面白くて笑ってしまう。端的に言って浮かれていた。これ以上に気分が高揚していたことなんて、過去に数えるほどだったと思う。

 

 だから、次に何が起きるのか分かっても、現実味を帯びなかったのだ。

 

 スポットライトが僕を照らしている。正面の信号機が危険を示していた。時間が不自然にゆっくりと進んでいく。

 

 僕はきっと車に轢かれる。

 スタントマンみたいな身体能力がある訳じゃないし、とっさに利かせるような機転もない。これは逃れられないことなのだ。

 

 そう理解した。でも後悔はない。なぜなら、僕は既にやり切っている。自分が生きた証を遺す事ができた。理想の瞬間を永遠にできた。それで十分だ。他ならぬ僕はそう思った。

 

 ▼

 

 私、三廻部未来は未来人だ。

 だから彼が近いうちに亡くなる事を知っていた。

 名前を聞いた時からこうなる事は分かっていた。でもそれを言う事はしなかった。自分の目的は果たせないかもしれなかったからだ。

 

 彼のいなくなった家に帰る。

 自分がいた時代はもう失われてしまった物。それを見るためにここに来た。目的はようやく達成できる。

 彼とずっといた部屋。ドアを開けると充満したままの絵の具の香りが漏れ出してくる。床に転がった筆とパレットは彼がいなくなってからも残っている。

 

 中央にあるカンバス。暗幕が省かれて、その姿を晒していた。

 

 雨に打たれながら、空を眺める女性。

 彼女の周りには温かな日の光が差し込んで、ほほ笑む。瞳に写る色が、彼女の高揚感を、明日への希望を示しているかのように思えた。

 

 この絵を見るのはもう何度目になるのか分からない。

 最初は見るだけで満足するつもりだった。抜け殻に等しい自分に火を灯した篝火。もう一度見るだけで良かった。それだけでこれからも私は生きていける。そのつもりだった。

 

 自分の定位置まで丸椅子を引きずって絵の正面に座る。

 そうしていると彼が話しかけてきてくれる気がした。

 

『まだ見るなって……あ、でも完成したんだった』

「綺麗な人だね。モデルは誰?」

『わざとらしいな……未来さんに決まってるでしょ』

 

 あったかもしれない会話を妄想で補った。

 

『石膏像って、独特な表現だね』

『ごめんなさい。あんまりにも綺麗だったから、見蕩れてたんです』

『だーめ。絵は完成してからじゃないと見せない主義なんだ』

 

 かつて彼としたの会話が蘇る。頭の中に反響して離れない。波紋が更なる波紋を呼んで、どんどん溢れてくる。

 

『世の中は遺されたもので回っている』

 

 反響の果て。彼の座右の銘の話を思い出す。

 常人からすれば考えられない執着を見れる行為を生む気概。呪いとも言える思い込み。

 それを受けて私も思考を整理しなければならない。

 元の場所に戻ってからも、自分の精神を保ち、彼の様に真っすぐに進むために。

 頑張って考えてみたのだけれど何一つ思い付きはしない。

 私は彼の様に情熱を持てないのだと、どうしようもなく理解させられる。

 

『絵を描く』『小説を書く』『オブジェを作る』自分の好きな物から連想しては、一つ一つ潰してしまった。

 それらは彼の様な信念と情熱を持てない人にはできないことだ。

 彼と過ごして走しようもなく私にはそれが無いことを実感したのだ。

 他人の魂に火を灯せるような篝火を作る事。私の求めている物は()()()()()()()()()って分かっているのに。

 

 ハッとした。

 

 私は彼の作品をもう一度見るためにここに来た。多くのリスクを支払ってだ。

 ならば、あの日々こそが、私の『遺すべきもの』だ。失ってはいけないものだ。

 自覚して丸椅子から立ち上がる。ガタンと音を立てて倒れたけど気にしない。

 

 そうだ。私は彼を助ける手段を持っていた。

 

 ”時間渡航”

 

 私の時代と過去の時代を繋ぐ、未来で新たに保障された一度きりの権利。

 ここに来た手段であり、元いた場所に帰る手段。

 過去に戻って彼を事故から救い出せれば、あの日々を取り戻すことができる。

 

 だが、問題がある。時間渡航をする上でのルールを破ってしまうからだ。

 

 先に言っておくと過去改変自体は悪いことではない。

 私達の時代では過去を変える事をむしろ推奨している節がある。時間渡航(こんなもの)に頼らなければならないほどに荒んでしまっている。緩やかな衰退が待っている場所だ。

 それ故、過去を変え、より大きな発展があるのであれば、そちらの方が喜ばしい。だからこそ、異分子を積極的に送り込んでいる。

 

 では、それよりも優先されるルールとは何か。それは『自分が過去にいた時代に場所に行ってはならない』というものだ。

 これは時間渡航黎明期、人を送り始めたばかりの頃。多く発生した事故から制定された。

 その時間にいた最初の自分以外の自分は存在できない。できたとしても、僅かな時間にとどまり、ほどなくして消えていく。

 そんな状態で未来を改変するほどの行動なんて起こせるはずもない。無駄な行為だとして禁則事項となった。

 

 私が今から行きたい時間には、既に私が存在している。

 彼を助けに行けば、私は消えてなくなる。

 彼を助けられるかどうかも分からないし、助けたとして、私が望む日々を享受するのは、何も知らない自分だ。

 

 ……それでも良かった。私の生きた意味はここにしか無いのだから。

 

 靴下のまま、外に出て階段を駆け下りる。

 狙うは彼が死ぬ直前。彼を助ける前に消えてしまっては本末転倒だ。過去の滞在時間はなるべく短い方がいい。

 

 同様の理由で場所も移動している。頼れるのは時間軸までだ。

 

 たどり着いた彼が命を手放した交差点。馬鹿みたいに目立つ野次馬と、ブルーシート。その直前で走り幅跳びみたいに思いっきり地面を蹴った。

 

届けぇぇ──!!!!!!!!

 

 時空が歪む。グニャグニャと。彼が筆をすすいでいたバケツみたいに景色が変わっていく。

 それが収束して目の前に人の背中が見えた。この間も見たデートの服装のまま。コートに絵の具が跳ねているのが見えた。

 一歩、地面に着地。時間渡航による浮遊感から抜け出す。クラクションが響く。精一杯伸ばした右手が彼の手首に届いた。力いっぱいに引っ張る。

 彼が驚いた眼でこっちを見る。その表情で自分に再びできた空白が埋まっていく。

 

 尻餅を付いた直後「ぐぇっ」と声が漏れた。自分の上に重いものがのしかかる。苦しかった。でも、さっきまでよりもずっと楽だった。

 彼が慌てて私から退く。差し伸べられた手を取って私も立った。さっきまで死んでいた人間に気を遣われるなんて不思議な気分だった。

 見上げるようにして彼を睨む。睨まずにはいられなかった。さっきまでのごちゃごちゃとした気持ちをぶつける気でいた。

 

「危ないでしょ!?」

「……ごめん。ありがとう未来さん。死ぬかと思った」

「本当に、死んじゃってたんだよ……! バカ! バカバカバカぁ!」

 

 感情的になって、言わなくていい事を口走った。もうそんな事どうでもよかった。彼の胸にぽかぽかと力のない拳を振りかざす。

 

「泣かないで下さいよ。悪かったから」

 

 彼がギュッと抱きしめて私の頭を撫でる。ペンだこが髪に引っかかってちょっと痛かった。でもそれで私はようやく彼を取り戻したのだと実感できる。

 

「……許さないから、絶対」

「それは困ったな。これ以上未来さんに借りを作ったら後が怖い」

「どういう意味、それ」

 

 睨みを効かせると、彼は「何でもないです」と答えた。なに? その含みのある言い方は、文句があるならはっきり言ってよ。私みたいにさ……。

 この感覚が懐かしい。失って初めて気が付いた。何気ないように見えて大切なもの。私が遺したいと思ったこと。それがこの時代にあった、この人との日々なのだ。

 

「あれ、未来さん。手が透けて……」

 

 彼が目を擦って、何度も私の手を見返す。でもその事実は変わらない。私から見てもそうだった。

 自分の体が、所々消えていっているのだと分かった。証拠に自分の体に力が入らなくなっていってる。“同じ時間軸に同じ人間は存在できない”その掟が効力を発揮し始めたのだ。

 

「やっぱり駄目か。過去の自分より今の自分の愛が上回っている~とか、自分なりに言い訳は付けたけど、ルールはルール。破ったら駄目だよね」

 

 わざとらしく笑って見せる。訳の分からない彼をこれ以上不安にさせたくなかった。

 

「景一君。私ね。未来から来たの。今日から何日か後の未来。元々はもっと後の未来からだけど……それはいいや。今いる私に聞いて。もう一人ここにいるはずだから」

「……うん」

 

 彼は素直に頷いた。けど、状況を完璧には理解できていないと思う。私の説明は大雑把で、適当で、配慮に欠けている。それでも彼が頷いてくれたのは、もう時間が無いことを察してくれたのかもしれない。

 

「私には君のいない世界は耐えられなかった。この時間の私も気が付いてないだけでそうだと思う。だから約束して。恩着せがましいけど、命を助けたお礼として」

「……僕にできる事なら」

 

 彼の温かな声色が心地いい。ずっと聞いていたいものだった。

 いつも何かに本気な眼差しが今は私に向いている。そんな時間を私はもっと過ごしたかった。

 想いを噛みしめて私は彼の手を取った。

 

「勝手に死なないで、絶対」

「それは、言われなくてもそのつもりだったよ」

「駄目だったから言ってるの! 今まで以上に気を付けて!!」

「分かったよ。未来人に言われちゃったから、余計に気を付ける」

「よろしい」

 

 律儀な彼のことだ。約束は守ってくれるだろう。縋りついていた彼の胸から離れて、向かい合った。

 

「それともう一つ」

「まだあるんだ」

「一つとは言ってないからね。ちょっと、一緒に歩きましょ」

「僕は良いけど、未来さん、靴下じゃん」

「どうせもうここからいなくなるんだから、構わないって」

 

「そっか」と彼が寂しげに表情を作る。消えてしまう私にも彼は気遣ってくれていることがはっきりとわかる。

 ふらふらと近辺を歩いて、彼との思い出を自分の記憶から掘り起こす。よく行ったスーパーやファミレス。駅に向かう信号機。そして──彼と出会った場所。

 転々と水たまりがあって、ますますあの日を思い出させた。

 あの日と違うのは、どこまでも続く空が夕焼けに染まっていること。その色合いは私が心奪われた彼女の瞳の色。私に勇気をくれた色だった。

 

「本当に綺麗だ」

「私を見て言うのは何か違うでしょ?」

「違わないよ。ここで未来さんを見て、僕はあの絵を描くことを決めたんだから」

 

 照れくさくて、顔をそらした。体の中が急速に熱を持っていく。ああ、やっぱり私にはこれが必要なんだ。その日々をまだ享受できる現在(ここ)の自分が羨ましかった。

 足元の感覚が薄れていく。たぶんあとちょっとで私は消えてしまう。そう自覚する。

 

「景一君」

 

 彼の名前を呼んだ。彼が瞬きをしてこちらをじっと見つめる。普段は気にもかけていない動作でさえも愛おしく思えた。これ以上何も言わないで去るつもりだった。けれど、自分で自分を止られない。

 

 彼の唇を奪う。

 最後の言葉が自分の中から溢れていく。

 

「愛してる。……もっと愛していたかった」

 

 彼の目の前で夕焼けに融ける。

 この瞬間が、彼に刻まれる様な美しさを持っていると良いのにと思う。そうしたら彼はきっとまた筆を取ってくれる。

 また私が彼の呪いになれるように。そう祈って私は目を閉じた。



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