「ふふふ……ネフシュタンの鎧の主ごと浸食していく再生能力は使えそうね」
フィーネの研究室にあるどこか拷問室を連想させる一角。
磔台のようなものから、鞭のような拷問道具が無造作に置かれる部屋。
そこで、フィーネはクリスが戦闘を行った際のデータを見てほくそ笑んでいた。
「聖遺物と人間は同居することが出来る。ネフシュタンであり、人間でもある存在になれば浸食のリスクを回避しつつ、無限の再生能力を得ることが出来る。これもクリスのおかげね」
フィーネはネフシュタンの鎧という聖遺物を武装として、クリスに貸し与えている。
それは、二課周辺を襲わせるためであると共に、データを取る為でもあった。
(クリスにソロモンの杖でノイズに二課周辺を繰り返し襲わせることで、二課と政府はそこに保管されている“デュランダル”が狙いだと気づく。当然、奴らにも面子がある。ただ逃げるなどと言うことはない。賊を討つべくシンフォギア装者をクリスに差し向ける。そして、戦闘になれば融合症例である立花響が現れ、上手くいけばネフシュタンの鎧を破壊してくれる。ふふふ……融合症例のデータと、ネフシュタンの再生能力のデータが同時に得られるなんて、濡れ手で粟ね)
クリスが勝てば融合症例の戦闘データが手に入る。
逆にクリスが負ければ、ネフシュタンがどのように主を侵食するかのデータも手に入る。
それどころか、適度に介入すれば労せずに一挙両得することができるのだ。
フィーネでなくとも思わず笑ってしまう順調っぷりだ。
(私にとってはクリスが勝とうが負けようが関係ない。仮にクリスが捕縛されたとしても、風鳴弦十郎の性格からして自白の強要はない。時間をかけて情報を得ようとするはずだ。そうなれば救出でも口封じでもどうとでもできる。デュランダルも狙われていたという事実さえあれば、移動の提案をするのは何もおかしくない。そうなれば私自身で奪うぐらいは簡単だ)
フィーネはある目的のために、二課に保管されている不朽不滅の宝剣“デュランダル”を、正確にはそれが生み出す無尽蔵のエネルギーを求めている。デュランダルを手に入れることさえできれば、彼女の計画は実行に移せる段階へと移る。故に彼女は上機嫌であった。
(そして、後は私自身が融合症例になれば……私の邪魔をできる者は誰も居なくなる)
クツクツと魔女のようにフィーネは嗤う。
彼女は士郎と違い、脳みそを吹き飛ばされれば死ぬ。
故に、無限再生の能力を持つネフシュタンを取り込み、不死身になるつもりなのだ。
因みにクリスはそのための試金石なので、無傷の勝利よりも傷だらけの勝利を望まれている。
もちろん、これはクリスにも士郎にも伝えていない。
(そして、あの忌々しい月を砕き去り、人類の為に共通言語を取り戻す)
フィーネはドロリと濁った瞳で、窓からのぞく空を見上げる。
昼間である故にそこに月は見えない。
だが、彼女は見上げることをやめなかった。
まるで、今ではなく過去の記憶を睨むかのように。
「おい、フィーネ。そんなところで何してんだ?」
「あら、クリス。別に、ただ空を見てただけよ」
「ふーん」
そんな感傷に浸っていたところで、暇を持て余してそうなクリスが現れる。
何か用かと思って、フィーネは視線を向けるがクリスはフィーネの方を見ていなかった。
キョロキョロと周囲を見回して、誰かを探している。
それを見れば、誰だってクリスが何をしに来たのかを理解できるだろう。
「士郎なら今日は出かけてるわよ」
「……また買い物か?」
クスクスと微笑ましそうに笑いながら答えると、何故かクリスは半目になる。
その様子にフィーネはどういうことかと疑問を覚えるが、スルーすることにした。
因みに、クリスの半目の原因は『また、女を引っかけてくるのか』という思いからである。
「今日は違うわよ。いつもより、少し遠出よ」
「遠出? 何しに行ったんだ?」
「そうね……他に適切な言葉が見つからないから、言うとしたら…」
僅かに言葉を詰まらせてフィーネは考える。
あの行為は果たしてなんと言うべきだろうかと。
家に帰ると言えばただの帰宅だろう。墓に参るのは墓参りだろう。
だが、しかし。かつて家のあった場所で“家族ごっこ”をすることを、なんと言えばいいのだろうか。
「……里帰りよ」
だから、フィーネは曖昧な言葉でそう返すことしか出来なかった。
■■士郎の瞳には故郷にあるもの全てが墓標に見える。
思い出に残る建物も、変わった風景も、見知らぬ人でさえ、全てが煤に塗れた墓標だ。
「……久しぶりに
電車に揺られて数十分。
今住んでいる場所から近くもなく、遠くもない場所が■■士郎の生まれ落ちた地だった。
「この場所も随分と変わったな」
段々と記憶に残る部分が減っている故郷を歩きながら士郎は呟く。
昔は災害の爪痕が随所に見受けられたが、今は再開発の影響でそれもなくなっている。
喜ばしいことだ。人間はどんな苦難も乗り越えて行けると、この場所の人々は示して見せた。
士郎だって、人の活気が戻りつつある町の方が好ましい。
「……変わってないのは俺だけか」
だというのに、そのことに無性に寂しさを覚えてしまうのは何故だろうか。
記憶にある悲惨な光景が消える度に、この町に痛みを知らぬ笑顔が増える度に。
■■士郎は1人過去の牢獄に取り残されていく。
「……はぁ、またか」
ふと、足を止める。
そして溜息を吐く。
今日は町に立てられた慰霊碑に行く予定だけだった。
だというのに、この町に、故郷に来るたびに。
「もう、家のあった面影すらないのにな」
■■士郎はかつての自分の家に赴いてしまう。
「…………」
ただ黙って、今は空き地になってしまった
もう、その家の詳細は覚えていない。
屋根が何色だったのか、窓はどこら辺にあったのか、内装はどうだったか。
全てが朧気だ。思い出は時間の流れと共に、どこかに流れ去っていってしまったらしい。
「ただいま……親父、お袋」
かつて玄関があったと思う場所から空き地に踏み入る。
おかえりの言葉は当たり前だが帰って来ない。
分かっている。この場所には何もない。幼い頃に訪れていた時はまだ思い出が残っていた。
でも、今は何も残っていない。それを示す様に士郎の顔には悲しみすら浮かんでいない。
「……なんで墓を作らなかったんだっけな」
ポツリと声を零しながら考える。
そして、すぐに思い出す。何のことはない。
自分は両親の死を受け入れられなかっただけだ。
墓とは死者のためにあるのではなく、生者が死を受け入れるためにある。
「昔はここで
故に、両親の死を受け入れることが出来なかった士郎は墓を作れなかった。
それを示す様に、拾われてすぐの頃はこの場所に頻繁に訪れては、“家族ごっこ”をしていた。
記憶の中の、いつも一緒に遊んでくれた父と追いかけっこをし。
誰よりも自分を愛し、優しくしてくれた妄想の母に笑いかけた。
フィーネがその手を優しく握って、連れ帰ってくれるまでずっと。
「親父…お袋……」
静かに目を瞑り、死んだ両親を思い出そうとする。
もう、顔も思い出せない父の大きな背中を。
声すら忘れた誰よりも優しかった母の温もりを。
「……なんで俺が…ッ。俺だけが…!」
自分と母親を守るために、ノイズに立ち向かい炭となった父の背中を。
息子を守るためにノイズの攻撃を受け止め、自分を抱きしめたまま灰と消えた母の温もりを。
「―――生きてるんだ…ッ」
苦しみながら思い出す。
2人の愛ではなく、あの時に感じた痛みと苦しみだけを思い出す。
そして、その思い出が彼をこの場所に束縛し続ける。
2人の想いとは裏腹に、士郎はあの時から欠片も成長していない。
彼の中の時計はあの日から止まったまま。
新たなる地へと旅立つ足をここに戻らせる。新たな家族を受け入れることを拒み続ける。
「親父、お袋……ごめん。2人がこんな俺のために命を懸けてくれたのに…俺は…俺は…ッ」
吐き出してしまいそうになる言葉を何とか飲み込む。
頭では分かっているのだ。生かされた自分がこのような言葉を言ってはならないのだと。
死にたいなどと、生きるのが辛いなどと。
1人だけのうのうと生き残っている、自分が言ってはならぬのだと理解している。
本当は息をするだけで死にたくなるのに、生きなきゃいけないと自分を騙し続けていく。
「もう……行くよ。慰霊碑に供える花を買わないといけないし」
ゆっくりと、自らが掴んだ亡者の腕を名残惜しむように放して、士郎は背を向ける。
「……ああ、今日も世界は……灰に塗れたままだな」
早く自分もそっちに連れて逝ってくれと願いながら。
「たく、信号はちゃんと確認するんだぞ、少年」
「す、すみません」
「今回は怪我がなくて良かったが、次は大怪我するかもしれんぞ」
その30分後。士郎は大柄な大人の男性に叱られていた。
理由は士郎がボーっとしていたせいで、信号を見るのを忘れ車に轢かれかけたからだ。
つまり、完全に士郎の自業自得である。
「はい……おっしゃる通りです」
「とにかく、怪我がなくて良かった」
「はい、おかげさまで」
なので、士郎もこれ以上ないぐらいに反省している。
幾ら、大人な男性が
自らのせいで誰かが犠牲になる。それだけは士郎は絶対に許せない。
いくら、車に轢かれると理解しても別にいいかと思い、運転手に迷惑をかけたくないという理由以外に避ける気がなかったとはいえ、これは失態だ。今度からは他人に迷惑をかけないように細心の注意を払おうと士郎は心に決める。
「大変、御迷惑をおかけしました」
「人として当然のことをしたまでだ。ああ、そうだ。荷物の方は大丈夫か? 見たところ花束だったからな。移動の衝撃で傷ついていないと良いんだが」
「いえ、荷物の方も大丈夫です」
取りあえず、男性を心配させないために無事なことをアピールしようと士郎は花束を掲げる。
花束は男性の完璧な衝撃吸収の技術故に、皴1つついていない。
だが、男性はそれを見ると同時に顔をしかめる。
その花束の意味を理解し、士郎が非常に危うい状態にあると察したために。
「白いカーネーションか……少年、今からどこに行くつもりか聞いてもいいか?」
「町の中央の公園にある慰霊碑ですけど…?」
白いカーネーション。それは亡くなった母親に贈るもの。
それをボーっとして車に轢かれかけた少年が持っていた。
正直に言って男性には士郎が自殺志願者にしか見えなかった。
「なるほど……ちょうどいい、俺もそこに向かう予定だったんだ。これも何かの縁だ。道中の話し相手になってくれないか?」
「はぁ……別に
一転して、子供を安心させるような笑みを浮かべる男性に、首を傾げながらも士郎は頷く。
男性に助けられた以上、士郎に断るという選択肢はない。
何でもいいから恩を返して、自らの罪と相殺しようと躍起になっているのだ。
「よし! そうと決まったら早速行くか」
「分かりました」
そんな内心を男性に感づかれていることに気づきもせず。
自分を心配してくれているのだと夢にも思わずに。
「む、そうだ。自己紹介がまだだったな」
だが、男性はそれを一切気取らせることなく士郎の前で明るく振舞う。
それは目の前のいつ爆発するか分からない爆弾への警戒からではなく、純粋に大人としての善意から。
そんな男の正体は。
「俺は
風鳴弦十郎、『特異災害対策機動部二課』の司令その人だ。
「弦十郎さんはなんでここに?」
「自分の未熟さを忘れないためにだ」
慰霊碑に花と黙祷を捧げた後の沈黙に耐えきれなくなり、先に声をかけたのは士郎だった。
それに対して、弦十郎は重々しくもどこか割り切った様子で答える。
だから、士郎はここに来るまでに抱いていた疑問を聞く。
「……あなたもノイズで家族を失ったんですか?」
彼もまた、自分と同じようにかつての災害で大切なものを失ったのではないか。
士郎の予想は至って普通のものだった。
だが、弦十郎はハッキリとした口調でそれを否定する。
「いいや、俺は逆だ。俺は
その言葉に士郎は息をのむ。
弦十郎がそうした立場に居る人間だったことではなく。
それを明確に被害者である士郎に明かしたことにだ。
「ノイズが出現すると警報が鳴るだろう? その後に避難誘導やノイズの対処を行う部隊がある。俺は……詳しく言えんがそこのお偉いさんでな。災害が起きたあの日に指揮を執るべき立場だった」
被害者に対して自分が救えなかったと語る姿は、懺悔と言えるだろう。
しかし、何故か士郎は弦十郎から、自分の中にあるようなドス黒い罪悪感を感じられなかった。
何故だと思った。だが、その疑問を解消するよりも先に、士郎にはやることがあった。
「……ノイズは災害みたいなものだろう? 仮に救えない人間が居たとしてもそれは弦十郎さん達のせいじゃないだろ」
だから、士郎はあなた達は悪くないと告げる。
悪いのはあくまでも、あの地獄の中で1人だけ生き残ってしまった自分だ。
そんな自分が謝罪を受ける筋合いなどないと。
だが。
「俺の部隊の動きが遅かったのが原因で、被害が拡大していたとしてもか?」
「ッ!」
次の言葉は無視できなかった。
弦十郎はハッキリと言ったのだ。士郎の父と母が助かる可能性はあったのだと。
そして、その可能性は目の前の男が潰したのだと言ったのだ。
「遅れた原因は完全にこちらの落ち度だ。全ては救えずとも、1人でも多くの手を掴むことは出来たはずだ……それは決して覆せない事実なんだよ」
弦十郎は苦々しい顔で思い出す。
父、
就任直後としては異例の速さだったと言えるだろう。
だが、救いを待つ者達にとってそれはあまりにも遅すぎた。
弦十郎は今でも覚えている。炎と炭の景色の中で己の無力を噛みしめたあの日を。
だから、彼は初心を思い出すために定期的にこの町に訪れているのだ。
「……そうか」
それは立派な志だろう。
無関係な者ならば弦十郎の行動を称賛すらするだろう。
だが、しかし。
「それで……
そんな覚悟が、被害者の前で何になるだろうか?
救いになるか? 赦しになるか? 償いになるのか?
答えは簡単。
何にもならない。失ったものは決して帰っては来ないのだから。
謝罪になど意味はない。
だから、士郎に心にあるのはどうでも良いという、どこか寒々しい感情だけだった。
しかしながら。
「―――君には俺を恨む権利がある」
続く言葉には目を見開かずにはいられなかった。
「侮辱の言葉を吐きかけていい。人殺しと罵ってくれればいい。殴りたいのなら好きなだけ殴ればいい。理不尽にどこまでも身勝手に呪ってくれて構わない」
「なん…で…」
理解できずに士郎は弦十郎の瞳を見つめる。
きっとそこには自分と同じように罪悪感があるはずだと思った。
だから、罰を受けようとしているのだと。
生きるのが辛いから誰かに終わらせて欲しいのだと思った。
だというのに、男の瞳は。
「君が自分を責める必要など、どこにもないんだよ、少年」
どこまでも真っすぐに士郎を救うことだけを考えていた。
「何を言ってるん…だ?」
「君と出会った時から思っていた。死人のような目をしているとな。罪悪感に押し潰されて、自分には生きている資格なんてないという目をな」
思わず一歩後退ってしまう。
この大人は士郎の心に潜む闇を的確に見抜いていた。
まるで、身近で何度もその目を見てきたとでも言うように。
「君はどこまでも純粋に被害者なんだ。世界に憎しみをぶつけていい。理不尽に対し涙を流していい。全ては俺の不手際のせいだと押し付けろ。そうして、全部忘れて自分勝手に幸せになる権利がある。だから、もう、自分を責めるな。君は―――誰かを恨んでいいんだ」
「―――ふざけるなッ!!」
怒声が響き渡る。
恐らく今までの人生で、これ以上の声は出したことがないだろうという音量で士郎は叫ぶ。
どこか痛々しい程の鬼気迫る表情であるが、弦十郎は真正面からその瞳を受け止める。
「幸せになっていい…? 忘れていい? 自分だけ生き残っておいて、そんな都合の良いことが言えるか。まさか、死んだ人間がそれを望んでいるって言うつもりかよ?」
「望んではいないだろうな。人間は汚い面もある。生き残った人間に対して恨む気持ちもあるだろう」
「だったら…」
「だからこそ、こう考えろ。先に死んでいった者達が気兼ねなく恨めるように、幸せにならないといけないのだと」
恨まれるために幸せになれ。
その理解できない言葉に、士郎は思わず怒りも忘れて弦十郎を見つめる。
「少年、映画は見るか?」
「は?」
「映画に登場する悪役にも色々と種類があってな。一切の情けも起きんほどのクズも居れば、同情するような境遇の奴も居る」
突如として始まった映画弁論に、士郎は困惑の表情を浮かべる。
しかし、弦十郎の方はこちらの様子を気にすることも無く話を続けていく。
「前者であればぶっ飛ばすのに何の躊躇いもいらん。だが、後者になれば話は別だ。手が緩むかもしれなければ、同情して救おうとする者が現れるかもしれん」
「……何が言いたいんだ?」
「少年、君は自らの幸せを拒むことが死したものへの償いと思っているようだが、それは違う。死んだ者の中には、自罰的に生きるものを責められぬ優しい者達も居るのだよ」
今度こそ士郎は本当に声を失う。
自分が苦しんでいれば、それが償いに繋がると思っていた。
だが、そんな自分を責めることが出来ない死人が居る。
そんなことは考えたことも無かった。
「だから、少なくとも俺は死ぬまではがむしゃらに幸せを目指すつもりだ。自分の罪を忘れたかのように幸せを求めて邁進する。そんなクズみたいな悪役となるんだ。そうすれば、先に死んでいった者達が何の気兼ねなく俺を恨めるからな」
考えたことがなかったからこそ、その言葉は士郎の脳髄を直接殴りつける。
「だから君は
気兼ねなく恨めるように幸せになるなど、馬鹿げていると思った。
だが、どこか心にしっくりと来てしまうような言葉に士郎は戸惑う。
否定しなければならない。
しかし、先程のように怒声は湧き上がってこない。
だから、顔を背けその場から歩き去る他なかった。
「……だとしても、俺は恨まないし、忘れない。絶対に…
「誰も…か……少年、その誰もの中に――」
士郎という存在は
例え、助けた人間に処刑台に送られたとしても、一切の恨みを抱くことなく受け入れるだろう。
当然の帰結だと。苛立ちの1つもなく、むしろ安らぎをもって受け入れる。
だから士郎は誰も恨まない。恨めない。
そう、ただ1人。
「君は入っているのか?」
自分という存在を除いては。
気づいた時には、士郎はかつて自分の家があった空き地に来ていた。
どうやら帰巣本能と言う奴は馬鹿にならないらしいと、士郎はぎこちない笑みを浮かべる。
次いで、後ろを振り返ってみるが流石に弦十郎は追ってこなかったらしい。
その事実にホッと息を吐き、士郎はボーっと立ち尽くす。
今は何も考えたくなかった。何かを考えてしまえば、誰かを恨んでしまいそうだったから。
「帰りが遅いから来てみれば……やっぱりここに居たのね」
「フィーネさん……」
「さ、帰るわよ。これ以上長くここに居るとクリスが拗ねるわよ?」
そんな士郎の所に、
その姿は今は表向きの櫻井了子になっているが、士郎にとってはフィーネでしかない。
「帰る…か」
「そ、私達の家に帰るわよ。もう、ここにはあなたの家はないのよ」
ここにお前の居場所はない。
一見厳しいようで、どこまでも優しい言葉が士郎にかけられる。
いつも言っている言葉だが、今の士郎に対してそれは普段よりも重くのしかかった。
「……フィーネさんはさ、昔のことを覚えてるか?」
「昔…?」
だから、いつもは話さないようなことを聞いてしまう。
「フィーネさんは家族のことを覚えているか? 名前を覚えているか? 顔は? 声は? どんな風にお互いに過ごしていたかは? 俺は忘れちゃいけないのに……段々忘れていっているんだ」
家族のことを忘れていっている。
時間の流れと言ってしまえばそれだけだが、士郎にとってはそれはとても罪深いことに思えた。
死んでいった人達のことを生き残った自分が忘れてしまえば、一体誰が彼らを弔ってやれるのだろうと。
「……そうね」
そんな罪の意識に苛まれる士郎に対して、フィーネはどうしたものかと頭を悩ませる。
普通の人間である以上は忘れるのは当然だ。むしろ、生きるという行為に必要不可欠だ。
逆説的に言えば、忘却の拒絶は生の拒絶とも言えるだろう。
だから、フィーネは慎重に言葉を選ぶ。
「まず始めに私の記憶方法は他人とは違うわ」
「遺伝子に意識や記憶を埋め込んでるってやつか?」
「そ、埋め込んである以上は、それを掘り起こせば理論上は忘却はない。……すぐに思い出せるかどうかは別だけど」
そもそもの話、フィーネが普通の人間と同じように忘れることが出来るのなら、疾うの昔にボケている。妄執や信念の重さ云々の前に、人間が記憶できる限界を超えているのだ。
「私は既に人間と呼べる存在じゃないのよ。だから、忘れない手段がある」
だから、彼女は自分は人間ではないと告げる。
それに対して、士郎は無言で自分にも出来ないのかと目で問う。
「私と同じ方法はお勧めしないわよ。今から自分の遺伝子を持つ人間を増やすなんて100や200年じゃ足りないもの。それに……あなたの場合はその聖遺物を
「俺の中にある鞘がか?」
自分の心臓部分に手を当て、士郎はまじまじと聞き返す。
それに対して、フィーネはどこか軽い口調で説明を行う。
「その鞘が持ち主に与える恩恵は“不老不死”。純粋に老いないならボケとはおさらばだし、死なないのなら脳細胞が変わることも無いから、忘れることがないかもしれない。まあ、所詮は仮説よ? それこそ人間でない物質に
別に記憶を残す方法なら、紙に残すことやデータに残す方が手っ取り早い。
そうした選択肢を示すフィーネだったが、不幸なことに士郎はまるで聞いてなかった。
というより、不幸なことに斜め上の受け取り方をしてしまった。
「なるほど……俺が人間でない
「士郎?」
「何でもないよ、フィーネさん。わざわざ説明してくれてありがとう」
悩みが晴れたと、士郎は清々しい笑顔を張り付けてフィーネに礼を言う。
「……いいえ、構わないわよ」
だというのに、フィーネはその笑顔に、何か取り返しのつかないことをしてしまったかのような不安感に襲われるのだった。そして、事実。その不安は当たっていた。
だって、剣には人間の心などないのだから。
「じゃあ、戻ろうかフィーネさん」
「ええ、クリスもお腹を空かしているでしょうしね」
人と聖遺物の中間だった存在の均衡が少しずつ崩れていく。
人間ではなく、ただの物質になりたいと思ったが故に天秤は傾く。
ふいにギチギチと、耳障りな音がフィーネの耳に届き、思わず足を止めてしまう。
「どうしたんだ?」
「いえ……気のせいね。さ、行きましょ」
士郎は何かを聞いた様子には見えない。
ならば、自分の空耳だろうと考えフィーネは歩を進める。
(昔の話をして思い出したのかしら。馬鹿ね、風鳴翼も居ないのにこんな普通の町中で――)
そして、自分の空耳が何だったかを記憶から引っ張り出し、顔を顰めるのだった。
(―――剣がひしめき合う音がするわけないじゃない)
次回は翼さんを出したいです。
花言葉:カーネーション(白)
「純潔の愛」「私の愛は生きている」「愛の拒絶」