「それじゃあ、わたくしは夕食の準備がありますので、これにて失礼させていただきます――では、素敵なシルバーウィークをお過ごしくださいませ」
「蜜屋さん。案内してくれてありがとうございます」
クールな笑みを浮かべ、彼女は階段を下りていく。若きオーナーは忙しいみたいだ。それなのに僕ときたら、ここまで来るのにもう疲れた。夕食まで寝ようかな、と馳せるくらいに。もちろん、個性が強い人たちのせいでもある。
「さて、近衛クン。ここに鍵がふたつある。7号室と8号室だ。どっちがいい?」
「そんなの、どっちでもいいですよ。なんなら、見てから決めます?」
「じゃあ、広いほうが私の部屋ね。きみには余りものをあげようじゃないか!」
どちらもあまり変わらないと思うけど、一ノ瀬さんは子どもみたいに燥ぎながらふたつの部屋を吟味して回った。多少の違いはあれど、広さはほとんど同じ。
「うーん。もうめんどくさいから相部屋にする?」
「それだけは絶対に嫌です。いろいろあって疲れたので、僕はこれで」
「あっ、せっかくの乙女の好意を……! さてはきみ、童て――」
彼女がくだらないことを言っている間に、僕は8号室の鍵を手に取り、部屋をあとにする。自室となった余りものの部屋へと入るのと同時に、ため息を吐く。
――何なんだ、あの人は。
そのまま荷物をベッドへと乱暴に投げ、壁に凭れ掛かる。もともと人間関係が嫌になってわざわざここまで来たのに、どうしてあんなに馴れ馴れしいんだ。
なんだか神さまみたいな、得体のしれないものがこう教えてくれているみたいだ。『人間である以上、人間からは逃れられない』――自分でも何を考えているんだか。
意味のない問答を頭のなかで悶々と流しているうちに、ドアベルが鳴った。ふと一ノ瀬さんの顔が浮かんだが、無視する訳にもいかないので、ドアを開ける。
「やあ、近衛クン。20分ぶりだね。正確には17分53秒だけど、20分でいいよね?」
「……なんの用です? せっかくゆっくりしていたのに」
蜜屋さんだったらよかったのに。やっぱり彼女だった。
「まあまあ。疲れているのも分かるけど、私の相手をしてくれよ。あ、いまの発言に性的な意味はないからね? あくまで暇を潰せるような相手っていう意味でっ」
「そんなの、補足されなくても分かりますよ。暇ならゲームでもすればどうです?」
「遠出したのにわざわざゲームなんてしないよ。ねえ、いま暇?」
「確かに暇ですけど、あなたとは過ごしたくないです」
この人と居ると、とても疲れる。
「……それは嘘だね。きみはいま、人間の温もりを求めている。違うかい?」
ふざけた発言だ。僕のことも知らないくせに、何を出しゃばっている。行き場のない怒りやイラつきを隠したまま、あくまで平生を装って冷静に答える。
「……あなたに何が分かるんです? まだ出会って3時間くらいでしょう?」
「過ごした時間は関係ないよ。私はね、基本的に困っている人が居たら助けるタイプなんだよ。初任給をすべて赤い羽根募金に使おうとしたこともあるくらいにね」
それはどうなんだろう。辛うじて穏やかな内面で吟味する。信憑性がない。それに、この人はいつだってふざけている。どうしていま真剣な眼差しで僕を見るんだ。
「だいたい僕が困っているだなんて、決めつけもいいところですよ」
「決めつけなんかじゃないさ。ちゃんとした根拠に基づいている」
根拠だって? そう問う前に一ノ瀬さんは口を開く。
「きみは冷静に努めているようだけど、感情が顔に出ているんだ。ポーカーフェイスをしているつもりなんだろうけどさ。さっきだって私が訪ねたとき、嫌な顔をした」
「……よく言われます。ババ抜きも人狼ゲームもそのせいで勝てないんです」
「悲しかったよ、私は。まさか魔法石を7個使うガチャで☆5のキャラが出てきたときみたいな顔をされるとは。私なんて可愛いし、当たりだと思うんだけど」
顔面だけで言ったら、たぶんそうなんだろう。しかし、この世のなかは往々にして、見た目よりも内面が重視されることが多い。綺麗な薔薇には棘があるように、虫の食い荒らす野菜が美味しいように、一ノ瀬さんは残念な女性なんだ。
「とにかくさ。悩みがあるんだったら、私に話してみなよ。カウンセリングは専門職じゃないし、よく分からないけど、捌け口にされるくらいなら任せてよ」
――もちろん、性的な意味じゃないよ。
その後付けさえなければ、僕は完全に一ノ瀬さんと連絡先を交換する仲になっていた。彼女の言葉を借りて補足するなら、これももちろん、性的な意味じゃない。
「……はあ。厚顔無恥とは、あなたのためにあるような言葉ですね、まったく」
「お。ツンデレで言うところのデレかな? そしてそのままベッドに――」
「そんなことを言うなら、いますぐドアを閉めてあなたの足の小指をポアしてもいいんですよ? それとも、僕の膝カックンをお見舞いしてあげましょうか?」
「受けたくないと言ったら嘘になるけど、いまはきみの心情を吐露するシーンだから、自己主張は控えめにしておくよ。それに、小指ポアだけは地味に痛いから嫌」
一ノ瀬さんがふざけているおかげで、なんだか気が楽になった。もしかしたら、その効果を狙っていたのかもしれない—―なんて、考えすぎだよな、きっと。