食事を終えた紫電と真菰は一服した後、刀鍛冶の里自慢の温泉へと向かうことにした。
部屋を借りた旅館から少し歩き、里の外れにある階段を登る。硫黄の匂いに誘われるがまま進むと、眼前に現れた岩で囲まれた天然の温泉。
湯面からは湯煙が立ち上り、離れていても感じる熱気が身体に染み渡る。
「すごいね……。私、温泉なんて初めてだよ」
「………」
「疲労回復にもいいんだって。美肌効果もあるらしいね」
「…………」
「紫電?どうしたの?さっきから全然喋らないけど……」
(これ、もしかして混浴じゃないのッッ!!?)
動揺を悟られぬように心の中で叫ぶ紫電。
辺りを見渡してみても更衣室のようなものもなければ、男湯と女湯を仕切る壁もない。何なら温泉はこれだけだ。
(ま、待て待て待て待て……。混浴ってつまり……真菰ちゃんの……は、裸が…………)
『あ、あんまりこっち見ちゃ……いやだよ……?』
露わになった、慎ましやかながら艶かしい身体を手で隠しながら抱きしめ、羞恥に頬を染めた可愛らしい真菰の姿が容易に想像できてしまい────
「ぐあぁぁぁぁぁぁぁぁああああッ!!!??」
「し、紫電っ!?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃ!!違うんです決してそんこと望んでるわけじゃないんですぅぅぅッ!!湯気さんもっと仕事してぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!!!」
急に奇声を発し、顔──正確には鼻のあたり──を両手で抑えながら蹲る紫電。すんでのところで鼻血を塞き止める。
久しぶりに小煩い紫電を見た真菰は手で口元を抑えながらくすりと笑った。
「もう、どうしたのいきなり」
「真菰ちゃん!君は事の重大さに気づいていないの!?」
「えっと、何の話……?」
「この温泉……きっと混浴だよ!!??」
「──────!!!」
混浴────。
世間知らずな真菰だが、もちろん混浴がいかなる物か知っている。
男女が一糸まとわぬ姿で同じ湯に浸かるという、あれだ。
ようやく事の重大さを理解した真菰は、顔を真っ赤に染め上げ、眼前に広がる温泉にも勝るとも劣らない湯気を発しながら口をぱくぱくとさせている。
(紫電と一緒に……温泉……ッ!?む、無理無理……恥ずかしすぎるよっ!!)
想い人と二人きりで歩くのですら胸が高鳴り鼓動が早鐘のように脈打つのに、混浴だなんて。
紫電との距離を縮めようと勇気を振り絞って積極的に攻めている真菰だが、お互い裸になって温泉に浸かるなど難易度が高すぎる。
それでも、古来より裸の付き合いは互いの距離を縮めるのには最適だと言われている。
ここで紫電と一緒に温泉に入れば、流石に恋愛方面に疎い紫電でも。自分の事を女として見てくれるのではないか────?
しかしそこには、一つの壁が立ちはだかる。
(蜜璃ちゃんみたいに胸、大きかったらよかったのに!!)
女性としては長身で、出るところはしっかり出ている豊かな肢体を誇る蜜璃に比べれば、真菰は随分と慎ましやかな方だ。何がとは言わないが。決して小さすぎる訳では無いが、やはり男性からしたら物足りないかもしれない。何がとは言わないが。
(一緒の温泉に入って、紫電が普段通りだったらどうしよう……!私、女としての自信を完全に無くしちゃいそう………!)
『あの』紫電なら十分に有り得てしまう話だ。
しかし、そんな真菰の不安は杞憂に終わる。
(真菰ちゃんと一緒に温泉だなんて……俺、多分きっと理性保てない!それか出血多量で死ぬ!もしくは鱗滝さんにぶっ殺される!)
まあ、紫電も年頃の男だというわけだ。真菰ほどの美少女と一緒に温泉に入るとなれば、何かといやらしい事を考えてしまうものだ。
けれど、ここで欲望に自制心が勝るのが紫電。
「さ、流石に一緒に入るわけにはいかないよね……。俺、部屋まで帰るからさ。真菰ちゃんが先にゆっくり浸かりなよ」
持ち前のヘタレさと、脳裏によぎる『痣』による寿命。彼女を幸せに出来ぬ男が、きっと男にその肢体を晒したことは無い純潔の少女の裸を拝むなどあってはならない。彼女が生涯を添い遂げたいと思える殿方の為に取っておくべきだ。
踵を返し、来た道を戻ろうとする紫電の着物の袖口を、真菰の指先が優しく掴んだ。
「い、いいよ……?」
「えっ?」
「紫電となら……一緒に温泉………入ってもいいよ……!」
「血迷ったか!?真菰ちゃん!!??」
着物の袖口をぎゅっと掴んで離さない真菰の手が震えている。
真菰の中で、人生で一位二位を争うほどの羞恥心がぶわりと広がり、瞬く間に身体全体に熱が伝わる。
殿方に一緒に風呂に入ろうと誘っているのだ。はしたない女だと思われないか、いやらしい女だと思われないか心配だったが、それ以上に紫電に自分の事を女だと認識させたい欲が勝った。
「いやいやいや、まずいでしょそれは!!」
「べ、別にまずいことないでしょ?親しい友人が一緒に温泉に浸かるなんてよくあることだよ」
「あるのかな!?そんなことあるのかなあ!?」
「へー。紫電と私は親しい友人じゃないんだね。そっかぁ。私は紫電のこと、親しい友人って思ってたんだけどなぁ」
「うっ……」
「そう思ってたのは私だけなんだね。私の中で紫電は……い、一番なのに」
「うぐっ……!」
ここまで言われては紫電は言い返すことができない。
相変わらず狡い言い回しだ。
「わ、わかったよ……。そこまで言うなら一緒に温泉………入ろっか?」
「……!う、うんっ。それじゃあ……私、向こうの岩場で着物脱いでくるから……覗いちゃだめだよ………?」
「わかっております!!!」
真菰に一番だと言われたのだ。やましいことは起きないだろうと信頼してくれているのだろう。湧き上がる欲求を押さえ込み、自らを律する。
岩場の陰から聞こえてくる衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。岩一枚挟んだ向こうで真菰が着物を脱ぎ、見目麗しいその肢体を空気に晒している。
(うっ……!ほんとにまずいぞこれは………!!)
着物を脱ぎ、手拭いを頭に乗せた紫電は、岩陰の向こうへと声を掛ける。
「ま、真菰ちゃん……?どうする?先に入る?」
「紫電が先に入ってっ!それで、向こう向いててね!!」
「あっ、はい!」
まあ、ここまで来たら後には引けないだろう。意を決した紫電は岩場の縁まで歩くと、足先から順に身体を温泉の中へと沈めていく。
「おおぉ……!すっごい良い塩梅だよこれ……!」
肩まで浸かりきった紫電の身体を、温泉の温かな熱が包み込む。温泉の効能のほどは良く分からないが、自宅の湯船で浸かる湯よりもはるかに気持ちがいい。これまでの蓄積された疲労が全身から溶けていくかのような錯覚を覚え、自然と口からだらしない声が漏れる。
「ふぃ〜〜、俺今日から刀鍛冶の里で暮らすんだぁ……」
天国と紛うほどの極楽をその身に感じながら今にも溶けだしてしまいそうな紫電だったが、背後の水音を聞いた途端に意識が現実へと引き戻される。
「紫電……、こっち向いちゃ……ダメだよ………?」
「────!」
ちゃぷちゃぷと湯をかき分けながら、真菰が温泉の中へと身を沈めていく。
「ふわぁ……!あったかくて気持ちいい………」
こういう状況だからか、真菰の不意に零れた甘い声に頭が意思に反して反応してしまう。
思わず固唾を呑み込み、喉がごくりと鳴った。
温泉の熱と生まれたままの姿の真菰が背中越しにいるという状況が、紫電の体温と心拍数を急激に高めていく。
(あ、やばい。これ……痣出ちゃう感じ!?)
煩悩で痣を出すなど恥晒しもいいところだ。高鳴る心臓を必死に宥め、冷静を装う。
「き、気持ちいいね。流石秘境の温泉って感じだよ。見てよ空。月と星がすごく綺麗だね」
目線を上に向ければ、銀光を放つ朧げな月を彩るかのように、数多の星々が嬉嬉として煌めく。山奥の秘境なので空気が澄んでいて、街や実家で見上げる夜空よりもずっと綺麗に見えた。
「月や星はずっと前から綺麗だよね〜」
「あはは、なにそれ真菰ちゃん。熱が頭まで回っちゃったんじゃないの?」
「うん、そうかも」
言うや、真菰は紫電の背中に自分の背中を預け、全体重を紫電へと委ねた。
「ま、まままま真菰ちゃん!!?」
「べ、別にいいでしょ……?私と紫電の仲なんだし……これくらい普通だよ…………多分」
肌と肌が触れ合い、伝わり合う熱。温泉のものでは無い二人の熱が背中を通じて溶け合い、一つになったかのような感覚。心音や息遣いまでもが聞こえ、紫電の頭の中は破裂寸前だ。
(きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!真菰ちゃんの肌すっごいすべすべしてるよおおおおお!!!というか真菰ちゃん近すぎる!!お互い裸なの分かってるよねぇぇぇぇぇぇぇ!?)
もはや理性を保つことが難しい。
慌てる紫電を他所に、真菰がぽつりと呟く。
「紫電の背中……おっきくて、温かい………」
確かに真菰と紫電では身長に差があるし、男と女ということもあって、身体の大きさも一回りも二回りも違う。紫電は男性としては平均的な背丈だが、それでも真菰にとっては大きく感じるものなのだろう。
「鬼との戦いの時、私が見ているのは紫電の背中なの。いつも私を守ってくれて、嬉しい反面、悔しいんだ」
背中越しに真菰の身体に力が入るのを感じる。
「私だって……紫電を守れるくらいに………そこまでいかなくても、せめて……紫電が安心して背中を任せてくれるような剣士になりたい……」
「何言ってるの。真菰ちゃんの実力は俺が良く知ってるし────んんっ!?」
「嘘ばっかり」
背中をぶつけられてくぐもった声を上げる紫電。真菰は不機嫌そうに頬を膨らませ、後頭部を紫電の首元に何度もぶつける。本当は頭に喰らわしてやりたいところだったが、背が足りないので致し方ない。
「痛いっ……真菰ちゃんは十分……痛いっ……強いしさ、それは柱の皆だって……痛いっ………認めてるんだよ………痛いってば!」
「だったらさ、何で紫電はいつも私を戦いから遠ざけようとするの?」
管轄している警備区域内で活動する隊士の戦闘結果や履歴、これから向かう任務など、膨大な情報を管理しまとめているのは『柱』の位を持つ者だ。
当然、真菰の任務の管理を行っているのは紫電であって。
「紫電の担当してる警備区域で活動する剣士はね、他の場所と比べて任務の数が少ないらしいの。どうしてだろうね?」
「さ、さぁ……?皆目見当もつかないです……。ああ、そうだ、きっとあれだよそうあれ!鬼の出現数が少ないんだよ!やったねラッキー!」
「だろうね。だって、誰かさんが鬼の出現情報を共有する前に倒しちゃうもの」
「……へ、へぇ。すごい人が居たものだねぇ……」
「……………」
真菰は大きく息を吐き出すと、ほんの少しだけ哀しげに、絞り出すかのように言う。
「私はそんなに頼りないかな?」
「そんな………ことは………」
『鳴柱』桑島紫電が管轄している地区の鬼の出現数が少ないのは、事前に紫電が地区内を回り、見張りの鴉が鬼を発見する前に殺しているからだ。常人ならばとっくに過労死してもおかしくない程の任務を一人でこなしている紫電はさすがに『柱』の名を冠するだけのことはある。本人も知らず知らずの内に人外の領域へと足を突っ込んでいたのだ。
しかしそれは、自分以外の隊士の実力を信頼していない事の裏返しだ。
「いいよ。自分の実力が足りてないのは、自分が一番良く分かってるしね」
「真菰ちゃん……俺は別に………君が弱いとか、そういう風に思ってる訳じゃ………。ただ俺は………」
真菰が大切だから。これに尽きる。
「私がもっと強くなればいいだけだし。紫電のこと追い抜いちゃうくらいに強くなってみせるからね」
握り拳を作り息巻く真菰の声の中に、確固たる決意と信念が宿っていたから、紫電は言いかけた言葉を喉元で食い止めた。彼女の覚悟を踏み躙るような気がして。
けれど。
「……真菰ちゃん、俺はさ、君に鬼殺隊を続けて欲しくないんだ」
「え………?」
予想だにしない一言に、真菰は思わず後ろを振り返った。相変わらず無造作に跳ねたくせっ毛の黒髪が濡れ、うなじに流れていたから妙に色っぽく感じた。慌てて視線を前に戻す。
「やっぱり鬼との戦いは死と隣り合わせだし。真菰ちゃんには長生きしてほしい」
「そんなの私だって!それに私は────」
「うん、ごめんね。君の覚悟を踏み躙るようなこと言って。けどどうしてもさ、俺は真菰ちゃんが一番大事だから」
「いっ……一番……大事……っ!?」
「ここは君みたいな女の子が居ていい世界じゃないと思うんだ。真菰ちゃんはもっと、普通の女の子としての幸せを享受してほしい」
心の内を吐露した紫電に、真菰は『一番大事』と言われた喜びと恥じらいと動揺を押さえ込み、再び後頭部を背中に叩きつけた。
「痛いッ!?そろそろ俺の背中に穴空いちゃうよ!!?」
「空いちゃえばいいよ。紫電のばか」
「えぇぇ!?」
「確かに紫電の言う通り、ここは私が居ていい世界じゃないと思う」
「なら────」
「それは紫電も同じ。紫電の居ていい世界でもないよ」
鬼さえ居なければ、人々の生活が脅かされることは無かっただろう。鬼舞辻無惨が居なければ、悲劇の連鎖が繰り返されることは無かっただろう。望まずして鬼と化し、罪無き人の命が奪われることは無かったはずだ。
「でも、そういう世界に生まれてしまった以上は後に引けない。鬼殺隊に入って、紫電に出逢って、救われて、私は皆の幸せを守る為に刃を振るうと決めたの」
「……真菰ちゃん」
「この決意は揺らがないから。紫電に何言われても曲げることは絶対にないからね」
鬼舞辻無惨を討ち果たすまで、己の命が散りゆくその瞬間まで、真菰はその歩みを止めることは無いだろう。紫電のどんな言葉も彼女を鬼殺隊から遠ざけるものにはなりやしない。
ならば。
「そうだね、真菰ちゃんはそういう……強い女性だ」
そこからしばらく、静かで平和な、穏やかな時間が緩やかに流れる。どれだけ時間が経っただろうか。おもむろに真菰に口を開いた。
「こうやって紫電と二人でいる時間がね、すっごく幸せなんだ。ねえ紫電、これからもずっと……その……お互いおじいちゃんやおばあちゃんになっても………仲良くしてね?」
「………、…………そうだね」
「皆とも、鬼との戦いを生き残って、長生きして……ずっと一緒にいられたらいいね」
その約束は、守れない。
紫電は二十五歳を迎える前に死ぬ。
「……そうだね」
だからせめて、この命が続く限り、大切な真菰を守っていく。
「俺が真菰ちゃんのこと守るから。真菰ちゃん
「紫電もだよ。絶対に……居なくならないで」
真菰の願いにけれど、紫電は笑って応じただけだった。
「そ、それでさ、紫電……?」
「うん?どうしたの?」
「さっきのその………私のこと……い、一番………大事って……言ってくれたじゃない?その……それってどういう──────」
真菰が紫電の言葉の真意を聞き出そうとした、まさにその時──────
「なぁお前ら、いつまで地味にイチャついてんだ?」
「宇髄さんッッッ!?」
湯煙の帳の向こう側から、『音柱』宇髄天元の冷やかすような声が飛んできた。
次回で刀鍛冶の里での休暇は終わりです。