大正の空に轟け   作:エミュー

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参拾弐話 胡蝶幻影 弐

本当に凄いやつだと、そう思っていた。

 

鬼殺隊『蟲柱』胡蝶しのぶ。

鬼殺隊の中で誰よりも小柄な彼女は、鬼の頸を斬ることができない。

鬼の頸を斬ることのできない剣士に待っているのは死。けれど彼女が今日まで鬼を滅し続け、鬼殺隊最高位の『柱』まで上り詰めることができたのは、当然彼女が有していた類まれな天才的頭脳と軽やかに舞う身体能力があってのものだろうが、それは大きな間違いだ。

 

いや、間違いというのは語弊があった。

才覚を持ち、そしてその才覚に溺れずに努力し続ける才覚。決して諦めない不屈の闘志。怒りすらも己を突き動かす糧として進み続ける彼女を、紫電は密かに尊敬していた。

 

自分が鬼の頸を斬ることが出来なかったら、果たして鬼殺の剣士になり得ただろうか。きっと道半ばで諦めた筈だ。

 

口を開けばすぐお小言。ダメ出し。お前は姑かと突っ込みたくなるくらいに口煩いしのぶ。確かに彼女のことは苦手だったけれど、嫌いではなかった。

そこに確かな敬意を持っていたから。

 

カナエが死んで、しのぶは変わった。

 

もとより二人で一羽の蝶であったのだ。

姉妹はお互いを何よりも大切に思い、尊敬し合い、愛し合っていた。

胡蝶しのぶが胡蝶しのぶ足りえたのは、胡蝶カナエの存在があったから。その逆も然り。

カナエを喪ったしのぶは片翼の蝶。満足に空を羽ばたくことは出来ず、不安定な羽ばたきで虚空を彷徨う。今に地に落ちてしまいそうな。

 

それでもしのぶが踏ん張ってこれたのは、カナエを殺した上弦の弐への強い復讐心があったからこそ。

最愛の姉を殺した悪鬼を滅するためだけに生きて。姉を殺された怒りを忘れぬように、姉が確かに存在した記憶を無くさぬように、姉が大好きだと言ってくれた笑顔を絶やさぬように、しのぶはカナエになった。

 

そんなしのぶを、茨の道へ片脚を突っ込んだしのぶを引き止めなかった紫電は、酷く後悔した。

自分があの時しのぶを引き止めていれば。

しのぶはしのぶだと、何か声をかけてあげることが出来たなら。

しのぶはここまで苦しんでいなかったかもしれない。

 

────怒り。

 

姉の死を、全てを忘れたいと宣ったしのぶへの。

手を伸ばせば救えたかもしれないしのぶの心を見捨てた自分への。

 

「頭の中、桑島さんでいっぱいにしてください」

 

彼女にこんなことを言わせた自分への激しい怒り。

 

プツリ、と。

自分の中の堪忍袋の緒が切れる感覚を覚えた。

 

 

 

 

 

###

 

 

 

 

「いい加減にしろ」

 

凡そ彼から発せられたとは思えない低い唸るような声に、しのぶは首を傾げた。

 

「桑島さん……?」

 

顔を上げた紫電の表情は、怒りと後悔、罪悪感、様々な感情が混在した複雑なもので。ますます理解が及ばないしのぶは一度身体を起こして紫電との間を空けた。

怒りで肩を震わせる紫電は、紫色の双眸でしのぶを射抜き、その肩を押して自分の上から強引に退かした。

 

拒絶されたしのぶは悲しげに目を伏せ、その場に座り込んだ。そんなしのぶの様子を見て申し訳ない気持ちが込み上げてくるが、でもこれは彼女のためだと自分に言い聞かせる。

 

「現実から目を背けて自暴自棄になるのはやめろ。他の誰でもない君が、カナエさんから目を逸らさないでよ」

 

核心を突いた紫電の愚直な物言いに、今度はしのぶが怒りで肩を震わせる番だった。

 

「…………貴方に何が解りますか」

 

解るはずもない。解ってもらってたまるか。

自らの腕の中で冷たくなってしまう姉をただただ眺めることしか出来なかった。私も貴方みたいに上弦の弐と戦えたら。もっとはやく加勢することができていたら。姉を喪わずに済んだのに。こんなに苦しい思いをすることなんてなかったのに。

 

「家族が居なくなる辛さは俺にも解るよ。それでも────」

「ですから、貴方に何が解りますか!!」

 

怒声が耳を劈いて、驚いた紫電は両目を見開いた。

 

「両親を鬼に殺され、唯一残った姉さんも殺されて!桑島さんと真菰さんは命を賭けて上弦の弐と戦ったのに、私だけなにもできなくて……!ただ自分の腕の中で冷たくなっていく姉さんを抱き抱えることしかできなかった……!!」

 

その顏に悔しさを滲ませながら、菫色の瞳に薄い涙の膜を作りながら、しのぶは紫電の胸ぐらを掴んだ。

 

「何が解るのよあなたに!!私の持ってないもの全部持ってるあなたに私の何が解るのよ!!!」

 

剥がれていく。

姉の面を被った『蟲柱』胡蝶しのぶの面が。

 

「私はあなたみたいに鬼の頸を斬れない!唯一の武器の疾さでもあなたに勝つことはできない!あなたにとっての真菰みたいに傍に寄り添ってくれる人なんて居なかったもの!姉さんが死んで私は独りだった……」

「ッ……」

「教えてよ。どうしたら姉さんの死を乗り越えることができるの?どうしたらあなたみたいに強くなれるの………」

 

小さな身体をさらに小さくさせて、しのぶは嗚咽を漏らした。

そこには常に笑顔を浮かべる『蟲柱』の姿は無く、孤独に震えるか弱い少女がいた。

泣き崩れるしのぶを見て、紫電はあの時の己の頸を跳ね飛ばしてしまいたくなった。

 

カナエが死んだ時、紫電の傍に寄り添ってくれたのは真菰だった。内心姉のように慕っていたカナエが居なくなり、上弦の弐を取り逃すという失態を犯し、無力さと虚無感に打ちひしがれる紫電を支えてくれたのは真菰だった。「私は紫電に救われたよ」と、常に隣で笑ってくれていた真菰がいたからこそ、失意の底から這い上がることができたのだ。

真菰もそう。二人は互いを支え合い、苦しみながらもカナエの死を乗り越えることができた。

 

でも、しのぶは。

 

唯一の肉親であるカナエを喪い、悲しむ暇も無く蝶屋敷の主になった。復讐のためにより強力な毒の研究、剣技の研鑽、怪我人の治療等。仕事に打ち込めばカナエの死の辛さをほんの少しだけでも和らげれると思って、身を削って鬼殺に励んだ。姉が大好きだと言っていた笑顔を浮かべながら。鬼に対する剥き出しの憎悪に蓋をして、忌むべき鬼にすら慈悲の心を持って接して。その心に迸る癒えない傷を隠しながら。

 

けれど、どれほど努力しても姉のようにはなれなかった。

 

十二鬼月を殺す毒を開発した。

────こんな脆弱な毒では上弦の鬼は殺せない。

 

その功績が認められ『柱』となった。

────剣士ですらない出来損ないの毒使いに過ぎない自分が、鬼の頸を斬ることの出来ない自分が、鬼殺隊最強の一角である『柱』に名を連ねてもいいわけが無い。

 

周囲の人間はさすが『花柱』様の妹君と褒めたてる。

────自分は姉のように強くなれない。

 

限界だった。

血の滲むような努力に見合う成果を得ることが出来ない。

これまでは姉が支えてくれたから諦めずに困難に向き合うことができたのに。

絶対的な支えを失ったしのぶは脆かった。

 

紫電はあの日、しのぶを引き止めることをしなかった。

どこか、心の中で楽観視していたのかもしれない。

彼女なら大丈夫だろうと。

でも違った。自分が一番解っていた筈なのに。

人は独りでは何もできないと。

 

「ごめん」

 

気づけば、紫電の口から謝罪の言葉が零れた。

 

「ごめんしのぶ……」

 

紫色の瞳に涙を溜めてごめんと繰り返す紫電に、しのぶは驚いたように目を見開いた。

 

「なんで……桑島が謝るのよ……」

 

心中を吐露する中で幾分か冷静さを取り戻していたしのぶは、先程言い放った八つ当たりにも近い暴言を酷く後悔していた。

随分と長く鬼殺隊に籍を置いていたから、同じ『柱』である紫電の事情はある程度知っていた。

紫電もまた、しのぶと同じで家族を鬼に殺されていた。

 

いっその事、お前のせいだと罵ってくれる方が楽だった。俺たちは必死に戦ったのに、お前は見ているだけだったと、怒りを叩きつけてくれた方が楽になれたのに。

 

「独りにしてごめん……っ。カナエさんの死を独りで背負わせてしまって……本当にごめん………!」

「なんで……泣いてるの。馬鹿じゃないの…………」

 

カナエを喪った悲しさがぶり返す。しのぶを独りにしてしまった罪悪感が込み上げる。後悔が滲み出して、心臓が冷たい掌に握り潰されるような息苦しさ。

 

自らが描いた押し付けがましいしのぶの偶像。

勝手に強い女だと思い込んでいた。

自分は本当のしのぶを見ていなかった。見て見ぬふりをしていた。

今にも責任と重圧に押し潰されてしまいそうな、泣き出してしまいそうな小さな少女を、紫電は救うことができなかった。

 

泣きじゃくる紫電を見て、しのぶは何だか今までのことが馬鹿馬鹿しくなって。

 

「…………夢でね、姉さんが言うの」

 

おもむろに口を開いた。

 

「どうしてしのぶが生きてるの。しのぶが死ねばよかったのに。許さない。……って」

「カナエさんはそんなこと……言わないよ絶対」

「うん、わかってる。でも私、身の丈に合わないことを無理してやってたみたい」

 

そう言って笑うしのぶの顔は、かつて勝気で短気で感情を剥き出しにしていたあの頃のようで。

 

「だからでしょうね。心身ともに疲れ果てて、過度な負荷を掛けすぎてたみたい。それで悪夢に魘されて……笑えないわ……」

 

本当に笑えない。

姉を忘れようと大量の睡眠薬を服用し、酒を飲み散らかして、挙句の果てには酔った勢いで妻がいる男性に抱いてくれと懇願するなんて。自分史上最大の黒歴史に、今更ながらしのぶは頬を染めて俯いた。

同時に、姉の仮面が剥がれていた自分にひどく困惑していた。

 

そんなしのぶの心中を知ってか知らずか、しのぶの隣に腰を下ろした紫電は遠い昔でも思い出すかのような顔でやんわりと微笑んだ。

 

「君は働きすぎだよ。もっと休んでほしいな」

「それは……できないの。姉さんを殺したアイツ……上弦の弐……。アイツを殺すまでは、絶対に止まれない」

 

この命を賭してでも仇討ちに全てを捧げると誓ったのだ。

今更その考えが揺らぐことは無い。

 

「胡蝶さん……カナエさんはきっと、仇討ちなんかよりも君が普通の女の子として天寿を全うすることの方を望んでいると思うよ」

「……それでも私は、姉さんの敵を討つ。絶対に……どんな犠牲を払ってでも……!」

「胡蝶しのぶ…………」

 

止まらない。しのぶはもう、仇討ちのために走り続けるのだろう。

その覚悟と決意を菫色の瞳に宿し、心を燃やす姿は紛れもなく本物。

彼女の生き様を否定することなど、この世のどこにも、誰にだってありはしない。

 

でも、ここで何も言わなかったら、しのぶはまた独りになってしまう。

彼女の決意を踏み躙ることになっても、どうしても言いたいことを紫電は口にした。

 

「……俺は君に、ずっと長生きしてほしいなぁ」

 

死に急ぐ彼女を、未来ある彼女を、友である彼女を思っての言葉だった。

 

「カナエさんの願いっていうのもあるけど、やっぱり君が大切だから」

「た、大切……?」

「ここは君みたいな女の子が居ていい世界じゃない。君は鬼殺隊を辞めて、普通の女の子の幸せを享受してほしい………って、思ってるんだけど、俺の考えが押し付けがましい傲慢なことだって、最近気づいたんだぁ」

 

同じような言葉を真菰に伝えた。

真菰は私の幸せを勝手に決めつけないでと怒っていた。

しのぶにしたってそうだ。彼女の決意を、覚悟を、幸せの価値観を、ねじ曲げることなんて許されることではない。

失礼なことを言ってしまったと、叱られるのを待っているかのような様子の紫電に、しのぶは思わず吹き出してしまった。

 

なぜ?と首を傾げる紫電。

 

「驚いた。桑島ってそんなこと言えたのね」

「どういう意味かなそれ……」

「君が大切って……。うん、なんか嬉しい。ありがとう」

「…………」

「何よ、その不満げな顔は」

「いや、なに……。やっぱり今の君がしのぶっぽい」

 

よく怒り、よく笑い、よく泣く。常に笑顔を貼り付けたしのぶなんて、しのぶじゃない。

 

「……まだ、カナエさんの仮面を被って生きていくの?」

「……そうね」

 

でも、と。

しのぶは笑う。

気負いのない、屈託のない美しい笑顔だった。

 

「今までは多分、姉さんにならなきゃ。姉さんみたいに強くならなきゃって、そう思って姉さんの真似をしてたんだと思う。でも、こんな私でも、大切って言ってくれる人がいるみたいだし?これからは姉さんを忘れないために、『蟲柱』胡蝶しのぶで居ようと思ってる」

「……うん、そうだね」

「それでも……やっぱり時々、辛くなっちゃう時だってあると思うの。その時は……またこうやって、『しのぶ』に戻ってもいい?」

「もちろんだよ」

「よかった」

 

弱さをさらけ出して、それを受け止めてくれる人がいる。

 

しのぶは今まで、紫電を見誤っていた。

こんなにも優しくて、真摯になって、くだらないことを聴いてくれるだなんて。

ああ、だから真菰は紫電のことが好きになったんだと、この時思った。

 

「……ありがと」

「どういたしまして」

 

どこか素っ気ないしのぶの態度に、懐かしさが込み上げてくる紫電。

しばらくお互い無言で、静寂が訪れる。けれど心地よい感覚。

 

気づけばしのぶは紫電の肩に頭を乗せて、規則正しい寝息を立てていた。

 

「……はぁ。美人が寝てたら、強くものを言えないよねぇ」

 

先程の真菰然り。

仕方なくしのぶを抱き上げてベッドに移す。あまりにも小さく軽いその身体に、どれだけの負担を掛けていたのだろう。

 

「よく頑張ったね、しのぶ」

 

これからは独りじゃないよと、そう言って。

紫電はしのぶの部屋を後にして。

 

「随分、しのぶちゃんと仲良くしてたみたいだね?」

「──────真菰ちゃんッ!?」

 

紫電が自室に入る直前、不意に背後からかけられた言葉に、紫電は全身が総毛立った。

大声で叫んだ紫電の口元に人差し指を当てて、「皆寝てるから」と。

 

「あの、真菰ちゃん……起きてたの?」

「うん」

「えっと、全部聞いてた……?」

「うん」

 

即答。どこまでも笑顔の真菰に、紫電の背筋に冷や汗が流れる。

笑顔が黒い。笑顔が暗い。笑顔が怖い。

 

「紫電はしのぶちゃんにも「大切」だって言うんだねぇ」

「ご、ごめんなさいごめんなさい!!決して深い意味なんてなくって、普通に鬼殺隊の仲間としてね!?俺が好きなのは真菰ちゃんだけだし!!断じて!!」

 

必死に弁明する紫電の姿を見て吹き出した真菰は「うそうそ」と可愛らしい笑顔を浮かべて。

 

「私は紫電のそういう、誰にでも優しいところを好きになったんだもん」

「ま、真菰ちゃん……!」

「でも、もうちょっと私だけの紫電だってこと、自覚してほしいかな」

「もちろんです!俺は真菰ちゃん専用紫電だし!」

 

満足気に頷いた真菰は、紫電に顔を近づけてスンスンと鼻を鳴らした。

 

「……しのぶちゃんの匂いがする」

「さっきまで部屋に居たからかな……」

「………えいっ」

 

真菰は紫電の胸元に顔を埋めると、グリグリと頭を擦り付けた。

突然の奇行に一瞬言葉を失った紫電だが、何をやっても可愛いことにしかならない真菰の姿にホワホワとした気持ちになる。

 

「どうしたの真菰ちゃん」

「しのぶちゃんの匂いがするから、私の匂いに上書きしちゃった」

「猫なのかなっ?」

 

思ったよりも独占欲が強い真菰。

そういうところもすっごく可愛くて、思わず真菰を抱きしめた。

腕の中の真菰は嬉しそうに微笑んでいて、愛おしさがとまらない。

 

「ね、今日一緒に寝ようよ」

「へっ?」

「一晩一緒にいないとしのぶちゃんの匂い消えないでしょ」

 

ほら、と手を引かれ、部屋の中に引っ張りこまれる。

流石に一緒に寝るのは不味いだろ、と思った紫電だったが、真菰のお願いを断ることなんて出来るはずもなく、結局ベッドの中で理性を保つ戦いを繰り広げることになった。

 

────結局、紫電は明け方まで眠りにつくことが出来なかった。

 

そんな紫電を他所に、紫電の腕を枕に気持ちよさそうに寝ていた真菰。

そういうことはやっぱり正式に結婚してからだよなぁと、紫電は苦笑した。

 

 

 

 




しのぶちゃんはどうにかなりましたとさ。
しのぶが紫電に抱いている感情に変化が生まれたらしいです。

次回、日常回か原作合流前最後の山場になる予定です。

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