「おはようございます」
「げっ………」
紫電がしのぶと一悶着あった夜のその翌朝。
廊下でばったりしのぶと出会した紫電は、昨晩のやり取りもあって、なぜか気まずさを感じていた。
「どうかしました?」
「……いや、なんでもないよ」
「ふふっ、昨夜のことなら気にしなくてもいいのに」
そんな紫電の心中を察してか、しのぶは口元に手を当てて鈴の音のような声音で上品に笑った。
「くっそぉ。酔ってたくせに全部覚えてるのか……」
「ええ。私に言ってくれたこと全部。一言一句逃さず覚えてますとも」
「ほんっとこういう時胡蝶しのぶの優秀さを憎むよ」
「……胡蝶しのぶ、ですか」
言うや、しのぶは不機嫌そうに眉を寄せ、後ろ手を組みながら紫電との距離を詰める。何やらよからぬ予感がした紫電は後ずさるも、壁に背中がぶつかってこれ以上逃げることができない。それをいいことに、しのぶはますます紫電に近づいて。
「『
「あ、あれはその……胡蝶さん……カナエさんとの呼び分けの意味合いもあってだね……ん?今紫電って……」
「紫電さん。名前で呼ばれて、何か不都合でも?」
「え、いや……そういう訳じゃないけど、なんか君にそう呼ばれると気恥しいっていうか、気持ち悪いっていうか……」
「あら、気持ち悪いだなんて」
「ひどい人」と言って笑うしのぶの笑顔は、造形品のような無機質な綺麗さではなく、人間味のある暖かな温もりが乗った自然な笑みで。
「……まあ、呼び方なんてどうだっていいけど」
悪態の一つでもついてやろうかと思ったんだけど。
「では、紫電さんと。呼ばせてもらいますねこれからも」
「いいけど……」
「紫電さんも私のこと、しのぶって呼んでください」
「………しのぶ」
「はいっ」
なんでそんなに、名前を呼ばれただけで嬉しそうなのだろう。
いつになく上機嫌なしのぶを見遣って、ほんの少しでも昨晩の会話が彼女のためになったのかな、と自らを納得させる。
「……本当に嬉しかったんですよ」
「え……?」
胸に手を当て、昨夜のことを反芻するしのぶ。
瞳を閉じて思い馳せるかのような、幸せそうな表情。
「よく頑張ったねしのぶ。これからは独りじゃないよ。そう言ってくれて。私はこれから、その言葉を胸に頑張っていけそうですから」
「へ、へぇ……」
気恥ずかしくなった紫電はそっぽを向いてしまった。
「しのぶちゃんと紫電は随分仲良しだねぇ。私も混ぜてよ」
「ひぃっ」
「あらあら真菰さん。おはようございます」
どこか不機嫌そうな笑みを携えた真菰がやってきて、ただならぬ雰囲気を感じ取った紫電は肩を大きく跳ね上げて少女のような声を漏らしてしまった。
「おはようしのぶちゃん。
「ほんの戯れじゃないですか」
「戯れは蝶ノ舞だけにしてほしいなぁ」
(あっ、今の凄い上手い返しだね真菰ちゃん……)
馬鹿みたいなところに感心している紫電を他所に、真菰としのぶの舌戦は激しさを増していく。
「もう紫電は私と将来を誓い合ったんだ。しのぶちゃんのつけ込む余地なんてないよ」
「あら、私が紫電さんに懸想しているように見えました?だとしたら相当嫉妬深いんですねぇ。紫電さんも苦労するでしょうね」
「懸想してることは否定しないんだ?ふーんそっか。私側室とか認めないから」
「思い違いをなされてるようですね。私が紫電さんに抱いてるのは恋心では無いですよ」
「へー。その割にはいきなり名前で呼んだり、随分距離が近かったよね」
「それは昨夜、あれだけ情熱的なお言葉を頂いたんですもの。接し方に多少の変化が生まれるのは当然でしょう?」
じろり、と真菰の双眸が紫電を射貫く。
首を真横に振り回して紫電が叫んだ。
「全部聞いてたって言ったじゃん!?」
「ふーん」
「しのぶも揶揄うんじゃないっ!」
「うふふ〜」
「もうヤダ女の子って怖いっ!!」
目を閉じ、両耳を塞ぎ込んで蹲る紫電の腕を掴んで引っ張り上げる真菰。真菰としのぶはなぜか笑顔で互いを牽制し合っている。
怖気が止まらない紫電は二人の顔を見ることができず、真菰に引っ張られながら床と視線を絡め合っていた。
「いてててて、真菰ちゃんもういいでしょ……。そろそろ腕が痛いよ……」
一応俺怪我人なんだけどなぁと付け加えると、ようやく解放してくれた。短く息を吐き出して立ち上がる紫電に、真菰は精一杯背伸びをしてその頬に唇を寄せた。
「ま、真菰ちゃんっ!?」
ほっぺに口付けされ、頬を抑えながら慌てふためく紫電を、真菰は両頬をぷくりと膨らませて見上げていた。
「むぅ」
「ど、どうしたのいきなり……」
心臓がばくばくとなり続ける紫電の頬を手のひらで挟んでぐいと近づける。至近距離で見つめる真菰の顔はこの世の何よりも可愛くて、それだけで紫電は頬が紅潮してしまう。
澄んだ清水のような双眸がじっと紫電を見つめる。
「私だけ見てて」
「え……?」
「紫電は私だけ見てればいいのっ。しのぶちゃんには絶対渡さないんだから!」
「ほら、行くよ!」と今度は首根っこを掴まれて引き摺られる。
あれ、真菰ちゃんってこんなに力強かったっけ、と思いながら、どこか不機嫌な真菰の心中を探ろうと。
「真菰ちゃん、なんか不機嫌?」
「べつにー。紫電がしのぶちゃんと仲良くしてたって、私なんとも思わないもん」
「…………嫉妬?」
「………うん」
こういう、素直なところもたまらなく可愛い。
真菰以外の女の人なんて眼中にないくらい真菰が好きなんだけど、どうやら言葉だけでは心配になってしまうのが人の性。
「しのぶちゃん、美人だし頭も良いし強いし優しいし……。………胸もおっきいし」
最後の方は悔しくて絞り出すかのようにして吐き出した。
ふにっと自分の胸を触ってみる。ちょうどいいくらいかなぁ、いや、やっぱりなんだか虚しくなる。
紫電は目を丸くしてしばらく硬直していたが、やがてとてもいい笑顔で真菰に向き直った。
「俺の中では真菰ちゃんが一番だよ!胸が小さくたって俺、真菰ちゃんが大好きだし!胸が小さくてもっ」
「…………」
紫電なりに胸の大きさに悩む真菰をフォローしたつもりだったのだが、なぜか笑顔の真菰は顬に青筋が浮かび上がっている。
「……知らない」
「えっ」
「もう紫電なんて知らないんだから!」
「えええぇっ!?なんで怒ってるの!?」
「死ぬほど考える。結局それ以外にできることないと思うよ」
ぷいぷいっと頬を膨らませてそっぽを向いた真菰はずかずかと歩いて行ってしまう。俺、何か不味いこと言ったかなぁと頭を抱える紫電は、学習能力がないポンコツと言わざるを得ない。
とぼとぼと真菰の背中を追いかけるその哀れな姿は、妻に愛想つかれた虚しい旦那のようであった。
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「精が出るねぇ。頑張り屋さんにはご褒美あげちゃう」
蝶屋敷に入院してから二週間ほど経過した。
屋根に座り、月に見守れながら呼吸の訓練を行っていた紫電の元に、いくつかのおにぎりを持った真菰がやってきた。
「よいしょ」と隣に腰を下ろして、ようやくこちらを向いてくれた紫電に包みを差し出す。
「晩御飯食べてないでしょ。お茶もあるよ」
「ありがとう。これ真菰ちゃんが?」
「そうだよ。アオイちゃんにお願いしてね。簡単なものだけど」
「嬉しい……!愛妻弁当ってやつだね」
「そんな大層なものじゃないけど」と苦笑いする真菰を横目に、包みを開けた紫電は綺麗な三角に握られたおにぎりを頬張る。炊きたてのご飯の温もりと絶妙な塩加減が疲れた身体に染み渡り、気づけば全てを平らげていて、竹筒の中のお茶も残さず飲み干していた。
「ごちそうさまっ。真菰ちゃんすごいなぁ。俺さ、おにぎり三角に握れないんだ」
「練習あるのみだよ。最近、アオイちゃんに料理を習ってるんだ」
「へぇ。それはまたどうして?」
聞けば、真菰は恥ずかしそうに髪を指先で弄びながら、もじもじと答える。
「わ、私……紫電のお嫁さんになるから、もっと美味しいご飯作れるようになりたいなぁ……って」
「真菰ちゃん………!可愛い!!!」
健気な真菰がたまらなく愛おしくて、思わず抱きしめてしまう。
抵抗することなく腕の中に収まった真菰は「苦しいよ」と苦笑してたが、すぐに紫電の首に腕を絡めた。
「幸せだなぁ。ずっとこうしてたい」
「ふふっ。んっ……くすぐったいよ」
首筋に顔を埋めて真菰の甘い香りを肺いっぱいに吸い込む。
全集中の呼吸はこのためにあるのではないかと思うほど。
気の済むまで堪能したら、真菰は紫電の上でもぞもぞと動き出して、あぐらをかいた足の中に収まるようにして座った。
「月の満ち欠けと同じようにね」
いきなり真菰が空に浮かぶ月を指さすから、釣られて空を見上げる。
「人生って良いことと悪いことの繰り返し。どちらか一方がずっと続くことはないんだって」
「確かにそうかもね」
「って、義勇が言ってた」
「えっ、冨岡さんが!?」
紫電の中で義勇は良い人だが言葉があまりにも足りない残念な人。そんなイメージだったから、人生を月に例えるような洒落たことなんて言いそうにないのだが。
「義勇はああ見えて感性豊かなんだよ」
「意外すぎる……。優しい人だとは思ってたけど」
「なんでだろう、過保護なくらい私たちのこと心配してくれてるんだよね」
「も、もしかして俺が頼りないからかな……?」
「それはないと思うけど」
恋愛の「れ」の字も興味が無さそうな彼だが、やたらとそういう類いの発言には説得力があるし、どこか達観しているようにも思える。もしかして経験者なのだろうか。
何かを思い出した紫電は「あっ」と声を上げる。
「そういえば冨岡さん、胡蝶さんのお墓に花を供えてたような」
「義勇が?見間違いじゃないの?」
「ううん。あれは絶対冨岡さんだ」
「も、もしかして二人は…………」
顔を見合わせる二人。
義勇とカナエは同じ『柱』だということ以外接点は無かったような。
仲睦まじく話していた様子もなかったし、二人が付き合っているという噂話だって耳にしたことはない。
「まあ、それが事実だったとしても、冨岡さんがそれを話すとは思えないし……」
「そうだねぇ。簡単に聞けないしね」
カナエはもう居ない。
仮にそれが事実だとしても、軽々しく聞いていいことではない。
そう頭の中で完結させた紫電は、自分の中にすっぽり収まっている真菰の背中を一層強く抱きしめた。
「わぁっ、突然なぁに?」
「別に〜。ただ真菰ちゃんが可愛いなって」
こんな小さな背中でこれまで戦ってきたのか。もう少し力を入れて抱き締めれば、壊れてしまいそうなほど華奢なその身体。愛おしさが込み上げてきて頭をくしゃりと撫でると、くすぐったいよぉと笑う真菰に笑顔を返す。
「明日から任務に復帰らしいね」
「そうだよ。だから今日ね、義勇のところに行ってたの」
やたら義勇を強調して言う真菰。
彼女からすれば、普段自分を嫉妬ばかりさせている紫電がどういう反応を見せるのか、好奇心七割仕返し三割ほどの割合で試しに聞いてみた。
けれど紫電は常と変わらぬ様子で。
「いいなぁ。冨岡さんの太刀筋ってすっごい綺麗だし、『凪』とかめちゃくちゃかっこいいんだよなぁ。俺も今度お願いしてみよっ」
「……手取り足取り教えてもらったよ」
「妹弟子にも優しいんだねぇ。俺ももっと獪岳に優しくしてあげよっ」
「…………紫電はさ、嫉妬しないの?」
「うん?何に?」
聖人か何かかなと、真菰はつい思ってしまった。
もし真菰が逆の立場だったら、嫉妬の感情に支配されて二日ほど不機嫌になるだろう。
紫電がこんな様子だから、些細なことで嫉妬する自分が馬鹿らしくてしょうがない。
まあ紫電だしなぁと息を吐き出した真菰は、紫電の手を取り指を絡める。
「毎日お見舞いくるからね」
「それは嬉しいなぁ。あ、鳴屋敷は自由に使ってもいいからね」
「着替えほとんど向こうに置いてるからなぁ。明日取りにいかなきゃ」
それから、随分と他愛のない会話を続けた。
しょうもないことで笑いあって、時に怒って。
お互いが同時にくしゃみをしたところで、風邪をひくのもあほらしいということで、寝室へと向かった。
これは束の間の休息。
いずれまた、逃れることの出来ない死線に身を投じることになる。
残酷な世界を照らす月明かりが、二人の姿を淡く照らしだした。