喫煙は、様々な疾病になる危険性を高め、あなたの健康寿命を短くするおそれがあります。ニコチンには依存症があります。
交差点。
とある辞書によると二つ以上の道路が交わる場所、らしい。有名なところだと渋谷のスクランブル交差点を想像してもらえると分かりやすいんじゃないだろうか。それ以外にも交差点なんてもんは家から一歩外に出ると幾らでも目に入る。大きいものから小さいものまで、この世の道という道が複雑に重なり合って、そしてまたどこかへと離れていくのだ。
人生は道だ、なんて例えを耳にしたことがある。確かそんな感じだった気がする。それじゃあ、そんな人と人との道が重なり合うその場所も、まさに人生の交差点だと言えるのだろう。
自分等もこれまで生きていく中で、沢山の誰かとの交差点を経験してきたということだ。それこそ吐いて捨てる程。そりゃ有意義な交差点は幾つかあっただろう。交差した後しばらく複線になった道もあった。
それじゃあ今、そんな星の数ほどある誰かとの交差点に、俺はどうしてこうも惹かれてしまうのだろうか。そんな交差点に出会ったのは、大学敷地内の端っこの誰も来ないような喫煙所だった。
講義を終えた俺は近場の喫煙所を求めて足を運んでいた。確か記憶ではこっちの方にあったはずだ。ふと普段足を運ぶことなんてない建物が目に入る。こっちの建物は、ざっくりと言ってしまえば学部が違うのだ。
そんな見慣れない建物を物珍しさに横目に見ながら歩いていると、俺はふとある噂を思い出した。
『八号館の麓には、魔女が紫煙を燻らせている』
噂の出どころは何処だっただろうか。確か同じ講義を受けている入学以来の友人か、それとも学内の食堂で小耳に挟んだのか。
とにかく、とんでもない美人が一人でよく出没するらしい、という話だ。なんでもちゃんと目撃談があるらしく、なんなら実際に言葉を交わした勇気のある奴もいるらしい。さっきから憶測の嵐なのは仕方がない。そんな俺はその魔女のことを一度も見かけたことがないのだから。
喫煙所は、世間一般の皆々様方からは文字通り煙たがられている喫煙者のまさに憩いの場だ。行きつけのファミレスで毎度決まった場所に足を運ぶように、喫煙者にも行きつけの喫煙スペースというのが存在する。僕はいつも大学の正門に一番近い屋外のスペースへと足を運んでいた。
場所が変わればそこに居ついている人間の顔ぶれも変わる。
そのため俺は今までその噂の魔女に出会ったことがなかったという訳だ。
八号館は大学敷地内でもかなり奥まった場所に存在する。心理学部の研究棟がメインであるその場所は我々商学部の人間からすると縁もゆかりもない場所だ。同じ大学内だというのにここまで馴染みがないのも案外面白い。
屋外に無造作に置かれている木製のベンチ群の脇を通り抜け、幾つかの建物を横目に見ながらさらに奥へ。どこか鬱蒼とした雰囲気を醸し出しているその場所にたどり着いたのはそんなことに思いを巡らせ始めてから5分ほど経った頃だった。
大学敷地内の隅の隅。敷地を長方形に囲むように設置されている鉄柵の頂点を利用するように配置されているその場所は幾つかのベンチとそして簡素なアルミ製の灰皿が三つ置かれている寂しい場所だった。隣には八号館と呼ばれる四階建ての建物がそびえており、それにより太陽の光が遮られているせいで辺りは他の場所の何倍も薄暗い。
そんな場所の隅っこに、ベンチを一人占領するように彼女はいた。
今はちょうど講義が始まる時間帯。
その日の講義を終えた学生は帰路についている頃だろうし講義がある生徒はまずこんなところにいない。そのせいかその場所は、今は彼女の姿しか見えなかった。
建物の隙間から僅かに差し込む西日が、俺と彼女のいるその場所の中間地点をまるで世界を二分するかのように走り抜けている。
「吸わないの?」
ふと、先ほどまで手元の文庫本に目を落としていた彼女がこちらへと声をかけてきた。
二つの視線が明確に俺の存在を捉えていることに気づく。
「え、あ、あぁ……」
彼女に急かされる様に俺は慌てて胸ポケットから煙草を取り出すと、箱から慣れた手つきで一本取り出しそれを咥える。
一目見た時から分かった。
あの人がきっと噂の魔女だ。
雰囲気からして恐らく年上。まぁ、大学二年のガキからしたらああいう雰囲気の女性は全て年上に見えてしまうものだろう。
彼女は俺が煙草に火をつけるのを確認するとまた先ほどと同じように文庫本へと目を落とした。
静かだった。
この場所は敷地の外に公園が隣接している。その公園内から伸びた木々が頭の上で静かに風に身を捩らせている。それに加えて時折野鳥のさえずりが耳に入ってくる。そしてそんな自然の音に混じるように彼女がページをめくる音が規則的に聞こえてきた。
自分がそんな空間を汚してしまわないように、煙草の煙を中空へと吐き出すことにすら変な気を使ってしまう。
それにしてもどうして彼女は俺なんかに声をかけてきたんだろうか。
煙草の味が分かるぐらいには冷静になれた俺はふとそんな考えに行きつく。彼女に気づかれないように、近くのベンチに腰を下ろしながらちらと横目でいまだに活字に夢中だろう彼女へと視線を寄こす。
綺麗な横顔だった。
整った目鼻立ちはどこか幼さの中に鋭い刃物のような雰囲気を潜ませているのを感じさせ、それを装飾するように肩甲骨辺りまで伸びた黒髪がどこか寂しさを含ませながら風に揺れていた。
ああ、美人ってのはこういう顔を言うんだな。なんて下らないことを考えながらその黒真珠のような髪を何の気なしに眺めていたらふと彼女がこちらを向くのが分かった。
「どうかした?」
先ほどの言葉で分かっていたが彼女の容姿からは思ってもいないような低い声に一瞬ドキリと心臓が高鳴るのが分かった。
「いえ、あまりにも綺麗だったもので」
「空がかな?」
俺の視線で分かっているだろうに、ちょっとだけ口元を小さく歪ませながら彼女はこちらに意地悪な表情を飛ばしてくる。
「お姉さんが、ですよ」
それに負けないように、精一杯の虚勢を張って俺は作り笑いをお返しした。どうだろう、俺なんかのちっぽけな虚栄心ってのはああいう女性にはすっぱりと見抜かれてしまうものなんだろうか。出来るだけ表情が崩れないように、それでいて恐る恐る覗き込んだ彼女の顔は何処か楽し気に笑っていた。
「嫌いじゃないよそう言う子」
どうやら一次試験は突破できたらしい。彼女は手元の文庫本をカバンへとしまい込みながら俺を自分の近くのベンチへと手招きをした。断る理由を考える言い訳も思いつかなかったのでそのまま吸い寄せられるように彼女の座るベンチの向かい側に腰を下ろす。
「それじゃあその報酬でも貰おうかな?」
近くで見るとより一層彼女のその美しさが際立った。見ているだけでまるで深い海にでも沈み込んでいくかのような錯覚さえ覚える。ピースサインをこちらに寄こしてくる彼女を見ながら俺はそんなことを考える。
「まぁ、それぐらいなら」
胸ポケットから再び煙草を一本取り出す。
「ん、ありがと」
ガラス細工のような人差し指と中指の間にフィルターを挟み込むと彼女は満足そうな表情でそれを口元へと運んだ。
「あ、火はお持ちです?」
「何言ってるの、そこにあるじゃない?」
そう言いながら彼女は俺の口元に加えっぱなしだったそれを指さした。
「い、いや、それは流石に……」
出会って十分もたっていない。言葉を交わしてからに限ってはまだ三分ほどの相手にそんなことが出来る度胸が備わってる訳がないだろう。
なんて泣き事を心の中で叫びながらも笑顔だけは忘れない。
「なんだ、遊んでそうな見た目なのに案外初心なの?」
ケラケラと笑いながら彼女は俺の胸元から煙草をかっさらったかと思うと俺の口元のそれを目の前の灰皿へと叩きこんだ。
「ほれ、咥えてみ」
彼女から差し出された新しいそれを言われるままに唇で挟む。まるで慣れた手つきでそれに火をつけると彼女は満足そうに一つ頷いた。
「勘違いしないで。誰にでもやってる訳じゃない」
「勘違いなんてしてないですよ」
「あれ、この前の子はそのまま私に迫ってきたんだけどね」
「身の程ぐらい弁えてるつもりです」
「そりゃ残念」
一瞬だった。気づいたときには彼女の顔が目の前まで迫っていた。
じりり、と煙草に火が燈る音が聞こえる。
彼女が小さく息を吸う音がそれに混じりながら鼓膜を震わせているのが分かり、また一つ俺の心臓が高鳴った。
「頂きます」
「え、あ、はぁ……」
美味そうに紫煙を燻らす彼女を見ていたら先ほどの緊張が一瞬にして弛緩してしまい俺も一つ大きく煙を吐いた。
「魔女ですね……」
「魔女?」
緊張が緩んでしまったせいか思わず口を出てしまった言葉に慌ててしまう。もしかしたらその言葉は彼女にとっては心外だったのかもしれない。
「すいません」
「ん?気に障ったとでも思った?」
「ええ、そのつもりで」
俺の言葉に彼女は一瞬驚いた表情を浮かべたがすぐにその顔を先ほどの笑い顔に変えてしまう。
「あっはっはっ!魔女ねぇ」
「何か面白かったですか?」
「まぁね。あれ、私が流した噂なんだわ」
一瞬何を言われているのか理解が出来ず、ただでさえ容量の少ない頭がフリーズしてしまう。
「ほら、私こんな容姿でしょ?最初にちょっとだけ噂なんて流したらそれがすぐに広まっちゃってさ」
「あそこまで広がるつもりじゃなかったと?」
「そーそー。友人とちょっとだけふざけるだけだったんだ。でも思ったより広まっちゃってさぁ」
「それは何というかご愁傷様です」
言われもないことなんかも広まったりしたんだろうか。俺が耳にした噂話の中にそんなものが混じっていたことを思い出す。まあ、俺は最初から信じてはいなかったけど。
「ん~?悪いことばかりじゃないよ」
「そうなんですか?知りもしない男から言い寄られたりして大変そうですけど」
「まぁ、そりゃそうだけどね……でも」
「でも?」
「ここにいると、至福の一本が勝手に向こうから寄ってくるんだ」
右手でプラプラと煙草を揺らしながら彼女は満足そうにまた一つ中空に煙を吐いた。
「俺はまんまと釣られた訳ですね」
「まぁね。でも、悪い時間じゃないでしょ?夕方誰も居ない過疎ってる喫煙所で美女と二人」
「最高ですね」
「ね?」
なんて楽しそうな顔で笑うんだろう。
彼女の笑顔を見ながらふとそんなことを思う。何というか、人生全てに満足しているというか。まぁ、この容姿だ。苦労してきたことの方が少なそうだ。
「何やら失礼なことを考えてるな?」
俺の邪な考えはあっさりと見抜かれていたようで彼女はその整った顔に似合わぬ表情で頬を小さく膨らませていた。
それからは他愛もない話をただただ繰り返していた。
時折彼女は俺に煙草をねだり、俺もそんな彼女に悪い気はしなかったのであっさりと箱の中身を手渡していく。時折タイミングを見計らって煙草を口に咥えてみるものの彼女がライターを不必要としたのは初めの一回だけだった。
この前食べた美味しいパスタの店のこと、最近ハマってるアーティストの話、高校時代の部活の話。いろんなことを話した気がするけどついぞ彼女の名前や学年、学部は聞き出せなかった。
もしもその名前を聞いてしまったら、俺は魔女の魅力に一生囚われたままになるだろう。そう俺の本能が警鐘を鳴らしていたからだ。
「さて、私はこの辺で失礼させていただこうかな」
ふと、腕の時計に視線を動かした彼女はそんなことを呟いた。俺も同じようにポケットにねじ込んだスマートフォンを取り出して時間を確認してみるとすっかり画面に表示されたデジタル時計は5限の終了時間を回っていた。
「また会えますか?」
「どうだろう……。私は気まぐれだからね。会えるかもしれないし会えないかもしれない」
「じゃあ期待せずに待つことにします」
そんなことを口にした瞬間に俺は手遅れだったことに気づく。なんだ、もうすっかり魔女の魅力に取りつかれてしまっているじゃないか、と。
思わず苦笑いが出そうになるのを堪え、俺は彼女の表情をうかがう。
「その時は、また煙草の一本でも持ってきてくれると嬉しいな」
「当然です」
その場から立ち去っていく彼女を見送りながら俺は箱に残った最後の一本を取り出した。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」
「ふえぇ?」
突然の出来事に落としそうになる煙草を慌てて右手でキャッチしながら彼女の方を再び見る。火をつける前でよかったと心から安心したことはこの際は置いておこう。
「とある偉人の言葉だね」
「す、すいません。無学なもので」
「本はたくさん読んだ方がいいよ」
「心に刻んでおきます」
「人の人生は道か……。そうなると私たちのこの出会いは、まるで交差点みたいだね」
逆光でうまく彼女の表情が見えなかった。今、あの人はどんな顔でこちらを見ているのだろうか。
「交差点……ですか」
「うん、楽しい時間だったよ。ありがとう」
そう言い残し彼女はその場から姿を消した。ふと思い至ってそっと追いかけてみたものの喫煙所の角を曲がったところですっかりその背中は見えなくなっていた。
まるで、最初からそんな人なんていなかったかのように。
「……本当に魔女みたいだな」
乾いた俺の呟きだけが、ついぞ独りだけになってしまった喫煙所にやたらと大きく響いた。
人生は道のよう。俺らの出会いは交差点。
結局彼女が何を伝えたかったのか。俺はその真意を最後まで知ることは出来なかった。
なぜならば、あの後彼女とは一度も顔を合わせることはなかったからだ。何というか素敵な人だったな。そんなイメージだけが今もずっと俺の心の中で一人歩きしている。
あれから二年、学内に咲く僅かばかりの桜が満開を迎えたその日、俺は最後の煙草を吸いにあの場に足を運んでいた。
学校行事の後というのはどうしてああも無駄な疲労感が蓄積するのだろうか。高校の時分で慣れたものだと思っていたがなかなかどうして久しぶりだとそうはうまくいってはくれないらしい。
煙草を咥え火を灯す。その声が聞こえてきたのは一つ大きく煙を吐き出したその時だった。
「卒業おめでとう」
いったいどれだけ彼女のことを思っただろうか。その声が耳に入った瞬間、彼女をふと心の片隅で思い続けていた二年間が報われた気がした。
「お久しぶりです」
「ええ、本当に」
「覚えていてくれたんですね」
「今時自作の手巻き煙草なんて吸ってる子は珍しかったからね」
「そりゃなんとも光栄です」
人生は交差点だ。一度別れた道だっていつかこうしてまた交ざり合うことだってあり得るかもしれない。
「俺、就職で地元に帰るんですよ」
「そっか」
「貴女は?」
「私、これでもここの大学職員なんだよね」
「学生だと思ってましたよ」
「裏方仕事ばっかりだから生徒とは殆ど顔を合わせないけど」
「そりゃ知らないはずです。それじゃあなんていうか……お別れですね」
だけれども、こうしてまた交ざり合った道だって、また再びそれぞれの目的地へと向けて袂を分かつことだって珍しくない。いや、別れることの方がこの世界じゃ多いだろう。
だけど、それでも。
「でも、きっと俺はこいつを吸うたびに思い出すんでしょうね、貴女のことを」
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。だっけか。それでも、その重荷の中にそっと思い出ぐらいは忍ばせておいても神様には怒られないだろう。
じりりと、口元で音が鳴る。彼女との会話ですっかり短くなってしまったそれは、短くなってしまったその身をいまだに精一杯に焦がしていた。
「それじゃあ私は思い出せないじゃん」
「いいんですよ。俺なんかのことなんて忘れてしまっても」
「男の人っていつだって身勝手」
「なんていうか、ごめんなさい」
「まぁ、許してやらないこともないかな。その代わり……んっ」
目の前の彼女がこちらにピースサインを寄こして見せる。
あの日見た仕草。彼女の意図を察した俺はその指にいつかと同じように胸ポケットから取り出したそれを挟んだ。そして箱の中から最後の一本を取り出すとほんのちょっとの期待を込めてそれに火を灯す。
人と人との出会いは交差点。俺と彼女の道は、もう二度と交差することはないのだろう。彼女の顔がこちらに迫ってくるのが分かった。それが彼女の俺への卒業祝いだったのだろうか。それともこれから別々の道を歩んでいくものへのせめての手向けか。
最後の煙草は、サヨナラの味がした。