「ずっと幸せなままの人間は、彼が幸せで恵まれた者とは思っていない。適度な痛みを知っている者だけが、幸せを幸せだと噛み締めることが出来るんだ」
「ふーん」
「もしかしなくても興味ない?」
「ない」
「そっか」

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 これは、私が彼に送るたった一つの言葉である。
 彼に言いたいことは山ほどあるが、それを挙げていけばキリがないので、ここでは一言だけに済ませておこう。

「私は今も不死合わせです。だからこそ、幸せです」

 ありがとう、今日も生きていこう。



ありふれた幸せ

 

 

 

「僕が思うに、幸せな人生を送るためには、ある程度不幸せの中に自分の身を置かなければならないんだ」

 

 唐突に、私の目の前に現れた彼はそう言った。

 びゅうびゅうと頬を叩きつける初夏の鬱陶しい風と、遠くから聞こえてくる運動部の応援の声。そこは、どこか閉鎖的な空間だった。

 私は徐に振り返り、彼を見た。

 ひょろ長い男だった。短く切り揃えられた髪が清潔感を醸し出していた。ぼんやりとこちらを見つめる目は何処か虚ろで、不気味だった。

 

「……なんの用?」

 

 ちょっと冷たすぎる言葉だったか。いや、そんなことはもうどうでもいいんだ、私にとっては。

 

 ──全てを終わらせる予定の、私にとっては。

 

 私は掛け声の止まない校庭を見て、その後腰掛けていた階段の手すりから下を見下ろした。小さくなった花壇だけの中庭が見える。

 ここは屋上の手前の階段。この高校は珍しいことに、屋上までの階段が全て外付けになっているのだ。壁が取り払われているぶん階段特有の陰鬱さはないが、それに伴う危険がある。

 それは、私のような馬鹿が飛び降りる危険である。

 

 再び、そっと振り返ると、彼がこちらに近づいていた。視界の端に、キレイに揃えられた私の靴が見えた。

 

 飛び降りる理由は特にない。ただ人生が詰まらなかっただけ。何だか漠然とした不安に駆られて死にたかっただけ。

 そこに何かの葛藤や涙はない。あるのはただ俯瞰的に世界を見下ろす、格好つけた馬鹿が一人だけ。

 

 男は私のすぐ横まで来ると、手すり代わりになっている、鳩尾辺りまでしかない壁に凭れかかった。

 

「別に用はないよ。ただ君がここにいて、楽しそうなことをしようとしてたから話しかけただけ」

「……言っとくけど、説得しようったって無駄だから。私の意思は固いからね」

 

 別にそんなことはないけれど、誰かに自分の意見をとやかく言われるのが嫌なので、先に釘をさしておく。

 しかし意外なことに、彼は私の言葉を聞いて軽快に笑った後、肩を竦めてこちらを見た。

 

「僕は君が死んだってどうでもいいよ。さっきも言ったでしょ? 楽しそうなことをしてたから話しかけたって」

 

 そう言うと彼は、徐に靴を脱いで手すりに飛び乗った。勢いをつけすぎて、ぐらりと落ちそうになっていた。思わず手を伸ばし助けようとするが、私も落ちそうになってしまう。飛び降りる気ではいるけれど、こんな形で落ちたくはない。

 

 男は手すりに腰掛け体の向きを変えると、空を見上げながらにっこりと笑った。

 

「人間、幸せに生きるためには不幸せにならなくちゃいけないんだ」

「……さっきから、何なのそれ?」

「僕の持論」

 

 あっけらかんとした口調の彼。ぼんやりと空を眺めるその瞳からは何も読めなかった。彼の瞳に反射している入道雲が痛いくらいに眩しかった。

 

「ずっと幸せなままの人間は、彼が幸せで恵まれた者とは思っていない。適度な痛みを知っている者だけが、幸せを幸せだと噛み締めることが出来るんだ」

「ふーん」

「もしかしなくても興味ない?」

「ない」

「そっか」

 

 私の冷たい態度に対しても怒ることはなく、彼はくすりと笑った。

 強風が私たちを階段へと押し返そうとする。まるで手すりに座る私たちに向かって危ないぞと諫めているかのようだった。ばたばたとはためく髪が鬱陶しくて、私は目を瞑った。

 

「それで、君は今から飛び降りるの?」

「……誰かに見られながらはなんか嫌」

「僕も同感」

「じゃあどっか行ってよ」

「君がどっか行けばいいんじゃないかな」

「私が先にここにいたんだけど」

「先着かどうかなんてどうでもいいよ。ていうか、さっき落ちそうになって焦ってたよね。そんな覚悟の人間はさっさと帰った方がいいんじゃない?」

 

 言ってくれるではないかと対抗心が燃え上がるが、まあ逆らうほどのことではない。

 私は階段の手すりから下りると、靴を履いた。

 

「お、帰ってくれるのかい」

「いや、帰らない。精一杯の嫌がらせでずっとあんたのこと見とく」

「……さっきのことは謝るよ」

「勝手に謝ったら? 私はここにいるし」

「…………」

 

 半眼で睨みつけられるが、知ったことではない。

 私は階段に腰掛けて、ぼうっと彼を見た。彼もまた、手すりの上からこちらを見ていた。

 

「……わかった、今日は飛び降りない。明日飛び降りればいいだけだからね」

「明日は私が飛び降りるから、邪魔しないで」

「それは僕が決めることだ」

「…………」

「…………」

 

 誰に言われたわけでもなく、静かに立ち上がる。それと同時に彼も手すりから下りた。靴を履く彼を何となく待って、一緒に階段を下りた私たちは、なんとなく校門まで二人で歩いていく。会話はないが、何だか言葉に出来ない応酬が二人の間に存在していたような気がした。

 

 校門で別れ帰路に就く。山には夕陽が浸かっており、空を見上げると私の憂鬱を表すかのような深い蒼が広がっている。蜜色の夕陽と青紫の闇が混じり合う境界線は、淡いヴァイオレットピンクに染まっていた。ポツンと輝く一番星が綺麗だった。

 何だかよくわからない倦怠感を引きずって、私は一人帰路に就いたのだった。

 

 

 ☆

 

 

「また君か」

「またアンタか」

 

 ばったり。そんな言葉がぴったりなほどのタイミングで、私たちは出会った。

 放課後になって、今日こそ飛び降りるかーと昨日の場所まで行けばこれである。何てタイミングの悪い。

 階段を上っている私の視界に映るのは、今まさに飛び降りようとしているのであろう彼の姿。そういえば、名前を聞いていなかった。いや、まあどうでもいいんだけど。

 

「君はタイミングが悪いね」

「あんたが悪いんでしょ」

「そうかもね。あ、十分くらい待っといてくれない? さくっと死ぬからさ」

「そんなコンビニ行くみたいな気軽さで自殺を宣言されても。じゃ、私はここで見とくから」

「……君もブレないね」

「アンタには負けるわ」

 

 ため息を一つ吐いて、手すりから滑り落ちるように着地する男。その身体は半身だけ校庭の方を向いており、ここからだとその表情を伺うことはできない。

 だが何となく、彼は憂鬱な表情をしているんだろうなということは感じ取っていた。

 

「ねえ、君、夢はある?」

 

 唐突に彼はこちらを向いて、彼はそんなことを尋ねて来た。

 予想だにしていなかったその質問に、私は暫しの間間抜けのようにぽかんと口を開く。その表情が面白かったのか、彼はくすりと笑った。

 

「夢だよ、夢。ドリーム」

「……まあ、ないと言えば嘘になるけど」

「面倒くさい言い方するね。で、どんな夢?」

「なんでアンタに言わなきゃいけないの」

「そんな連れないこと言わないでくれよ。僕ら自殺フレンド、略してじさフレだろ?」

「そんな物騒な友人は作る気もないし作りたくもない。……ていうか、私から言うのは嫌だから、アンタから言ってよ。夢とやらを」

 

 私の言葉に、彼はしばらくの間黙り込む。滑らかな静寂が横たわり、私たちの時間を削っていく。遠くで野球部がバットに球を当てたのか、甲高い音が響いた。

 それが合図だったかのように、彼は口を開く。

 

「僕はねぇ、世界中の人に会ってみたいんだ」

 

 彼が語った夢に、私は眉を顰めた。何だかとても滑稽な夢だと思った。

 

「今から死のうとしてるのに?」

「今から死のうとしてるのに」

「それって不可能じゃない?」

「不可能だから夢じゃないの? 現実で叶えられないから人々は夢を見るんだと思っていたよ」

 

 それは何だかおかしな持論である。私は少し噴出して、階段を上りきる。踊り場に立つと、ひょろながい彼は私よりも頭二つ分くらい大きいことがわかった。昨日は色々あって、気にしてもいなかった。

 

「夢は憧れるから持つものなんだよ。叶えられないかもなんて思ってる時点でそれは夢じゃなくて理想」

「理想も夢も一緒だよ。持つ人が叶える気がなかったんなら」

「それは確かにね」

「それで、君の夢は何なの? 僕は言ったよ」

 

 口角を上げながら男がそう尋ねてくる。私は気恥ずかしさを覚えながらも、精一杯の勇気を絞り声を出した。

 

「……小説家」

「小説家?」

「そう、小説書く人」

「へえ、いいじゃん」

 

 思いの外あっさりと、男はそう言った。そこには皮肉や嫌味などと言った感情はなく、ただ純粋に私のことを尊敬しているような口調であった。

 

「別に、良くなんてないよ」

「そんなことないさ。すごいさ。目指すところがあるだけで、人間は強くなれる」

「アンタは目指すところがないみたいな言い方だけど」

「世界中の人間と会いたいなんて宣ってる人間に、目指すところがあると思っているのかい?」

「それもそうだ」

「あっさり認めるんだね」

「そんなことないよって言ってほしかった?」

「別に」

 

 そこで途切れる会話。吐く息だけが静かな世界を切り裂いていく。

 校庭の運動部の声がやけに遠く聞こえてくる。まるで、この場所だけ世界から切り取られたかのようだった。

 

「多分、僕は不幸せなんだと思う」

 

 不意に、彼がそう言った。

 

「どういうこと」

「特に不自由のない人生を送ってきて、特に不自由のない未来を送る……馬鹿みたいに平凡な幸せな人生の中にいるんだと思う。自覚はしてないけど」

「ふーん」

「だからこそ、飛び降りたいのかも。こんな不幸せの中から抜け出したくって、僕は飛ぼうとしているのかもしれない」

 

 その言葉に、私は首を傾げた。

 

「人間、不幸せの中にいれば幸せなんじゃないの? その理論だったらアンタは幸せなはずなんだけど」

「違うよ。自分が幸せと感じれない人間が不幸せなのであって、幸せと感じている人間が本当に幸せなんだ。そして幸せをきちんと幸せ味で噛み締めるためには、不幸せというスパイスが必要なんだよ」

「……よくわかんないや」

「そうか。別に僕は君が理解できなくたって困らない」

「嫌味な言い方」

「嫌な気分になったかい? だとすれば君は生きている」

「あっそ」

 

 小難しいことは嫌いだ。私は適当に彼の言葉をあしらって、階段の手すりに両手を置いた。日差しで熱くなった手すりは、何だか生物みたいに暖かった。その温かさが心に染みた。

 視界の端で男が靴を履いている。どうやら帰るらしい。

 

「僕はもう帰るよ。キミはどうする?」

 

 少しだけ悩むふり。本当は決まってるけど、それをヤツに知られたくはない。

 十二秒待ってから答える。

 

「じゃあ、私も帰ろっかな」

「そうかい。じゃあ行こう」

「はいはい」

 

 一緒に階段を下りる。先ほどとは違い、校庭から聞こえてくる音がやけに近く聞こえた。

 

 

 ☆

 

 

「あれ、今日は普通だ」

 

 そんな彼の声が耳に入ってくる。私はうつらうつらと漕いでいた船を最速で片付けて顔を上げる。そこには片足だけ階段の一段目に置いた男がいた。

 

「何、その私が何時も飛び降りようとしてるみたいな言い方」

「そうじゃないのかい?」

「まあそうだけど」

 

 私は階段から腰を上げ、立ち上がった。ここからだとヤツを見下ろしているみたいな形になる。ちょっと優越感。

 男はすぐに階段を上りきって、私を見下ろしてきた。ちくしょう。

 

「今日はなんでここに?」

「別に……特に理由はないけど」

 

 何だか知らない間に足が動いていた、それだけ。なんでここなのかは、私自身もわかってはいなかった。

 彼は特に気にした様子もなく、ふーんと呟いて空を見ていた。

 

「今日も君は死ぬつもりなのかい?」

 

 別に、今日は死ぬつもりはなかった。ここに来たのは気まぐれだったからだ。だが何故かそれを肯定するのは負けた気がして、私は大きく頷いた。

 

「当たり前。アンタは?」

「僕もだよ。それで、僕は君がいたら飛べないんだけど」

「遺言くらいは聞いてあげれるけど?」

「ありがたいけど今はいらないかな」

 

 まあいいやと呟いて私の横に腰掛ける男。再び見下ろす形になった。

 まあずっと旋毛を見ているのもなんなので、私も腰掛ける。見下ろした踊り場に一枚の葉が滑り込んで、音をたてながら床を滑って行った。

 

「僕はさ、思うんだ……」

「いきなり何さ」

 

 ぼんやりと葉を見るともなく見ていた私は、急に話し始めた彼の横顔をちらりと見た。相変わらずぼうっとした顔をしている。

 彼は何か意を決したかのような表情で、中空を眺めながら口を開いた。

 

「僕たちは死合わせな二人なんだと思うんだ」

「なんでいきなり変なイントネーションになったの」

「幸せじゃないよ。死ぬに合わせるで、死合わせ。死にたがりの二人が合わさって、死合わせなのさ」

「……何それ」

 

 わかんないと、彼は笑いながら答えた。自分でもわからないのに変なことを言うなと言いたい気分だったが、その横顔が余りにも清々しくて、そんな気も失せてしまった。

 

「死合わせ。なんか歌でもあったでしょ? 縦の糸と横の糸が合わさって仕合せになるんです、みたいなの」

「あれとはまたイントネーションが違うと思うけれども」

「まあそれはともかく」

 

 ごほんと咳ばらいをして、彼は私の方を見た。何故かはわからないが気まずくて、視線を外す。

 

「僕らは死合わせ仲間ってわけだ。しあフレとして、共に仲良くなろうじゃないか」

「嫌」

「そっけないね」

「普通の反応だと思うけど。何その死合わせって」

「言ったじゃないか。死にたい同士が集まってるから、死合わせって」

「しょうもないダジャレ。何、じゃあどっちかが死ねば不死合わせってこと?」

「そゆこと」

 

 ふふんと、どや顔になる男。いらっとしたので横に見えた太ももを抓っておく。めちゃくちゃ痛がっている。ほそっちいからだ。ざまあみろ。

 

「酷いな、本気で抓ることないだろ」

「私の本気で痛がらないでよ、弱っちい」

 

 再び訪れる静寂。先に言葉を発した方が負けと、暗黙のルールが制定されたような気がして、私は硬く口を閉じた。

 

「そういえば君の夢だけど」

 

 暫くの後、彼が口を開いた。勝者は私だ。あいあむざうぃんなー! ……勝利とはこんなにも虚しいものだったのか……。

 一人でがっくりと項垂れていると、男が訝し気に首を傾げた。反応するのは面倒だが、無視するわけにもいくまい。

 

「私の夢が、なに」

「諦めたの?」

 

 ぴたり。一瞬だけ音が消えた。遠くからさざ波のように聞こえていた蝉の声が一瞬だけぴたりと止まったような気がした。

 悠久にも似た数秒後、私は答える。

 

「別に、諦めたわけじゃないよ。今もちょくちょく携帯のメモとかに書いてるし。けど、これで食っていけるかと言われたら、微妙なところ」

「ふーん……見せてよ」

「え?」

「ん?」

 

 何気なく投げかけられた言葉に、私は思わず彼の顔を見た。彼もまた私を見ていた。

 

「アンタ……乙女の携帯をそんな軽々しく見せてだなんて」

「そんなこと言わないでくれよ。僕ら、じさフレだろ?」

「しあフレじゃないのか」

「どっちでもいいよ、そんなの。それより見せてみてよ。僕、読んでみたいんだ」

「まあいいけど……はい」

 

 スカートのポケットから携帯を取り出し、メモアプリを起動して手渡す。アクセサリの類が全くない、さらさらな携帯は、私に似て空虚だった。

 そっと、じっと、私の携帯画面をスワイプする男。私は横目でそれを見ながら、どきどきと緊張で高鳴る胸を押さえていた。思えば、私が書いた小説を誰かに読ませるのは初めてだ。

 

 暫くの後、男が携帯の電源を切って私に手渡してきた。

 どんな感想が来るのかと身構える私。しかし、そんな私の心を知ってか知らずか、男は大きなあくびを一つして空を眺め始めてしまった。

 

「……で?」

「ん? でって?」

「いや……どうだったの?」

「小説? まあまあ面白かったよ」

 

 その歯に衣を着せぬ言い方に、私は思わずため息を吐いた。

 

「まあまあって……何気に酷い奴」

「完璧な文章って言っちゃえば、そこで終わりさ。そこからは伸びしろがない。まあまあが一番いいのさ」

「……そうかぁ?」

「けど、綺麗だった」

「……え?」

 

 流れるようなその言葉に、私は思わず携帯を落とした。カランと甲高い音が踊り場に響き、空へと飛んでいく。

 彼の顔は、何だか穏やかだった。心が洗い流されたかのように、無垢で清純な顔つきだった。

 

「綺麗だったよ」

「……文章が?」

「文章はそこまでだった。けど、綺麗な夢だった。とっても、羨ましいくらいに透き通ってて爽やかな夢だ」

「……なにそれ、褒めてるつもり?」

「最大限の誉め言葉なんだけどな……とにかく、とっても綺麗だった。それこそ、死にたくなるくらいにね」

 

 穏やかな顔だった。だからこそ、私はどうしようもないほどに不安になった。

 まるで彼が、今すぐにでも死んでしまいそうなほどに穏やかな顔だったから。

 

「……死ぬつもり、なの?」

 

 そんな言葉が、口をついて出ていた。

 彼はくすりと笑う。秋風のように涼しい笑顔だった。

 

「何変な事言ってるんだ。君も死ぬつもりなんだろ」

「……」

 

 私は答えなかった。

 或いは、答えられなかったのか。

 

 どっちだろうか。そんな疑問を胸に、空に浮かぶ入道雲を見た。

 答えは出なかった。死にたくなった。

 そんな私を馬鹿にするかのように、彼が言った。

 

「僕ら、やっぱり死合わせだなぁ」

「私は不幸せよ」

「それがわかってたら、君は幸せなのさ」

 

 

 

 

 ☆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その次の日、彼は自殺した。

 

 

 

 

 それはあまりにも唐突な知らせだった。唐突過ぎて、私はその訃報を受けたベッドの上で呆然と、しばらくの間目を見開いていた。

 だんだんと脳が理解するにつれて、ぼんやりとした哀しみが私の胸の内に芽生え始めた。

 すぐに立ち上がり、ドアの前で心配そうな表情をして私を見ていた母を押し退け玄関へと走る。今すぐに学校へと向かわないといけないと感じた。

 

 玄関に出ると、びゅうと強い風が私に襲い掛かった。あまりの強さに、私はスカートを抑え目を強くつむる。

 

 叩きつけるように吹き付けていた風は数秒もすれば収まり、優しい静寂がその形を取り戻していく。

 目を開けて空を見る。入道雲が崩れ、散り散りになっていた。秋が始まろうとしていた。

 

 何だか泣きたくなった。私は学校に向かって駆け出した。

 

 

 ☆

 

 

 当たり前だが、校門の前にはたくさんの警察がいた。

 流石にその中を堂々と歩いて行けるほどの度胸はないので、裏口からこっそりと中に入る。

 意外なことに、警察は入り口だけで、校舎内には誰もいなかった。

 

 そのままこそこそと校舎内を移動し、屋上まで続く階段を上り始める。

 外付けなので普通に歩いたら見つかる恐れがある。私は出来るだけ背を低くして誰にも見つからないように階段を上っていく。

 

 まもなく屋上に到達した。

 形だけの立ち入り禁止テープを越えて何時もの踊り場に立つ。何だか何時もよりも広いような気がした。それもそうか、ひょろ長くて無駄にでかいヤツがいないんだから。

 手すりに手を置くと、陽の光に温められた手すりの暖かさが伝わってくる。まるで、彼の温もりがそのままここに写ったかのようだった。

 綺麗に揃えられた靴を見ないように、私は身を乗り出して下を見た。

 

 遥か下に人型のテープが貼ってある。どうやら彼はあそこでその人生に終止符を打ったらしい。私は何処か感動にも似た感情を抱きながら、そのテープを眺めていた。

 

「じゃ、死のうかな」

 

 そう呟くと、あざ笑うかのように風が吹いた。なんとも涼し気な風だった。

 話す人もいなくなったし、私が飛び降りるのを見ている人もいない。もう、別に飛び降りない理由はないだろう。

 

 私はそっと靴を脱いで彼の靴の横に綺麗に並べる。何だか、そうしたい気分だった。

 

 片膝立ちで手すりに乗ると、不安定な姿勢になり心の奥底から恐怖が湧き出てくる。

 だがそれを無理やりに抑え、飛び降りる準備をする。あとは身体の重心を前にずらすだけ。それだけで私は真っ逆さまに落ちていき、無事地面にぶつかりこのツマラナイ人生を終えることが出来るはずだ。

 

「じゃ、すぐに会おう、しあフレとやら」

 

 そういえばしあフレって、漢字にすると死溢れでなんか不気味だなーなんてことを思いつつ、息を整える。これでもう後は飛び降りるだけだ。

 よし、三秒数えて飛び降りよう。

 

 いーち。

 

 にーい。

 

 さー………………

 

 

 ふと、空を見た。

 散り散りになった雲は欠片になって空に浮かんでいた。

 

「『幸せな人生を送るためには、ある程度不幸せの中に自分の身を置かなければならない』。かぁ……」

 

 その雲が何故かアイツに見えて、呟く。何だかとても疲れた。雲を見ていると、何だか源泉から水が溢れるかのように、ここ数日間にぎゅっと詰まったアイツとの思い出が溢れ出してくる。

 

 自殺しようとした、アイツが割り込んで邪魔してきた、一緒に話すようになった、何故か校門まで一緒に歩いていた、おかしな話ばっかりをしていた、でも、死んでしまった。

 

 ぼうっとその思い出を眺めているうちに、私の中に芽生えていた自殺願望は息を吹きかけられた蝋燭の火のように消えてしまった。

 

「せっかく死ねると思ったのに、幸せに気づいちゃったら、死ねないじゃん」

 

『死合わせ』だった二人は、彼がいなくなったことによって崩れさった。残ったのは『不死合わせ』な私だけ。

 

 不死合わせになって初めて、私は幸せの味を噛み締めることが出来た。

 

 ああ、そうだったのか。

 

「幸せって、しょっぱいんだなぁ」

 

 霞む視界で呟いた。心の痛みだけが私を慰めているように思えた。

 浮かぶ雲が、「嫌な気分になったかい? だとすれば君は生きている」と言っているような気がして、とても不快だった。不快過ぎて、知らないうちに笑っていた。

 ──笑っているのに痛かった。

 

 

 ☆

 

 

 ゆったりと帰路に就きながら、私は空を見上げていた。

 先ほどまでは濃い金色で満ちていた帰り道には、時間が経つにつれ徐々に影が多くなっている。暗くなるのがはやくなり始めた。多分、これからはもっと早く帰らなければいけないだろう。

 

 そんなことを考えながら、私はふと思いついたことを言葉にした。

 

「小説を書こう」

 

 それで食っていけなくてもいい。誰からも気づかれなくたって構わない。

 

 ただ、彼がまあまあと褒めてくれた文章を磨いて、いつかは完璧になれるように。

 いつかは有名になって、世界中の人々が手に取るような本を書けるように。

 

 そして……彼の夢であった、「世界中の人々と会う」という夢を、私が受け継いで見せてやるのだ。

 

 一足先に旅立ってしまった、私の元「しあフレ」とやらに。

 

 浮足立った心と脚で帰路に就きながら、私は駆け出した。

 

 

 死合わせな二人は、不死合わせになって、最後の最後で幸せになった。

 

 紆余曲折の道筋。一寸先は真っ暗闇。どこに行くのか道しるべもないまま歩いていく。

 

 ま、それが幸せな人生ってもんだ。

 

 

 

 

 






 静かに筆を置いて私は伸びをした。
 窓から差す夕陽は蜜のように金色で、ふとあの日の帰り道の光景を思い描いた。

 窓から外を見る。千切れて浮かぶ雲が悠々と空を泳いでいた。

 私は笑みを漏らすと、そっと原稿用紙を撫でる。そこに確かに存在している「彼」の温もりを確かめながら。

 つぅと、一筋の涙が頬を伝う。

 あの日の痛みは今も覚えている。ずきずきと心を締め付ける、現実味を帯びた痛みは幾度となく私を現実へと連れ戻してくれる。

 今日も私は不死合わせです。だからこそ、幸せです。

 ありがとう、今日も生きていこう。

 いつかまた、君に会える日まで。
 不死合わせなまま、幸せなまま、彼に夢を上げるその日まで。


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