雪音クリスは士郎がフィーネの下に行くと不機嫌になる。
「なあ、またフィーネのとこに行くのかよ?」
「またって、いつものことだろ? なんでそんな嫌味な言い方なんだ?」
ブスーッとした表情を隠そうとしない、というより隠せないクリスに士郎は首を傾げる。
この部分だけ見ると、マザコンの彼氏に焼きもちを焼く彼女に見えるが、クリスの抱く感情はそんな単純なものではない。
「なんでって、お前がやらされてることって世間一般的に言う
モルモット。その言葉が示す様に士郎はフィーネ下で、実験に付き合わされている。
しかも非人道的な実験だ。クリスでなくとも一言もの申したくなるだろう。
「人聞きの悪いこと言うなよな。これは俺は望んでやってもらってることなんだ。むしろ、フィーネさんには感謝してるぐらいだ」
「感謝ってお前…! 毎回毎回死にかけてるんだぞ!?」
自分の扱いにも何の疑いを抱くことなく笑う士郎に、クリスは食って掛かる。
士郎がやっている行為は自傷行為で自殺行為だ。
少しでも士郎という人間に好意を持っている人間からすれば、到底許せるものではない。
「俺は別に死なないから大丈夫だろ。
だというのに、当の本人はクリスが怒る理由がまるで分からないと首を傾げる。
その余りにも、自分を度外視した態度に、クリスは怒りも忘れ呆然と立ち尽くす。
「それじゃあ、俺は行くからな。あ、冷蔵庫に昨日の残りが入ってるから。小腹が空いたらそれでも食べてくれ。じゃあな」
そんな彼女の愕然とした表情にも、士郎は不思議な顔をするだけでいつも通りに歩いていく。
自分を大切に想っている人間の心につく傷の重さに気づくことなく。
クリスはそんな壊れた後ろ姿を呆然と見つめながら、心底悔しそうに呟く。
「誰も傷つかないって……なんで
そして、痛い程に手を握り締めながら、士郎が受けている実験の光景を思い出すのだった。
それを見つけたのは本当に偶然だったとクリスは思い出す。
今より一年前に士郎を探して、フィーネの実験室に訪れた時だった。
「―――ッ!!」
痛みを押し殺すような悲鳴が聞こえてきて、視線を向けた先に士郎は居た。
ベッドの上でまるで猛獣を縛るかのように鎖に縛り付けられた状態で。
フィーネから何かしらの薬物を投与されながら。
「お、お前何してんだよ!?」
「クリス、実験の邪魔よ」
「実験!? どうみても士郎を
冷静に返事するフィーネとは反対に、クリスはすぐに士郎の下へ駆け寄る。
だってそうだろう。士郎の様子はそれはもう酷かった。
体中の血管は破裂せんとばかりに青黒く浮かび上がり、目と耳からは夥しい血が流れだしている。おまけに口と鼻からは、嘔吐物と血が混ざった見るに堪えない物質が吐き出されており、それがまた士郎の呼吸を遮ることで彼を苦しめていた。
「いいからその薬を入れんのをやめろよ! 本当に士郎が死んじまう!?」
「ああ…あなたはまだ知らなかったのね。この子は死なないのよ」
「死なない…?」
何を言ってるんだこの女は、と思うと同時に士郎の体に
そして、それが消えた時には見た目は酷い有様ながら、内部は綺麗になっている士郎だけが残っていた。
「この子はある聖遺物との融合体で、死にかける度に生き返る能力を持っているのよ」
「聖遺物との融合体…?」
「そう。おとぎ話の騎士の頂点が身に着けたとされる鞘。その能力の一端が士郎にはある」
クリスに対して軽く説明をしながら、フィーネは先程の薬の結果をメモに書き込んでいく。
その姿からは士郎を労わる様子など欠片も見えてこず、それがクリスの怒りをさらに煽る。
「少し効果が強すぎるわね。次は少し弱めたものを投与してみましょうか」
「――て、やめろよ! 死ななくても痛えもんは痛えだろ!?」
「そうは言ってもねぇ。この子が自分でやりたいって言ったことだし」
「士郎が…自分で…?」
冗談だろと、言葉にせずとも分かる目で士郎を見つめるクリス。
それに対して、士郎は鎖に縛られた状態で、器用に喉に張り付いた血と吐瀉物の複合体を吐き出しながら質問に答える。
「悪いな、クリス。心配させて。でも、俺は大丈夫だ。これは試作品の薬みたいなものらしくてさ。その臨床試験を俺がやらせてもらっているんだ。こんなのでも立派な人助けになるしさ」
士郎は痛みなど感じさせない顔で、むしろクリスに申し訳なさそうに話す。
彼はフィーネが作った薬や、その裏の世界の人間が作るような、生化学の危険度の高い試薬品を率先して投与している。フィーネに対しては恩返しとして、その他の薬に対してはこれを使われる人達の危険性を少しでも下げるために。
士郎は薬ではなく、毒の段階であるそれを自らの体に受け入れている。
「臨床試験って……普通は動物実験をしてからじゃねえのか?」
クリスの意見はもっともだ。
薬はまず、動物で実験を行いある程度の安全性が確認され次第に人体実験に入る。
故に、まず血反吐を吐き散らすようなことにはならない。
つまり、士郎は動物実験の段階で薬を投与されている。
「動物実験をしてたら時間がかかる。それじゃあ、今困ってる誰かを救えない」
士郎の言っていることは間違っていない。
人体実験は非人道的行為として禁止されているが、その有効性は誰も否定できない。
かつてナチスがユダヤ人を用いて、医学レベルを急上昇させたなどの例は幾らでもある。
だから、死なない士郎が犠牲になることの有効性は確かにあるのだ。
「こんな俺でも誰かのためになれるなら、こんなに嬉しいことはないよ」
「だとしても…! だとしても! それじゃあ、てめえは体の良いモルモットじゃねえかよ!?」
まっすぐな瞳で誰かの助けになれるんだと笑う士郎に、クリスは悲鳴を上げる。
だって、そうだろう。どんな高尚な理由があろうと士郎のやってる行為は自殺行為だ。
そんなものを見せつけられて冷静でいられる方がおかしい。
だというのに、士郎は本当に不思議そうな顔で疑問を口にする。
「…? それの何が問題なんだ?」
絶句した。
叫びたいのに喉が渇ききって声が出てこない。
クリスは捕虜時代にも味わったことのない恐怖を、目の前の少年に抱いた。
「俺は死なない。そりゃ、ちょっとは苦しいけどさ? そのちょっとの苦しみで、病気に困ってる人達が救われるなら俺は嬉しい。
眩暈がした。この少年は本気で言っているのだ。まるで気づいていないのだ。
みんなの中にまるで自分が入っていないことに。
目の前で自分が傷つくことで傷ついている少女の存在に。
何より、自分が誰かから心配されるわけがないと、疑いもしないのだ。
「…ッ!」
「あ、クリス! ……まいったな。やっぱり、女の子に会う時にこんな汚い格好じゃダメか」
「そう…ね。今日の実験はもう終わっていいから、クリスの機嫌でもとってきなさい」
「悪いな、フィーネさん。後で、何か甘いものでも作って来るよ。クリスも好きだし」
それが余りにも悲しくて恐ろしくて、クリスは逃げるようにその場を離れてしまった。
だというのに、士郎は見当違いな勘違いをして、フィーネからフォローを受けている始末だ。
「さて、今日は腕によりをかけて作らないとな」
いつも通りに立ち上がり、何でもないように今日の献立を考える彼は気づかない。
自分が愛されていることに。
クリスが士郎を救えぬという絶望から逃げ出したことを。
痛みとは肉体的なものだけではなく、精神的なものもあるのだと。
「……て、まずはシャワーを浴びないとダメか」
人間のふりをしているロボットは気づかない。
だから、クリスは士郎がフィーネの下に行くのが嫌いだ。
「さて、今日の実験はお終いでいいかしらね」
「もうなのか? 最近は随分と楽になってないか」
「そう感じるのは、あなたが精神的にも肉体的にも
口元についた血を、ただの汚れのように手で拭いながら士郎は言うが、対するフィーネの方はそんな様子に呆れた表情を隠さない。何度も言うが、死ぬほどの苦しみを受ける実験に対してケロッとしてる士郎がおかしいのだ。
「慣れてきた?」
「ええ、薬だって何度も使っていたら徐々に効きが悪くなっていくでしょ? 毒だって同じ。何度も何度も投与されることで、免疫を獲得したのよ。……まあ、普通はその前に死ぬのだけど」
なるほどと言った様子で頷く士郎に誤魔化す様に笑みを向けつつ、フィーネは心の中で呟く。
(その特性を利用して、自白剤や催眠剤、精神に異常をきたすような、ありとあらゆる薬の耐性もつけさせてもらったけど、言わなくても良いわよね)
士郎には人の治療に使う薬の実験と言っているが、中にはこっそりと私情を混ぜたものもある。主に士郎が捕らえられた時に、こちらの情報を吐き出さないための配慮だが、若干やり過ぎたような気もしなくはない。
「もっとも、今となってはその心配も薄いでしょうけどね」
「なにか言ったか、フィーネさん?」
「いいえ、何でもないわよ、士郎」
誤魔化しの笑みを浮かべながら、フィーネはそれも杞憂だったなと思う。
何故なら、彼女の計画は既に最終段階に突入しており、後はほんの数パーツで全てがそろうのだ。わざわざ、味方が捕らえられるなど考える必要もない。全てが順調だった。
「そっか。じゃあ、俺は買い出しに行ってくるけど、何か食べたいものはあるか?」
「食べたいもの……そうね、じゃあハンバーグで」
「……フィーネさん、俺が聞くといつも同じ答えを返してないか?」
ジトーッと真面目に答えてくれという視線を向けてくる士郎。
それに対して、フィーネは心外だと言わんばかりに大げさに肩を下げてみせる。
「あなたが初めて作ってくれた料理で、私の好物になったものだからいいでしょ? ……懐かしいわね。まだ、ちっちゃかったあなたが一生懸命に作ってくれる姿は可愛かったわよ」
「う…思い出させないでくれよ。あの時のはとてもじゃないけど綺麗とも、美味しいとも言えないものだっただろ」
「大丈夫よ。足らない部分は愛情でカバーしてたから」
「愛情って……それで美味しくなるなら苦労はしないんだけどな」
はぁ、と溜息を吐いて首を振る士郎。
彼は料理は愛情よりも技術で決まると思っている。
それは、彼が心のどこかで自分には、愛なんて抱く資格がないと思っているからだ。
愛で料理の味が決まるのなら、自分の料理はきっと酷く味気の無いものになるだろう。
だが、幸か不幸か彼の料理は、誰からも美味しいという評価を得ている。
だから士郎は、料理は技術の方が重要だと思っている。
「美味しくなってるわよ、十分ね」
それが全くの見当違いだとも気づかずに。
「ま、そう言ってもらえるなら嬉しいよ。それじゃあ、行ってくる」
「ええ、いってらっしゃい」
フィーネの言葉もお世辞だと思い、士郎は曖昧な笑顔と共に背を向ける。
そんな少年の背中を見つめながらフィーネは思い出す。
初めて料理を作った時の士郎の姿を。
「……たとえ義務だとしても、そこに愛情は生まれるものなのよ」
火傷と切り傷で手が傷だらけなのに、それでも笑顔で皿を差し出してきた姿を。
美味しいと言うと、珍しく自分の意志で次はもっと上手く作ると宣言した光景を。
フィーネはきっと忘れないだろう。
「本当に、バカな子」
例え、何度生まれ変わっても。
「あれ? またあの人が居る」
明るい茶色の髪をボブカットにした少女が、丸い黄色の瞳をパチクリとさせる。
少女、
それは別に彼女が一目惚れをしたという訳でも、懸想している相手に出会ったという訳でもない。
ただ、本当に目が離せないのだ。
理由など分からないし、そもそも相手とは接点などないはずである。
だというのに、よく見かけるし何故か視線で追ってしまう。
もし、彼女が恋愛脳かつ1人で行動していたら、恋をしてしまったと思ったかもしれない。
だが、そうはならない。彼女にはストッパーが居た。
「あの人って赤毛の人? 見かける度に人助けをしてる人だよね」
「あ……そう言えば」
どうりでと、響は黒髪青眼で白のリボンがチャーミングな友人、
「お婆さんが重いものを持っていたら、代わりに持ってあげて。ゴミが捨ててあったらゴミ箱に入れ、落とし物があったらすぐに届けてあげて、迷子の子と一緒にお母さんを探して……あ、これ響だ」
「え? 私っていつもそんな感じなの」
「そうそう。どこか危なっかしそうな感じがするのも響だよ」
親友からの余りにもあんまりな物言いに、響は反論したくなるが、同時にどこか納得のいくものがあった。
少年はきっと鏡を通して見た自分なのだ。
いつも少年を見かける気がするのは、困っている人が居ないか探していたから。
きっと、相手の方も自分が人助けをしている時は自分の方を見ているのだろう。
目が離せないのも、それと同じ理由のはず。
「んー……」
「どうしたの、響?」
「あの人が私だとしたら……なんだか違和感を感じる」
「私も冗談で言ったみたいなものだから、そこまで考えなくても良いと思うよ?」
自分と同じだから目が離せないのだと思った。
でも違う。自分と同じだと思うとどこかに違和感を覚えるのだ。
そう、それは同じ鏡であっても、歪んだ鏡を覗き込むかのように。
「……ああ、そっか。あの人―――全然嬉しそうじゃないんだ」
言葉にしたそれは酷くすんなりと心に落ちた。
隣の未来も、納得したのか響と少年を見比べつつ頷いている。
「よく見たらお礼の言葉も受け取る前から背中を向けてるし、本当に人助けをしてるだけなんだ。なんでなんだろう?」
「男の人だし、ただ単にお礼を言われるのが気恥ずかしいとか?」
「うーん……そうなのかなぁ」
確かに女性と違って男性は、何事も黙って実行することに美を感じることが多い。
しかしながら、響の勘はそうではないのだと警鐘を鳴らす。
まるで、それはあり得るかもしれない
「て、あ! 話してたらどっかに行っちゃった」
「そうね……と、私達もそろそろ帰らないと」
「……うん。そうだね」
未来に急かされながら、響はどこか名残惜しそうに少年が居た場所を見る。
もし、次に出会えたら、今度はちゃんと向き合って話してみようと。
そう、決心するのだった。
そして、その時は意外と早くやってきた。
珍しく未来とは別々に学校から帰っていた日だった。
「あの子何してるんだろう?」
響は小学生くらいの女の子が、橋から身を乗り出す様に川を覗き込んでいる様子を見かけた。初めは魚でも見ているのだろうかと思った響だったが、すぐに違うと気づく。何故なら女の子達の目がとても悲しそうだったから。
「どうしたの? 何かあったの?」
「えっと…実は……」
初めは見知らぬ響の姿に警戒していた女の子だったが、響の持ち前の笑顔に触れてポツリポツリと語り始める。
「ビー玉を川に落としちゃったの?」
「うん……」
女の子の話によると、学校の体験学習の一環で作ったビー玉を、お手玉のようにしながら帰っていたら、誤って落としてそのまま転がって川に入ってしまったらしい。普通のビー玉なら女の子も諦めただろうが、自分で作ったものなので諦めるに諦められないのだろう。
「ビー玉かぁ」
それを聞いた響は困り顔で考え込む。
これが他のものであれば、川に浮いていたかもしれないし、大きさ的にも見つけやすかっただろう。
だが、ビー玉だ。それこそ川に投げ入れられた小石と変わらない。
浮くはずもないし、色がついていても見つけやすいものではない。
例えるなら、
「うーん……どうしよう」
頭の良い大人なら諦める様に諭すだろう。
厳しい大人なら、ものを大切にすることの大切さをここぞとばかりに説くだろう。
しかし、頭がよくとも大人でもない響はどうにかしようと、女の子と一緒に考え込む。
彼女にとって女の子は初対面だ。
そこまでしてあげる義理も無ければ義務もない。
だというのに、諦めないのは女の子が助けを求めているからであり、響が助けたいからだ。
その在り方は、最近よく見かけるようになった少年に似ているようで。
致命的なまでに違うものである。
「もしかして、何か困ってるのか?」
「え…あ、あなたは!」
解決策を求め、唸っていた響達の下に救いの手が差し伸べられる。
マイバックを片手に、いかにもこれから買い出しですといった感じの赤銅の少年。
士郎が立花響と対面する。
「? どこかで会ったことがあったか?」
「あ! ううん、よく人助けをしてるのを見たことがあったから、それで」
「そうか……俺は士郎。それで、何に困ってるんだ?」
「私は立花響、響って呼んで。えっと、実はね……」
苗字を名乗らなかった士郎に、一瞬だけ疑問に思う響だったが、すぐに気安く呼んでくれという意味だろうと受け取り、状況の説明を始める。士郎はそれを黙って聞き、ほんの少し何かを考えたかと思うと、すぐに身を乗り出して川の様子を見る。
「川の流れは穏やかだな。これなら、遠くまで流れて行ってるって線はないな。それにあっちから川に降りられそうだ……よし!」
「何か手があるの?」
「何ってそりゃあ…」
何か気合を入れる様に声を出したかと思うと、川に続く階段に歩いていく士郎。
それに対して、響と女の子は名案があるのかと期待した声で問いかける。
士郎は彼女達に対し、自信満々に頷き、言葉を返す。
「潜って探してくるだけだろ?」
「「え?」」
思わず声をハモらせる少女達に士郎は不思議そうな顔を返す。
脳筋戦法にも程があるが、そもそもこれぐらいしか取れる手段がないのだ。
しかし、だからといって、いきなり川に潜ると言われて戸惑わない人間は居ない。
特に、ある程度危険というものを認識できる年齢の響はすぐさまストップをかける。
「待って! 川に潜るって危ないと思うんだけど?」
「心配するなって、流れは酷くないし、濁りも少ない。それに深さだって俺1人分が沈むぐらいだからそこまで大変じゃないと思う」
「いや大変だよ!? 私聞いたことがあるけど、川で溺れるのって深さは関係ないんだよ!」
何食わぬ顔で上着を脱ぎだす士郎に、思わず赤面しながらも響は必死に制止する。
だが、士郎はまるで意に介さない。
それどころか、女子小学生の前でパンイチになるという、軽く通報ものの行動を終え、ためらうことなく川の中に入っていく。
「俺は
「いや。だから待ってって!?」
「ちゃんと見つけてやるから心配するなって」
ザブザブとまるで温泉に入るかのような仕草で川底に沈んでいく士郎。
その余りにも命知らずの行動に響は、呆然とした表情で見送ることしかできなかった。
「お兄ちゃん大丈夫かな?」
「じ、人工呼吸と心臓マッサージのやり方を調べておかないと…! 後は救急車とレスキュー隊をいつでも呼べるようにしないと」
しばらく呆然としていた響だったが、女の子の言葉にハッとなり、すぐに携帯端末で色々と準備を始める。もう、彼女は士郎が止められないと悟ったので、溺れた後の対処を全力で行うことに決めたのだった。
そして、1時間後。
「おーい、これでいいのか?」
「ッ! それ! それだよ! お兄ちゃん!」
海坊主よろしくヌッと川から這い出てきた士郎は、手に小さなビー玉を持っていた。
それを見て、純粋に喜びをあらわにする女の子。
心底ホッとした様子で、今にも救急車を呼ぼうとしていた携帯端末から手を放す響。
「はぁー……何度溺れたと思ったことか。かなり長いこと顔を出さなかったり、何か青色の変な光が見えたりして心配したんだからね?」
「心配させて悪いな。でも、ほら? ちゃんと
響と女の子を安心させるために、士郎は精一杯の笑顔を張り付ける。
長時間水に潜るためだけに、意図的に何度か
「それにしても、ビー玉、見つかって本当に良かったな」
「…? なんでお兄ちゃんが見つけてくれのに、そんな言い方するの?」
「何でって、君と響がどうにかしようとしたから、俺がそれを助けることが出来たんだろ? お礼を言いたいのは俺の方だよ」
自分の功績だというのに、士郎はまるで赤の他人のおかげだといった感じで話す。
女の子の方はそういうものなのかなと、首をひねっているが、響は違った。
あの日抱いた違和感を、今もまた強く感じている。
「さてと、それじゃあ俺はもう行くよ。食材を買わないといけないしな」
「えっと、お礼してないよ?」
「気にするなって。俺が好きでやったことなんだ。どうしても、お礼がしたいならビー玉をもう無くさないように大切にしてくれたらいい」
ああ、これだ。だから、この鏡は
何かが決定的に欠けている。その何かは分からないが、響はそれが許せなかった。
だから、響は礼を受けることから逃げようとしている士郎の手を掴む。
「えーと、響さん?」
「響で良いよ、士郎君」
「それで、いきなりどうしたんだ?」
「何って、士郎君ずぶ濡れだよね? そのままじゃ、風邪ひくよ。だから、これ」
そう言って、響は偶々持っていた自分のタオルを差し出す。
「いや、汚れるだろ。いいよ、俺は。しばらくこうしてたら勝手に乾くだろうし」
だが、予想通りに士郎は断る。
迷惑はかけられない。自分には誰かに施しを受ける権利などないと。
「タオルが汚れるぐらい、へいきへっちゃらだよ。それより、ほら。頑張ったお兄ちゃんに感謝のゴシゴシの時間だよ!」
「わかった!」
「感謝のゴシゴシ…?」
響からタオルを受け取った女の子に無理やり髪を拭かれながら、士郎は困惑の表情を浮かべる。それは響のとった強引な行動に対してのものと、自分が誰かからのお礼を受け取っているということへの忌避感からだった。
「いや、自分で拭けるから別にやってもらわなくてもな……」
「ダメでーす。人助けはありがとうを受け取るまでが、人助けです」
「そうだよ。助けてくれてありがとうね、お兄ちゃん!」
「ッ! そう…言われてもな」
なおも抵抗しようとするが、頑な響の態度に押されて士郎は黙り込み顔を背ける。
「俺は……」
2人から背けた顔を、自らが死ぬ時よりもなお激しく苦痛に歪めながら。
士郎は心を締め付ける罪の意識に必死で耐えるのだった。
「それじゃあ、気をつけて帰ってね」
「うん! ありがとうね、お姉ちゃん! お兄ちゃん!」
「だから、もうお礼は言わなくていいって……」
辺りが暗くなっていたので、女の子を家の近くまで送っていった響と士郎。
そんな2人は今、夕闇の中で2人きりで向かい合っていた。
「悪いな響。こんな時間まで付き合って貰って」
「いいよ、別に。私が好きでやってることなんだし」
「そっか……」
言葉自体は士郎がいつも言うものと変わらない。
だが、その中身は全くの別物だ。
それが士郎自身にも分かるからか、どこか眩しそうな顔をして目を細める。
「ねえ、士郎君」
「なんだ、響?」
響はその表情が無性に悲しく思えた。
だから、問いかけてみようと思った。
どうして彼が、人助けをしているのか、その理由を。
「士郎君は――」
だが、その言葉は響自身の口によって閉じ込められた。
(傷なんて……誰にだってあるものだよね)
歪んだ鏡であったとしても、それは自分の姿を映すものだ。
故に、響は士郎の根底にあるものが何となく察せた。
だからこそ、その心を無暗に暴いてはいけないのだ。
きっと、士郎は聞けば隠さずに答えてくれるだろう。
ただ、人から請われたという理由だけで。
響はそれは嫌だなと思った。だから、口をつぐんだのだ。
「…? どうしたんだ?」
「あ、ううん。士郎君は何か好きなことってある?」
疑問符を浮かべる士郎を誤魔化す様に、響は適当な言葉を続ける。
だが、すぐに言葉の選択を誤ったと気づく。
「好きな…こと?」
士郎の表情が消える。
まるでプログラムに規定されていないことを聞かれたロボットのように。
1人だけ生き残った自分が、何かを好きになるなんて許されないとばかりに。
「な、何でもいいんだよ? 特技って言ってもいいかもしれないし」
「特技か……それなら家事と料理が得意かな、一応」
「主婦?」
先程までの焦りはどこに行ったのか、士郎の特技を聞いた瞬間に思わずツッコミを入れる響。
「……母親みたいな人からもどこにでも嫁に出せるって言われてるよ」
「ほ、褒められてるんだから、そんなに複雑な表情をしないでも……」
どこか疲れたような目をする士郎に、さしもの響もどう反応すればいいか分からなくなるのだった。しかし、同時にそこまで太鼓判を押される程の腕前が気になりもする。
「でも、料理上手なんだ。ちょっと食べてみたいかも」
「機会があったら作ろうか? 因みに好きなものはなんだ?」
「本当!? だったら、ごはん&ごはんでお願いします!」
「そうか。じゃあ、丼物でも作ってみるか」
キラキラと目を輝かせる響の姿に、苦笑しながらも士郎は頭の中でレシピを描く。
そんなようやくといっていい程の和やかな空気が流れ始めたところで、響に電話がかかってくる。
「未来? どうしたの? ……ああ、うん。大丈夫だよ、私はいつも通り人助けをした帰りだから。うん。すぐに帰るから、待ってて。じゃあ、後で」
電話を切り、響は士郎に申し訳なさそうな顔を向ける。
それだけで士郎は大体の事情を察して、小さく笑う。
「もう暗いし送って行こうか?」
「大丈夫。ここからそんなに遠くないし。それに士郎君は買い物しないといけないんでしょ?」
「あー…まずいな。タイムセールももう終わってるだろうなぁ」
「本当に主婦みたいなこと言うんだね……」
ぬかった、という表情でタイムセールに遅れたことを悔しがる士郎に、響は苦笑いを浮かべる。
「ま、終わったものは気にしてもしょうがないか。それじゃあな、響」
「うん、またね」
「ああ……またな」
夕焼けがその姿を照らす中、互いに背を向け合って離れていく2人。
まるで、それは今後の2人の関係を表すようで。
運命は2人の出会いをきっかけに、急激に動き始めるのだった。
「クリス。あなたにはこれからソロモンの杖を使って、特異災害対策機動部二課周辺にノイズを呼び出してもらうわ。それが人為的に行われたと分かるように、かつ複数回に渡ってね」
「分かった……けど、なんで分かるようにやるんだ?」
士郎が買い出しに行っている間。
フィーネの研究所ではそんな会話が行われていた。
「穴の奥に隠されたお宝を、相手自身に外に出させるためよ。あなただって、隠し場所がバレている場所にへそくりを隠さないでしょう?」
「隠したこともねえよ。まあ、意味は何となく分かったけど」
「それでいいわ。それと、ノイズを討伐に出てくるシンフォギア装者のうち、聖遺物との融合症例の方を可能なら捕まえなさい。まあ、士郎が居るから無理する必要はないわ。検体は多い方がデータが正確になるというだけだから、無理なら殺しなさい」
「…! とっ捕まえて来てやるよ。そうすりゃ、あいつが苦しむ必要もなくなるだろ?」
士郎の代わりになる。
その可能性にクリスは食いつく。
今から捕まえる相手には悪いが、人間赤の他人より家族の方が大切だ。
クリスは今士郎に行われている実験を、そいつが少しでも肩代わりしてくれると思った。
「……かもしれないわね」
だが、フィーネはそんなクリスの内心を嘲り笑う。
お前はあの子のことを何も分かっていないと。
士郎が、あの壊れた人形が、自分以外の誰かが傷つくことを許容するわけがないだろうと。
むしろ、連れてきた人間の分だけ自分が肩代わりしようとするはずだと。
フィーネは誰よりも彼を理解するからこそ、クリスの想いに嗤いを零す。
「まあ、そいつに罪はねえが関係ねぇな……好きなだけあたしを恨んでくれよ。確か――」
そんなフィーネの内心にも気づくことなく、クリスは1人謝罪する。
これから平和な世界のために、生贄にしてしまうだろう少女へ。
そして。
「―――立花響だったか?」
少女を愛する人々に。
因みに士郎君はノーパンで帰りました。