人里の実家を飛び出して、しばらく経った。私にも、役割があれば、自分らしさがあれば、きっとうまく生きていけるだろうに──。

実家を出てしばらくした魔理沙の話。
赤ん坊を拾った彼女の判断とは。

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籠鳥、雲を見ず

 雨の音しか聞こえない、梅雨の陰鬱とした空気を吸い込んだあの日。

 感情とはひとつの形を保つことなく水のように廻るが、それは底があるからこそ為せる業である。心の底を無くした私はたまにその箱の側面を濡らしては乾かすのを繰り返していた。箱の側面についたほんの一滴の水滴は、あの頃の私をひとつの感情に執着させることも容易だったのだろう。

 

 実家を飛び出して直ぐに魔法の森に構えた自宅兼霧雨店には誰も近寄らなかった。『なんかします』とアバウトに掲げられた看板はあやしい雰囲気を醸し出していたし、人の住んでいるように見えないボロ屋敷は妖精たちに幽霊屋敷だと揶揄されていた。

 それでも私は看板を下ろすことなく、今でもそのままにしてある。実家を捨てた癖に実家の営む店を思わせる店名は誰からも指摘されなかった。代わりにゴミ同然のあちらこちらに溢れる奇っ怪な品々を思い出したように話題にされる。

 誰と約束したわけでもないのに私の実家の話はタブーとされているのか知らないが、私としては実家を捨てた癖にゴミは捨てられないと前半の部分をわざわざ言わなくてもこっちの方が何も言い返せない。

 

 有り体に言えば私は少女の枠を飛び出すことさえ出来ず親だの実家だのそんなものに捕らわれている自分が嫌いだった。自分以外の自分では変えることさえ出来ない何かに翻弄され続けているのが嫌だった。

 しかし、何処を見ようがそんなものたちの影を自分に見てしまう。堂々巡りの自己嫌悪感は次第に卑劣な感情に変わっていった。

 

 例えば。

 

 例えば、家の中で親父と母が喧嘩して、母が外に出ていく。それは他愛もない買い物だとかであるのだけど、子供の私は母が一生帰ってこないように思われて、すぐさま走って追いかけた。追いかけてきた私に母は「あれ? どうしたの?」と聞く。私はそこでやっと気付くのだ。

 母は、簡単に私達を捨てることは出来ないのだと。その考えにすら至らないのだと。母が私の母で親父の妻であることはそれぞれの役割のように決まっていて、この役割に疑問を持つことはない。

 その疑問を持つ人間とは、つまり、役割を知らない人間だ。私は家の中での役割を悟る前に家を出た。いや、悟っていたが分からないふりをして簡単に家族を捨てた。そうしなければ、捨てることなんて出来やしない。役割を知らないまま大人になることは出来ない。

 

 それなのに大人に成ろうとしていく私の体は無理矢理にでも役割を欲していく。生きている意味なんて大層なものを考える必要はない。それでも此処にいる意味は欲しい。

 親だの実家だの捨てた癖に。ゴミは増えていく。抱えきれない想いばかり、背負って。実家を捨てた癖に。捨てた癖に。捨てた癖に……。

 

 

 

 

 無縁塚というのは幻想郷に縁の無い、つまり外の世界の人間のための墓地だ。例外はあるが大体外来人の骨が埋まっている。

 

 墓地といっても墓は適当な石が幾つも落ちているようにしか見えない。この下に本当に人間の骨が埋まっているのかどうか確かめてみてもいいが、本当に出てきたら仏に申し訳ない。幻想郷という縁の無い所に来て、死んだ後まで不運に見舞われたら報われない。だから止めておく。

 雨の降る無縁塚は空気が澄んでいた。私は黒いレインポンチョを羽織って歩いていた。この無縁塚には墓と骨以外にも外の世界から流れついた物が落ちている。今日はそれらを見に来たというわけだ。

 今日はあまり当たりがよくない。

 本当のゴミばかり拾う。諦めて帰ろうかと思った時、死ばかりのこの場所に似つかわしくない声が聞こえた。私はその聞こえてくるリズムに自分の心拍数が重なっていくのを感じた。雨の音しか聞こえないはずのこの場所に、初めてそれ以外を聞く。耳を澄ませてその声に近づいていくと、丁度雨の避けられる場所にそれはいた。

 

 小さな赤ん坊。

 

 その如何にも柔らかい生き物を見た時、私は思わず逃げようとした。見てはいけないものを見たような気がして、それから自分が関わるべきではないと思った。だが、こいつを見捨てたらもうきっと、誰もこいつを見つけてはくれないだろう。諦めに近かった。

 大木の根元に寝かせられたそいつに手を伸ばす。そっと抱き抱え、唾を飲み込んだ。雨の音が聞こえない。赤ん坊の泣き声が大きすぎて。私は此処にいる、という。レインポンチョを捲り上げると、雨に濡れないようにそれを入れる。

 私は赤ん坊を抱えて走った。

 

 

 

 

「なぁ、こいつ、私達で育てられないかな」

 

 無縁塚から博麗神社まで赤ん坊を運んでくると、霊夢は驚いたというより口を歪ませて黙った。人間はタブーとされるものを無意識に作り上げる。例えば、どうやって赤ん坊が出来るかとか、親が死んだ友人の前での親の話とか──私の実家の話とか。

 霊夢はそういうタブーなものの話をするように赤ん坊のことを言った。かく言う私も一度は赤ん坊を見捨てようとしたのだったが。

 

「無理よ」

「じゃあ、どうするんだ」

「引き取って貰える人を探す」

「私たちで世話出来るかもしれんだろ」

「出来ないのよ。子供が子供の世話見るなんて」

 

 本当は私も赤ん坊の世話なんてするつもりもなかったが、霊夢の気乗りしない態度に反発して何度か文句を言った。子供が子供の世話をするのもタブーなのだ。霊夢は冷たく言うだけでそれ以外何も言わなかった。

 赤ん坊は私たちの思惑も気にせず眠り続けていた。ぷくぷくとした手に指先を持っていくと、予想以上の力強さで握られる。

 

「こいつ、一人で生きていけやしないんだよ」

「だから里親を探すのよ」

 

 霊夢は苛立った様子で私を見ていた。私はそっと赤ん坊の手から指を抜き取り、目をそらした。

 

「あんた、まだ気にしてるの……その、実家のこと」

「……一人で生きてくってのは大変だ。霊夢、よくやるな」

「慣れればどうということはないわ」

「ああ、そうだな。私がいるから」

 

 霊夢はぴくりと反応して私を見た。冗談に、霊夢は先ほどまでの鋭い雰囲気は消え微かに苦笑した。

 外は雨降りで家屋が何か大きなものに包まれているようにしんとしていた。なんとなくもの寂しい気分だ。おセンチな気分ともいうのだろうか。目の前には霊夢と、赤ん坊がいるというのに。それとも、いるからこそだろうか。

 素直に弱音を吐いて見せるような真似をしたせいかもしれない。実家に勘当された、家出したなど双方によりけりな解釈もあるが、そんなことどうでも良かった。

 思えば、霊夢が苛ついていたのは私ではなくこの状況にだったのかもしれない。私と同じように。

 

「霊夢」

 

 赤ん坊に手を伸ばしていた霊夢はゆっくりとこちらを振り向く。赤ん坊は小さな体にそぐわない大きな布団でぐずり、はっとして霊夢はそれを慣れない手つきで抱いた。

 

「そいつがどう生きるか、どこで生きるか、そいつに選ばせないか」

 

 霊夢は赤ん坊の泣き声で聞こえていないのか、同じリズムで揺れ続ける。

 

「なあ。きっと、そいつ外の捨て子だよ」

 

 霊夢。

 

「あんたは、生きる場所自分で決めたの」

「…………」

「生まれる場所、自分で決めたの」

「……いや」

「なら、この子も決められやしないわ。ただ、此処で生きてくだけよ。同じ陽の下でね」

 

 霊夢はまだ揺れ続けていた。後ろ姿の、黒髪が解れた首もとが意外ときちんとしていなくて、必死で赤ん坊の顔を覗き込むそいつを見てぼんやり、生きてる、と思った。

 私は霊夢が羨ましかった。生まれた場所で足掻くことさえ出来ない私は、こいつが羨ましい。自分が何かなんて関係なく生きていたいなんて、私は何度も思っているが。自分が何かであっても自分らしく生きてるなんて、羨ましい。

 私は、私が欲しい。

 なのに、一生手に入らない。

 

「魔理沙。なんかしますって、何するの?」

 

 黙ったままでいると、霊夢が恐々と布団の上に赤ん坊を置いて私に聞いた。「霧雨店の看板に書いてる。あれ、何するの」

 私は一瞬、何を聞かれたのか理解出来なかった。他人の口から“霧雨店”と聞いて別の言語のように、もしくは、実家のことのように聞こえたのが今の私の心を見透かしたようでどきりとする。

 

「……なに、なにって、なんでもやるんだよ」

「なんでもって、なに?」

「……妖怪退治、水道工事、家事手伝いに、ベビーシッターだろ、そろばん教えるし、屋根の修理、暇な時に話し相手になる。肩を揉むし、人探しでも、酒の飲み比べでも、なんでも。なんでも、やるんだよ」

「なんでも?」

「そうだ」

「なんでも、なんて、魔理沙が出来ることなんて、私だって全部出来るわよ」

「……そんなの」

 

 そこまで言って、口をつぐんだ。

 霊夢は私から目を逸らし伏せた。雨の音が、ちらちらと耳をつく。つい、外に目をやって水滴が落ちる一瞬にまばたきをする。「まあでも」

 

「霧雨店の店主さん」

 

 雨が声を吸い込む。霊夢がこちらを見ている気配がした。

 

「依頼するわ。この赤ん坊の里親を探して」

「……は。なんだよそれ!」

「なんでもするんでしょう?」

「いつそんな流れになったんだ!」

「あら、流れなんて知らないわ」

「お前だって出来んだろ!」

「ええ」

 

 霊夢がくすくすと笑う。睨み付けるが、霊夢は飄々として笑い続ける。私は自分の感情の箱を濡らしていると分かっていながら、無視してその箱を持ち上げなければならない。私が意地を張り続ける限り、こいつの言う通りってわけだ。「癪だな」

 

「じゃあやめる?」

 

 それに、霊夢はそれを分かってて言ってる。質が悪い。仕方なかった。私は諦めて髪の毛をかき混ぜる。「はいはい」

 

「了解。一人目のお客さま」

 

 どうせ、持ち上げた箱の底は、もうない。

 

 

 

 

 人間というのは、ものがあると中々断れない。怪我に効く壺、不安に効く御札、動物による穀物被害に効く置物。実際に効かなくても、これですと目の前に出されれば受けとるやつがいるのは事実だ。

 そういうわけで、親の居ない赤ん坊を抱いて人里にやってきた。赤ん坊を抱えた私というのは、どうしようもない訪問販売みたいなものだ。

 赤ん坊は霊夢が調整したミルクを飲んで今は眠っている。借りた傘の下で、私はじっと赤ん坊を抱いて不安になっていた。腕の中にある温かさが私だけの力で此処にいるのが恐ろしく思えたのだ。

 

「……お前も災難だな」

 

 私は初めて赤ん坊に話し掛けた。答えるはずもなく、玩具のように小さな手が宙をさ迷った。

 

「すまんな。お前を見つけたのが私で。だが、全力で里親は探してやるよ。待ってな」

 

 一軒一軒訪ねて聞いてみることにした。歩き出して、商人の家が多い辺りまで来ると当たりをつけて訪ねていった。農家でもいいが、暮らしがいいのはやはり商人の家だ。

 

「ごめんくださーい!」

 

 中から人の声がして、こちらに向かってくる音がした。私はぎゅっと赤ん坊を抱き直し、背筋を伸ばす。がらりと扉が開く。出てきたのはそこそこの年をいった女で、私を見て笑顔を引っ込めた。

 

「……急にすまない、今この赤ん坊の里親を探しているんだが引き取ってくれないか? この子は捨て子なんだよ」

「申し訳ないけど、うちにそんな余裕ないわ」

「なんとか! 手は掛からない子だから頼むよ」

「そんなこと言われてもねえ」

 

 女は困ったように言った。その目が厭らしく此方を見ている。その目で、理解した。そうか、私が抱えてるこいつは誰の子か、ということにしか興味がないというわけだ。狭い田舎のことだ。直ぐに噂は広がるだろう。

 子供が子供を抱えてお守りをするのは珍しいことでもないし、赤ん坊の周りに疑う要素があれば変に勘繰りが生まれるのも珍しくない。

 

「……分かった。面倒かけたな、失礼するぜ」

「ごめんなさいね」

 

 それから何軒か家を訪ねたが、誰も私を相手にしなかった。勘繰って見る者も少ないながらにおり、暫くすると里を歩くだけでひそひそと話されているのを感じた。

 私には赤ん坊の里親さえ見つけられない。きっと、霊夢はもっと上手くやるのだろう。そう思うと悔しくて、躍起になって家を選ばずに訪ねてみたが結果は変わらなかった。

 人通りの少ない道に入ると、地蔵の前に座り込んで赤ん坊の顔を見た。先程から愚図ってうるさい。

 

「……すまねえ。私でなけりゃ、お前が泣くこともねえだろうになあ」

「あー」

「待ってろ。今いいもん見せてやる」

 

 私は霊夢のように赤ん坊の望むことを察して叶えてやることは出来なかった。しかし、私は泣き止まない赤ん坊をうまく雨の陰に寝かしてやり、目の前で両手をパンッと打ってやった。そして、ゆっくりと手を離していく。

 そうすると、星の欠片のようなものが光を落としながら次々と手の中を跳ねていった。さながら、真夜中の彗星。若しくは、線香花火が優しく強い光を持って生まれ変わったようだった。

 

 それは、私の魔法だった。

 

「綺麗だろう。私が魔法使いやってる一番のわけがこれさ」

 

 赤ん坊は生まれて初めて見た光に、泣くのも忘れてしまって夢中で見ていた。手は宙を漕いで、その光を掴もうとする。私は思わずふふと笑い、覚束ない赤ん坊の笑い声に重なった。

 思えば、私は誰かのために自主的に何かをやるなんて今までなかった。『なんかします』と危なげに掲げる看板は、『なんもしません』と言っているも同じだったのかもしれない。実家も少女も人間も、全て放り出して生きていきたいと言いながら、私は何も、選ぼうとはしなかった。

 いや、ただ一つ、選んだ。

 

 魔法。

 

 暫く赤ん坊をあやして立ち上がると、後ろに若い女が立っていた。気付かなかったが、地蔵のお参りにでも来たのかもしれない。私は浅くお辞儀すると、場所を譲った。傘を持ち直し、歩き始める。

 

「あのう」

 

 後ろから、女が声を掛けた。

 

「なんか用か。姉ちゃん」

「その子の里親を探していらっしゃるのでは。里で噂を聞いたもので」

「そうだが」

 

 私はなるべく愛想よく答えた。

 

「でしたら、うちへ来ませんか。私は預かれませんが、そのような者なら幾人か知っておりますから」

「ほ、ほんとか」

「ええ。うちは寺子屋をしていますから、子供が沢山来ます。一人増えたところで変わらぬと仰る親も、沢山いましょう」

「恩に着る!」

 

 私はその若い女の胸に飛び込むようにして礼を言った。持っていた傘は泥の中に落ちる。赤ん坊を力強く抱き締め、体が震えだした時には、崩れ落ちそうになったが、赤ん坊だけは離さなかった。

 女は困ったように私を抱き、雨で濡れないようにしてくれた。

 

 

 

 

 女が案内してくれた部屋に入るまでに幾人かの子供らが彼女を「先生」と呼んだ。私は非日常に入り込んで、手元の赤ん坊を強く抱いた。彼女の後ろについて歩くと、自分までもが小さな子供になった気がする。

 

「どうぞ」

 

 部屋に入り、私が不器用に、用意されていた座布団の上に赤ん坊を下ろすと先生は笑った。私は少し赤くなってその横の畳に座ると、先生は自分の座布団をくれた。貰った座布団に座ると落ち着かなくなる。

 

「随分苦労されたようですね。ただ親切にしていただけなのに」

「いいんだよ、私だからな。私が至らなかっただけなんだ」

「そんなに卑屈になることもないでしょうに」

 

 先生は手際よく赤ん坊の下の世話やミルクをやって、丁寧に体を拭き上げて綺麗にしてくれた。私が出来なかったことを、全部やってくれた。

 

「兄弟はいるか? 先生」

「いえ、私は一人でした」

「ふうん。なら私と同じだ。弟や妹がいたら、私も家なんか出て行かず守ってやりたかったんだ。それがさ、姉さんってもんだろう。姉さんになれば、良かったんだ。そしたらこいつの世話も少しはし易くなるなるよ」

「家を出られたんですか」

 

 聞かれて、私は迷ったが「うん」と頷いた。そもそも、こんな話をするつもりはなかったのに、なんでこんなことを話しているのだろうと思いながら。

 

「里にさ、霧雨店っていう、結構大きい道具屋があんだよ。そこの一人娘だったんだ」

「ああ、彼処のお嬢さん……」

「知ってるか」

 

 急に恥ずかしくなって畳の目を数えた。

 

「ええ、お話程度なら耳にしたことがありますよ。しかし、そんなこと仰って宜しいのですか」

「さあ。私は構わんが、あっちがどうかしらん。話したいから話しただけさ」

「そうですか」

「うん。私は嫌になって出てきて勘当されたけど、あんな家でもさ、ほら、役割、みたいなもんが……あれば、私はずっと……居たんじゃないかなと思うわけだ」

「ふふ、可笑しなことを仰います」

 

 先生は唐突に笑った。

 

「なんでだ」

「貴女は見たところ、里の人間ではないでしょう。ということは、妖怪に打ち勝つ手段を持った人間でいらっしゃる。それで生きてきて、家は嫌になって出てきたと?」

「……そうだ」

「いずれにしろ、貴女は家を出たでしょう。貴女が言う役割というのが、神より人にそれぞれ与えられるものならば、貴女は家の中で役割を与えられたのではないのでしょう。この郷に与えられた。そう考えるのが自然でしょう?

 しかし、私は思いますよ。物は考えようです。

 確かに世には役割というものがあるでしょうが、私達は役割より、家より、郷より、何より、自分の籠の中で、生きている」

「……」

 

 私は黙って聞いていた。

 

「少し説教くさくなってしまいましたね。いやはや、職業病です。すみません」

 

 先生は照れくさそうに笑った。畳から先生に目を向け、じっと見つめた。私は笑うことなんて出来なかった。底が無くなった箱の前で、じいとして、ついぞ動かなかった。「霧雨さん?」

 まんじりともしない私に心配して声を掛けた先生に、私はこう言った。

 

「先生、同じことを友人が言っていたんだ。生まれる場所も、生きる場所も、こいつは選べないって。同じ陽の下で生きるだけだって。言い方は違うが、そういうことだろ。先生も、そうか」

「……ええ」

「博麗の巫女も?」

「ええ」

「私も?」

「ええ」

「……こいつも」

「ええ」

「そうか」

 

 先生は優しく微笑んでそれ以上何も言わなかった。どうりで彼女は先生になったはずだと思った。それから赤ん坊を抱えて出ていくと、子供たちの親と話す声が遠くで聞こえてきた。

 昔母に怒られた時、私が泣いて寝てしまった後、気味が悪い程優しい声で私を夕飯に呼んだことを思い出した。親父は何も言わなかったがおかずの数が一つ少なく、私には一つ多かった。

 私は畳の上に寝転んだ。夕暮れの空を久しぶりにこんなに低い位置から見る。ああ、少しも変わらない。懐かしくなって、私はだんだんと眠くなってきた。雨がいつの間にか止んで西日が眩しい。赤ん坊の声は、遠くなっていく。すうっと生温い土のかおりがして、私はやっと本当に安心した。

 

 

 

 

 後日、霊夢を連れ出して人里に行くとあの時の赤ん坊に会った。八百屋の店主の娘と思われる幼い子が、そいつを抱いて店の前に立っていた。もうそいつは立派に八百屋の子だった。

 

「案外幸せそうね」

「赤ん坊に幸せも不幸せもあるか」

「あるでしょうよ」

 

 霊夢は笑い、依頼の報酬だと言って饅頭を買ってくれた。割りに合わない報酬だが、霊夢が奢ることなんてこの先ないと思って噛み締めておく。饅頭は甘くて美味かった。

 

「そういえばあの看板、まだあるの?」

「看板?」

「なんかします、ってやつ」

「ああ……あれか、まだある。下ろすつもりはないぜ」

「それにしてもなんかしますっていうのは止めた方がいいんじゃないの。適当っていうか、なんでもしますの方が響きがいいじゃない」

「なんでもはしねえんだよ」

「でも、前言ってたでしょ。なんでもするんだって」

 

 霊夢は不思議そうに首を傾げた。

 人里を歩くと分かる。少し前まで私を見てこそこそと話していた人が今では私に何の興味も示さない。噂はすぐ広まるが、すぐ消える。なんて呆気ないんだろうか。

 私は饅頭を袋から取り出すと頬張った。

 

「止めたんだよ」

「止めた? なんで」

「なんでもくそもあるか。いいだろ、なんだって」

「うん、まあ、別にいいけど」

 

 霊夢は不服そうだったが饅頭に夢中になってそれ以上は何も言わなかった。実際、私が看板の『なんかします』の意味を『なんでもします』ではなくそのままの意味として取るようになったことに理由はない。何をするかは私の気儘で、それは私にも分からなかった。

 ただ、もう一つ変わったことがあった。

 誰も気にしないだろうが、私は私で大きなことを決めるように長い間考えていたことだ。

 人里を出て茶でもということで、久しぶりに霊夢が私の家に来ることになった。鬱蒼とした森で、ぽっかりと空が開けた場所に私の家はある。空はからっと晴れて気持ちいい。

 

「あれ、この看板……」

 

 私の家の前で霊夢は直ぐに声を上げた。立て看板の『なんかします』の文字を見て、立ち止まる。私はそれを横目に家の前に進んだ。

 

「“霧雨魔法店”になってる」

 

 私は素知らぬ顔でドアを開けた。

 

「元からそう書いてあるぜ」

 

 私がそう言うと霊夢は呆然と看板を見つめていたが、首を傾げて目を逸らした。私を通り過ぎて中に入ると部屋の至るところにある奇っ怪な品々に声を上げた。それでもう前の出来事は忘れてしまったらしい。私は溜め息を吐いた。

 

「霊夢。紅茶でいいか」

「ええ」

「すぐ用意する」

 

 箱の表面についた水滴は箱を破れやすくし、乾いた時に歪な形に変化させるが、その箱の形も、案外悪くない。

 

「“魔法”で」

 

 私は初めてその言葉を発するように言った。

 目には彗星の明るさが焼き付いている。


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