「ふわあ。よく寝た……6時30分か。こんなに寝たの、いつ以来だろう」
ブラック企業に勤めていたときは間違いなく、こんな朝を迎えたことはなかった。カーテンをし忘れた窓が眩しくて寝惚けた目に染みる。だけど小さな幸せを浴びているみたいで、ちょっぴり嬉しくなる。いままで朝のことが嫌いだったから余計にそう感じる。
「昨日は楽しかったな……ちょっと飲みすぎちゃったかもしれないけど」
頭が痛む。けっきょく僕はワインを二三呷った。アルコールが弱かったから良かったものの、本場の代物だったらデッドエンドを迎えていたかもしれない。主に吐き気的な意味で。身の丈に合った飲み方をしないとね、お酒は。
「そういえば、一ノ瀬さんは大丈夫だろうか。カクテルで酔うって言っていたし」
部屋の扉を開けると、赤が多すぎてちょっと眩暈がした。そういえば、椛館に泊まりに来ていたんだっけ。1泊2日で6980円という格安なお値段での宿泊。その理由は3年前に起きた殺人事件が要因らしいけど、よく分からない。
「んん? なんだこの異臭は……」
基本的にこの椛館は、高級感に包まれたような良い匂いがするんだけど、その奥で微妙に鼻につんと来る刺激臭みたいな臭いがしていた。おかしいな、昨日まではこんなことなかったはずなのに。
「おはようございます、近衛さん。よく眠れましたか?」
「おはようございます、蜜屋さん。お陰さまでとても気持ちのいい朝を迎えることができました」
廊下の角から蜜屋さんがやってきた。さすがはオーナー。朝が早い。ごはんの用意をしているらしい。エプロンと三角巾を装備している。そのセット、保育園とか小学校でしか見たことないけど。
「あの、蜜屋さん。失礼ですが、なんだかこの辺くさくないですか?」
「くんくん……確かにちょっと臭いますね? ガス漏れでしょうか。ちょっとボイラー室を見てきますね」
「あ、それなら僕も行きますよ。ひとりでこの館のことを色々するのは大変でしょうし」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて……と言いたいところですが、オーナーとしての沽券に係わりますので、わたくしひとりでレッツラゴーしてきます」
腕まくりして張り切っている様子だったので、同行することはできなかった。まあいいや。ボイラー室へ向かう蜜屋さんの背を眺めたあと、大広間へと歩を進める。
「さすがに誰も居ないか……ってあれは一ノ瀬さんか?」
何やらバケツらしきものを持ってきょろきょろしながら、どこかへ行こうとしているのが窺えた。なんとなく怪しい。後ろから呼びかけようと思って近づく。一ノ瀬さんの肩に手を掛けようとして、ふいにどこかで大きな音がした。
「うっひゃああ!? え、なに!? こ、近衛クン!? どうして私の後ろに……!?」
「いや、あの……ちょっと驚かせようと思って忍び寄ってみたんですけど」
「心臓に悪いよ、近衛クン! おしっこ漏らしちゃったら、どう責任を取ってくれるのさ!?」
その歳で漏らすとしたら、さすがに土下座しないとな――っていうか、それよりも。
「それより、一ノ瀬さん。さっきの音って!」
「うん。若いメスの声……金橋さんか蜜屋さんの喘ぎだね。木村くんがハッスルしているのかな?」
一ノ瀬さんのくだらない冗談は、ムーディよろしく右から左に受け流しておいて――若い女性の声であることは間違いない。だけどそれは喘ぎなんてレベルではなく、むしろ悲鳴に近いものを感じた。なんだか嫌な予感がする。
「声の響き方的に地下じゃないの? 近衛クン、急ごう。胸騒ぎがするんだ」
珍しく神妙な表情の一ノ瀬さんを見て、この状況が普通じゃないことを悟った。いったい、地下で何があったんだ。悲鳴を上げた人は大丈夫なのか。正体不明の不安が高まっていくなか、僕らは声の主のもとへと急ぐ。