来世は他人でいい 作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ
女が、手を広げている。
髪のように無数の腕を持つ女が、深いところで誰かを待ち続けている。
1.
身動ぎする気配に、意識が浮上した。
衣擦れの音が、静まり切った部屋に微かにしている。布団のなかで自分以外の体温を探すと、隣に一人ぶんの隙間が空いていた。
「お兄ちゃん……?」
「
やわらかい声に、ぼんやりと瞼を開く。
「朝だよ。今日はどうする? 眠いのなら、まだ寝ててもいいよ」
「おきる……」
「そう。偉いね、箒は」
先に行ってるよ。そう残し、気配が離れてゆく。身体を起こすと、しばらく呆としていた。あくびをもらしながらなんとか布団を抜け出すと、空気と、木造の床が裸足に冷たくて、ひゃあっと声が出そうになる。
洗面台で顔を洗ったのち、更衣室で着替えに袖を通し、掃除用具を手にして境内に降りた。
辺りを見回すと、塵を掃いている白衣の少年の後ろ姿が目に留まった。足音で気が付いたのか、おもむろに彼が振り返った。
篠ノ之
箒の双子の兄は、鏡写しのような瓜二つの顔に、柔らかな笑みを湛えていた。
「よく起きれたね。二度寝したかと思った」
「おきるって、言った」
「そうだったね」
「お父さんは」
「
昨日は雪が降りそうなほどの寒さであったため、夜気は蒼空の朝陽でも和らいでいなかった。箒はマフラーと手袋を装備して朝の勤めに挑もうとしていたが、兄は物心ついたときからそういったことに苦慮した試しがないらしく、今も防寒の類は一切身に着けていない。見ているだけで寒くなりそうだと鼻を赤くしていると、やおら兄が口を開いた。
「箒、
「どこ?」
「ほら。じっとして」
目を閉じると、指がやさしく触れてくる。
ん……、
よし。いいよ。
とれた?
うん。
「じゃ、やろうか」
朗らかに笑う。それから、「そういえば」と思い出したように言った。
「おはよう、箒」
つられるように、箒も笑みをこぼしていた。
「はい。おはようございます、お兄ちゃん」
2.
「おはよう結くん箒ちゃん、今日も二人そろって可愛いねえっ」
朝食の時には姿がなかった制服姿の姉が、突然兄との登校中に現れると、抱き着いてきて言った。
「おはよう姉さん。今日もテンション高いですね」
おはようございます、お姉ちゃん。箒が小さく呟くと、姉は全開の笑顔で頭を撫で回してくる。「うんうん、やっぱり朝イチの箒ちゃんは可愛いなあ!」せっかく兄に整えてもらった髪が崩れるからやめてほしい。
兄も、苦笑いしている。
「訂正。姉さん、いつもよりテンション高いですね」
「あ、わかる? 流石にわかっちゃうかー結くんには」
「なにか好いことあったのかな」
「うむうむ。実はねー」
だいぶ
家に顔を出さず、外にいることが多くなり、たまに遭遇した姉は凍り付いたような眼差しをしていた――箒と視線が合うと、それは幻覚であったかのように霧散したが――普段と違う篠ノ之束に、流石の箒も少なからず心配していたのだ。
自他ともに認める天才科学者の姉が発表した渾身の論文「インフィニット・ストラトス」が、姉曰く凡人どもの学会で嘲笑の嵐を浴びたためだと、正確に理解していたわけではなかったが。
「調整は、いよいよ最終段階ですか」
「そうだよ。それでね結くん、今日も“アレ”、お願いできるかな」
「いいですよ。それは。もちろん」
復活したら〃々したで、今度は兄と二人で何かを企んでいるらしく、蚊帳の外にいる箒にはそれが面白くなかった。
「あれあれ、どったの箒ちゃんそんなにお姉ちゃんのこと睨んだりして。もしかして気になってる、“アレ”ってなにって?」
図星だった。箒は答える代わりに顔を背けると、繋いでいる兄の手に力を込めた。
「どうします」
「結くんは?」
「僕は、話してもいいと思うけど。箒はちゃんと、秘密、守れるもんね?」
何について話しているのかは、やっぱり分からなかったが。
兄の視線に、おずおずと箒が頷くと、姉は「じゃあ少し早めのお披露目だね!」とチャーミングに片目を瞑った。
「……ひみつって?」
道を別れ、学校が見えてきたとき、箒は姉がいたときには切り出せなかったことを訊いた。
「あとでわかるよ。あとのお楽しみってやつ」
人の数がぼちぼち増えてくると、箒はそっと兄の腕を振り
後ろから駆けて来る生徒たちが、正門をくぐりながら脇に立つ教師たちに挨拶している。
子供たちの元気な掛け声を耳にしながら、箒は次第に憂鬱の染みが裡に広がってゆくのを感じ、静かに睫毛を伏せた。
朝の掃除の疲れとは別の理由で重くなっている足を動かし、誰一人知る者はいないであろう葛藤の末に、箒は今日も退屈な時間に耐えることを心に決めて、いつものように、大人しく門をくぐる。
妹の複雑な心理を分かってくれない兄のことを、このときばかりは、箒は恨めしく思っていた。
3.
騒がしい。喧しい。
教室は、しかし箒の周りだけは揺れない
兄に借りた児童書を机に広げながら、箒は時おり窓際の席から外を窺った。はたしてこれで何度目になるのか。そのたびに日が暮れているのを期待しながら、つど期待を裏切られつつ、時間はゆっくりと平坦に過ぎていった。
ようやく本日最後のHRが終わり、ランドセルを背負いながら教室の入り口を見やると、兄が軽く手を振っていた。
周りから生徒の目が消え、二人だけの道になると、箒はやっと兄と手を繋ぎ直すことができた。繋いでいるのをクラスの人間にからかわれてから――兄は気にしていないらしかったが――箒は見られるのを避けるようにしていた。
「今日のテストはどうだった?」
「かんたんだった」
「そっか。頑張り屋さんだものね、箒は」
「でも一つだけ、むずかしいのがあった。さんすうの」
「もしかして、最後のあれかな。びっくりしたよね、急にチャレンジ問題って。あれって一年生の範囲じゃないよ、たぶん中学生とかのだ。先生は何考えてあんなの混ぜたんだろう」
「わかったの?」
「まあ、なんとか」
「はー」
「んん……、疑うことを知らない妹の無垢な眼差し」急に明後日の方向を見やると、ぶつぶつと呟き始める。少しだけ聞き取れた。「やっぱり【ハイグロウ】と【アドバイス】はチート」とかなんとか。
「お兄ちゃん?」
「いえいえ、何でもないよ。たんに僕の妹は天使みたいに可愛いってだけの話だから」
「……そういうの、お姉ちゃんみたい」
「誉め言葉かな?」
「ううん」
「ですよねー」
だと思った、と兄が笑う。
箒も笑っていると、あっという間に家についてしまった。
居室に荷を下ろした箒は、それから一刻ほど挟んだのちに衣服を改め、道場を訪れた。
広々とした、壁に本物の薙刀や刀剣が掛けられている古めかしい道場の神棚前に、白袴姿の兄が正座していた。
「来たね」
子供用の短い竹刀を受け取ると、黙々と箒は準備運動に取り掛かった。怪我予防のための柔軟体操の徹底は、師範である父からも言い聞かされているため、手を抜くことはしない。
横並びに立った。
浮かれた気分は、無くなっている。
礼。
構え。
「おねがいします」
習練の内容は、いつもと変わらなかった。
竹刀を上段に構え、振り下ろす。ただそれだけだ。
防具を
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
「休憩」
一〇分に一度の小休止。
すぐに終わり、始まる。
「再開」
延々と続ける。互いに無言のまま、一糸乱れずに。鏡合わせのように。
静寂を吸い込む道場に、摺り足と、風を切る音だけが鳴り響くように。
振り上げて、振り下ろす。
激しさのない、単調な動作ながら通しで続けていると次第に腕が痺れてきて、箒はここからが我慢のしどころであると自分に言い聞かせる。まだ限界じゃない、まだわたしはやれる。しかし指先からは徐々に握力が無くなっていき、身体は竹刀の重さに乱されるようになる。動きが鈍くなると、振り下す間隔が一定に保てなくなり、重なっていた刃音が段々に遅れ始める。後れを取り戻そうと力を籠めると、そのぶん余計な体力を消耗してしまい、ますます基本の型が崩れてゆく。
「休憩」
一〇分に一度の小休止。
告げられると同時に、箒は座り込んでいた。呼吸は荒い。汗が顎先を滴っている。
「休憩終了。習練再開。……まだやれる、箒?」
大人でも苦痛に思うトレーニングでありながら、ましてや子供である箒は、それでも涙を浮かべつつも、絶対に泣き言を口にしようとはしない。
頷くことで、答えた。
振り上げて、振り下ろす。
意地だった。辛くとも決して、投げ出したりはしない。箒はそう決めていた。
篠ノ之流のためだけではない。投げ出したくない理由は、もっと単純に、隣で竹刀を振る兄のためだった。
「休憩」
かつては、いつも一緒にいたのだ。何をするときも、どこへ行くときも。箒と兄は、一緒だった。
双子と云えども、その趣味嗜好や性格までもが同一になるわけではない。箒が内向的な性格であるのに対し、篠ノ之結は物怖じしない利発な子供であり――その才覚は周囲に否応なく傍若無人の天才を思い起こさせたというが――しかし兄妹の仲は非常に良好だった。
箒にとって、兄の存在は特別だ。箒は兄の教えてくれる話が好きだったし、兄と日が暮れるまで遊ぶのが好きだった。兄は箒のどんなに
ところが小学校に通うようになると、かつて一日を占めていた安寧は、大きく失われるようになった。
兄とは別のクラスになり、兄ではない子供たちと一緒に過ごす時間が増えた。
兄に比べて喧しいだけの男子。兄に比べて騒がしいだけの女子。そして周囲に馴染めずに、兄のいない教室でひとり静かにやり過ごしている自分。
知らない子どもたちの輪のなかに兄を見つけても、声を掛けられない。俯いて、兄に気づいてもらうのを待つことだけしかできない。兄も、いつも一緒にいてくれるわけではなくなった。
「再開」
箒が剣道を始めたのは、兄に誘われたからだ。
才能があることを知った。剣に集中することが苦ではなく、学校に行くのと比べれば、練習も嫌いではなかった。何より上達するほどに、兄が自分をこれまで以上に褒めてくれるようになった。
箒は再び、兄を独占できるようになった。剣道をしている間だけは、ずっと兄は自分と一緒にいてくれる。
楽しかった。だが一方で不安もあった。兄の技量は日に〃々上達している。兄が竹刀で対戦をする場合、その相手はほとんどが上級生だった。同年代では相手が務まらないからだ。しかも体格差というハンデがありながら、兄はことごとくを勝利した。同じようにしろと言われても、箒には真似できない。それほどの隔絶した差が、兄との間には存在していた。
もしも習練で手を抜き、差がより広がってしまえば。箒は考えてしまう。兄は、自分の相手をしてくれなくなるのではないか。今はこうして一緒にいてくれるけれど、そのうち兄は自分のことを迷惑だと思うようになるのではないか。
父から、
滅多に泣かないはずの箒の、おそらく初めてと言える必死の懇願に、両親は折れた。そして練習を続ける代わりにいくつかの条件を厳命した。勝手に練習しないこと、大人がいない場合は必ず兄の指示に従うこと、無茶をしないことなどを。
箒は承諾した。両親の言うことには冷静に考えれば一理も二理もあるし、兄もそれらを条件とした以上、受け入れざるを得なかったからだ。
箒は努力した。限られた時間のなかで、更に上達するために。怪我をしないよう気を付けながら。もしも怪我してしまえば、そのときは兄も怒られることになる。場合によっては、約束を破ったとして剣道を取り上げられてしまうかもしれない。兄に少しでも近づくという目標を前に、箒は小さな躰の内側で自制心と向上心とが激しく鬩ぎ合うのを感じながら、日々努力し続けた。
「終了」
最初に心に決めたときから、箒は
「お疲れさま」
この
この
「……大丈夫?」
最後の素振りに耐え終わると、くたくたになりながら箒は大の字に倒れた。肩で息をしながら、かろうじて声に頷いてみせる。
「頑張り過ぎだ。そんなに、焦らなくてもいいんだけどな」
心配そうに見下ろし、箒の顔に張り付いた髪を整えながら、兄が言った。箒と違って、疲れている様子は見られない。悔しいという想いが疲労に紛れ、心が曖昧になる。指先に身を任せていると、不思議な感傷が前置きなく過ぎった。同じ顔なのに、こんなにもわたしたちは別人で、それが嬉しいのに、同時にひどく哀しくもある。胸の奥に、唐突に痛みにも似た疼きを感じ、鼻がつんとしてくる。慌てて手をどけさせて、兄に背を向けた。
「【ディア】【アムリタ】」
兄が何かを呟きながら、箒の背中に手をあてた。
すぐに何か“あたたかいもの”が、血流が巡るように背中とお腹の辺りから全体に広がり始める。躰の火照りが引き、息をするのが楽になった。
「下位の技も“上位スキル”を持っていれば覚えることができるって、もうちょっと早く気づきたかったけど。そりゃ枠制限なんて現実じゃあるはずないもんね。どう、箒。少しはマシになったかな」
「うん」
習練のあとに、いつも兄がしてくれる“手当て”。まるで魔法のように、疲れが取れてゆく。
「おにいちゃんは、すごい」
わたしよりも、ずっと。
「……まあ、君のお兄さんは、魔法使いだからね」
それは、兄の口癖だった。「僕は本当は魔法使いなんだ」。
箒には理解できない、色々なことを知っている兄。
兄を見ていると、本当にそうなのかもしれない、と箒は思う。そして、弾むような喜びと、言葉にできない寂しさを感じる。
「おにいちゃん」手を伸ばしながら、見上げた。「おこして」
「よしきた」兄が腰を上げる。「ほら。立てる?」
「へいき」
「オーケー」
「でも、あるけないかも」
「おんぶする?」
「うん」
兄のにおいがする。兄の顔が、すぐ近くにある。
「シャワー入らないとな」
ふと、この間ぐうぜん見てしまった、兄と姉が唇を合わせていた光景を思い出した。
「箒?」
しがみ付く。兄の首に腕を回し、足を絡めるようにして固定する。
「お兄ちゃん。わたし、つかれました」
「ああうん。だろうね」
「うごきたくない」
「それは珍しい」
「シャワーって、めんどうだもん。しみるし」
「でも、いっぱい汗かいただろう?」
「……お兄ちゃんが」
「ん?」
「……なんでもない」
洗ってよ。お姉ちゃんにしてたみたいに。
「どうした。まだつらい?」
「ううん。なんでも」
映画のなかで、恋人同士が交わすみたいに。姉と唇を合わせていた兄の、あんな表情は。
「なんでもない」
腕を、深く巻き付ける。誰かに見せつけるように。あるいは、思い知らせるように。
――“これ”は、わたしのものだ
箒は呟いた。
心の奥底で。
低い声で。
4.
夜の一一時を回ると、人の動く気配は家から完全に消えてしまう。
子供部屋も当然のことながら消灯していたが、闇に身動きする気配は、二つあった。
「準備はいい?」
兄の囁くような音量に、箒は
「音を立てないよう、気を付けるんだよ」
玄関の収納棚から事前に回収しておいた靴を手に、忍び足で廊下を渡り、解錠した窓から外に出る。兄の淀みない一連の行動に、もしかして慣れているのだろうかと思いながら、箒は期待で胸が弾むのを抑えきれなかった。
淡い雪が、闇夜にふわりと舞っていた。
束の間立ち尽くしたが、冬の深夜ということもあり、風が吹くと勝手に歯が鳴り出してしまう。「ほら」と促されて手を握った。すると、全身の震えが鎮まった。「こっち」寒さが和らいでいる。これも、兄の“魔法”なのだろうか。
連れられて歩いた先は、神社裏の林の奥だった。何があるのかと訊けば、いいから、と軽やかに返される。
ほどなくして開けた場所につき、誰かが立っていることに気が付いた。
「やあやあ二人とも、こんな時間に家を抜け出したりするなんてなかなかに見所のある悪い子たちだねえ」
「それを言うなら姉さんたちもそうでしょう。というか、前にもやったことある気がするな、こんな感じのやり取り」
姉と気兼ねなく話す兄だったが、箒の目線は姉の横に立つ人物へ向けられていた。
見覚えがある。篠ノ之流剣術道場の門下生の一人。名前も知っていた。彼女こそが、兄と互角以上に戦えた数少ない人間だったからだ。
「束」
じっと箒が見つめていると、姉と同い年とは思えないほど落ち着き払った顔で、織斑千冬は「話すならさっさとしろ」と姉の頭を軽く叩いた。
「もうちーちゃんったら。ごめんね、じゃあさっそく説明するよ……」
お姉ちゃんのあたまをたたいた! 織斑千冬と篠ノ之束が普段どのような関係なのかあまり知らない箒にとっては衝撃的な光景であり、思わず愕然と見開いてしまったが、姉は気にしたそぶりもなく話を進めてゆく。
ほとんどが専門用語の羅列であったためまったく理解できていない箒だったが、それから数分後には、想像もしていなかった光景と真実を知ることになった。
「――わ――」
雑木林で四人が集ってから数分後。
箒は、
スカイダイビングのように落下しているのではなく、ヘリコプターに乗って飛び上がるというわけでもない。
現実ならぬ御伽噺から現れた
「お兄ちゃんっ」
「どうした?」
「いまのって、フジサン!?」
〈セト〉を、どこからともなく呼び出して操っている兄の背に抱き着きながら訊くと、兄は楽しげな声をして頷いた。
「そう。あれが富士山。実物を見たのは初めてだろうけど、どうだった」
「あっというまだったけど――なんか、ちっちゃかった!」
「……中部地方の人たちが聞いたら悲しくなるような感想だなそれ。まあ、僕たちがいるのは上空五〇〇〇メートル弱の世界だからね。どんなオブジェクトでも、俯瞰すれば大抵はミニチュアだ」
もっと上がるよ。兄が言う。
頭上には、煌めき輝く満天の星空とまん丸のお月さまが浮かんでいる。
眼下には、人間の営みの証である人工光点が大勢散りばめられている。
そして〈セト〉の前方では、
林のなかで彼女が
箒は、戦闘機すらも振り切れるISの移動速度に追いつける〈セト〉が現在どれほどの速度で飛行しているのかを知らないし、そもそも姉たちが何のテストを行っているのかも分かっていない。上空五〇〇〇メートルともなれば地上よりも遥かに凍てつくような寒さが襲い掛かるはずだがそんなものは一切感じず、本来であれば大気中を高速で移動した際に生じる凄まじいはずの空気抵抗さえも、〈セト〉から発せられている不可視の
それでも、強く確信していることがあった。何の問題もないということを。兄が守ってくれている、それを感じることができていたから。
恐怖は、なかった。
「どこへいくの?」
背中に話しかける。
ずいぶん遠くまで来ていた。それに高い。篠ノ之神社は此処からだと、どの方向にあるのだろう。周囲は闇だ。それ以外はあえかな光。
知らない場所だった。凪が止んだように、とても静かな景色。粉雪が揺れていた。不安は感じていない。
兄がいてくれるから。
織斑千冬が消えていた。
「お兄ちゃん?」
兄が振り返る。
振り返った顔は、兎の仮面で隠されている。
「天国ではない場所」
世界が昏んだ。
「え?」
兄が消えていた。
腕は、兄の服ではなく〈セト〉の鱗を握りしめている。
誰もいなかった。いるのは、自分ひとりで。
突然、振動に襲われた。〈セト〉が急激に角度を変え、垂直に駆け上がってゆく。まって、と慌ててしがみ付いた。虚空に足が投げ出される。落ちる、と思った。振り落とされないよう必死で力を込める。全身を怒ったような風に打ち叩かれる。耳元では甲高い悲鳴のような音が鋭く喚き立ててくる。固くした指が徐々に抉じ開けられてゆく。水平線が曙色に変じ始めている。お兄ちゃん。叫んでいた。お兄ちゃん、たすけて。
兄は現れない。
あ、と声が出た。〈セト〉が身をくねらせた拍子に、指が滑った。呆気なく。
気が付くと、虚空に。背中から。
墜ちている。
何も聞こえない。
誰の声も。
墜ちてゆく。
黒い光。
遠のいてゆく巨影。
墜ちてゆく。
手を伸ばす。
闇空へ。
墜ちてゆく。
掴めない。
届かない。
追い抜いてゆく、雪。
墜ちてゆく。
闇のなかに。
暗い海に。
墜ちてゆく。
墜ちて――
墜ちて、
墜ちて、
海底で。
女が、手を広げて、待っている。
5.
見開いた先に、闇が広がっている。
目を瞬かせると、喉を震わせながら、疲れ切ったように深く息を吐いた。夢のなかでもがいていたせいか、手と脚は布団からはみ出していたうえ、冷たく痺れている。抱き寄せて体温で温め直しつつ、筋肉が弛緩するのを静かに待った。
手元の時計を引き寄せる。五時五分。もう一度寝付くには、微妙な時間帯だった。
ぼんやり座っていたものの、やはり眠りの波は再びは訪れず、けっきょく起きることにした。
枕元の傍に昨日用意しておいた服装に着替える。電気ポットのコードを差し込み、キッチンで一杯ぶんの水を飲んでから、玄関に立てかけてある剥き出しの木刀を手に取った。
誰も使わない駐車場の空きスペースで、準備運動を終えると、髪を結わえ、息を整え、目蓋を閉じる。
「始め」
振り上げて、振り下ろす。
振り上げて、振り下ろす。
無心で繰り返す。
「休憩」
三分に一度の小休止。タイマーは要らなかった。
すぐに終わり、始める。
「再開」
延々と続ける。一人で無言のまま、呼吸乱さずに。在りし日のように。
空寂の籠もる駐車場に、ひらすら、風を切る音だけが鳴り響くように。
振り上げて、振り下ろす。
繰り返し、繰り返す。
「……終了」
熱いシャワーで、汗を流してゆく。実家に比べれば狭いとはいえ、それでも一人暮らしには充分に広く感じる1DKのリビングでホットミルクを入れ、テレビをつける。ここまでは、習慣のようなものだった。
音量は控えめで、もっぱらチャンネルはニュース番組ばかりだったが、それらのほとんどは聞き流していた。いつからそうしているのか、覚えていない。なんとなく、無音の部屋にいるよりかは、こうしていたほうが
ちらとカレンダーを見た。
三月の第三金曜日。
今日は、中学校の卒業式だった。
・補足:海に落ちる夢と龍が出る夢は基本的に吉夢とされる。