来世は他人でいい   作:ishigami

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03 強くなったら

 

 

 

 6.

 

 

 

 二人で歩いている。

 

「お兄ちゃん」

 

 はぐれないよう、手を繋いで。見失わないよう、寄り添い合いながら。

 

 のんびり進む陽の下の骨董市通りは、老若男女の見物人や観光客で盛り上がっている。肌の色を問わず。快活とした露天商や屋台の掛け声が賑やかで、並べられた小物の色どりに目を魅かれてしまう。

 

「気に入ったのはあった?」

 

「うん」

 

「こっちの、これかな」

 

「どうしてわかったの?」

 

「お見通しさ。なぜならば、僕は」

 

「魔法使い?」

 

「……んん。そのとおり」

 

 骨董市から遠のき、駅のほうへと歩いてゆく。

 繋いでいる手と逆の掌には、兄から贈られた綺麗な小箱がある。

 

「大切にするんだよ」

 

「はいっ」

 

「いい返事だね」

 

「お兄ちゃんも」

 

「うん。ありがたく使わせてもらうよ」

 

 それにしても、と兄が苦笑を漏らした。

 

「失敗したね。上手いこと誘導されたってわけだ」

 

 駅に近づくにつれ増えるはずの活気は、いつの間にか遠いものになっている。

 拡張工事の通行止め看板を避けて歩いていたら、気が付けば建物に囲まれた敷地にある、小さな公園で行き止まりとなっていた。

 

 戻ろうとして、振り返りかけた足が止まった。

 閑散とした路地を塞ぐように、大型の車両が横に停められている。

 いつからそこにいたのか。目出し帽をした集団が立っていた。全身を真っ黒に仮装した大人たちの手には、映画でしか見たことのない小銃めいた武器が抱えられている。

 

「お兄ちゃん」

 

 無言で腕を引かれ、足早に公園に入った。チーズのように穴の開いた半球形状の遊具に目を留めると、兄はやんわりと手を放し、此処で隠れているよう言った。

 

「お兄ちゃんは」

 

「あの人たちと、少し話をしてくるよ。何も心配はいらない。ただ、目と耳は塞いでおいて。良いというまで出てきてはいけないよ。これからちょっと、血腥(ちなまぐさ)いことになるかもだからね」

 

 頬に触れながら、兄が“魔法”の呪文を唱えた。【テトラカーン】、【マカラカーン】。すると身体が、何かに包まれたような感じがした。

 

「【ヨシツネ】」

 

 兄の手には、いつの間にか「刀」が握られている。魔法のように一瞬で現れた刀は、反りが深く、直刃(すぐは)刃紋が入っていて、ひたすら怜悧な印象があった。

 

 薄ら笑みを浮かべながら、兄が踵を返した。

 

 ひとり座り込むと、ドームの内側を見回した。手入れがされていないらしく、所々が錆びついている。壁には、細かな亀裂が走っている。

 

「貴方たちに言っても仕方ないとは思うけど」

 

 兄の声が聞こえた。

 

「貴方たちの後ろにいる人たちは、本当に懲りないですよね。それぞれ所属する国や組織は違うんでしょうけども、これで通算何度目になるんだろう。僕が甘かったのかな。これまで、死者は出さなかった。穏便に眠らせるか、忘れさせるだけで済ませてきたのに。今日は妹がいるのに、こんな昼間に、のこのこと大勢で、銃まで持ち出すなんて」

 

 内容までは、聞き取れない。明るい声だった。しかし明るさとは裏腹に、声音には獰猛な響きが込められていた。

 

「仏の顔も三度までだ。僕は仏さまではないけれど、けっこう我慢したほうなんじゃないかな。もしこの場に仏さまがいれば、僕を止めるかもしれないけれど……うちは生憎と、神道系(ジャンルちがい)なので」

 

 日本語ではない、男の声がした。やはり聞き取れない。だが途端に、場を委縮させるような重々しい気配が放たれ始めた。

 離れていても感じ取れるこの圧倒するような気配には、覚えがあった。これまで幾度となく道場で向き合うなかで骨身に思い知った、兄の、凄まじいまでの闘氣の発露。

 

「【ヒートライザ】」

 

 目を閉じろと言われていた。耳も、塞いでいろと。

 気配が、激烈に膨れ上がった瞬間。

 

 目を瞑った直後に、けたたましい叫喚(さけび)が弾けた。炸裂音。耳を塞いでいても聞こえてしまう。目を閉じていることだけを考えようとした。暗闇。ちゃんと座っているのか。躰が揺れているような感覚。叫喚が、途絶えた。終わった(・・・・)のか。一瞬そう思った。すぐに、より激しい炸裂音が始まった。耳を塞いでいても意味がない。兄の声は聞こえず、叫喚だけが続いている。兄は無事なのか。ここにいては判らない。兄ならば大丈夫だという確信が、銃声の恐ろしさによって削がれてゆく。此処にいていいのか。本当に、私はこうして隠れているだけでいいのか。

 立ち上がっていた。兄の声が聞こえる。何を喋っているのか。巨大なものが横転するような地響きと爆発が轟いた。相次ぐ銃声。お兄ちゃん。口のなかが渇いていた。躰が震えている。意を決し、躰を壁に押し付けながら、外の様子を窺った。

 

 そして少女は、“それ”を目の当たりにした。

 

 集団のなかで、ひときわ小柄な影が奔っている。少女と同じ顔を持つ少年。いつも微笑んでくれる兄。今は、違った。兄の顔には、何の表情も浮かんでいない。

 這うような姿勢から一気に肉薄すると、刃紋が煌々と陽に反射して美しいその刀が、喚いている男の身体に鋭く/柔らかく触れた。次の瞬間には、兄は別の男を斬り伏せていた。既に一〇人以上、沈んでいる。野太い絶叫。太刀筋は見えなかった。白刃の光。夥しい噴出の雨をひらりと躱しながら、兄が再び踊るように跳んだ。刎ね上がる腕。迸る裂帛。目まぐるしく駆け抜けてゆく姿は、(はや)過ぎて追うことができない。男たちの数は、最初に現れたときよりも増えていた。そのほとんどは、地に(くずお)れるかして動かずにいる。銃火。霞を相手にしているかのように、兄に当たることはない。同士撃ちを避けようとした銃弾が、あらぬ方向の標識を穿った。罵声。刈るような斬撃に意識を絶たれ、またも一人が血の池に沈んだ。

 

「【ジオダイン】」

 

 新たに現れていたトレーラーを、悲鳴のような雷撃が劈いた。「【セト】、【ガルダイン】【アギダイン】」暴風と爆炎が車体を呑み込み、奥で燃え上っている大型車両と同じように引っ繰り返った。

 怨嗟を吐きながら、なおも立ち上がろうとする者がいた。剣閃が奔り、男は倒れ込みながら耳を押さえた。足元には、両断された機械と耳片(・・)が落ちている。もう一閃。男の両目から、飛沫のように赤が溢れだした。

 

 あれだけの数がいた男たちは、兄を傷つけることはおろか掠めることさえも、触れることすらも叶わずに、今や四肢のいずれかを失い、瀕死の状態を晒していた。

 

 少女の躰は、縫い付けられたように一歩も動くことができなかった。胸が苦しく、音が遠くなったような気がする。目を閉じることもできず、ただ見続けることしかできない。

 気が付いたのは、偶然だった。片腕を失くした男が、腹這いになりながら銃を構えようとしている。銃口の先には、刀を提げたままの兄がいた。

 お兄ちゃん。掠れた声が出た。兄は男に話しかけていて、銃を構える男に気づいていない。躰が冷たくなった。このままじゃ間に合わない? なんとか気づかせないと――

 

「お兄ちゃんっ」

 

 一瞬、男と目が合った。

 

 憎悪に塗れた瞳。

 赤黒く汚れた銃口が、こちらを向く。

 

 悲鳴を上げる間も、なかった。

 

 

「【ベルフェゴール】、【マカジャマ】」

 

 

「………、」

 

 気が付くと(・・・・・)、兄に背負われていた。

 いつの間に(・・・・・)、眠ってしまったのだろうか。

 

 歩きながら、兄は携帯で誰かと話している。「はい、お願いします。姉さん」相手はすぐに分かった。「起きたんだ。どう、気分は。痛いところとかはない?」

 

 記憶が曖昧だった。ナニカ、おそろしい夢を見ていたような気がする。

 

「そっか。一応伝えておくよ。連中にはあのあと穏便に話をつけて、暗部に回収してもらった。ただ、姉さんが凄く怒っていてね。この件に関しては、どこぞの誰が何を言ってこようとも――」

 

 うつらうつらと、舟を漕いでしまう。兄の背に揺られながら。連中とは、いったい“誰”のことだろう? 兄の言葉の意味を理解するには、今は頭がぼんやりとし過ぎている。

 

「たくさん歩き回って、疲れただろう。ごめんね。無理しないでいいよ」

 

 少女は、素直に頷いていた。甘え慣れた兄の背中。どうやら思いのほか疲れていたらしく、すぐに目蓋が落ちてしまった。

 自宅で目覚めると、珍しく家にいた姉が顔を覗き込んでいて、抱き着かれることになった。「無事でよかった。どこも痛いところとか残ってないよね?」兎のように目が赤くなっている姉に少し驚きながら、抱き着かれた状態でリビングに向かい、今日の戦果をお披露目した。

 

「え、箒ちゃん。これ、ほんとに私に?」

 

 じゃっかん照れながら、髪飾りを手渡した。姉に似合うと思いながら選んだお土産。姉はふにゃりと顔を綻ばせながら、その場でくるくると元気よく回り出した。「箒ちゃんからのー、おみやげー」スカートがひらひらはためいている。「いっしょう大切にするねっ」

 ぱぱっとその場で髪に付けた姉が、感想を聞いてきた。「どう?」やっぱり、似合っている。素直にそう答えれば、見ているほうが気恥しくなってくるほどの喜びようであったため、兄が戻ってきたのは有り難かった。

 テーブルに次々と大皿が並べられる。切り分けられたフルーツを綺麗に盛り付けたもの。リンゴ、イチゴ、オレンジ、キウイ、ラフランス、スイカ、パパイヤと季節感はごった煮ながらも、まるでレストランの写真のようだと思った。

 促されて口に運んでみると、瑞々しい食感とたっぷり入っている蜜の味が染み出し、果実の香りが鼻にふんわりと広がった。

 

「おいしい?」

 

「はい」

 

 思わず頬が緩むのを感じていると、何故か姉はほっとしたように笑みをこぼした。

 

「スキャンしても問題は見つからなかったし、(ゆう)くんも安全だって言ってたから本当にもう大丈夫みたいだね。安心した」

 

 いつも通り、姉の言っていることはよくわからない。どこも怪我などしていないし、危ない目に合ったこともないというのに。

 

「そうだ箒ちゃん、実はここでなんとクイズがあります。デデン、第一問。そのイチゴは、いったいどこで作られたものでしょう?」

 

「どこ」

 

「どこかなー?」

 

「わかりません」

 

 正直、あまり興味がない。姉は気を害した様子もなく、答えを言った。「実はね、地下の野菜工場で摂れたものなんだよ」と。

 

「工場?」

 

「そう。造ったの。潜水艦内での長期滞在における食事事情の問題点を解決するための実験施設(テストケース)の一環としてね。まあこれの発案は結くんなんだけど」

 

「お兄ちゃんが」

 

「そう。動力源だけじゃない、食料調達も自給自足で賄える自己完結型の機能を備えるべきだって。最初はあんまり興味なかったんだけどゲノム弄ったり波長(ひかり)弄ってたりしてるうちにけっこう面白くなってきてね。プラントの様子とかもなんだかアクアリウム感があってさー」

 

「言ってすぐに実現できる辺り、姉さんは本当に優秀ですよね。あれ、手が進んでないけど」

 

「私はいいよ。味とかも全種類(ぜんぶ)覚えちゃってるし、今日はあくまで二人のためだもん」

 

「せっかく切ったのに」

 

「だったら、結くんがあーんしてくれるなら食べよっかな」

 

「あーんて。べつにいいですけど」

 

「んふー。うまうま。やっぱ味は変わんないけどちょっと違ってくるよねこういうのって。あっ、箒ちゃんもしてもらえば? あーん、って」

 

「わ、わたしは」

 

「食べる? 箒、ほら。あーん」

 

「お兄ちゃんまで……っあ、あーん……」

 

「エンジェルたちのあーん頂きました。今の写真に撮っとけばよかったな、光の速度で石英記録媒体(クォーツメディア)に保存したのに。箒ちゃん、もう一回してくれる? 今度はこっち向きながら」

 

「し、しませんっ」

 

 赤くなった顔を隠すために、少女は逃げるように自室に駆けこんだ。一人になったのを確認し、そろそろと息を吐きだす。視線を上げると、兄のではないもう一つの勉強机に置いておいた、和紙で包装された小箱が目に入った。

 破かないよう、慎重に外してゆく。綺麗に取れた。そっと開封する。

 兄に買ってもらった、リボンの髪飾りが収められていた。

 手に取って、揺らしてみる。両端に付けられている金銀の鈴は、やはり鳴らない。壊れているわけではなかった。骨董市の店主に曰く、持ち主に危険が訪れそうになると鈴が鳴って教えてくれるのだそうで、これは昔から伝わる魔除けを兼ねた、由緒ある幸運の髪飾りであるらしかった。デザインは落ち着いていて、宝石のように華美ではないが、だからといって埋もれてしまうような没個性でもなく、一目見て説明を聞いたときから少女は気になっていたのだ。

 鏡の前に立ち、さっそく髪に結んでみた。じっくりと向かい合う。ふっと胸の裡から、照れくさいような、むず痒いようなものが込み上げてきて、少女はなんとなしに、くるりと一回転していた。

 勝手に、笑い声が漏れてしまう。もう一度、さっきよりも軽やかに回った。わるくない、と思う。鏡に映る自分。何が良いとか悪いとかはよくわからないけども、とにかく、この私は、わるくない。

 自分では特に意識もしていなかったのに、鏡のなかの少女は満悦の笑みをこぼしていて、それが恥しくも、嬉しくもあった。もういっかい、回っちゃおうかな。「くるく……」

 

 ふと視線を感じ、少女は障子戸の隙間を見つめた。好奇心に満ちた双眸が、こっそりと覗き返している。

 顔が沸騰したようになった。「お姉ちゃんっ」

 

「箒ちゃんがくるくるしてるー」

 

 どたばた音を立てながら、廊下に飛び出して追いかける。

 角を曲がると、姉の姿はなかった。

 

 女が立っている。濡れ羽色の髪が翼のように広がっており、顔は隠れていてはっきりとはわからない。

 白い服を着ている。女の足元で、ぽつぽつと雨滴が跳ねている。

 

「箒?」

 

 声。

 兄が怪訝そうにしていた。「どうしたの?」振り返る。後ろには、誰もいない。あれ、と振り返ったあとで、思い出したように疑問符が浮かんだ。どうして今、私は振り返ったのだろう?

 

「似合ってるね。やっぱり」

 

 兄が手をかざした。いつものように撫でてくれると思った手は、何故か、置き場を失くしたように宙で止まっていた。微妙な間を置くと、けっきょく少女には触れず、手を下ろしてしまう。

 珍しい顔をしていた。何かを言おうと口を開いてはみたものの、上手い言葉が思いつかないというような、この兄には滅多にない表情だった。

 おずおずと何があったのか訊くと、兄はぎこちない笑みを浮かべた。

 

「慢心していたんだなって」

 

 〈メギドラオン〉も〈八艘飛び〉もある、〈サマリカーム〉も〈メシアライザー〉もある。〈勝利の雄叫び〉も。〈物理無効〉や〈不動心〉だってあるんだ、怪我なんてしない、簡単にできる。ちょっと思い知らせることができる。そう思ってたんだ。でも、いくら凄い力を持っているからと言って、それを操る人間が間抜けでは話にならない。思い知ったよ。慢心して、調子に乗った結果が、今回のざまだ。

 

「君を傷つけた」

 

 暗い声で。そう呟いた言葉の意味を、少女はほとんど理解できていない。

 

「襲われたとき、逃げようとしなかったのは僕の責任だ。君のことよりも、僕は連中を打ちのめすことを選んだ。僕は、連中を叩きのめしてやりたかったんだ。ゲームで気にくわない相手に(・・・・・・・・・・・・・)、そうするみたいにね」

 

 兄は唇を噛みながら、少女と目を合わせようとしなかった。

 

「僕は……」

 

 言っている意味は、依然と聞かされる身としては、少女には分からないことばかりだった。まるで姉と話しているときのように難解で、初めから相手に伝えるつもりがあるのかどうかすらも疑わしい。

 それでも、一つだけ少女にもわかることがあった。

 兄は、自分を責めている。少女に関することで、それも兄にしかわからない理由で、ひどく苦しんでいる。

 ならば、自分がすべきことも、一つだと思った。

 

「お兄ちゃん」

 

 少女は目を伏せている兄に近づき、やさしく頭に触れた。

 

「いい子、いい子」

 

 微笑みかける。驚いたように(おもて)を上げた兄へ。ようやく視線が合った彼へ。

 かつて、母がそうしてくれたように。

 

「いたいのいたいの、とんでけー」

 

 さらさらしてる、と髪を撫でながら思った。すぐ近くにある兄の顔。何かに苦しんでいながらも、それを表に出せずに我慢しているような、そんな痛みの混じった黒曜石の双眸。

 ほうき、と兄が言の葉に乗せて呟いた。耳朶がふるえる。唐突に、切ないような、じれったいような、温かいような、名状しがたい感情が押し寄せてきて、少女は無性に、たまらない気持ちに衝き動かされるのを感じた。

 

 顔を近づけていた。少しだけ背伸びをして。吸い寄せられるように。そうするのが自然だというように。

 

 唇を、触れ合わせた。

 

「―――」

 

 兄は、為されるがままになっている。瞳を閉じた。僅かに離し、もう一度そうしようとしたとき、兄は避けなかった。かすかに身動ぎしただけだ。やわらかな唇。兄の吐息。甘い風味がある。さっき食べた、フルーツの果汁だろうか。

 どれくらいそうしていたのか。ゼロで埋めた距離を、息ができなくなって惜しくも離れると、兄はどぎまぎしたように、視線を彷徨わせていた。

 

 まだ唇に、熱が残っているような感じがする。しているとき、もどかしいような、溶けてゆくような感覚があった。姉もあのとき、これを味わっていたのだろうか。

 

「い、いたいの、なくなった?」

 

 異様に高鳴っている鼓動を誤魔化すように、言っていた。まるで崖を飛び越えるみたいに易々としでかした自分の発作的な大胆さ加減に、急速に我に返りながら。混乱と羞恥と不安とに襲われつつ、少女は兄が次に何を言うのかを、俯きながら待った。

 沈黙に耐えていると、兄はしばらく呆然としてから、やがて口端を緩めた。「うん……」暗い笑みではなかった。「そうだね」声も、穏やかなものになっていた。

 

「痛いの、なくなったよ」

 

「そっ」

 

 それならよかったです。言おうとして、途中でどもって(・・・・)しまった。恥しすぎる。私はとつぜんどうかして(・・・・・)しまったみたいだ。ほんとうにどうかしている。兄も笑っている。少女は顔から火が出そうになりながら、兄の手が触れるのを感じた。

 

「ありがとう。おかげで」

 

 いつもと同じように。慈しみを込めながら。

 あるいはいつも以上に。感情を複雑にしながら。

 

「箒」

 

 嬉しかった。落ち込んでいるときはいつも慰めてくれる兄を、今日は自分が励ませたのだから。しかしそれはそれとして、今は恥しいのが上回っていた。ほころんだ兄の口元。桃色の瑞々しい、やわらかそうな唇。実際に兄の唇は、ふっくらとしていて、舌で触れると弾力があって、あったかくて、ずっと吸い付いていたいくらいに、きもちよくって……ばか、なにを思い出している、ああもう、顔なんて見れたものじゃない!

 

 兄の言葉も、耳に入ってこない。

 だから兄が、どんな顔をしているのかも、少女にはわからない。

 

「……追いかけてこないなーと思ったら箒ちゃん、どしたのその顔。真っ赤っか」

 

「なんでもありませんっ」

 

 結くん?

 んんん……、秘密かな。

 ええー、気になるよーっ。

 どうしようか。

 言っちゃだめっ。

 そんなあ。いいじゃんいいじゃん、言っちゃお言っちゃお?

 だめですっ。

 

 廊下で騒いで。

 

 家族が揃った夕食の場で、姉の追及をかわしながら、フルーツを使った兄の新作の手料理を食べて。

 それから三人で一緒の風呂に入り、部屋で一緒に横になって。

 姉の話に相槌を打ちながら、時おり兄とした口づけの感触を思い出し、いつの間にか寝てしまって、目覚めると兄の顔が目の前にあって。

 兄に髪を結ってもらって、兄と手を繋ぎながら学校へ行って、帰って、兄と一緒に剣の腕を磨いて、汗を流して、夕飯を食べて、躊躇いながら兄にねだったのが功を奏して、眠る前には暗い布団のなかで、こっそり兄とする(・・)のが、新しい日課になって――

 

 それから――

 

 また、目が覚めて――

 夜が更けて――

 朝が来て――

 兄と一緒に――

 

 それから――

 

 

「兄さん」

 

 

 あの頃の私は、と。

 少女は、鏡を見ながら思った。

 

 当時は、本当に暖かい場所にいた。自分の安らげる場所で、漠然とある未来予想図に、期待と不安を抱けるだけの余裕もあった。

 

 だが。

 鏡に映る、今の自分(・・・・)は。

 

 制服を着た、あの頃よりも髪飾りの似合う娘に成長した私には、そんなものは見当たらない。ずっと続くと思っていた日常は過去となり、手元に残っているのは物言わぬリボンの髪飾りだけだ。兄たちが消えてからずっと、肌身離さずに使い続けている“これ”は、今となっては昔を懐かしむための道具でしかなくなっていた。

 

「今日は、卒業式ですよ。……私の」

 

 鏡のなかに、兄の面影を見出そうとする。

 精一杯、笑いかけてみた。

 

 返ってきたのは、無駄な努力をする自分を侮蔑するような、乾いた嘲笑だけだった。

 

 いってきます。視線のなかに、それ以上惨めなものを見出す前に、少女は玄関を出た。

 

 

 

 7.

 

 

 

 曇り空だった。

 

 正面に、車が停まっている。

 寄りかかるようにして煙草を吸っていた、釣り目の女が振り返った。

 

「準備はいいか。忘れ物は?」

 

 年齢は不詳。出自も不明。背が高く、ショートヘアで、容姿からしてハーフかクォーターらしく、右の目元には泣きぼくろがある。

 少女の監視役兼護衛を名乗っている女に頷きながら、少女は後部座席に乗り込んだ。

 シートベルトを固定すると、車は、女の見た目とは対照的に丁寧に滑り出した。車内では小さくラジオが流れている。洋楽のイントロ。聞き覚えがある気がした。「この曲」サビで判った。やはり、聴いたことがある。兄と一緒に、映画を見た記憶もある。

 

 ルームミラー越しに、女の視線を感じた。黒人の女の、力強い歌声。「オール・ユーヴ・ゴット・トゥ・ドゥ・イズ・ドリーム」――「夢見ることをやらなくちゃ」。底抜けに明るい曲であることが、心のどこかに障った。変えてくれますか。ぼそりと言うと、女は舌打ちでもしたげな様子でチャンネルを変えた。パーソナリティたちの喋り声。知らない人間の、どうでもいい話。それでも、明るい曲であるよりはいい。

 

 荷物はボストンバック以外にはなく、また教科書等も詰め込まれていないから、身軽だった。

 これから向かう先も、同じようなものだ。この二年間、転校を繰り返してばかりだった少女にとっては、二か月前に越してきた学校に思い入れなど、あるはずもない。

 

 街道や、校内の桜は、ほとんど咲いていなかった。

 

「あとでな」

 

「はい」

 

 学校の近くで少女を降ろすと、車はすぐに見えなくなった。辺りを見回す。生徒たちの様子は、普段よりもいくらか浮足立っているように見える。

 どうでもいい。声に出さずに呟いた。少女は、冷めた貌で和気藹々とした空気を眺めながら、心なし重くなった足取りで教室へ向かった。

 

 扉を開くと、視線が集まるのを感じた。同時に声も途絶え、入ってきたのが少女であることに気づくと、すぐに何もなかったかのように雑談が再開された。

 黒板を見ると、寄せ書きのようにクラスメイトの名前とコメントが書かれていた。デフォルメされたキャラクターも描かれている。席に着いたとき、女子グループの一人と視線が合った。他の女子たちと小声で話し合うと、意を決したように、その女子が近づいてきた。

 せっかくだから、書いてみませんか。おずおずと窺うようにそう言って、チョークを差し出してくる。束の間、見つめ合った。ほとんど喋ったことのない相手だった。緊張しているのが見て取れる。

 少女は静かに微笑むと、チョークを受け取った。「どこに書けばいい?」安堵したように、女子も笑顔を見せた。

 黒板に、自分のものではない名前を書いてゆく。■■さんって、字、すごいきれいだね。女子が声を上げた。いいなあ、うらやましい。別の女子が、すかさず揶揄するように笑った。あんたは下手過ぎるんだって。私だってやればできるよ、ちゃんと、やる気になれば。あんたの字ってこれじゃん、この、みみずみたいなやつ。ひどっ、でも私の本気ってこんなもんじゃないから。いつになったら本気になるんだよ。そりゃあ、すぐにでも、明日にでも。あんた、まだ寝ぼけてんの? 打てば響くというように、会話が飛び交っている。「お世話になりました」。ありきたりなことを書き、少女はチョークを置いた。

 

 委員長が現れ、体育館に移動することになった。

 前を歩く女子たちを眺めながら、少女はぼんやりと、自分が些細な事柄にかつてほど苛立ちを覚えなくなっていることを考えた。

 以前であれば不機嫌な気配を裡に秘めておけず、不要ないさかいを生んだこともあったが、今はあまり物事に心を乱さなくなっている。

 

 未熟であったころ、自分の抑え方を知らずに、暴力沙汰を起こしたこともあった。

 

 おいおい、男女(おとこおんな)がリボンなんかしてるぞ。

 小学校のクラスに、なにかと少女の言葉遣いや態度、男子にも勝る身体能力をあげつらい、オトコオンナと揶揄してくる男子たちがいた。うち一人は、かつて少女の実家が開いていた剣術道場に入門したものの練習に付いていけずに()めてしまった生徒だったらしく、非力そうに見える少女が剣道を続けていることへの不満があるのか、教室で孤立気味の少女に、たびたび複数人で絡んでくることがあった。

 不用意に力を振るってはいけないという父からの戒めがあったため、それまで手は出さず無視を決め込んでいた少女だったが――クラス内では見かねたように「止めろよ」と割って入ろうとする男子もいたものの、逆に火に油を注ぐような反応となり――最終的には兄が「僕の妹に何か用かい」と悪魔のように微笑みかける(・・・・・・・・・・・・)まで、男子たちからの干渉は続いた。

 そうして近づいてくることも無くなり、それですっかり終わったかと思っていた頃に、しかし問題の騒動は起きた。

 あるときお手洗いから教室に戻ると、少女の机の周りに男子たちが再び集まっていた。少女に気づくと、男子たちはしまっておいたはずのクリアファイルを握り、にたにたと厭な顔で嗤い出した。机には油性ペンが広げられている。これなーんだ、と男子が言った。透明なそのなかには、兄と一緒に映った写真が入れられており、男子はその写真を、少女に見せつけるように掲げた。

 

 おまえの兄ちゃん女みたいだな。これでもっと女っぽくなったんじゃねえか。

 

 少女と、兄の顔が、ぐちゃぐちゃに落書きされていた。愕然とした反応を、男子たちが嬉しそうに見て笑っている。頭のなかが真っ白になった少女は、次の瞬間には、男子を突き飛ばしていた。

 教師が駆け付けた時には、少女はすべての行動を終えていた。教室は悲鳴と混乱で撹拌され、少女の足元には、顔と腹を殴られ続け、床に頭を何度も叩きつけられたことで意識を失っている血まみれの男子や、背中や腰に椅子と机を振り下されて投げ飛ばされた男子たちが、のたうち回りながら泣き叫んでいた。

 

 この件に関して警察が介入することはなかったが、それでも、周りにひどく迷惑をかけてしまったのは事実だった。報復行為自体を後悔したことはないが、これを機に兄に言われてから、少女は自分を律して動く方法を考えるようになった。自分を律しながら、しかしどうしてもこちらに向かってくる問題――男子たちのような存在――を、どのような方法で対処するべきなのか。

 

「無念無想、明鏡止水。竹刀袋にも書いてあるけれど、簡単に言うと、感情を昂らせずに、常に冷静に物事に挑むべしって意味だね。【不動心】そのものだ、僕のこれはまだ未熟の境地だけども。要するに、剣と向き合うように心を扱えばいい。とても難しいことだけど、箒には必要な技術かもしれないな……」

 

 学年が上がると、少女は兄と同じクラスに編成された。一緒にいる時間が増えたことを少女は無邪気に喜び、それまで以上に兄との鍛錬に打ち込むようになった。

 

 やがて努力が実を結び、少女は兄とも打ち合えるほどに成長した。

 誰に臆することもなく、自信を持って兄の隣に並び立てるようになった頃には、視線や、裡から発する気配だけで、他者を黙らせることができるようにもなっていた。

 

 強くなったからだ。そう思った。ここまで強くなれたのは、兄がずっと傍にいてくれたからだ。

 ずっと、一緒がいい。私たちは一つであるべきだ。私たちは元々一つだった(・・・・・・・)のだから。その想いは、姉と接している兄を見かけるたびに、日増しに大きくなる一方だった。

 

「箒。僕は、姉さんと一緒に行くよ」

 

 突然、家族が離散すると聞かされた。

 国の事情で、故郷を去り、名前も変えて別人として生きていかなければならないと告げられた。

 

「僕たちはこれから、お尋ね者になるだろうね。なにせ国を騙して、世界から隠れるんだから」

 

 私も行く。少女は言ったが、兄はかぶりを振って受け入れなかった。離散の元凶は姉なのに。兄は、そんな姉を選ぼうとしている。少女ではなく。

 姉は、少女から兄までもを奪おうとしている。

 

「これから先、ただ逃げるだけじゃないんだ。追跡や“悪い”連中を躱すためには、手を汚すことだってあるんだよ」

 

 私だって強くなった。ずっと頑張ってきたのだから。食い下がろうとする少女に対し、兄は小さく息をこぼした。言うことを聞かないわがままな子供に対して大人がそうするように。手には、気が付くと現れていた、怜悧な「刀」が握られていた。

 

薄緑(うすみどり)と言うんだけどね。君にこれを見せるのは“三度目”だ」

 

 見覚えのある刀だった。いつ見たのか? 自問すると同時に、少女の脳裏に蘇る情景があった。まるで「刀」を見たのをきっかけに、封じられていた(はこ)が解き開かれたかのように。

 

 

 飛沫。

 銃声。

 叫喚。

 

 ひれ伏すように男たちが斃れている。

 ――【サマリカーム】。

 男たちの背後に、誰かが立っている。

 

 兄。

 

 ――【マガツイザナギ】。

 その兄の背後に、誰かが立っている。

 

 赫黯(あかぐろ)く禍々しい、巨大な薙刀めいた武具を持つ存在が、絶笑するように仰け反っている。

 

 ――【血祭り】にしろ。

 

 嵐のような剣風。

 ペンキのように、赤い絨毯(・・・・)が撒き散らされている。

 

 

「ごめんね」

 

 悲鳴を上げていた。

 

「怖い事を思い出させたね」

 

 喉が引き攣っていた。どうして私は忘れていたのか。忘れられるはずのない、あれほどの鮮烈の衝撃を?

 

「君は――」

 

 兄の表情が、すべてを物語っていた。

 

「あの日、一度死んだ」

 

 

 心臓が、止まったような気がした。

 

 

「僕が忘れさせた。君は、耐えられないだろうと思ったから」

 

 躰が硬直し、猛烈な寒気に震え始める。

 

「この先、“あれ”と同じようなことが必要になるかもしれない。だから、箒は連れていけない。箒には無理だろう、あんな真似は」

 

 震えが止まらない。耳を塞ぎたかった。なのに躰は動いてはくれず、目尻には涙が浮かび上がってきた。「それに、それだけじゃない」兄は、淡々とした口調で続けた。

 

「他にも理由があるんだ。話していない、無視できないような理由がね。死んだことが引き金になったのか、そうじゃないのか、今となっては判別がつかないけども、君のなかには、ある特別な存在が宿っているんだ。なんで宿ったのか、色々な推測はできる。でも一番の理由は、僕が君の双子として生まれてきてしまったことなんだろうね。覚えてはいないだろうけど、“それ”は一度暴走(・・)しているんだ。知らないのは当然だ。あのときの記憶は、姉さんが封印したから」

 

 現実でないかのようだった。兄は目の前にいるのに、どこか別の世界から、知らない言葉で話しかけてきているかのようだった。

 

「あのまま覚醒してしまうと、器である君の身体は耐えられなかった。だから僕たちは時間を稼ぐことにした。完全に封印する方法が見つかれば御の字。できなくとも、箒が“彼女”を受け入れられるだけの器に成長できれば、最悪の結末だけは回避できる」

 

 “暴走”。

 “封印”。

 “赤い絨毯”。

 “特別な存在”。

 “覚醒”。

 

 意味が分からない。何もわからない。兄は本当に“記憶”のように大勢を殺害したのか。それとも単に“あれ”は、自分の勘違いなのか。夢で見た悪夢と間違えているのか。

 

「だけど、君は強くなった。加減しているとはいえ、〈ペルソナ〉を持つ僕と対等に打ち合える(・・・・・・・・)くらいに、強くなった。姉さんの妹として元々備わっていたポテンシャルが表層に引き出されたのだとしても、ここ最近の君の成長速度は、はっきり言って急激すぎる。強くなるのはいい、元々それが目的だったんだ。でもなるべく緩やかな成長であるべきだ。今の君には、異常が起きている。封印しているにもかかわらず、目に見えるほどの速度で変質が進行している。つまりは、封印の働きが予想以上に弱まりつつあるということだ。原因は――」

 

 悪夢のなかにいる。息をつく間もなく、溺れてしまいそうだった。どうすれば悪夢から目覚められるのか。何をすればいいのかさえもわからない。

 何一つとして、少女には兄の言っていることがわからない。

 

僕だった(・・・・)。双子である僕が、いつも傍にいる僕が、そもそもの原因(・・・・・・・)である〈イザナギ〉が傍にいるのだから、よくよく考えれば、封印に悪影響が出てしまうのは当たり前のことだった。笑えないよまったく、我ながら。あまりに近すぎて、その可能性を見落としていただなんて……」

 

 箒。兄は、言い聞かせるような声で言った。

 

 静かな声で。

 そして決定的なことを、告げた。

 

「僕はもう、君の傍にいるべきじゃないんだ」

 

 それ以上、聞いていたくなかった。兄の口から、そんな言葉は聞きたくはなかった。

 

「君は、これからは一人で強くならないといけない」

 

 いやだ。

 

「封印は永遠のものじゃない。いずれ覚醒するにしても、そのとき君が“彼女”に耐えられるくらい成長している必要があるんだ。そうでないと」

 

 いやだ。

 

「箒、聞くんだ。僕がいなくても、君なら……」

 

 そんなのいやだ。かつてないほどの恐怖が渦を巻き、躰の中心から、自分が崩壊してゆくの感じた。

 強くかぶりを振る。恐ろしいものを振り払うように。少女は強張った笑みを浮かべながら、ふるえる躰を動かして、刀を握ったままの兄に近づいた。

 

 “赤い絨毯”が蘇る。

 “血臭”と“悲鳴”が、脳裏にぶり返す。

 

 嫌悪するべきだと思った。あの殺戮が生み出した景色を忌避すべきだと、頭では分かっていた。父の教えに照らし合わせれば、兄のしたことは、悪鬼の所業と断じても過言ではないのだから。本当ならば、非難してしかるべきことなのだから。

 躰が粟立つのを感じながら、それでも少女は、兄を引き留めるように顔をうずめていた。

 

「行かないで」

 

 いつか、兄が自分を不要とする日が来るのではないか。常に心のどこかで不安に思っていた。その不安が今、悪夢のような現実となって襲い掛かってきていた。

 兄が行ってしまう。私を取り残して、私の知らない場所に行ってしまう。姉と共に。手の届かない場所へ。私だけを、兄のいない世界に置き去りにして。

 

 どうして私ではだめなのだろう。兄の生み出した殺戮に怯えてしまったから? 私ではあの惨劇の光景に心が耐えられないと思ったから? 私にできなくても姉ならば耐えられるというのだろうか。だから兄は私ではなく姉を選んだということなのだろうか。私の心が弱いのがいけないのだろうか。だから兄は私を必要としないのだろうか。私にはこんなにもあなたが必要なのに。あなたにも私という存在が私と同じくらい必要であるべきなのに。

 

 気が付くと手を、兄の首に伸ばしていた。

 

「一緒にいて、兄さん」

 

 涙で服を汚しながら、少女は叫んでいた。もはや自分が何を言っているのか、どこからこの感情が湧き出ているのかもわからずに、腕に力を込めていた。

 

 目の前の男が、あまりにも愛しくて、気が狂いそうなほどに哀しくて、ひたすらに憎らしかった。

 いっそ、この手で殺してしまいたいくらいに。

 

「箒。約束するよ」

 

 兄の温もりを感じる。腕をほどかれ、抱きしめられている。どうして私たちはこのまま永遠に一つに溶けてしまえないのだろう。そうすれば私たちは誰にも引き裂かれずに、お互いを見失わずに、離れ離れにならずに一生一緒にいられるのに。

 どうして私たちは一人ではなく二人として生まれてきてしまったのだろう? 初めから一人きりであれば、そうすれば私はこんなにも苦しくてつらい想いを知らなくても済んだはずなのに。

 

「君が、今よりも大きくなって。強くなったら。また会いに来るよ、かならず。だから、そのときまで」

 

 答えは与えられず、願いは叶えられなかった。

 

「【ドルミナー】」

 

 兄は、少しだけ泣き出しそうな笑みを浮かべていた。少女はすべてを悟りながら、光が岩で閉ざされるように、意識を失った。

 

「ほんの少しだけ、お別れだ」

 

 最後に、頬に兄が触れるのを感じながら。

 

 

 

 8.

 

 

 

 ■■■■。

 

 名前が呼ばれた。

 

 返事をし、椅子から立ち上がると、少女はそのまま壇上に登った。

 校長から卒業証書を渡され、一礼すると、他の生徒たちと同じように席に戻る。

 ちらと見た保護者席のなかに、知っている顔は一つもなかった。

 

 呼ぶ声は続いている。

 

 

 あの日、泣き疲れた少女が明け方に目を覚ますと、兄たちは世界から消えていた。

 

 残された少女は、名前を変え、各地を転々とするようになった。

 

 寡黙で人見知りな少女に心を許せるような隣人は作れず、だからこそより一層、少女は外界を遮断し、剣との対峙にのめり込んでいった。

 いつか現れる兄のために。強くなった姿を見てもらうために。学んだ教えを無心に繰り返し、記憶のなかの兄の剣筋に近づけるように、技術を磨き続けた。

 

 剣道全国大会にも、出場した。

 中学一年で優勝し、三年生になっても無敗で在り続けた。

 

 気が付くと一家離散から、五年の歳月が流れていた。

 

 

 迎えは、まだ現れていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 
 ・報告:ヤンデレがアップを始めたようです。

















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