9.
体育館に、校歌斉唱が響いている。
やがて教頭が閉式の言葉を告げ、卒業生退場のアナウンスがされた。
次々と体育館から生徒たちが減ってゆく。少女の組の番が来た。生徒たちが起立するのに合わせ、少女も立ち上がる。一列に続き、拍手を浴びながら体育館を出て行く。
卒業式は、つつがなく終わった。
教室に戻ると、生徒たちはみな思い思いの時間を過ごし始めている。抱きしめ合っている女子たち、笑い話に興じている男子たちの姿。
それらの空気に囲まれるなかで、少女は相変わらず自分が冷めているのを感じていた。はしゃいでいる彼女たちを微笑ましく思うことはできる。その熱を理解することも。しかし少女は式中に感傷が過ぎることもなければ、瞳に特に何かが浮かび上がってくるということもなかった。それは、今こうしていても変わらない。
異物なのだ。自分で自分を、そう思った。生き方が違う。住んでいる世界も。所詮は、偶然紛れ込んだに過ぎないのだから。
悲しくはなかった。慣れている。今更この程度で揺れることはない。ただ、幾ばくかの申し訳なさを感じてしまうだけだ。
教師が現れ、最後のホームルームが行われた。それも無難に済ませると、クラスは謝恩会の話で盛り上がり始めていた。女子が声をかけてくる。出るつもりはなかった。このまま帰宅し、明日にはこの街から消えている。誰にも告げることはない。断っていると、委員長が近づいてきた。
少し話がしたい。そう言って連れ出された。
空き教室。人の気配は、遠い。
委員長が振り返った。緊張した目つき。なんとなく、この時点で少女は察していた。似たようなことは、これまでにも何度か覚えがあった。
深く息を吸った後、委員長が言った。
■■さん。貴女のことが好きです。俺と付き合ってください。
少女は驚かなかった。かすかに、胸の裡に影が差すのを感じる。「私のどこを好きになったのか」。静かな声で、訊いていた。
初めて会った時、きれいな人だと思ったんだ。
愛想がないって言う奴もいたけど、それは君のことを知らないだけだ。君は本当は優しい人で、笑うとすごく可愛くて。なのに、ちゃんと自分の芯を持っていて。
それで俺は、君のことばかり考えるようになってた。俺は、君のことが好きになってたんだ。
沈黙が訪れるのを恐れるかのように、委員長はずっと喋り続けた。
少女は、眼前で赤くなっている必死な顔を見つめた。いつしか言葉が途切れ、ついに沈黙が訪れると、委員長は不安と期待とが錯落した眼差しを投げかけてきた。
「委員長。私は、委員長の考えているような人間じゃないんだ」
“ごめんなさい”。そっと、しかしはっきりとした声で口にした。
委員長は固まっている。
告げられた思いの丈を反芻しながら、少女は乾いた笑みを浮かべた。
私は優しいわけではない。もし私がやさしく見えたのなら、それは目的に対して効率的な手段であると判断したに過ぎないのだから。
私は笑ったことなどない。もし笑ったように見えたのなら、それは光の錯覚か都合のいい妄想がもたらした幻影に過ぎないのだから。
私が綺麗である筈がない。なぜなら誰よりもこの私自身が、私のことを何よりも醜い存在であると心底から思い知っているのだから。
わざわざ、話すことではなかった。立ち去ろうとしたのを察したように、委員長が焦って何かを言おうとした。
少女は表情を消し、じっと双眸を見つめ返した。剣と対峙する時のように。
不意に委員長の瞳に、怯えのような光が生じた。その瞬間、少女はほんの少しだけ、裡から放つ気配を強くした。
腰が砕けたように、委員長がへたり込んだ。何が起きたのか、理解している様子はない。ひりつくような静寂のなか、少女を見上げる視線には、それでもはっきりとした恐怖が浮かんでいた。
それだけで、十分だった。
教室を出る。
誰かが後ろから追ってくるということも、なかった。
「いいのか」
後部座席に乗り込むと、ダビドフを指に挟んだ女が言った。窓は開けられていたものの、じゃっかん煙草の臭いが残っている。
「何がですか」
「挨拶する連中とかは」
「いないことくらい把握しているでしょう」
いいんです。そう言うと、ため息が聞こえた。
駐車場を出て、ゆっくり大通りへと走り出す。
「少し、寄り道すんぞ」
女の運転する車は三〇分ほどかけて、繁華街の隅で暖簾を掲げている、こじんまりとしたラーメン店の近くで止まった。
「穴場でよ。ここはなかなか“塩”がイケる」
三人ほど並んでいたが、幸運にもすぐに少女たちの順が来た。チェーン系でもないらしく、中は外観から予想されるようにそれほど広くはない。券売機も置かれていなかった。むせ返るような熱気と換気扇、FMの音楽、厨房から聞こえる麺の水を切るような音、どんぶりに顔を突っ込むようにしてスープをすする音だけが無心に響いている。
カウンター席に着くと、女が呪文のような早口で何かを言った。「塩」と「ヤサイマシ」しか聞き取れず、メニュー表も見当たらないので同じものを注文しようとしたところ、「いやお前は普通、いや少なめにしとけ」と真顔で忠告されたため、少女は素直に少なめを頼んだ。
しばらくしてどんぶりが目の前に置かれると、少女は忠告に従って正しかったことを理解した。
少なめであるはずなのに、どんぶりいっぱいに野菜が載っていて麺が見えない。隣では女がこんもりと山のように緑を積まれたどんぶりを受け取り、さっそく食べ始めていた。一瞥すると少女も割り箸を遣い、湯気の立つどんを恐る〃々口にした。
「そんなに急がねえでも、取りゃしねえよ。誰も」
女が呆れたように言う。
気が付くと、あっという間に、夢中で食べ終えてしまった。
「美味かったか?」
満腹だった。見れば女も完食しており、しかもどんぶりにはスープも残していなかった。流石に飲み干す余裕はなかったが、女は機嫌よく笑うと、二人ぶんの代金を支払い、席を立った。「ゆっくりしてていいぞ」そう言われても、外には並んでいる客もいるだろうからと、慌てて少女は後に続いた。
外では煙草をくわえようとしていた女が、苦笑しながら待っていた。
「なんだよ、もういいのか。……なら、行くか」
「あの、お金、払っていただいて」
「気にすんな。卒業祝いみたいなもんだ」
エンジンがかかる。
通り過ぎて行く風景。
ラジオの、とりとめもない話。
ふと、これで見納めなのだと思った。二か月間だけ過ごしたこの街とも、今日限りで。
「明日は、別の奴が迎えに来る」
マンションで停車すると、おもむろに女が言った。
降りかけた躰が、思わず止まってしまう。女は、かすかに笑っていた。
「じゃあな」
車が、遠ざかって行った。
鍵を取り出し、部屋に入る。
明かりをつけた。冷たい水で手を洗い、制服を脱ぐと、少女は時計に目をやった。
荷造りは、どの部屋も既に終わっている。そもそも私物は、数えるほどしか持っていないのだ。衣類でさえも旅行鞄が一つあれば事足りた。料理機材や生活家具は、初めから部屋に備わっていたものだった。
湯を沸かし、ホットミルクを口に含みながら、少女はテーブルの片隅に積んでおいた分厚い参考書を手に取った。〈
一般の生徒たちとは事情が異なり、少女はIS学園の試験を受ける前から合格が通知されていた。
国からの
少女はそのまま参考書を広げ、夕食の準備に取り掛かる時間まで予習に努めた。
剣を振るい、汗を流し、食器を片付け、普段よりも早めに布団にもぐり、消灯した。
いつもと何も変わらない。
闇に、意識が沈んでゆく。
深く、静かに溶けてゆく。
気配。
何かが、片隅をかすめた。
雨滴の跳ねる音がしている。
蛇口から、ぽつぽつと滴っている。居間のほう。流し台。音は、徐々に激しさを重ねてゆく。次第に大きくなり、みるみる強くなり、滾々と吐き出されるものが段々と満たしてゆく。
蛇口が閉まることはない。ステンレスのシンクはほとんど氾濫を起こしかけている。勢いが収まることもない。ついに“ふち”を乗り越えると、床にまで溢れ始めている。浸水は止まらない。木調の足場が失われてゆく。けたたましかった水滴が、真空のように静かになっている。満たされた
床が、裂けるように軋んだ。
「―――」
目蓋を開く。
近くには、誰の姿もない。何の気配も。
夢を見ていたような気がする。どのような夢であったのかは、覚えていない。
起き上がり、少女は居間で水を汲んだ。飲み干す。ため息がこぼれた。夢の内容は思い出せないが、全身がひどく気だるかった。
もうひと眠りしないと。自分に言い聞かせながら、何気なくテーブルに視線をやった。
見知らぬ封筒が置かれている。
咄嗟に、周囲に意識を巡らせた。拍動が速まっている。少女は息をひそめながら、封筒を見下ろした。見覚えはない。此処に、置いた記憶もない。どこから現れたのか。慎重に手に取った。中身は軽い。ひっくり返してみる。差出人の名は書かれていない。封を解くと、便箋が一枚入っていた。
午前0時、校庭で君を待つ。
見覚えのある筆跡だった。「追伸、貴重品を忘れずに」と続いている。
「………、」
少女が何度読み返しても、指先でなぞってみても、裏返してみても、そこに書かれてある文字が消えてなくなるということはなかった。
「ごぜんれいじ」
時計を見やった。文字盤は、二三時四〇分を示している。「ごぜんれいじ……」意味を理解しようと声に出して読み、再び時計を確かめた。現在時刻は、二三時四一分になっている。
少女は、弾かれたように部屋を見回した。午前零時まで、あとニ〇分しか残っていない!
慌てて寝室の扉を開け、明日用に用意しておいた服に手を伸ばした。一瞬考える。着替えている暇はない。枕元のリボンの髪飾り。それだけ掴み、ハンガーに着せていたコートをぶんどると、パジャマの上からそのまま羽織った。
鞄はどうするか。数瞬、迷った。担いで走るには重すぎるし、しまい込んだ貴重品も、これから開けて取り出すには時間が惜しい。
決めた。置いて行く。そもそも本当に必要なものは、あの中には入っていないのだから。本当に、大切なものだけを持っていけばいい。
髪飾りをポケットに放り込むと、闇空の下へ転げ落ちるように飛び出した。
三月と云えどもまだ冬寒く、刺すような凍気が晒した肌を通り抜けてゆく。深夜、この時間帯に外に出るなど数年ぶりのことだった。間に合うだろうか。星は出ていなかった。曇天。街灯が道を照らしている。
通りに出た。人の姿は見当たらない。車も、一台も走っていない。無人のガソリンスタンド。真っ暗なビルヂング。信号はすぐに青に変わった。
駆けている。道はほとんどが闇に呑まれていて、遠くまで見通すことができない。知っている道でありながら、まるで知らない別の道に踏み込んでしまったかのような気さえして、不安が膨らんでくる。間に合うのだろうか。再び少女は思った。静かだった。自分の足音と、荒れた呼吸以外には、闇しか存在していないかのように。
“これ”は現実なのか。白い息を吐きながら、俄かに少女は冷たい疑念を抱いた。私は、もしかして夢を見ているのではないだろうか。夢を見ることならば何度もあった。そのたびに夢は破れ、最後はいつだって冷たいベッドの上で朝を迎えてきた。今、私は本当に走っているのだろうか。本当は私は、今もベッドの上で、この夢に待ち受ける終わりを既に察して、怯えているのではないだろうか。
片隅に過ぎった考えを、少女はかぶりを振って否定した。それで、不安が消えてなくなるわけではない。
それでも。たとえ、そうであったとしても。
「夢でもいい」
呟いていた。不意に、嗚咽がこぼれそうなった。目元を拭う。きつく唇を噛んだ。手の甲は、走っていればすぐに乾いた。夢でもいい。大きく息を吸い、少女はもう一度言った。脚に力を込めた。決して、振り返りはしなかった。
学校が見えてきた。門は鎖で施錠されている。
塀を乗り越えるのは簡単だった。砂利を踏みしめる。
校舎時計。針は、頂点を差していた。
待った。
待つ間に、息を整えた。
息を整えながら、少女は見回した。
誰もいない。
誰かが隠れている気配も、これから現れる予兆も、何も見当たらない。
やはり、ここには本当に闇しかないのか。
まだ耐えられてはいた。だが。躰はこごえていた。それは寒さのためや、この場所の空虚さのためだけではなかった。
少女の声は震えていた。震えながら、少女は呼びかけた。
きっと、叶わないと知りながら。
もはや、届かないと諦めながら。
そのときだった。
肌を打つ感覚に、少女は目を見張った。
空が、突如として明るくなっている。分厚い雲が赤々と燃えており、それらは暴風に蹴散らされたように、瞬く間に消えて無くなってしまった。
嘘のように晴れ渡った夜空に、隠れていた天体が姿を現している。
そして星々の狭間から舞い降りてくるものが、一つだけ、あった。
“それ”を、少女が見間違えることはない。
洪大なる翼で羽風を巻き起こしながら校庭に着地したその“存在”の衝撃を少女が忘れるなど、ありえないことなのだから。
神威を放つ巨いなる体躯。
太陽を秘めたかの黄金瞳。
あの人が〈セト〉と呼んでいた
その、傍らで。
〈セト〉の背から地上に降り立った少年は、落ち着き払った様子で辺りを見渡した。
唖然と立ち尽くしている少女に目を留めると、少年はほどけるような笑みを浮かべる。
疑わなかった。背丈は大きくなっていたものの、その笑顔は記憶のなかの彼と相違ないままだった。最初の
まだ私は、夢を見ているのだろうか。ぼんやりと、彼が歩いてくるのを眺めてしまう。叶わないと知っていて、届かないと諦めていたはずなのに。これは現実なのだろうか。それとも。もしかして。“今度こそは”。躰の裡から込み上げてくるものがあった。信じて、いいのだろうか。本当にこれは、朝になれば消えてしまう残酷で安らかな甘い“夢”などではなくて、本物であると。私は信じてもいいのだろうか。
再会できたとき、ちゃんと笑顔で迎えようと思っていたのに。今はどんな顔をしているのかも分からない。決めていた言葉をきちんと言えるのかどうかも。だけど、彼ならば笑って受け入れてくれるだろう。そうやって腕のなかで、やさしく抱きしめてくれる。もう我慢しなくてもいいと。そう言って撫でてくれる。
踏み出そうとした。
躰は、一歩も動いていない。
「
世界が昏んだ。
10.
膝をついている。服。汚れ。意識の外だった。
躰の裡側から、“何か”が裏返ろうとしている。それが何なのかはわからなかった。何が起きている。凍てつくような吐き気。
悪夢のように。おぞましい瘴気が、躰から噴き出していた。足元では黒蠅の集群のような闇が茫と輝き、渦を巻きながら虚空へと膨れ上がってゆく。どれが現実なのか。どこまでが現実なのか。瘴気に視界が遮られた。悲鳴のはずが、掠れた息になった。このままでは呑み込まれる。意識すらも。
分かっていながら立ち上がれなかった。何処からか喋り声が聞こえる。細々しくも荒々しく、粘々しい声。聞いてはならないと理性が察するも、それは頭のなかから執拗に紡がれ続けていて、耳をふさぐことができなかった。
「……
少女は、透き通るような鈴の音を聴いた気がした。
〈――
声ではなく、文字でもない情報が澱んだ脳裏を通り抜けた。
倒れ伏した躰が、やわらかなものに覆われていた。裡側から裏返り、少女を取り込もうとしていたモノとも異なる薄膜のようなものに包まれると、僅かながらに思考の靄が拭われたようになる。
甲高いブレーキ音。
校庭に響き渡るが、しかし音の起きた方を見るだけの気力は残っていなかった。
「なんだ、こいつはっ」
命令に反して変貌する舞台に仲間を引き連れて乗り込んだ女たちにも、その女が目の当たりにして愕然と叫んだモノの正体にも。少女は意識を配ることができない。ただ“それ”の存在を、繋がりを通して感じさせられているだけだ。
数多の腐爛した呪言の
黄泉をも統べる大霊の威風。
闇夜を覆うほど巨大で
「【ランダマイザ】」
無数に波打つ骨の指から、眩い烈光が放出された。
「【マカラカーン】」
割れ響くような叫喚が地上を這い、校舎の硝子戸が粉々に消し飛んだ。倒壊した樹々を炎が食み、瞬く間に勢いは燃え広がる。固まって停車していた軍用車両は凄まじい雷撃を浴びながらも辛うじて原型を留めており、その理由が寸前に割って入った不可視の力場の効果によるものであると理解している人間はこの場には少年とその一味を除いて、誰一人として存在していなかったが。
「くそ。IS部隊に支援要請を――」
「だめですよ」
前触れなく、どこからか霧が立ち籠め始めている。成分を書き換えることで電場妨害と防音を兼ね揃えた濃霧が街全体に覆い被さり、すべての真相を沈め隠してゆく。
「てめえは」
「こんばんは。よかった、酷い有様ですが、とりあえず生きてますね」
「
「【メシアライザー】。妹がお世話になりました。でもこれ以上は説明するつもりはありませんので、ここから先は大人しくしていて下さい。――【スリープソング】」
地鳴りが沸き起こり、大気が激震した。
同時に空から、続々と降りてくるものがある。全身装甲。濃い灰色の巨体。頭部に複眼のような
「にい、さん」
意識が遠のく。果て知れぬ暗がりへ。抗えず、逃れられず、少女は墜ちてゆく。
引き留める手は届かない。
「……あの日の約束を果たすよ。
墜ち切る間際に。
少女は、兄の声を聞いた気がした。
11.
“この世の関節がはずれてしまったのだ”
「変性領域を捕捉。無量隔離防壁構築、並びに対象との同期を完了しました」
“なんの因果か、それを直す役目を押しつけられるとは”
「対象に
「――始めよう。外は頼んだよ、クロエ」
「〈ワールド・パージ〉、展開」
結さま。
うん?
いってらっしゃいませ。どうかご武運を。
ああ。いってくるよ。