何の音だろう?と思ったけど、顔を上げても音がどこからしたのかわからなかった。
トトン、トトン。軽やかな音と振動の中、座った人達も立った人達も、一様に自分の手元に視線を落としている。誰も音に気がついた人はいない様だった。
空耳だったのかな。何だか気恥ずかしくて、視線を落とす。手元にあるのはありふれた文庫本だ。内容も見ず、いつもの様に適当に借りてきた。
それを開いて、栞の場所から再び読み始める。手持ち無沙汰なこの時間を、塗り潰すために文字の羅列を追う。頭の中にスルスル入り込んで、端から溶けて行く文字。
そうだ。
私はいつも、そうやって時間を費やす事しか知らなかった。
電車で一時間先の高校に通っていた。判定が許す中で、一番ランクが高いのがそこだったからだ。
父も母も、普段口数が少ないのにそこにだけしっかり意見した。意見したというより指示だった。ここにしなさいと言われて、私ははいと言って従った。特に行きたい所も無かったし、そうしているのが一番将来が楽だという両親の言葉を信じた。
私には友達が居なかった。両親に似たのか、口数が少なかったから。どう喋ったら良いのか分からなくて、モタモタしている内に一人ぼっちでいるのが当たり前になってしまった。だから高校を選ぶのにも、全然こだわりがなかった。
何にも楽しい事なんてなかった。ただ言いなりに学校に行って、勉強して、帰ってくるだけだった。それ以外の時間は手持ち無沙汰だった。
だから本を読んだ。本を読んでいると、時間があっという間に過ぎて行くから。
気がつくと、人が少し減って、座席が空いていた。
いつのまにか駅に着いていたんだな。そこへ座って、またページをめくる。
私の毎日に、本が加わったのはいつだったか。小学校の頃、授業で図書館に行った時だっただろうか。
手についた本を眺めている内、あっという間に授業が終わってしまった。その時、ああこれは助かるな、と思ったんだ。
面白かった訳じゃない。文字をずっと追うだけで、時間を飛ばす事ができる。それは私にとって素晴らしい事だった。
家では両親が買ってくれた知恵の輪をしていられるけど、外や学校には持ち出せない。休み時間に周りの声を聞きながらぼんやりしていると、時間の流れがやけに遅くて、私はとても困っていたのだ。
それからずっと私は本を読んでいた。余った時間をどうにかやり過ごすために、色んな本を読んで、読んで、読み続けた。
ふと、また人が減っていることに気付く。あれ、また駅に着いたのか。アナウンス、あったかな。
不思議に思いながら手元に目を向けて、驚いた。
あれ?私、今まで小説を読んでた筈なのに。
膝の上にあるのは、漫画の週刊誌に変わっていた。
漫画を読み始めたのは小学校高学年の頃だ。
ある日、間抜けにも本を学校に忘れた。家にある知恵の輪にはとっくに慣れてしまって、すぐに解けてしまう。私の家ではテレビは父が見るものだ。同級生が言うゲームのようなものは、初めから買ってもらえない。
その日はいつもより長い晩を過ごさなければいけないことがほとんど決まっていて、トボトボ帰路についていた時に、コンビニの本棚が目についた。
今まで一度も入った事がなかったのに、何故入ろうという気になったのか、自分でもよく分からない。
手に取ったことのない、色鮮やかで文字が沢山並んだ、図書館で借りるのとは少し違う本。その中で手に取ったのが、少年向けの漫画雑誌だった。
絵のある物を見るのは、小さい頃に読んだ絵本か、挿絵だけ。今まで見た事のあるそれらとは、全く違う世界がそこに広がっていた。
表情が、動きが、モノクロなのに鮮やかだった。今まで見ていた文字だけの世界とは全然違った。不思議と惹きつけられて、店員に注意されるまで私は夢中でそれを読んでいた。
表紙を指先で撫でる。何だか懐かしい感触の様な気がした。週に一度、必ず読んでいたのに。
額に傷痕の様なものがある少年が、背後にいる少女を守る様に刀を構えている表紙だった。何故かその少年に、見覚えがある気がした。
それで気づいた。私は今高校生のはずなのに、この雑誌は少し前のものだ。
そうだ、これは、今も続いてるある連載の、最初の話が載っていた号だ。
初めてそれを読んだ後、私は母に買い物を強請った。
あの本をもっと読みたかった。時間を潰す為じゃなく、自発的に読みたいと思ったのは初めてだった。
でも、正直にその理由を言ったからだろう。許してもらえなくて、私は少し悲しくなりながら部屋に戻ろうとしたんだ。
「おい」
でも、部屋に入る前に声をかけられた。
隣の部屋から顔だけ覗かせていたその人は、私の兄だった。私よりずっと大人で、勉強ができる人だった。
「こっち来い」
それまであんまり口を利いた事もなかったのに、その人は私を呼んで、手招いた。
恐る恐る、今まで入ったことない部屋へ足を向ける。そこで差し出された物に、驚いた。
「見つからないようにここで読んでけよ」
コンビニで、夢中になって読んだあの本だった。正確には雑誌ということを、その時兄に教わった。
「お前、こういうの読みたがる位には自分があったんだな」
遠慮がちにポンポンと、頭に手を乗せてから兄は机に向かった。その後は参考書やノートを開いて、こちらを気にも止めなかった。
まるで一瞬の幻を見たような気になったけれど、手の中には雑誌があった。私は少し戸惑ったけれど、雑誌を開いてからは夢中で読み耽った。兄から声をかけられるまで、時間が経つのを忘れていた。
「発売日に買って、次の日には古本屋に持って行く。バレたら煩いし。だから、お前が見れるのは俺が帰ってきてからお前の寝る時間までだけだからな」
部屋を出る時に兄が言って、それから兄が家を出るまで、兄の部屋でその雑誌を読んだ。
兄とは殆ど喋らなかった。ただ、時々新しい話の感想を聞かれたりした。両親に聞かれないように、潜めた声でやり取りした。
時々、兄が少しだけ笑っている様子も見られた。両親といる時には見られない顔だった。私はそれを見ると、少し胸が温かくなった。
その最後の年、中学三年生の秋頃に、見たのがこの表紙だった。
印象的だった、と言う事じゃない。その時が兄の部屋で、この雑誌を読めた最後だった。
だから覚えていただけだ。この話自体は、私の中では別に特別じゃない、いくつかの話の一つだった。
その週、私のいないところで父と大喧嘩をした兄は、二度と部屋に戻らなかった。
私が家に帰った時には、兄の部屋からは着替えだけが持ち出されていた。訳を聞こうとしたけど、両親はいつも通りで、それを見ただけで私は聞く気をなくしてしまった。
余計な事を聞くと、冷たい目をされるのをわかっていたから。
「この家にいると、息苦しいよ」
いつも通りの食卓、そこのただ一つ欠けた席を見ながら、兄がいつか部屋でぼんやりそう言っていたことを思い出した。私は感じた事のないその息苦しさから、遂に兄は抜け出したのだと思った。
兄の部屋で読む漫画の他は両親の言いなりだったその頃の私には、ちっとも分からなかった。
けれど、兄のいない空っぽの部屋を、席を見ると、胸がしくりと痛んだ。その気持ちが何なのかも、分からなかった。
顔を上げると、人が疎にしかいなかった。
それに、電車の外がやけに暗い。
どうしてだろう。さっきからアナウンスも、止まる感覚もしないのに、人がどんどん減って行く。
手元に目を向ければ、雑誌だったものが、今度は単行本になっていた。私は買った事がないのに。
赫く、燃え盛る炎を人の姿にしたような人が、こちらを見据えている。
高校に入ってから、交通費と学食代を渡されるようになった。その内の少し節約して、雑誌を買った。
かつての兄のように発売日に買って、次の日に古本屋に持っていく。その日以外は図書館で借りた本を読む。それをずっと続ける。
何故だろう、かつての様な輝きはそこに見出せないのに、縋るように私はそれを続けていた。
誌面の上で人が生まれ、戦い、恋をして、死ぬ。“彼”の死もその一つで、私はただそれを受け流した。
物語の中で時間が流れ、私も時を経ていく。いつの間にか最後に会った兄の歳に追いつこうとしていて、大学も高校と同じように決めた。
それで、受験勉強をしながら、でも雑誌は欠かさずに読んでいて――。
電車の中に、私が一人で座っている。
膝の上の単行本を開く。パラパラと、文字ではなく絵を追って行く。
“彼”が戦う。
傷ついて行く。
片目を失い、腹に傷を負い。
それでも責務を果たす為と、赫い刃を振るう。
その刃が、目的を果たせぬままに、折れる。
満身創痍の“彼”が、満足そうに笑んだ時。
視界に緋色がはためいた気がして、身を起こしたら、ガラスに人影が映っていた。
表紙の人に、よく似ていた。
けれど、その眉は力なく下がっている。
顔の作りはあまり変わらないのに、ひどく気弱そうだ。
ただただ、ひたすら悲しそうに、こちらをずっと見つめている。
その姿を、ああ、私はよく知っている。
秋のある日、私は死んだ。
ありふれた事故だった。
生まれ直した私は知った。
私がずっと分からないでいた気持ちを。
兄がいなくなって、胸の中に穴が空いたようだった。
ううん、本当はもっと前から、私の中は空っぽだった。
それを埋める物を、教えてくれるかも知れなかった兄が居なくなって、余計に穴が広がって。
それでも知りたくて、兄との唯一のつながりだったものを手放すまいと握り締めて。
結局分からないまま、終わってしまった。
生まれ直して、母に抱かれ、父に撫でられ。
そうして、初めて知った。
ずっと、ずっと――自分が、
「幸せだと思ってたのにね」
窓ガラスに映った人は何も言わない。悲しそうに、ずっと私を見つめている。
声にしたって、聞こえない。聞いているのは自分だけだ。わかっていて、わざと言葉にする。
「私より幸せだって思ってたのに。父も母も、いつも真っ直ぐに見つめて、愛してくれた。弟だって慕ってくれる。幸せだったのにね」
無限列車にいる鬼は、人の望む夢を見せると言う。
私の安らぎは確かにこの電車に乗っている時だった。駅で雑誌を買って、電車にいる時は母が急に部屋に来る事を気にせずに自由に読めた。
発売日は私の他にも読んでいる人がいて、兄といた時ほどでは無いが、少し温かくなれた。
両親に唯々諾々と従っていた私の、唯一の自由な場所だった。
そして、襲い来るかもしれない運命が、他人事でしかなかった頃だ。
「温かい家族も、父も母も、弟も居ないのに。いつも独りぼっちで、自分で何も選ばず、誇りも矜持も、夢も希望も何にも無く、漫然と過ごしていただけの日々でも……
愚かな人。馬鹿な人。
ここまで自分で足を運んだのに、こんな現実逃避をする程、恐ろしいんだね。
ああ、本当に、なんて弱い。
強くなろうとしてきた。
強く在ろうとしてきた。
それでもまだ、訪れようとしている事が恐ろしい。
以前よりも、ずっと多くを手にしてしまったから。
それを喪うのが、怖くて仕方ないんだ。
そして悲しくて仕方ない。
こんなに恐ろしいのなら知らなければよかった。
そう思ってしまった自分が、それを少しでも幸せと思ってしまった自分が、悲しいんだ。
「でも、そんな弱い人間が、僕だ」
立ち上がる。
羽織が揺れる。
視界に映る髪が黄金と赫に染まる。
手足が伸びて、身体がグンと大きくなる。
ブレザーは男の学生服にも似た隊服に。
携えていた単行本は消え、腰に重く刀が下がった。
窓ガラスに映る僕は、“彼”によく似ている。
でも、あんな風には笑えない。
それでいいんだ。
ここにいるのは“彼”ではなく、僕だから。
これは僕の人生だから。
こんな僕の弱さも焼べて進もう。
まだ、やらなきゃいけない事がある。
柄に手をかけ、刀を抜く。
夢の中なのに刃の色はいつも通りで、苦く笑った。
こんなところばかり現実に沿わなくてもいいのに。
「さて、――帰ろう」
刃を首に添え、目を閉じる。
そして、やるべき事をする為に、手を引いた。