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「寒い」
山を吹く風が、直に顔をなでる。東風谷早苗は、幻想郷に降り立った。
ここはどこだろう? 高い山の上、麓には人工と思しき小さな村も見える。早苗は自身が信仰する二柱、八坂神奈子と洩矢諏訪子の導きにより、現代日本と袂を分かつことにした。二人が言うには、ここは幻想郷。この土地には、外の世界で忘れ去られたものが流れ着いてくるという。
神への信仰がなくなれば、二柱は姿を保てなくなる。そうなる前に幻想郷へと移住すれば、神としての存在を維持できるはず。それだけが移住の理由。
早苗の背後には、山の山頂があるはずだった。ところが、二柱が移住する際に、外の世界から湖を一緒に連れてきたようで、今は山の上に大きなカルデラが形作られている。地形を自在に操作できる二柱だからこそできる荒業だ。
早苗は、見慣れた湖をふり返った。太陽の日差しを反射し、一本の光の帯がまるで道のように続いている。このままたどっていけば、太陽まで歩いていけそうだ。
早苗は手ごろな岩を見つけるとその上に腰を下ろした。今はまだ幻想郷という知らない土地に来たことの実感がない。ただ茫然と目の前の景色を眺めるばかり。
「あ、看板」
湖を眺めていて一つ気付いたことがある。観光案内用の看板がないことだ。湖は元の世界から寸分たがわぬ形で持ち込まれた。形、大きさ、深さ、水の透明感、全て早苗の知っているあの湖だ。しかし、一つだけ違う。湖の周りにあった人工物がない。
「よーちゃん、元気かな」
観光案内版の看板は、早苗にとって思い出深いものだった。あだ名でしか思い出せない友達との、大切な友情の印。
『よーちゃん』との出会いは、早苗がまだ幼かった頃。早苗が小学校に上がってから初めての夏休みのこと。
「そこでなにしてるの?」
幼い早苗は、湖のほとりで一人佇む少女を見つけた。観光案内版をただじっと見つめている。早苗と同い年くらいで、髪は長く腰まであった。当時巫女装束が当たり前だった早苗にとっては、彼女が着ていた白いフリルのワンピースが印象に残っている。
「おじいちゃんの家がわかんないの」
「もしかして、迷子?」
「迷子じゃない!」
今にも泣き出しそうな声に早苗は気おされながらも、どこか同情のような気持が沸き、話を聞いてみることにした。
「おじいちゃんの家って、どこにあるの?」
「すわ……って」
「かみすわ? しもすわ?」
「か、み……」
「そっか、じゃああっちだね。一緒に行こう」
恐らく里帰りなんだろう。本当は東京の子なんだろうと早苗は頭の中で考えた。二人して湖のほとりをしばらく歩くと、不意に少女は立ち止まって早苗の手を握った。
「あ、ここ見たことある。多分ここからなら帰れそう」
早苗の手をぶんぶんと振り回してお礼のつもりだろうか。とにかく元気を回復した少女は、そのまま町のほうへ消えていった。
早苗はその豹変ぶりにあっけにとられながらも、少しいいことをした気分でそのまま家に帰った。
翌日、早苗がたまたま同じ看板の前を通りかかると、またあの少女がいた。
「昨日はありがとう。おじいちゃんがね、ちゃんとお礼言ってきなさいって」
早苗が遠慮する間もなく、少女は強引にお礼の品であるおせんべいを早苗に受け取らせた。
「あなたってこの辺の子?」
「うん、そこの神社が私の家」
「そうなんだ、神社がおうちってすごいね」
「そう?」
「そうだよ、だってあんなにでっかいんだもん」
この一言が、早苗の心に一滴の雫を落とした。
「あなたの服、あんまり見ないね」
「これ? これは巫女装束なの。まだ見習い用だけど、大人になったらもっとすごいの着られるんだよ」
「へぇ! すっごい」
信仰が薄れていくなか、小学校の同級生たちは得体のしれない早苗と距離を取りがち。そんな中で、同年代から純粋に認められる言葉を貰ったのは早苗にとって初めての出来事だった。
その後も、暗黙のうちに看板は二人の目印となった。夏の日差しが反射する湖のほとり。看板は小さい二人にとってちょうどいい大きさの影を作ってくれた。
二人はいつの間にか『よーちゃん』『さなちゃん』と呼び合っていた。どっちが先に呼び出したか、早苗は覚えていない。ただ、この時の休みはずっと『よーちゃん』と一緒にいた。
そして、八月も下旬にさしかかったころ、夕暮れの中、よーちゃんはどこか名残惜しそうな、そんな顔をしていた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
「そろそろ帰らないと、お夕飯の時間になっちゃうよ」
「うん、そうだね」
「ねぇ、さなちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
「? うん、こちらこそ?」
次の日、よーちゃんは看板の前に現れなかった。次の日も、その次の日も、早苗は雨が降っていても看板の前に出かけて行った。
結局、九月になって学校が再開するまで、早苗は一度もよーちゃんと会うことはなかった。早苗はひどく裏切られた気分で、少し恨むような気持だった。
「あ」
昔のことを思い出して、つい涙ぐんでしまったことに気が付いた。早苗は指で涙を払おうとするが、中々止まってくれない。
後になって振り返ると、早苗にもよーちゃんの気持ちが少しわかる。恐らくよーちゃんは東京に帰ってしまったのだ。ただ、それを言い出せなかった。言ってしまうと、それがまるで永遠の別れのようになってしまうから。
もちろん、永遠なんてことはない。また来年も会えるよなんて、お気楽に言えばよかったんだ。
ただ、言えなかった。
今の自分と一緒だ。元の世界にもお世話になった人はいたのに、何も言わずにこちらに来たのは早苗も一緒。
外の世界は早苗や二柱にとって都合の良い世界ではなかった。かといって、どうでも良い世界ということも決してない。早苗が今の早苗になったのは、全て元の世界にいたからだ。
ただ、もうここは幻想郷。神が君臨し、妖怪が跋扈する世界。今までの常識が通用しない、そんな場所なんだ。
早苗は意を決して湖に背を向け、人里を見下ろした。あそこが、これからの私の居場所。
早苗には一つ野望があった。彼女とて、神なのである。この世界で経験を積めば、神としての力を高めることができる。そしていずれは、自分の願いをも、自分自身で叶えることができるやもしれない。
もしかしたら、かつての親友との再会も……。
さあ行こう。まずは麓の神社に挨拶しなくちゃ。信仰心を高めるために手段は選んでいられない。
早苗は飛び立った。幻想郷では、空を飛んでも大した騒ぎになることもないだろう。早苗が空から見た景色は、神を敬い妖怪を恐れる人間たち。それは日本の原風景に他ならなかった。