ちょっと悪いひとたち ~さらば北方深海基地よ!~ 作:シャブモルヒネ
青い。
書き割りのような空だった。
ぬけるような青空が、果てなど知らぬとばかりに広がっている。
叢雲は首を限界まで伸ばしてみたが雲一つ見つからなかった。
なにも無い。
あの空には、ただ何も。
視線はどこにも留められず、見上げていると宇宙まで吸いこまれていきそうな錯覚を覚えて視界を水平に戻した。
赤い海が、目に飛びこんでくる。
青い空とのコントラストが禍々しい。
航行に意識を戻す。波を駆る感触に集中した。
ここは大ホッケ海。
北海道の、更に北。
そこに浮かぶ北方深海基地、4つの島々に囲まれた小さな海。
たかが直径三百メートルもない狭い範囲であり、北の魔女の身体が沈む最重要地点。
そして、その身体とやらを奪い返されまいと防空棲姫が篭もっている戦場でもある。
「……小さな内海だし、すぐに見つかると思ったけど」
叢雲がこの中央の海を進み始めるとすぐに異変が起きた。正面向こう側に見えていた1番島の輪郭がぐにゃりと歪んで伸びていき、両隣の2番島と4番島とくっついたのだ。まるで魚眼レンズを覗いたように形を変えた。水平線上で島々がつぶれるように薄く伸びていく。と思ったら今度は逆再生のように縮んでいき、しまいにはぷつんと千切れて元のサイズに戻った。圧縮はそれでも止まらずに島はどんどん小さくなり続け、いよいよ点のようになって見えなくなってしまう。
あまりにも現実離れした光景だった。
そのせいで、逆に冷静になれた。
島が飴細工のように伸び縮みするわけがない。おそらく幻。目の錯覚だ。
つまり、光のせい。
光が屈折してるだけ。
「歪んでいるのは、空間じゃなくて、光だったわけね。……でも、そうと分かっていてもひどく気持ちの悪い光景……」
風景はぐにゃぐにゃとできの悪いCGのように歪み続けている。それは叢雲が進んだ距離の分だけ形を変えた。
何をどうしたらこんな現象が起こるやら。
「ひとまずは照月さんを探さなきゃね……」
噂の立てこもり犯の姿はどこにもない。
視界の通りはいたって良好で、4つの島の向こう側にある水平線まで確認できている。が、狭いはずのこの内海には人っ子1人見つからなかった。波は穏やかで、見落とすはずがないけれど……。
彼女は一体どこに行ってしまったのか。
叢雲は息苦しさを覚えて首元を扇いだ。
焦る、というほどではないけれど、絶えず風景が歪曲しつづけるという異様な空間にいるせいで落ちつかなかった。どうしても不安になってくる。これが北の魔女の狙いなら大した効果だと叢雲は思う。長居しすぎたら頭がどうにかなってしまうかもしれない。
意識して呼吸を整え、額の汗をぬぐった。
まだ5分も経っていない。
もしかして自分は迷ってしまっているのではないかと思った。1人で進めば大丈夫、と言ったのは大鷹だが、彼女も知らない例外だってあるかもしれない。
(それに……ここに照月が居るということは、私を含めたら2人になっちゃうんじゃない?)
だとしたら、大丈夫じゃないってことだろうか?
そもそもそれ以前に、1人だの2人だの、誰がどうやってカウントしているのか?
(……分からない。分かることのほうが少ないし……。だったら自分はどう動くべきだろう?)
赤い海を見渡した。
穏やかな波がさざめいて。
島々がぐにぐにと形を変えていて。
味気ない水平線が果てにある。
この異空間にいるのは自分だけ。
照月は、いなかった。
(もし仮に迷っているとして……それでも、いざとなれば全力で直進すればいい。たかが直径三百メートルの内海を脱出できないわけがない……)
風が通り過ぎる。
匂いのしない風。むせ返るような生命の匂いがまるでしなかった。
潮の匂いのしない海。
そもそも潮の匂いとはなんだったか。――プランクトンが海洋生物の死骸を分解し、生成されるジメチルスルフィドという悪臭物質が原因で、それが海上に浮き上がることで海の匂いとなる――と、そのような知識はあるけれど、鼻からいくら空気を吸いこんでもやはり匂いはしなかった。
この赤い海には死骸がないのだろうか。
あるいはプランクトンが居ないのかもしれない。
誰もいない。
何もない。
(もしも本当に生き物が1匹もいないなら、死体が放りこまれたらどうなるんだろう。分解されずに形を永遠に保つのか……。もしも自分がここに沈んだら――)
「ちっ」
良くない方向へ転がり落ちそうになっている思考を振り払う。叢雲はいま一度基本に立ち返ることにした。
(ひとは出来ることしか出来ない。だから出来ることをしっかりやりきる、それが大事)
深呼吸。
自分は、照月に会いにきた。
自分に出来ることは、探すこと。
見つからなかったら、あるいは危険を感じたら、帰る。
それが基本。
まだ探せるか? ……YES。
危険を感じるか? ……NO。
(だったら、まだ探す。それが私にできること)
決めてしまえば気が楽になった。
一陣の風。ほどよく乾いた風は、むしろ前髪を撫でつけて気持ちいいと気がついた。
春のような暖かさだった。北の海とは思えない。進むほどに気温が上がるような気さえしてくる。
(……気温?)
不自然な気温の上昇。発生する寒暖差。
「……もしかして」
思い当たることがあって足を止めた。指先を海に浸けてみる。
予想通りに温かった。
「この熱。そして本来の大気との温度差……そうか、蜃気楼の原理なのね?」
蜃気楼。
光が屈折して幻が映しだされる現象。光には、密度が高く冷たい空気へと進む性質があり、例えば海面と空気との間に大きな温度差があったりすると、光が曲がって海上の空間に水平線より向こう側の風景が映し出されたりする。夏場のアスファルトに発生する“逃げ水現象”も同じ原理だ。
つまり、風景が歪むのは特別おかしな現象ではないということ。自然現象の範疇だ。
「いえ、それでもここまで光が曲がるものかし、らっ?」
指先に、違和感。
冷たさを覚えて思わず海水から離してしまった。
恐る恐る、再び指を入れてみた。
今度は温かかった。
しばらく浸けたままにしてみる。するとどうだろう、また冷たい水流が指先を通り過ぎていく。
「温かい水と冷たい水が、混ざらずに巡っている……?」
またありえない現象が起きている。
今度の原因は分からなかったが……しかし、これこそが海上の異常事態をもたらしていると予想できた。
海と大気に温度差を生じさせ、光を意図的に歪ませているとしたら? その現象は霧を発生させ、光をいいようにねじ曲げて、侵入者を惑わすだろう。更に海流の流れをも操作しているのなら……侵入者は真っ直ぐ進むことさえ叶わなくなるだろう。
「……なるほどね。そうやってこの大ホッケサークルは魔の海域になったのか」
新たな発見に思わず言葉が零れて、
「光が曲がるだけなら誰も迷いません。羅針盤も狂うんです」
予期せぬ答えが返された。
ぎくりとして顔を上げると、目の前には白い太ももがあった。更に見上げると白い腹があり胸があり、てっぺんには赤い眼をした少女の顔が見下ろしていた。
視線が絡み合う。
手を伸ばせば届く距離に防空棲姫が立っていた。
――やっと居た。
安堵する気持ちが半分、姫級の外見にひるむ気持ちが半分。揺れてはいたが、トゥリーの前例を知っていたから立ち直りは早かった。
「……あなたが、照月さんね?」
かなり安心してしまっている自分が少し恥ずかしい。平静を装いながら顔を上げ、姿勢を正した。
ずいと握手の手を差し伸べる。
「初めまして。私は大湊警備府所属、その秘書艦の叢雲よ」
元艦娘の深海棲艦と喋るのは慣れたものだった。
護衛棲姫に、駆逐古姫。おまけに駆逐古鬼をいれてもいい。彼女たちは性格に違いはあったけど、一様にヒトの感情をもっていて、いわゆる海軍内で浸透している“冷徹非道な深海棲艦”というイメージからはかけ離れていた。内面はひとそのものだと叢雲は思っている。
――だがしかし。
本当に、全員がそうだといえるのか。
叢雲が差しだした手を、防空棲姫はマネキン人形の手相でも見るような目つきで見下ろしていた。瞬きせずにじっと時が止まったように動かない。それは狂気を孕んだ目つきだった。叢雲には覚えがある。戦闘の末に最後の一匹になった敵の駆逐艦がよく同じ目をしていた。
追いつめられた敗残兵の目だった。
防空棲姫は色のない顔のまま音もなく視線を上げて、叢雲をまっすぐ見つめた。焦点は叢雲の頭の向こう側、後ろにいる誰かに合わせているような様子で、こう尋ねてきた。
「説得してこいと言われたんですか」
初めましてもこんにちわもなかった。
「あいつらに、私を説得してこいと言われたんですか」
「……違う、わ」
かろうじて。
乾いた喉を動かして喋ることができた。
防空棲姫は聞いているのかいないのか、淡々と言葉を紡ぐのみだった。
「あいつらは、自分たちでは埒があかないから、とうとう艦娘を捕まえてきたんですね。私を投降させようと。死にたくなければ説得してこいと脅されましたか。向こう岸には深海棲艦たちが並んで待っているんでしょう。策を弄して、悪魔の身体を取り戻すために」
このまま照月を喋らせてはいけないと思った。
「違う!」
防空棲姫は目の前にいる叢雲に初めて気がついたようにほんの少しだけ首を傾げる。
「なにが違うんです?」
「私は自分の意志でここに来た。あなたを陥れるためにきたんじゃない」
「人質でもとられましたか?」
「いいえ、それも違うわ……」
叢雲はあえてゆっくりと首をふり、
「あなたに用があってきたの」
とはっきり伝えた。
「私に……?」
少女の瞳にようやく感情の灯がともる。
「どうし……どうやって? 艦娘が……こんなところまで……?」
「私はね、大ホッケサークルに迷いこんでしまったの。他の艦娘を捜索していて偶然……。そして他の深海棲艦からあなたのことを聞いた。だから、来たの。艦娘だったというあなたに会いたくて」
少女は微動だにしなかった。
視線はいつの間にか斜め下に向いていて、波の影にどう喋ったらいいかが書いてあるかのように注意を向けていた。少なくとも叢雲にはそう見えた。
――なんだろう。
ついさっきまで一歩も退くつもりはないといわんばかりの態度だったのに、今ではもう悪戯を指摘されて怯える子どものようになっている。
いや、そうなっていても何もおかしくないのかもしれない。
こんな異常な空間にこもっていたのなら、情緒も不安定になるだろう。
「……ねえ、お話しましょう? 深く考えることはないわ。だって私はあなたの味方なんだから」
「味方……?」
「そうよ。私ね、よくおせっかいって言われるの。だから今回もきっとそうね。大鷹って馬鹿があなたを突き放したって聞いて、いてもたってもいられなくなって来ちゃったの。自己満足よ? ほんとそれだけ」
「……」
「あ、ごめん嘘。ここから脱出する方法を聞きたかったのよ。あなた――照月さんが2年前に大ホッケ海から脱出したって噂を思い出したから」
「あのときは……誰も信じて、くれませんでした」
「うん、そうね。私もその話を聞いたときは信じていなかった。ごめんね? でも、今は信じてる。だって同じ目に遭ってるんだからね」
「仕方ない、です。こんな変な話、普通は信じません」
「そうね、そう。過ぎちゃったことは仕方ないわ。世の中そんなことばかりよ。ほんと大変。私もよく厄介ごとに巻きこまれるタイプだからよく分かるわ。……って、そう! こうやって嘆くとね、「あなたが巻きこんでいる方でしょ?」ってよく言われるの。ひどいと思わない? 私ってそんなふうに見える?」
「え……? どう、でしょうか……」
「むしろ逆だと私は言いたいのよ。私はね、トラブルが大きくならないように頑張ってるだけなの。なのに「原因はお前だ」みたいに言われるのはほんと納得できない。あんたらがしっかりしてないから私が首を突っ込まなきゃいけなくなるんでしょって。ねえ、あなたはどうなの?」
「私?」
「そうよ、あなただって北の魔女っていう大問題をなんとかするために頑張ってるんでしょ? たった独りで、誰にも褒められないのに、偉いと思うわ。あの馬鹿に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいぐらいよ」
防空棲姫の顔はまだ固い。
けれど、肩の力は少しぬけたように見えた。
「ねえ、お腹すいてない?」
「え?」
「あなたちゃんと食べてんの? こんなとこには魚一匹いやしないでしょう。腹が減ってはなんとやら、よ」
腰にくくりつけたポーチを開く。くしゃくしゃの新聞紙の玉を取り出した。皮をむくようにして中身を晒す。
炭、のような固形物。よく見ると少し違う。食材らしきもの。
「こんな新聞紙に包んでてほんとごめんなんだけど、良かったらコレ食べて。っていうか、食べなさい? あんた食べなきゃだめよ」
何かあった時のためにとっておいた非常食。
ぐい、と防空棲姫に押しつけた。
彼女はしばらくうんともすんとも言わなかったが、やがて観念したのかおずおずと受け取った。
食べる。
変な顔をした。
「――でしょ?」
そりゃそうだ、と叢雲はなぜか得意げな表情で笑った。
「私もね、30分ぐらい前に食べたばかりなの。毒が入ってないことだけは確かよ?」
小指ほどの大きさのタコ足をひとつまみ、もっちゃもっちゃと咀嚼してみせた。「輪ゴムを食べてる気分」とこぼすと、防空棲姫もつられてほんの数ミリだけ口の端を歪ませた。
多分、笑ったんだと思う。
案内されて、赤い海原を進んだ。
辿りついた先には小さな流氷の塊があった。
その直径5メートルほどの氷の大地に上陸すると、途端に身を切るような冷たい空気が服の隙間に入りこんだ。ここだけは北の海そのままの気温らしい。まるで台風の目のようだ、と叢雲は肩を抱きながら思った。異常気象の中心点だけその影響を免れている。
流氷の島はあつらえたように平らであり、滑ってしまわないように注意が必要だった。ひときわ目立つのは真ん中に直立する約2メートルほどの氷柱で、氷床から直角に伸びているさまは樹木に近いかもしれない。幹の太さは成人男性が3人両手を繋いだぐらいで、ガラスのように奥まで透けていた。内部で眠る一人の女性がよく見える。
「これが、北の魔女……?」
綺麗な身体。傷はない。
一糸まとわぬ裸体はびっくりするほど艶かしい。首筋から肩へのラインは細く、少女のような儚さが見てとれて、しかし同時に豊かな胸から引き締ったウエストへの曲線美が確かな女性性を放っていた。子どもから大人へと成長する一瞬の移ろいを閉じこめたような肉体には近寄りがたい神秘性さえ感じさせられる。閉じられた瞼は今にも開きそうで、むしろ動きださないのが不自然なほどの生命力に溢れていた。
「もう完全に治っているのね」
おそるおそる氷柱の表面に触れてみる。
つい先月に倒されたはずの女がそこにいた。
幌筵泊地、単冠湾泊地、大湊警備府からなる連合艦隊と激突し、木っ端微塵に砕かれたと報告書にあがったのを叢雲はよく知っている。しかしどうだろう、たった一月でこうまで復元されてしまうとは、実際に目にしても信じがたい。北の魔女、やはり普通の深海棲艦ではないのだろう。
けれど叢雲は不思議と恐ろしさは感じなかった。
それは彼女がこの島で何人もの姫級たちと関わってきたからだろう。深海棲艦はひとと同じく意思をもち、言葉をもってコミュニケーションをとることができた。だからこの北の魔女も同じく理性的な会話をすることが可能だと思ってしまうのかもしれない。
(それにしても……きれいなひと……)
女性である叢雲から見ても美しい。繊細さと生命の躍動感に目が吸い寄せられてしまう。死体の状態でこれならば復活したらどうなろう? 確かな意志をもって号令を下し、神秘の御技をふるわれたら、ピースメイカーでなくとも従いたくなってしまうのかもしれない。
魅入る叢雲に、照月が言った。
「この棺は壊せません」
棺。言い得て妙かもしれない。
「衝撃を加えてもヒビが走るだけですぐに直ります。海を撃っても隙間がすぐに満たされるように」
だからここから離れることはできない、とでも言いたげな照月は、もうすっかり平常心を取り戻しているように見えた。北の魔女の身体を眺める姿に鬱屈した様子は見てとれない。ただ事実をありのまま受け入れる静寂さがあった。
――彼女はいつまで戦い続けるつもりだろう?
聞いてもいいか迷った叢雲に、期せずして答えが告げられた。
「たった独りで戦い続けられるわけがない……そう言いたいんですね?」
「ええ、そうよ」
「私だって分かってます。いつかは負けるでしょう」
叢雲の眉根に皺が寄る。
「だったらどうして戦うの?」
「勝ちって、なんだと思います? 敵をうち滅ぼすことでしょうか。だったらそれ以外は全部負けなんでしょうか?」
「回りくどい言い方はやめて」
「私がここで戦い続ける限り、幌筵は平和です。戦火の手は届かない。1日でも、1時間でも、平穏な時間を稼げればいい……。そうすればこの二度目の人生にも価値があると思うんです」
「……なにそれ?」
理屈は分かる。だがまったく共感できない主張だった。
「あなたはどうなるの? 自己犠牲なんて今どき流行らないわよ」
「これは自己満足です。こうしないと納得できない、だから戦う。それだけです」
「嘘ね。私には通用しないわよ」
「叢雲さん……」
困ったように眉をハの字に寄せても無駄だ。ひとは道徳のみに従って命を投げ捨てられるほど単純な生き物ではないと叢雲は知っていた。
「カミカゼ特攻隊って知ってるわよね? あの人たちは御国の為だけに戦ったわけじゃない。本土に残してきた母や妻、子どもたち……愛する家族を守るためだからこそ片道切符に乗れたのよ」
具体性のない信条に命を賭けられる者などまずいない。そのような強靭な理念は長い人生を経ることで初めて得られるものであり、駆逐艦の艦娘が――子どもが容易に手にいれられるものじゃない。大鷹だって言っていた。“みんな”とかいう不特定多数の人間のために命を捨てられるわけがない、と。
叢雲が厳しい目を向けると、照月は気圧されたようにたじろいだ。
「……」
沈黙を、辛抱強く続けた。
「……幌筵泊地には、」
血を吐くようにして絞りだす。
「秋月姉が、いるんです」
「そう……」
それが照月の戦う理由だった。
なぜ始めから本心を言わなかったのか、とは聞かなかった。軍人が、身内のために戦うなどと公言できるわけがない。……そう、照月は艦娘なのだ。少なくともその誇りを胸に秘めている。だから戦える。たった独りになろうとも。
「例え敗北が決まっていようとも退けるわけがないんです」
拳をぎゅうと握りしめる。
生半可な言葉は通じそうになかったが、それでも叢雲は聞かずにはいられなかった。
「戦うしか道はないの? 今の北の魔女は説得に応じてくれるって大鷹から聞いたでしょう」
「悪いけど信じられません。それは思い込みです。あの魔女がひとらしい言動をするから意思の疎通ができると信じたいだけでしょう。あれは模倣です。ひとの情緒なんてまるで持ち合わせていません」
「でも、私も話してるところを見たけれど、」
「叢雲さん」
照月は咎めるように遮った。
「勘違いしないでください。あなたの目の前にいるのは誰ですか?」
「え? 照月でしょ?」
「違います」
少女は、よく見ろと言わんばかりに両手を広げ、艤装の口をガチガチと開閉させた。
「私は、防空棲姫です。照月じゃないんです」
「でも……」
「それに大鷹なんてひとも存在しません。あのひとは護衛棲姫です。そこを勘違いしないでください。私たちはみんな深海棲艦なんです。深海棲艦ってどんな生き物ですか? 手を取り合えるなんて思ってるなら甘すぎます。ましてや北の魔女は深海棲艦の生みの親。コントロールできるなんて思わないほうがいいです」
「……本当にそうかしら」
「はっきり言わないと分かりませんか?」
「あにをよ?」
「あなたは何もできないんですよ」
「……っ」
「私を艦娘に戻せますか?」
「そんなこと、」
できるわけなかった。
照月は――防空棲姫はそれ以上を言葉にしなかったが、いわんとすることは明らかだった。
最終的に解決できるわけでもないのに同情するのはやめてくれ。半端に希望をちらつかされて生殺しにされるほうがかえって辛い――
「感謝はしています。言葉をかけてくれて、ごはんをくれて……久しぶりにひとらしい気持ちになれた。それで充分です」
「でも……!」
――でも?
現状が良くないと叫ぶことはできる。でも。どうやって解決すればいいのだろう? それを明確に示せない限り彼女は納得しない。
そんな都合のよい解決策はない。
「あなたはまだ艦娘です。手遅れになる前に大ホッケサークルから脱出したほうがいい。そのための方法を教えます。あなたは自分の任地へ戻るべきです」
勝手に話を進めていく。それを止めるための言葉はどうしても見つからなかった。
「上を見て」
天を指す。青い空の真ん中に、1つの太陽があった。
「蜃気楼は高空には及ばない。空はそのまま見えるんです。脱出するなら夜がいい。星を目印にして航路を修正するんです。いずれは脱出できるでしょう」
その方法を知るために来たはずなのにちっとも嬉しくなかった。
どうにかできないのか。
このまま彼女を放置していいのか。
「……ねえ、いつか負けてしまうなら今逃げても同じでしょう? 一緒にここを脱出しない? みんなで幌筵に行って提督を説得すれば、」
「叢雲さん」
今度は叢雲が相手の視線にたじろぐ番だった。
その目ははっきりとこう語っていた。半端な希望をちらつかせないでくれ、と。
「1つ、お願いがあります」
「あによ……」
「戻っても絶対に私のことは喋らないって約束してください。照月が深海棲艦になったなんて悪評を流さないでほしいんです。秋月姉が悲しみますから」
「じゃああなたはどうなるのよ……」
「どうにもなりませんよ」
防空棲姫はおとがいを上げて空を見た。書き割りのような、何もない空を。
「自分のことを艦娘だって思いこんでいる頭のおかしい深海棲艦が1人いなくなるだけです」
この章の全体の2/3ぐらいは過ぎてるはずです。
章題のバトルまでもうちょっと。がんばっぞー。