来世は他人でいい   作:グリム・グリルグリン・グリーングリップ

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 誰が奴隷なのか
 誰か主人なのか
 神が見ているのか
 神に見捨てられているのか

 ―――新・嵐が丘/菊地成孔





















06 あるいは

 

 

 

 16.

 

 

 

 躰がふるえている。理由は分からない。

 腐りかけの、熟し過ぎた果実のような甘い香りが漂っている。

 

「おまえが、私?」

 

 (わたし)の口端が、裂けるように吊り上がった。片目に深い亀裂が奔り、ひび割れた線が、(なか)から膨れ上がる。“何か”がこぼれ、頬をゆっくりと伝った。“それ”は(おもて)に顔を出すと、貌のうえを、細く小さい足で、踏み回るように動いている。

 

「う、うそ」

 

 黒い“それ”は、涙ではなかった。

 

 蛆の這い擦る音。

 蛆の嘲笑する声。

 

「いいや」

 

 続々と。(うじ)が。

 滾々と、(なか)から。

 

 湧き出して、蠢いている。

 

「みるがいい、我が姿を」

 

 みにくい(・・・・)

 きたない(・・・・)

 おぞましい(・・・・・)

 

 後退っていた。

 (わたし)の肌が、炎に焼かれたように赤黒く爛れたものへと様変わりしてゆく。黄金の眼球は炯々と剥き出しになり、皮膚は紙が燃えるように綻び捲れ、白い腕と脚は炭化し、白衣(しらぎぬ)だけが汚れずにはためいている。

 

「ちがう、わたしは」

 

 後退った瞬間、悪寒が骨に食い込むのを感じた。“踏み外し”、虚空に沈み込むような浮遊感に囚われる、数瞬前に。

 (わたし)がわらった。

 

「拒むか、……やはり」

 

 静かに。呟くように。

 

「であろうな。我が悲嘆を、我が瞋恚を、呑み干すことなど。穢れ知らぬそなたには」

 

 できはすまいよ。(わたし)はいびつにわらうと、責めるのではない、やさしさすらも込めた口調で言った。

 

「然様。今のそなたはわたしではない。さればこそ問おう、人の子よ。わたしならぬそなたは、なにゆえ此処にいるのか?」

 

 答えられない。思い出せない。

 本当は知っているはずなのに(・・・・・・・・・・・・・)

 

 嘲笑する蟲たちが(わたし)の足元に群がり、瞬く間に崩れて溶け合うと泥のように液状化した。

 透明な地面を黒い泥が塗り潰し、押し寄せてくる。逃げ場などない。絡みつく水で足首が浸かり、冷たさに声を上げそうになる。

 

 躰が動かない。

 喉が動かせない。

 

 膝が浸かっている。いつの間に水かさが増したのか、理解する間もない。

 

「あわれな娘よ。此処はそなたに寒かろう。せめて、微睡みのうちに逝くがよい」

 

 底なし沼を踏んだように、躰が沈み込んだ。黒い泥で、喉まで浸かってしまう。

 燃え盛る頭上に、再び濃い霧が掛かり始めていた。(わたし)の姿が遠のいてゆく。少年と黒龍が遠ざかってゆく。動いているのは(わたし)ではない。押しやられている。(わたし)の片目から溢れ出す泥水の勢いに。濁流に、呑み込まれてしまう。

 (わたし)の姿が、黒泥から噴き上がった黒い渦のなかに消える。黒い渦が、聳える塔のように大きくなる。

 

 黒龍が飛び去った。こちらに気づかない、名を思い出せないあの人を背中に乗せて。

 

 手を、伸ばそうとした。

 届かない。放たれる矢のように、あの人が振り返ることはない。

 

「“男”。そなたの奮闘は、所詮、虚妄の繰り言であったな」

 

 白い霧が満ちてゆく。

 黒い泥に沈んでゆく。

 

「だが。もしも、まだ諦めておらぬというのなら」

 

 あるいは(・・・・)――

 

 激しい渦のなか、(わたし)の呟きは聞こえない。

 透き通るような鈴の音が、この身に届くことはない。

 

 

 世界が昏んだ。

 

 

「――(■■■)

 

 

 (ふすま)の閉ざされる音がして、振り返った。強い光に、目が眩みそうになる。暗い場所から明るい場所に出たときのように。

 

 居間だった。テーブルがあり、椅子が並び、ソファーが置かれている。取り換えたばかりの蛍光灯が天井で煌々と光っている。

 母がいて父がいる。

 

 割烹着を着た母が首を傾げている。新聞を読んでいる父が口を動かしている。薄い膜を通しているようにうまく聞き取れない。

 なにかを忘れている気がする。

 扉が開いた。

 制服姿の姉が入ってくる。表情を明るくすると、抱き着いてくる。圧し剥がすやりとりをし、母の隣に並んだ。腕をまくる。

 なにかを忘れている気がしていたことさえも忘れ、夕食の準備を手伝う。

 

 呼び鈴が鳴った。

 玄関に向かうと、見知った姉弟が立っている。父の道場に通っている二人。弟のほうに親し気に話しかけられる。自分も、親し気に言葉を返す。笑みさえも向けながら。

 テーブルを囲った。父と母。父の弟子である姉と弟。溺愛してくる姉と、素っ気のない自分。椅子はすべて埋まっている。

 違和感があった。“なにか”が間違っている。いつもと変わらない光景であるはずなのに。

 食事が終わったあとも違和感は続いている。姉弟が帰ったあとも、違和感は持続している。

 母が姉に勉強のことを言っている。たじろぐ姉を見やり、父が母を静かにたしなめている。

 

 風呂に入る。熱い湯を頭からかぶる。排水溝に水が吸い込まれてゆくのを見下ろす。湯を張った浴槽で足を思い切り伸ばした。息を止める。顔を沈める。目を開く。

 茫洋とした薄暗い水中が広がっている。なにも聞こえない。口から気泡が漏れる。脚先の底で、海溝のような濁った闇が続いている。

 

 誰かが言った。

 

 雨。学校の窓から、草花を跳ねる雫と、しとしとした音が聞こえる。梅雨の、じめじめとした季節。教師の終了を告げる声が発せられ、後ろの席からテスト用紙が回されてくる。回答欄をすべて埋めたプリントを同じように前に回す。回収し終えた教師が教室から出て行く。後ろの席の女子と出来栄えがどうだったのかを話していると、他の女子たちも集まってきて愚痴を吐きながら変哲のない会話に興じる。女子の一人が、剣道の同門である姉弟について話題に上げる。大会を隔絶した実力で優勝した姉と、姉に似て美人でありながら、腕っぷしもそこそこある弟のこと。

 誰かに呼ばれている。入り口を向くと、話題に挙がった当人である少年が立っている。冷やかされながら教室を出る。昇降口で傘を出すと、少年は雨だというのに忘れていたらしい。呆れながら、傘の半分を貸してやる。片方の肩を濡らし、もう片方の肩を触れ合わせながら、二人して途中まで帰路を行く。

 

 夏を歩いている。

 姉と、原っぱで星々を眺めている。姉の自作した望遠鏡を覗き込むと、綺麗な満月が映っている。それは天空に穿たれた孔のようでもあり、望遠鏡から顔を外すと、姉が上機嫌に笑っている。様々な星座や、それにまつわる神話について話してくれる。姉の笑顔の向こう側に、流れ星が一条輝いている。

 

 冬がやってくる。

 道場で、道着姿の少年と向き合っている。学年を上げて体格の男女差が明確になりながらも、激しく剣戟を交える音が道場に響き続けている。実力はほとんど拮抗しており、試合を重ねるごとに、お互いが最大のライバルであるという関係性に充実したものを感じている。

 

 春が来て、秋が訪れる。

 教師と両親を交えた面談をしている。進路について。自分の将来は決まっていた。進学し、ゆくゆくは実家の神職を継ぐことになる。女神主となることに不利は感じていない。しかし次の世代に繋ぐという役割も果たさなければならない。その場合は入り婿を迎えることになる。

 母は、同門の少年のことをよく訊いてくる。いつの間にか少年が入り婿になるという話になっていて否定するが本気であるような口ぶりをしている。少年の姉も異論はないらしくむしろ公然と勧めてきて、少年と一緒に困ってしまう。意識したことはないはずなのに、言われているうちに、女子たちの間で話題にあがるたびに、自然と視線で追っている自分に気が付くようになる。

 少年と視線が合うことが増えている。気恥ずかしそうな態度に感化されてこちらまでもが恥ずかしい気分になってくる。

 

 冬が終わり、春が顔を覗いたある日、少年に告白された。

 答えは――

 

 夏。蝉しぐれを遠くに、机に向かっている。図書館に響く、筆記具を走らせる音。隣の席では、同じように少年が静かにペンを走らせている。

 目が合った。

 微笑み返す。

 

 春。

 冬。

 秋。

 夏。

 

 陽が沈んでゆく。

 時が流れてゆく。

 

 〃――

 々――

 

 春。大学で出来た友人と話している。薬指には、世界で一つの指輪がつけられている。

 夏。境内には屋台が並んでいる。賑わう祭りの光景を、袴姿の青年と寄り添いながら一緒に眺めている。

 

 冬。父と母が笑顔で佇んでいる。姉が泣きながら祝福してくれている。姉の涙につられたように義姉が瞳を潤ませている。青年が、手を重ねてくる。

 

 小さく膨らみかけの腹。

 子を、宿したことがわかった。

 

 

 

 17.

 

 

 

 風車が鳴っている。

 濃い霧のなか、死灰めいた色の小さな風車がゆっくりと回っている。そのすぐ傍では、水の流れる音がしている。

 昼とも夜とも知れぬ湿潤とした白む空間に、いきなり激しい物音が響いた。羽根にぽつぽつと浮いていた雫が平たい小石を跳ね、深い霧の奥地から、重たげな跫音(あしおと)が段々と大きくなる。

 霧が形を変え、風車が振動した。劈くような炸裂音が轟き渡り、大気が掻き回され、巨大なものが霧を吹き飛んで衝突する。

 

「【マハフレイダイン】」

 

 子供とも青年ともつかぬ男の声がし、霧の世界が日輪を迎えたように明るくなった。悲鳴のような獣声が霧に木霊し、幾つもの跫音が慌てて散らばり始める。

 

「【ブラックライダー】、【血祭り】」

 

 澱んだ気配が生じ、馬の嘶きが高らかに上がった。すかさず暴威の刃風が吹き荒れ、なおも晴れぬ霧のなか、男の声は淡々と指示を下す。

 

「【マハエイガオン】」

 

 視認できるほど凝集された呪怨が解き放たれ、すべてが隠される霧のなかで、戦っていた二つの勢力のうち片方が倒れ伏し、静かになった。

 霧が、少しずつ薄らいでゆく。

 薄れた霧のなかで、ぼんやりと人影が浮かび上がり、その視線の先で声とも言葉ともつかぬ音が響いた。

 瘴気の高まり。斃れたはずの勢力の、(うしな)われたはずの生力が急激に活性化してゆく。

 

 徐々に霧が晴れつつある地面には、異形の肉片がそこかしこに散らばっていた。仮に知識ある者が見れば大輪のバンビーノ(・・・・・・・・)禁欲の蛇(・・・・)変容の彫像(・・・・・)呪い女の壷(・・・・・)なる名称の付く大量の“シャドウ”であったと判るそれらの残骸は、塵となり光を浴びた影のように消える前に一つに寄り集まり溶け合うことで、今や新たな“シャドウ”――巨腕(かいな)を囚人のように鎖で繋がれ、巨いなる体躯に角を生やした威容――として再誕する現象を起こしつつあった。

 

「へえ。ネオミノタウロス(・・・・・・・・)

 

 個々が融合し全く別の個体に変異するという本来の“シャドウ”にあらざる能力を目の当たりにしても、男の声に焦った気配はない。霧がネオミノタウロスの口腔にみるみる吸い込まれ、もともと巨大であった“シャドウ”が中型恐竜の全長をも上回る巨躯へと変貌し、更に頸周りから黒泥が噴き出すと間髪入れず皮膚の下から真っ赤な顔面が四つ突き出し、続けて脊柱から花弁のようにずらり(・・・)と一二本の赤い巨腕を生やしたのを見ても、変化はない。それどころか変異が完了するまで、手を出さずに見守っている。

 

オルトロス(・・・・・)ヘカトンケイル(・・・・・・・)、顔が赤いのがじゃっかんカーリー(・・・・)っぽいな。まあいいや、ネオミノタウロス暫定で。どうせ亜種だし。きり(・・)がない」

 

 霧が取り込まれたことで、霧に隠されていた光景が明らかになった。

 

 多頭多腕の怪物と向かい合うように、痩身の少年が立っている。

 中性的で、涼し気な顔立ちをしていた。手には日本刀――銘を薄緑(うすみどり)――を握り、両者が立っている場所は河原であることが判る。近くには幅の広い川が静かに流れており、何処からか流れてくるその水は深紅に濁っている。周囲は鬱蒼とした深林であり、頭上には曇天がかかっていて、小さなたくさんの風車が川沿いに何処までも刺さっている。河原に盛られた細かな石の隙間には塵として消滅する寸前の“シャドウ”の肉片が挟まっており、瘴気を醸しているが、少年に気にした様子はなく、むしろネオミノタウロス亜種が咆哮すると薄っすら笑みを浮かべた。

 

 やさしい口調で。分かりやすく挑発する眼差しをして。「来いよ」、と。

 

 ネオミノタウロス亜種は、巨体の印象を覆す速度で飛び掛かった。距離を詰めるのに一秒と掛からず、計一四本の多腕を衝き下ろす〈バスタアタック〉を放つ。山をも震撼させる膂力が収束し、地面を激震させた。

 河原が裏返り粉塵と岩石が巻き上がったが、しかしそこに狙った少年の姿はない。

 

 擦れ違っている。

 振り下している。

 

 ネオミノタウロス亜種が跳躍しようとした瞬間、一四本のうち地面に近い二本が腕の真中から断ち落とされ、河原に鈍重に転がった。

 

「あんがい固いな。耐性持ちか。……【マハラギダイン】」

 

 激昂したネオミノタウロス亜種が声のした方向へ岩石を巻き込んだ蹴撃を放つが、凄まじい爆炎が迸り、五頭の全身を呑み込んだ。

 

「それぞれの部分で耐性が違うわけだ。ユニークだけど、“反射”はないのかな」

 

 業火を脱しながらも五頭のうち動揺の小さい頭が、離れた場所にいる少年を見ながら瘴気を躰に漲らせた。氷結魔法の発動。〈マハブフダイン〉。一瞬でネオミノタウロス亜種の周囲に一〇を超す自動車相当の氷塊が生成されると同時に、大気は肉体を締め付けるような冷気に侵される。

 

「【ブラックライダー】」

 

 生物であれば瞬く間に凍り付く氷河空間で、射出された重質量の氷塊が少年に降り注いだ。

 少年は動かない。迫りくるものを見上げている。

 回避は間に合わない。

 

 だが。

 

「わるいね。“氷”は効かないんだ」

 

 着弾による轟音が響くことはなかった。

 少年は、変わらず平然と立っている。

 

 氷塊は消えていた。少年に触れる間際に突然とけるように“かたち”を失い、水を呑むように少年のなかに“吸収”された。

 そしてその現象を為した、少年の背後に佇む黒馬に乗った黒衣の髑髏が、手にしている天秤を揺らした。

 

「【メギドラオン】」

 

 光輝が降臨する。

 熱量が爆裂する。

 

 広範囲万能属性魔法。防御することはできない。

 着弾の余波で森林が震え鳴き、刺すような輝きで埋め尽くされた。爆発的暴威が鎮まると、河原は火力のあまり消し飛んで剥げ、風車は回転を悲鳴するように一斉に加速する。

 

「【ヨシツネ】、【チャージ】だ」

 

 少年の背後に、鎧姿の武者が現れた。その場で双眸を閉ざし、瞑想するように動かなくなる。

 粉塵が収まる間もなく、吹き飛ばされたネオミノタウロス亜種が起き上がった。寸前に防御した腕は消し炭であり、残りの本数は九本になっているが、戦意は薄れていない。

 再び怪物の魔法。〈マハガルダイン〉。局所的大暴風が発現する。砂塵を舞い上げる。

 少年は薄緑を脇に構えると、逃げるのではなく、腰を浅く沈め、一秒後には肌を切り裂くことになるであろう風を見据えた。

 

 振り抜く。

 一閃。

 

 無音だった。

 しかし、太刀は振り抜かれている。

 

「これは――」

 

 斬撃。

 空間の裂ける音が、遅れて(・・・)奔った。

 

「言ってしまえば、此処でこうして過ごすうちに出来るようになった、真似事のようなものだけど」

 

 肌を切り裂くはずだった風の断層は、傷一つ付けられずに霧散していた。せいぜい少年の親譲りの濡れたような鮮やかな黒髪を軽く揺らしたに過ぎない。なかなかのものだろう? 大暴風を“分身”に頼らずに無害化した少年は、薄っすらした笑みのまま言った。

 

「まあ本物には及ばないんだけどね。せっかくだから、おまえも本物も味わうといいよ」

 

 閉ざされていた双眸が見開かれた。攻撃を察したネオミノタウロス亜種は、素早く飛び退くが。

 

「【八艘跳び】」

 

 鎧武者が、太刀を引き抜いた。

 

 踏み出している。

 斬り下している。

 

 風が薙いだ。

 音が消える。音すらも斬り裂かれたかのように。

 次の瞬間――

 

 河原に血飛沫が撒き散らされ、巨大な腕が虚空を踊り、頭蓋が宙を舞った。

 

「おや」

 

 ネオミノタウロス亜種がすべての口で絶叫し、膝から崩れ落ちた。丸太のように(ふと)かった腕が根元から截ち切られ、一本も無くなっている。近くには両断された頭が三つ転がり、猛威勇壮であった躰は断面から溢した体液で涙し、一瞬で死に態に様変わりしている。

 

「流石に耐えるね。じゃあ、もう一度だ」

 

 怪物は自らが生んだ血の池で、痙攣していた。我が身に何をされたのかは把握はできずとも、誰がそうしたのかだけは理解した様子で。これまで少年に殲滅されてきた他の“シャドウ”たち同様に。怪物よりも遥かに小さな存在であるはずの少年に、あるいは今さら恐怖の二文字を識ったかのように地にひれ伏し、怯え、見上げている。偶然か無意識か、その姿は慈悲を請う恰好に似ていた。

 

 【八艘跳び】。少年は躊躇わず告げ、武者は容赦なく振るった。

 一振りで八つの斬撃を生み出す剣の極致〈八艘跳び〉が、満身創痍の怪物を斬り刻む。

 致命的に。一片も余さずに。絶滅させる。

 

 ネオミノタウロス亜種は今度こそばらばら(・・・・)になり、断末魔を上げることもできず、最期は砂のように消滅した。

 

「二撃か。もったほうかな」

 

 武者が、役割を終えて虚空に消えてゆく。少年は薄緑を鞘に戻して辺りを見回すが、新たな敵は現れない。何処からか霧が立ち込め、敵と共に押し寄せてくるということもなかった。

 少年が川に近づくと、筒のような丸い“穴”が開いていた。先ほどまで開いていなかったはずのそれは樹齢一〇〇〇年の幹周りほどの大きさがあり、深紅の水を呑んでいる。光が届かないほどに深く、“穴”の底を上から窺い知ることはできない。

 少年が、俄かに振り返った。

 

 河原に、少女が立っていた。一瞬前まで誰も何も無かったはずの場所に、まるで最初からそうしていたかのようにぽつんと佇んでいる。白衣(しらぎぬ)を身にまとい、少年の双子の“妹”と鏡写しの容姿であり、少女の瞳が黄金色であるということを除けば必然的に少年自身とも近似している。

 少女からは、ネオミノタウロス亜種のような瘴気は放たれていない。のみならず、何の気配も存在していなかった。空虚が人型のかたちを得たかのように、活けるものとして当然あるはずの熱が込められていない。

 

「久しぶりですね」

 

 乾いた声で、少年が笑った。

 

「何年ぶりかな。前に会ったのは……」

 

「“娘”が眠りについた」

 

 遮るように、少女が言った。

 

「深い眠りに。もはや、目覚めることはない」

 

「それは。いつ?」

 

「さきほど。あるいは、これから」

 

 超然とした口調。何の感情も含まない声音、敵意さえも込めない(かんばせ)で。

 

これから(・・・・)?」

 

 沈黙。答えはない。

 

「僕が此処に来てから、外ではどれだけの時間が流れたんでしょう。体内時計によると、少なくともあれから一年(・・)は経っているはずです。もし計画が失敗したのなら死んでいてもおかしくはない。でも僕はまだ此処で自我を保ち続けている。肉体が既に滅んでいて精神だけが此処に取り込まれているという可能性は、なくはないですが。今回に関しては、どうも違うという気がする」

 

 ただの勘なんですけどね。少年は、口端を緩めながら続けた。

 

「ただし、〈アドバイス〉の裏付けもある勘です。だからたぶん、此処と外とでは、時間の進み方が違うんだと思うんですが」

 

「此処では」

 

 淡々とした声。

 

「始まりは果てと連れ添い、刹那が永遠を産み落とす。時の流れに意味はない。ゆえに、そなたの行いに意味はない。どれほど“影”を掃おうと、所詮は塵芥(あくた)数多(あまた)ある霧の、雨滴に過ぎぬ」

 

「やっぱり。驚きは無いです」

 

「理解しておらぬとも思えぬ」

 

「ええ」

 

「理解してなお、何故諦めぬのか」

 

「そうですね。気が付けば一年経っても外へ戻る(・・・・・・・・・・・・・・・)方法が見つけられずに(・・・・・・・・・・)“シャドウ”狩りをしているような僕が言うのは説得力が不審だけれど……」

 

 少年は笑ったが、少女は笑わなかった。

 

「僕が諦めるのを見たいがために姿を見せてくれたのだとしたら、残念ですが、あなたのご期待には沿えそうもありません。本当は、飛び込んだ時にはこんなことになるとは思ってもいなかったですけど、ここまで〈不動心〉のおかげでどうにか絶望せずに済んでいますし。“シャドウ”狩りのおかげで、皮肉なことに、現実世界では到底至れなかったであろう成長を遂げることもできましたから」

 

「力をつけた。それで、霧を、晴らせるとでも。どこまでも愚かな」

 

「……ですね。それは、そのとおりだと思います。たしかに愚かだ。あのときの自分は血迷って、本当に馬鹿なことを選んでしまった。そのせいで、巡り巡って、こんなことになるなんて」

 

「ならば」

 

「でも」

 

 今度は僕の番だから。少年は、微笑みかけながら言った。

 

「あの子を、ずいぶん待たせてしまいました。だから僕も、もう少しくらいは我慢しようと思うんです。幸いにも僕らには頼りになる仲間がいるので、なんとかしてくれるはずですし……もう一年くらい経ってだめだったら、そのときはまた考えます。どのみち“シャドウ”を放置することはできないので。そのときには、今よりも強くなれているはずだから」

 

「意味はない」

 

「わかりませんよ。理論と実際は、違うことがまま(・・)ありますし」

 

「意味はないのだ」

 

「どんな実験でも、一度の失敗で諦めていたら、何も証明できませんから」

 

「なぜだ」

 

「なぜって?」

 

 少女が、唇を噛んだ。

 

「僕は、“お兄ちゃん”ですから」

 

「―――」

 

 開きかけた口が、わずかにふるえ、閉ざされた。

 

「愚かな」

 

 吐き捨てるように言うと、少女は踵を返した。その白衣の小さな背に、少年は静かな声をかける。

 

「ご期待には沿えないですけど、また会えませんか。こうやって誰かと話すのって、本当に久しぶりで……あなたに頼むのは、いろいろと筋違いではあるんですが」

 

「次はない」

 

 脚を止めた少女が、振り向かないまま言った。

 

「“娘”が眠りにつき、“(わたし)”と“(わたし)”の均衡は崩れた。どちら(・・・)にもつかぬこのわたしが、おもてに出ることは、もはや無い」

 

「そう、なんですか」

 

「……我が(つま)の片鱗を宿す身の程知らず、外なる来歴をかたる異端者よ」

 

 少女の声からは、感情が消えていた。もしくは、そうと装いながら、少女は告げた。

 低い声で。

 

「もしも、そなたが諦めぬというのなら。手放さぬことだ。そなたが諦め、“(わたし)”を阻む鎖が砕けるとき、そなたの“娘”は、二度と戻るまい」

 

「それって」

 

 瞬きの内に、少女は消えていた。

 何の気配もない。残り香さえも。

 

 少年は再び一人になると、少女の消えた痕をしばらく見つめ、それから川に開いた“穴”と向き直った。“分身”を呼び出す。「【コンセントレイト】【チャージ】【ヒートライザ】【テトラカーン】【マカラカーン】」淀みなく補助魔法を掛け終えると、一つ、息を吐いた。躰から力を抜く。

 

 昏い“穴”を覗き込んだ。

 地面を蹴り、飛び込む。

 

 風。少年の髪が勢いよく舞い上がる。冷たくもなく熱くもない風が全身を打楽器のように叩き、光は無く、頭上の曇天はたちまち白点のように遠ざかってゆく。深紅の水を案内人に、どこまでも落ちてゆく。

 

 

 世界が昏んだ。

 

 

 前方に光が開き、少年は闇から飛び出した(・・・・・)

 最初に視界に現れたのは、一面の青だった。それは蒼天のようでありながら少年を引き付けようとするためあたかも重力が逆さになったかのような錯覚を覚えさせるが、次いで夥しい殺気が少年の肌を刺したことで少年の視野は頭上から迫りくるものを捉えた。

 

 分厚い黒雲が、雷轟を吼えながら燃えている。少年の飛び出した“穴”や深紅の水はどこにも見当たらない。代わりに黄金(ひとみ)を輝かす仮面(かお)が、夥しいほど眼前に迫っていた。黒衣のヒトガタ。柄に包帯を巻いた特大の薙刀を握る異形の“それ”は、落下する少年を追いかけながら青白い雷撃を纏い、突撃してくる。

 

「【セト】」

 

 夜のように黒い龍を虚空から呼び出して騎乗すると、少年はすぐさま反撃に出た。「【マハラギダイン】」数一〇〇を超すイザナギ(・・・・)の電撃魔法が殺到し、少年を守る魔法反射防壁(マカラカーン)は拮抗するものの甲高い悲鳴で砕け散った。稼げた数瞬の隙で黒龍の吐き出した広範囲火炎魔法(マハラギダイン)が先頭のイザナギたちを焼き尽くし、少年は黒龍に加速と回避行動を取らせながら、縦横無尽の視界の中で、味方が墜ちるのを無視して追い縋るイザナギの群れを振り返った。

 

「【マハガルダイン】」

 

 黒龍の周囲が軋み哭く。局所的大暴風が噴出し、イザナギを呑み砕いた。仮面(かお)と黒衣をまとめて粉々にされたイザナギが、薙刀の破片と共に雨のように落ちてゆく。ネオミノタウロス亜種と比較しても防御性能は特別頑丈というわけではなかった。それでも墜ちたのは全体の上澄みに過ぎず、意思を持つ竜巻のように追尾の手が緩むことはない。

 光芒が奔り、寸前に黒龍が急下降して回避した。今度は急上昇で躱すも、黒龍の前方には雲の隙間から伸びる別の竜巻が迫りつつある。【マハガルダイン】。【マハラギダイン】。背後のイザナギを蹴散らし、新たな竜巻であるところのイザナギ群を見据えると、少年は指を銃のかたちにして唱えた。

 

「【ワンショットキル】」

 

 生成された不可視の弾丸が先陣を切るイザナギの躰を食い破り、爆発四散させた。「【トリプルダウン】」後続にも次々と撃ち込んでゆく。上下左右に動き回る黒龍に搭乗しながら少年は冷静そのものであり、狙いは一つも外さず、一体を斃すたび相手の活力と魔力を奪い取っているように精度は落ちない。

 しかし少年が一人であることに対し、イザナギはその数を一〇〇〇倍にまで膨らませた。

 雲の隙間から、更に二つ新たな竜巻が伸ばされる。四つの竜巻は巨いなる何者かの四指のようでもあり、黒龍は縦横無尽に駆け奔るが、今度こそ回避は間に合わない。

 

 雷撃が殺到し、黒龍を呑み込んだ。「―――」眩い輝きの中から、少年と黒龍が飛び出す。半身が灼け爛れ、呻き声を上げるが、意識は手放していない。飛行を続けるが、「風」ならばともかく「雷」に耐性を持たない黒龍の速度は明らかに低下しつつある。

 四指の範囲が着々と狭められてゆく。四方を囲うように竜巻が迫り、黒龍は急上昇を始めた。

 その頭上へ、五つ目の竜巻が降ってくる。

 

「【ヨシツネ】」

 

 少年が絶叫し、黒龍が姿を消した。虚空に身を投げ出した少年を、巨大な竜巻の影が覆い尽くす。

 竜巻同士が激突し、五指が握り潰すように少年を呑み込むと、雷電が炸裂した。

 

 雷鳴が波及し、燃え盛る曇天が激しく揺らめく。

 一〇〇〇体のイザナギが同時に雷撃を発し、完膚なきまでに少年を消滅させようとする。

 

「【“――――”】」

 

 躰を薙刀で刺し貫かれ、雷電に焼き焦がされながら、なおも意識を保っていた少年は、血の泡を吐き圧殺されそうになりながら“分身”に命じた。

 

 【八艘跳び】。

 

 五指の外側に、鎧武者が抜刀して出現した。雷電を持ち前の耐性で無効化してイザナギを足場に立つと、少年を圧殺するのに夢中になっている無防備な敵へ、剣技の極致を披露する。

 

 至上の剣撃。それは雷電を切り裂き、巨いなる五指をも軽々と断ち斬る。

 (いかずち)よりも静かに。雷の如く無慈悲に。鏖殺する。

 

 五指であったものが、ばらばら(・・・・)に吹き飛んだ。少年を傷つけることなく、少年を傷つけるものすべてを斬り裂いた武者は、イザナギが雪のように細かく散って落ちるのを見やりながら、虚空に消えていった。

 縫い留めるものが絶命したことで、少年の身体が落下し始める。鎧武者の代わりに再び黒龍を呼び出して何とか騎乗すると、死に態ながらも()にいたことで絶命を逃れたらしい数体が折れた薙刀を投じた。

 黒龍は躱しざまイザナギの頸を噛み千切り、少年は薄緑を呼び出して頸を撥ねると、雪崩れ込むように着地した。

 かつてはイザナギであった灰が、透明な――下には茫洋の海が広がる――地面に降り積もっている。少年は喉に空いた穴や傷口から血を滴らせながら、獣さながらの【勝利の雄叫び】を上げた。

 

 槍のようになっていた薙刀が抜け落ち、血を蒸発させながら穴が塞がれてゆく。少年は口を拭うと、荒く息を吐いて、辺りを見回した。

 どこまでも灰の降り積もる地面が続いている。果ては無い。

 腐りかけの果実のような匂いが漂っている。誰かの残り香のように。だが誰も気配も無い(・・・・・・・)

 空を見上げる。燃え盛る黒雲に、満天を丸く穿ったような孔が五つ生まれていた。それらは五指の出現した隙間とは異なる極彩の“穴”であり、“此処”へ飛び込んだ時ともまた性質の異なるそれは、既に黒雲で見えなくなりつつある。

 

「行くぞ、【セト】」

 

 傷を癒し終えた黒龍が飛び上がった。他の黒雲の隙間から、再び竜巻が伸びようとするが。潰し砕き、貪り融かそうとする五指あるいは五頭(ごず)(あぎと)が難なく最高速度に達した黒龍を捉えることは、もはや叶わない。

 少年は盛大凄絶な牙を擦り抜け、抉じ開けると、躊躇なく最も大きな“穴”へと飛び込んだ。

 

 

 世界が昏み――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





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 ハッピークリスマス!
















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