「実は僕、とある企業に勤めていたんですけど、辞めたんです」
「いま流行りのブラック企業ってやつ? 低賃金過酷労働でお馴染みの?」
「お馴染みかどうかは知りませんけど、ブラックなのは違いないですね」
ただ、給料や福祉厚生なんかはそれなりに充実していて、過酷だったとはいえ、慣れたら難しくない作業だった。単純で、誰にでもできるような退屈な――。
「社長がワンマンパワハラ野郎で、従業員のほとんどが喫煙者で、なにか問題が起きたら僕のせいになるんです。新入社員の目の前で怒られて、さんざんでしたよ」
「
「口喧嘩、ですか……すごいですね。僕なんて何も言い返せませんでしたよ」
「どうして? 自分は何も悪くないんでしょ? 脳死で無意味な駄文を聞かせられてムカつかなかった? 私ならむしろ10倍くらいにして返すけどね。まあ、そのせいで辞職に追い込まれたけど、いまでもその選択は間違っていなかったと思うよ?」
ふざけているだけの人かと思ったけど、意外に芯は通っているんだな。辞職に追い込まれたエピソードが気になるが、これ以上のプライバシーの詮索はやめておく。
「ありがとうございます、一ノ瀬さん。おかげで少しだけ楽になった気がします」
「それは良かった。じゃあ、私の相手をしてくれるよね?」
「ごほごほ……持病がぶり返しちゃったので、今日はこの辺で」
「仮病なのは分かるよ。ねえ、そんなに私ってめんどくさいかな?」
面倒というより、関わりたくないというのが、本心に近い。悩みを聞いてもらった身でおこがましいのは承知だが、夕食までの時間はひとりで過ごしたい。
「でもさ、近衛クン。よく考えてみてよ。合コンとか婚活パーティーで理想の条件に見合う相手を必死に品定めしている29歳独身OLよりかは幾ばくかマシじゃない?」
「それ、誰のことを言っているんです? やけに限定的ですが」
「お願いだよぅ。知らない場所にひとりで居るのが心細いんだよぅ~」
「うわっ、急に抱き着かないでくださいよ……気持ち悪い!」
毛虫みたいにまとわりつく一ノ瀬さんを無理やり剥がす。ふいに学生時代のアルバイトを思い出す。アイドルの握手会だったっけ。女性アイドルに群がる不潔なおじさんたちを剥がしていた。――そういえば、あれは汗くさくて最低な現場だったな。
そのぶん、一ノ瀬さんは身体的な意味でまともだ。汗くさくないし、清潔だ。あえて言うなら、不潔なおじさんたちとの共通点は抵抗してくるところだろう。
「さすがは、近衛クン。大抵の男は抱き着いただけで委縮するというのに、ダメージゼロだ。まあ、彼らのシンボル()だけはむしろ、いきり立っているんだけどね」
「あの、一ノ瀬さん。自分でも理解していると思うんですけど、下ネタはやめたほうが良いですよ。それで喜ぶのは、性癖が歪んでいる買春おじさんくらいです」
言いながら、少しだけ部屋を片付け、準備を済ます。この人との問答はRPGで言うところの王さまとのやりとりに酷似している。いつかのパワハラを想起させるが、一ノ瀬さんのそれはまだかわいいほうだ。
「さあ、近衛クン。探索だ!」
「――うぎゃあ!」
一ノ瀬さんが扉を大げさに開けると、悲鳴のような声が聞こえた。開け放たれた扉の先には、頭頂部の眩しい初老の男性が倒れているのが窺える。どうやら、彼女はドアの前にちょうど居た彼に、悪質なタックルをしてしまったらしい。
「す、すみませんでした! お怪我はありませんかっ」
「なんなんだ、お前ら! 社会の功労者に向かって出会い頭にひどい仕打ちだな!?」
咄嗟の勢いで初老男性の下に駆け寄ったが、差し伸べた手を払いのけられ、おまけに傲慢な暴言を吐かれた。なんだか募金したお金を横領されたかのような、やるせない気持ちになる。いつかのパワハラを想起させるし、精神衛生的に最低だ。
「謝らなくていいよ、近衛クン。どちらかといえば、悪いのは私のほうだしね。それに、彼は大丈夫だと思うよ。どうせ、老害にありがちなオーバーリアクションさ」
「生意気なメスガキめ! 俺さまは被害者だぞ!! 誠意をもって謝れ!!」
「怪我もしていないと思うよ。いや、毛がないと思うよ。自明だけど」
「この頭は限りある人生のなかで、俺さまが優秀な頭脳を使ってきた証拠だ! 毛の抜け切っていないメスガキには永遠に分からないことだろうがな!!」
「出た~、年功序列マウント! 人生の先輩ぶる老害に限って、そういうつまんないことほざくんだよね。あー、やだやだ。それ、あんたの頭くらい寒いよ?」
こうして、一ノ瀬さんと初老男性の不毛な争いがゴングを鳴らしたのだった。止める気は起きない。いまとなってはもはや、両成敗でいいじゃないのかと思う。