「痛ッ!?」
「あ! 暴れるなってクリス。暴れると逆にもっと痛むぞ」
「も、もうちょっと優しくできねえのかよ?」
「わ、悪い。そうは言ってもな……」
綺麗に整えられたベッド、清潔なシーツ。
クリスはその上で士郎に手を抑えられた状態で、痛みにもがいていた。
痛みからアメジスト色の瞳を涙に潤ませるクリスに、申し訳なさそうに眉を寄せる士郎。
そう、2人はベッドの上で。
「でも、ちゃんと消毒しないと痕が残って大変だぞ?」
「分かってるけどよー……
傷ついたクリスの看病を行っていた。
腕についた傷の消毒を行っていたのだが、消毒液とは沁みるものだ。
思わず暴れそうになったクリスを責めることは出来ないだろう。
「我慢しろって。クリスは女の子なんだから傷跡が残ったら大変だろ?」
しかし、ちゃんと手当てをしないと後で困るのも事実。
ネフシュタンの鎧を纏ってはいてもなお、響から受けた
「それにしても、まさか戦闘中にデュランダルが起動して、その一撃をくらうなんて不幸だったな」
「ふん。それがなきゃあたしが勝ってたさ」
響とクリスの戦いは当初はクリスの方が有利だった。
しかし、響が偶発的にデュランダルを規格外のフォニックゲインで目覚めさせてからは、状況は打って変わった。
どういうわけか、デュランダルを手にした響は暴走状態になり、その無限のエネルギーをクリスに容赦なくブチ当てたのだ。これには、さしものネフシュタンの鎧も無事とはいかず、半壊状態になり中のクリスにも少なくないダメージを与えることになる。
それ故に、クリスは状況不利と判断して撤退したのだ。
因みにネフシュタンの鎧自体は、無限再生の能力で既に完全に直っている。
(クリスのシンフォギア、“イチイバル”は戦闘で使われてない。つまり、響はデュランダルを自分の歌声だけで完全起動まで持って行った……戦闘の間の数分だけで)
クリスの腕に包帯を巻きながら、士郎は響について考えを巡らせる。
融合症例である彼女は、ある意味で士郎の後輩に当たる。
今回の規格外のフォニックゲインを生み出した歌も、体内の聖遺物と無関係ではないだろう。
(響と戦える状況を整えれば……いや、俺のことは響にはバレていないんだ。それこそ、歌ってくれと頼めば、それだけで鞘の起動は可能かもしれない)
故に士郎は考える。
より確実に己の目的を達成させるにはどうしたらいいかを。
「響……やっぱりあいつが鍵になってくるな」
だから、ポツリとその名前を口にしてしまう。
響に負けたクリスの目の前で、看病中の女の子の前で他の女の名前を。
この鈍感野郎は何の考えもなく口にする。
「……なんだよ、あの女のことが気になるのかよ?」
故にクリスは面白くなさそうに唇を尖らせる。
自分の前で他の女の話をするなと。
しかしながら、そんな秘めた心に士郎が気づけるわけもなく。
「ああ、気になるな」
「……ッ」
最悪の言葉を返してしまう。
もちろん、異性的な意味で気になると言ったわけではないのは、クリスも分かる。
だとしても、士郎の視界に映るのが自分でないという事実は重かった。
「どうした、クリス? どっか痛むのか」
士郎の言葉にギュッと手を握り締めるクリス。
それに対して、士郎は傷が痛んだのかと心配そうな顔を近づけてくる。
クリスを異性とは欠片も認識していない、純粋な心配だけで。
きっと、万人に向けるものと全く同じ瞳で。
雪音クリスを見つめる。
「別に……どこも痛くなんてねぇよ」
だから、クリスはぶっきらぼうに嘘をつく。
胸に走ったチクリとした痛みを押し隠す様に。
「そうか? キツかったらちゃんと言えよ」
「分かってるよ……」
手を伸ばせば手を握り合える距離。
ほんの少し、顔を寄せれば唇が触れ合う程の近さ。
だというのに。
(なんで…なんで…こんなに遠くに感じるんだよ…?)
2人の心の距離はどこまでも離れたまま。
そもそもの話、自爆した人間が人の看病をしているという事実自体がおかしい。
人の痛みを気にする少年は、簡単に自分の命を投げ捨てる。
目の前でその事実に心を痛める少女に気づかぬまま。
愚かなロボットは、今日も偽りの人助けを続ける。
「そうだ。食欲はあるか? お粥でも作って来るよ」
「ああ……」
「じゃあ、待っててくれ」
いつもより少し、しおらしいクリスに士郎は内心で首を傾げるもののそれだけだ。
怪我をしているのだから当然だろうと、勘違いをしたままキッチンへと向かう。
ただ、彼に傍に居て欲しいと言い出せない、意地っ張りで寂しがりやの少女を一人残して。
だが。
「? どうしたんだクリス? 俺の服なんか掴んで」
「あ、いや……べ、別に何でも……」
意地っ張りな少女は勇気を振り絞った。
いや、どちらかと言えば勝手に体が動いたというべきだろうか。
無意識のうちに、クリスは士郎の服の端をつまんでいた。
自分でも予想外のことに、クリスは恥ずかしさや気まずさから目を落とす。
相も変わらず素直な言葉は出てこない。
それでも、彼女の細い指先は独りぼっちになることを恐れたまま。
ギュッといじらしい強さで握られている。
「……寂しいのか?」
「はぁ!? そ、そんなこと一言も言ってないだろ! なんでそう思うんだよ!?」
そこへ、普段は鈍感なくせに士郎が本心を言い当ててくる。
クリスはなんでこういう時だけ鋭いんだよと、内心で叫びながら必死に否定しようとする。
しかしながら。
「いや、俺も小さい時に、お袋に似たようなことをした記憶があるからさ」
続く言葉には叫び声を飲み込まざるを得なかった。
「お袋って……士郎のママのことか?」
「ああ……世界で一番、俺を愛してくれていた人だ」
「そっか……」
目を閉じて、その温もりを思い出そうとする士郎に、クリスは何とも言えない目を向ける。
彼女は士郎の両親のことを聞いたことはない。
彼もクリスの両親のことを聞いたことはない。
それはどちらも失ったものであり、とても大切なものだったと理解しているから。
簡単に話していいものではなく、出来ることなら思い出したくないという想いすらあるものだから。
故にこの話が交わされるのは、2人の間では初めてのことだった。
「なあ、士郎のパパとママは……どんな人だったんだ?」
それは小さいようで大きな一歩。
今まで縮めたくても縮められなかった2人の距離。
それが今、ゆっくりと無くなろうとしている。
「そうだな……親父は俺と一緒によく遊んでくれる人だったな。お袋には偶にだらしないって言われてたけど、休みの日でも俺の相手は必ずしてくれた。お袋の方は優しい人だった。滅多なことじゃ怒らないし、俺が泣いたらいつも優しく抱きしめてくれた。でも、その反面怒ったら凄かった。親父が顔を真っ青にして土下座してたのを見たことがある」
珍しく楽しそうに語る士郎の姿に、クリスも心を揺り動かされる。
彼女にとって両親は愛する人であると共に、自分を紛争地帯に置き去りにして死んでいった戦犯でもある。だから、いつもなら苦々しい思い出と共に毛嫌いする存在だ。
「思い出せるのはそのぐらいだな。そうだ、クリスの両親はどんな人だったんだ?」
「あたしのパパとママは……」
でも、楽しそうに語る士郎に感化されて、彼女は思い出した。
両親に関わる苦々しい思い出ではなく。
「音楽家だったんだ。ママのピアノの伴奏に合わせて、よくパパと歌ったな。そんでパパは色んな音楽を教えてくれた。『やっさいもっさい』って知ってるか? 確か、千葉の祭りの踊りだったな? とにかく、そんな感じでパパとママとあたしの3人で良く歌ったっけな」
一緒に過ごした楽しい思い出を。
確かに自分は愛されていたのだという記憶を。
図らずも思い出せていた。
「ああ、クリスって歌上手いもんな」
「……聞かせたことあったか?」
「いや、ソロモンの杖を起動させようとしてた時に、飯をクリスの部屋まで運んでただろ? その時に耳に入ってさ」
「こ、この変態が!!」
「歌を聞いただけで!?」
しかし、嫌な思い出が全て吹っ切れるわけでもない。
クリスは自分の両親を嫌っている。同時に、両親を強く思い出す音楽も。
そして何より、兵器を呼び覚ましたり何かを壊すことしか出来ない自分の歌を。
「忘れろ! 今すぐそんなもん忘れろ!!」
「何でだよ? 上手いんだから別に恥ずかしくないだろ」
「あたしが嫌いなんだよ……自分の歌が」
だから、士郎には聞いて欲しくなかった。
自分の最も嫌悪すべき部分を見られるなど、到底許せなかった。
だというのに。
「そうか? 俺は好きだぞ、クリスの歌」
彼は好きだという。自分の嫌いな歌を。
「何でだよ! あたしの歌なんて壊すことしか出来ねえんだぞ!?」
だから、彼女はカッとなって食いかかる。
こんな私を見ないでくれと、聞かないでくれと。
己の汚い部分を必死に覆い隠そうとする。
「例えそれが事実だとしても……俺はクリスの歌が好きだよ」
「訳わかんねえよ!」
「理由は俺にも分からない。でも、好きだ。それだけは嘘じゃない」
否定してくれ。私の歌は聞くに堪えぬ醜いものだと。
そう嘲り笑ってくれた方が楽だというのに、士郎は譲らない。
あくまでも、その歌が好きだと言い続ける。
「……耳が壊れてるぜ」
「まあ、ガラクタの耳だからな」
この頑固者は譲らないと悟り、クリスは吐き捨てる。
その様子に士郎は満足げに笑い、皮肉にも聞こえる返事を返す。
「それにクリスは世界平和のために歌ってるんだろ? 何も恥ずかしがることなんてない。立派な夢だ」
「そりゃ、言葉にすりゃあ立派かもしれないけどよ……」
クリスは自身の夢に対して否定的な言葉を零す。
彼女は争いのない世界を、恒久的に平和な世界を望んでいる。
しかしながら、やってることと言えばテロ行為で誰かを傷つけることばかり。
こんなことで本当に願いが叶うのかと疑うのも道理だろう。
「あたしは……本当は
ポツリと弱音を吐く。
粗雑な口調で覆い隠されているが、クリスの本質は優しさである。
世界平和なんて夢を抱いているのも、他人が傷つくのを見るのが嫌だからだ。
誰も涙することのない優しい世界。
それが欲しいから、みっともなく足掻いているだけだ。
「でも、戦うこと以外に知らないから……力で争う奴らを抑えつける以外に争いを無くす方法なんて思いつかないから…!」
心の中でいつも涙を流しながら引き金を引き続ける。
平和が欲しいのに、他人の平穏を奪っていく矛盾に気づかないようにしながら。
彼女は争いのない世界を創るために、自ら争いを生み出していく。
「あたしは…あたしは…ッ」
「クリス……」
手を痛い程に握りしめ、クリスは己の不甲斐なさに下を向く。
情けない。どうして自分には誰かを傷つけることしか出来ないのだろうか。
どうして、自分は正義の味方になれないのかと。
1人自責の念に苛まれる。
「心配するなって」
そんなとき、不意に大きなものに包まれる感覚に見舞われ、クリスは目を見開く。
「士郎…?」
「大丈夫だ。クリスの願いは間違ってなんかない。俺が保証する」
目を開いた先には、士郎が自分の抱きしめる姿があった。
平時であれば、恥ずかしさから容赦なく彼を殴り飛ばして突き放していただろう。
しかし、弱り切った少女でしかない今のクリスにはそれができなかった。
何かに縋っていたい。全部放り投げてしまいたい。
子供のように、この胸の温もりの中で微睡んでいたい。そう思ってしまった。
「俺には願いなんてないけど、それでもクリスの願いが綺麗なものだってわかる」
「……本当に?」
「ああ、だからさ。クリスの夢が叶うように、俺にも手伝わせてくれ」
そう言って、士郎はあの日フィーネの恋の手伝いをすると言った時のように、壊れた笑みを浮かべる。彼女達の願いの本質を理解せぬままに。
「……いいのか?」
「俺が良いって言ってるのに、他に誰が否定するんだ?」
「いや、でも……」
「心配するなって。フィーネさんも、女の子には優しくしろって言ってるし」
士郎の言葉に嘘はない。
クリスの願いを叶えるために、どのような犠牲を払ってでも戦い続けるだろう。
ただし。彼女が一体なぜ苦しんでいるかを、理解しないまま。
「大丈夫だよ。クリスが辛い時は
「約束するよ。俺はクリスの願いを叶える手助けをする。絶対にな」
歪んだ願望の器は綺麗な夢を歪んだ形で叶える。
彼女が出来ないのなら、自分がやれば良いだけだと。
誰も望まぬ結末になることに気づくことすらなく。
「士郎……ありがとうな」
「ああ」
その事実にクリスは気づけない。
誰かを傷つけることに弱り果ててしまった心は、楽な道へと無意識に流れてしまう。
何より。
「そ、それと……いつまで抱きしめてんだ!? このすっとこどっこい!!」
「のわぁッ!?」
意識している異性に抱きしめられたという事実に、茹で上がっている頭では気づけない。
今の今になって恥ずかしさが湧き上がって来たのか、タコのようになった顔で士郎を突き飛ばすクリス。
ただ、離れた瞬間にちょっと名残惜しそうな顔をしてしまったのは内緒だ。
「だ、第一、なんで抱きしめてんだよ! 女にいきなり抱き着くとか、あたしじゃなきゃ通報ものだぞ!!」
「い、いや、無意識のうちにというか、クリスを抱きしめたくなったというか……何言ってるんだ、俺」
クリスの一部の隙も無い正論に、士郎は何とか弁明を図ろうとするが墓穴を掘る。
自分で言っておいて、ただの変態ではないかという結論に至り1人愕然としてしまう。
しかし、これが意外と効果的だった。
「ふ、ふーん、そうか。いや、まあ、無意識だっていうんなら、ゆ、許してやるよ」
「え、なんでだ?」
「い、いいから許してやるって言ってるんだよ! ただし、あたし以外の女には絶対にするんじゃねえぞ! 分かったな?」
「あ、ああ。俺も通報はされたくないからな」
「よし! 分かったなら、さっさと部屋から出てけ!!」
顔紅くしてプルプルと震えながら許すというクリス。
その姿に、士郎は必死に怒りを抑えているのだろうと解釈し、素直に部屋から出て行く。
クリスは思わずその背中に『この唐変木!』と枕を投げつけてやりたかったが、精神的にそんな余裕がなかったので、代わりに枕に顔を埋める。
(ああ! クソッ!! か、顔が緩んだまま元に戻らねぇ!?)
そして、枕の下でニヘラとだらしない顔を浮かべるのだった。
(む、無意識ってことは少しはあたしのことを意識してんだよな…? い、いや、別に意識してたら、どうってわけでもなねぇけどさ)
自分の抱きしめていた胸元の感触や温もりを思い出しながら、クリスはゴロゴロとのた打ち回る。これを士郎がやっていたら変態認定を受けても仕方がないが、美少女であるクリスがやれば様になるので世の中とは不平等である。
(と、とにかく忘れろ! 筋肉の硬さとか、匂いとか、温かさとか…それから、それから……て、あたしは何を考えてんだ!? 忘れろ! 忘れろ!!)
ボフンと枕を叩きつけ、ウガーッと無音で暴れまわるクリス。
しかし、悲しいかな。人間、忘れようとすればするほど、忘れられないものである。
(そういや、鼓動は普通だったな……あたしを抱きしめてるくせに。それに手も何だか冷たかったような…いや、ありゃ間違いなく冷たかったな)
そうして、詳細に思い出していく士郎の体の感触。
その中で、クリスはときめきと不満と、ある1つの違和感を覚えていた。
彼女を抱きしめた士郎の手の温度が。
(まるで―――鉄みたいな感触だった)
フィーネのアジトにあるバルコニー。
そこで、この家の主は月を肴に、上機嫌にワインを傾けていた。
実に開放感のある全裸で。
(デュランダルの確保には至らなかったが、立花響のおかげで起動に至ったそれが二課にある。そう、“カ・ディンギル”として作られた二課本部に)
デュランダルは意図せぬ起動の危険性を考え、移送は中止となり現在は二課本部に以前と同じように保管されている。そして、フィーネはカ・ディンギルという月を破壊するための砲台を二課本部そのものとして制作していた。つまり、カ・ディンギルにデュランダルという無限のエネルギーを持つ銃弾が、これで装填されたのだ。
後は引き金を引くだけで悲願は達成される。
これで、上機嫌にならない方がおかしいというものだろう。
(やっと…やっと…あのお方と再会できる。この胸に秘め続けた愛をぶつけられる…!)
だから、彼女は珍しく酔っていた。
酒による偽りの多幸感を噛みしめられていた。
そんな所に、幸福とは最もかけ離れた少年が近づいてくる。
「フィーネさん、また服を脱ぎ散らかしただろ。ちゃんと洗濯機に入れてくれって、いつも言ってるだろ」
「いいじゃない、そのぐらい。ほら、そんなことよりお酌しなさい」
「……大分酔ってるな」
脱ぎ散らかした服、もちろん下着も含むものを持ちながら苦言を呈する士郎。
しかし、フィーネは酔っているためかクスクスとおかしそうに笑うだけだ。
そんな様子に士郎はこりゃダメだと溜息を吐いて、言われた通りに彼女の下に向かう。
「ほら、お酌してやるから何か羽織るぐらいしろって。風邪ひくぞ?」
「その時はクリスみたいに看病してもらうから大丈夫よ。そうそう、クリスと言えば押し倒すぐらいはした?」
「……お酒って怖いな」
普段は凛々しさすら漂わせる美しさだというのに、今のフィーネは完全に酔ったおっさんである。士郎は、そんな困った保護者の姿に軽く頭痛を覚えつつ彼女の肩に上着を被せる。逆にそれが全裸よりもなお扇情的な色気を醸し出すが、士郎は欠片も劣情を起こさない。
それは彼に人間味が薄いからではなく。
「あんまり飲み過ぎると二日酔いになるぞ」
「その時はクリスみたいに看病してもらうから大丈夫よ。そうそう、クリスと言えば押し倒すぐらいはした?」
「酔うと会話がループするって言うのは本当なんだな……」
フィーネのことを母親だと思っているからだ。
無論、このことは一度たりとも面と向かって口に出したことはない。
それは、自分にはそんな資格はないという想いと。
死んだ実の母への裏切りになるような後ろめたさ。
そして、若干の気恥ずかしさからだ。
「そうだ、士郎。あなたも呑みなさいよ。計画成功の前祝よ」
「……ああ、デュランダルもカ・ディンギルの中にあるんだったな」
「ほら、一気にグイッと呑みなさい」
「いや、今の『ああ』は了承の意味じゃないって」
「いけずねー」
グイグイとグラスを押し付けてくるフィーネに抵抗しながら、士郎は考える。
フィーネの計画にはあと1つ残されているものがあったはずと。
「それより、計画ってネフシュタンと融合するっていうのもあったよな? もう、それはいいのか?」
「やるわよ。そうしないと普通に殺されるもの。人類を管理する以上、反乱は必須だから戦力は多いに越したことはないわ」
「人類を管理…?」
聞きなれない言葉にピクリと士郎の眉が動く。
言っておくが、それは士郎がフィーネの行動に義憤を抱いたからではない。
それが引き起こす負の産物を思い浮かべたからだ。
「あら? 言ってなかったかしら。月を壊せば、当然今の重力環境は壊れるわ。そうなれば人類は滅びかねない。流石の私もそれは困るから“フロンティア”に人間を移住させてそこで管理するのよ」
「フロンティア……前に言ってた海に沈んでる島の形をした星間航行船だったか?」
「そ。そこで移住した人間を力と恐怖で支配して、永遠に争いのない世界を創り上げるのよ? クリスの願いもこれで叶うわ」
クツクツと嘲りを隠すことなくフィーネは笑う。
彼女は分かっている。いや、彼女でなくとも普通の人間なら分かるだろう。力と恐怖で支配された世界など、クリスの願う優しい世界とは程遠いことを。フィーネが幼い少女を騙している大悪党だということを。
ただ1つ。
「……そっか。それでクリスの願いが」
人間ではなく物であろうとする異常者を除いて。
「人類を管理・支配するには力が居るわ。いえ、力だけじゃダメね。どんなに強くても
軽蔑されるようなことを話しているが、フィーネの口は軽い。
それは酒の魔力がそうさせているのもあるだろう。
だが、根本にあるのは信頼だ。
「そのためにはあなたのデータが欠かせないのよ。ありがとうね、士郎」
フィーネが何千年も前から見せることがなくなった、身内への甘さだ。
その人間としてのありきたりな感情が、彼女の計画を狂わせるとも知らずに。
「……フィーネさんはさ。恋が叶ったら、最初に何がしたい?」
「あら? あなたからそんな話題を振るなんて意外ね。これは誰か気になる子でも出来たのかしら」
「からかわないでくれよ……」
「ふふふ、冗談よ。でも、そうねぇ……やりたいことは山のようにあるけど、まずはあの方と」
フッと息を吐き、魔女ではなくただの恋する乙女の顔をしたフィーネが呟く。
本当にささやかな願いを。
「―――手を繋ぎたいわね」
士郎の覚悟を決めさせる言葉を。
「手を握り合って温もりを確かめ合いたい。そこに確かに居るんだって体で、心で、知りたい……何だか、言ってて恥ずかしくなってきたわ」
「いや、素敵なことじゃないか?」
「フフ、ありがと」
普段は見せることのない優しい表情を浮かべ、フィーネは士郎にしなだれかかる。
それを士郎は仕方がないなと言った表情で受け止める。
「フィーネさん、飲み過ぎだって。もう、寝た方が良いんじゃないか?」
「そうね、良い気分のまま眠るのも悪くないわね。今なら、幸せな夢が見れそうだもの」
「部屋まで送って行こうか?」
「1人で歩けるわ」
親の心配をする息子のように。
息子には心配はかけれないと思う親のように。
2人は言葉を交わし合う。
「あなたも早く部屋に戻って温かくして寝るのよ」
「そんな子供みたいに……」
「手が氷みたいに
手が冷たい。その言葉に士郎は僅かに表情を引きつらせる。
だが、幸か不幸かフィーネは酔いのために、その変化に気づくことはなかった。
士郎の手は、明らかに人間の体温ではなくなっていたというのに。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「……ああ、お休み」
ヒラヒラと手を振り、上機嫌そうに歩き去っていくフィーネを見送った後に、士郎は小さく溜息を吐く。
「……そうか、冷たいんだな。俺の手は」
目についた
夜風に晒されたそれは、きっと冷たいのだろう。
今までだったら、士郎だってそれを感じ取れた。
「何も……感じないな」
だが、
何かに触れているという感覚はある。
だが、温度を感じることが出来ない。
これが進んで行けば、いずれは何も感じなくなるだろう。
当然だ。物質に、感覚など不必要なのだから。
「よし、起動は順調に進んでいるな」
だから、士郎は上機嫌そうに微笑む。
自分の目的は一歩ずつ確実に近づいているのだと。
「でも、これだとフィーネさんに聖遺物との融合は勧められないな」
しかし、懸念事項もある。
フィーネは手を握り合って温もりを感じたいと言っていた。
だが、現実の融合体の末路はこれだ。
「握った手の温もりを感じられなくなるなら、本末転倒だ」
何も感じない。
人間ではなく、ただの
あるのは無機質の冷たさだけ。
故にフィーネの計画の先に彼女の願いが叶うことはない。
むしろ、絶望が待ち受けているだろう。
そして、それを士郎は許せなかった。
(それにフィーネさんの計画は、どう考えても最後は恨まれるものだ。クリスの願いだって残った人類全部を敵に回すようなものだ。それじゃあ、2人が幸せになれない)
士郎という存在は現実離れした思考をするが、現実が分からないわけではない。
仮に正義の味方という夢を持っていた場合は、それが難しいものだと理解した上で目指す。
1人と2人、両方は救えないと分かった上でどちらも救う方法を探すのだ。
自分を犠牲にするという行為を前提にして。
(2人の願いは
士郎は盲目的に2人の願いを肯定しているわけではない。
それが他人からすれば悪だというのを理解した上で、肯定している。
誰からも非難されると認めたうえで、2人に幸せになって欲しいと思っている。
「争いのない世界が欲しいと思うことも、愛する人と結ばれたいと願うことも、決して……間違いなんかじゃないんだから」
だから、2人の大切な家族の願いを叶えながら、幸せになれる方法を考える。
(フィーネさんの願いは月の破壊。これは別にフィーネさんの仕業だと分からなければ、どうにでもなる。別に俺がやってもいいしな。問題は、月の崩壊の後で人類を支配することだ。これはどうやっても、フィーネさんが恨まれる。しかも、1人で永遠に支配を続けないといけない)
士郎は知っている。生き続けることはとても辛いことだと。
だから、永遠の命を得たフィーネが苦しみ続けるのは許せないと思った。
(クリスの願いだってそうだ。誰かが力で争いが起こらないように抑え続けないといけない。恒久的に平和な世界を目指すなら、狂うことのない絶対的な独裁者が必要だ。優しいクリスにそんなことをさせるわけにはいかない)
士郎は知っている。クリスは本当は誰も傷つけたくないのだと。
だから、クリスが泣きながら、他の誰かを傷つけて争いを無くすのは嫌だなと思った。
「必要なものは永遠に争いが起きないように統治する存在。絶対に死なないで、圧倒的な力で全ての争いを消し去る存在」
2人の願いを叶えるのにいるのは、機械のように永久の支配を行える世界の歯車。
歯向かう者達を、月すら砕く絶対的な力で抑えつけ争いを無くす抑止の守護者。
そんな都合の良いものがこの世にあるはずもない。
常人ならそう考えるだろう。
「なんだ、
だが、士郎は常人ではない。
むしろ、人の思考を逸脱している。
「俺は死なない。永遠に壊れない。力は弱いけど、それも他所から持ってくればいいだけだ」
壊れたような嗤いが月下に映し出される。
みんなを幸せにできるのだと、愚かにも勘違いした道化が嗤う。
ようやく死に場所を得たと、歓喜に心を打ち震わせる。
「そうだ。
空っぽの願望器に今、願いが満たされる。
その願いは決して間違いではないだろう。
しかしながら、願いが間違いではないと言えども。
願いの叶え方が正しいということにはならない。
世界から争いを無くすにはどうすればいい?
この問いに、人類を皆殺しにすればいいと答える可能性すらあるのだ。
「うん。これなら、フィーネさんもクリスも悪者にならずにすむ。まあ、怒られるかもしれないけど大したことじゃないな……任せろって。2人の夢は――」
上機嫌そうに独り言を呟きながら士郎は月を見上げる。
これは誓いだ。誰と交わすわけでもなく、誰かに託されるわけでもなく。
自身の胸の内に生まれた小さな想いを形にするためだけの誓いだ。
そして、その誓いは彼を大切にする者達にとっての。
「―――俺がちゃんと形にしてやるから」
呪いだ。
この小説のラスボスは士郎君です(真顔)