-------シェルター
お兄様が駆けだしてすぐ、桜井さんが私の顔を見て話しかけてきました。
「あの、よろしいのでしょうか?」
「何がでしょう?」
どうも私の思考力は居眠り中なのか脱走中なのか、さっきから思うように働いてくれない。だから桜井さんが何を言いたいのかも理解出来なかった。
「いくら達也君の腕が立つといっても、戦争に行くなんて……それも、最前線に飛び込んで行くなんて危険過ぎはしないでしょうか」
「っ!」
囁くような桜井さんの声は、耳元で大音量の目覚まし時計を鳴らされたように私には聞こえました。
(そうよ! 何を私は平然と見送っているの? お兄様が戦争の真っ只中に飛び込んで行こうとしているのに!)
走り出そうとしていた私はすぐに留まることになりました。私の隣に寝ておられる尽夜さんを放っておけない。二択の葛藤に私は頭を悩ませます。
「……行きなさい」
か細い声が私の隣下から聞こえました。幻聴だとは思いません。私がなによりもお聞きしたい声だったから。
「……尽夜さん」
「……深雪、この前教えたよ?正直になりなさい。失ってからじゃ遅いんだよ」
この言葉に私はハッとなりました。でも、まだ動くことはできませんでした。それを見かねた尽夜さんは動き辛そうになんとか起き上がり、いつもの様に優しい笑顔で私の両頬を包んだ。これまでも違うことと言えば尽夜さんの顔がとても近くに感じられました。……それも段々と距離が縮まっている?
「……」
「えっ?じ、尽夜さん……!?」
反射的に目を瞑っていました。体が芯から瞬間に沸騰するような感覚に覆われ、力をギュッ込める。
そして私が予想していた場所ではない額に柔らかい感触がした。しかし感触の正体は考えなくても分かります。目を見開いて、離れていく尽夜さんを視界に捉えます。
「……さあ、行っておいで」
何故か、とても嬉しいけれど恥ずかしい。普通は動けなくなるような事だと思いましたが私の体は軽く、尽夜さんの言われた通り、お兄様が出て行った扉へ向って走り出しました。
道中、先程のことが頭から離れませんが、今は、尽夜さんから言われた通りお兄様を止める為に私は全神経を使う。お兄様を戦争の真っ只中に行かせたくないという思いを胸に、私は足を動かした。
幸いにして、お兄様はまだそんなに遠くには行っておらず、私は道に迷う事も無くお兄様に追いついた。
「お兄様!」
息を切らして追いついた私に、もしかしたら振り向いてくれないかもしれない。そんな恐れが意識を過ったけども、それはいくらなんでも杞憂だった。お兄様は先行する真田中尉に何か小さく一声掛けて、足を止めて振り向いた。中尉さんは少し進んだところで立ち止っている。多分私たちに気を使ったのだろう。
「深雪、どうした?」
「お兄様、あの……」
「深雪?」
忘れようにも忘れられないあの事が頭をぐるぐる巡り、多分私の頬はこの状況にそぐわない熟したリンゴのように真っ赤になっているだろう。
「……い、行かないでください。敵の軍隊と戦うなんて危ない事はしないでください。お兄様がそんな危険を冒す必要は無いと思います……」
それでも言わない訳にはいかないし、引き留めない訳にもいかなかったので私は言った。何処か「これで大丈夫」だという達成感に包まれた。
お兄様が私の言葉に首を振るなんて……首を横に振るなんて私は微塵も思っていなかった。
「確かに必要は無い。俺は必要だから行くんじゃなくて、そうしたいから戦いに行くんだよ、深雪」
だからお兄様のこの回答はショックだった。拒否された事もショックだったし、まるで人殺しを望んでいるみたいな言い方もショックだった。
「さっきも言った通り、俺はお前を傷つけられた報復に行くんだ。お前の為じゃなくて、自分の感情の為に。そうしなければ俺の気が済まないから。俺にとって、本当に大切だと思えるものは、今のところは深雪、お前だけだから。我が儘な兄貴でごめんな」
私の手を包みこんで諭すように言うお兄様の瞳には、それでも私のために、と仰っているような感じがして、それは私の思い込みじゃ無かった。
困惑の表情を浮かべたまま、お兄様が私に笑いかけてくれた。
でもすぐに、お兄様の言葉に違和感を覚えて眉を顰めた。
「大切だと、思える……?」
無意識に口をついて出た、質問にもなっていない私の呟きに、お兄様は「参ったな」と言いたげな苦笑いを浮かべた。その表情は笑っていながら泣いているようだった。
「申し訳ありませんっ!」
「いや……お前もそろそろ知っておいて良い頃だ。知らずに済むなら、ずっと知らないままにしておいてやりたかったけど……お前が母さんの娘で、四葉真夜の姪である限りそういう訳にもいかないんだろうな」
「お兄様?」
「今は時間が無いし、俺から話して聞かせるべき事でもないと思う。だから深雪、母さんから教えてもらいなさい。今、お前が疑問に思った事の答えを」
「お母様に……?」
訝しさを覚える余裕も無く、ただオウム返しに訊ねる私に、お兄様は力強く微笑んでくれた。
「深雪、心配するな。俺が本当に大切だと思えているのはお前だけだ。だから俺はこれからもお前の事を守り続けるし、その為に無傷で帰ってくる。大丈夫、俺を本当の意味で傷つけられるものなどおそらく一人しか存在しない」
お兄様の言葉に嘘は無い。その場限りの気休めは無い。笑みを収め引き締められたお顔の中の、揺ぎ無い眼差しに、これは紛れもない真実だと、お兄様を害する事が出来るものなど何処にも存在しないのだと信じられた。
お兄様は私の頭をクシャクシャと撫で、今度こそ戦場へと向かわれた。
----------シェルター
深雪を達也の元へ向かわせてから尽夜は再び仰向けになった。周りの国防軍の人達は移動の準備をし始めて、深雪が戻るのを待っていた。
「……もう貴方には敵わないわね」
そこへ深夜が声を掛ける。
「いえ、そのようなことは……」
「謙遜はよしさない。少なくとも先程の様な事は私にはできません」
深夜は無表情に淡々と事実を口にしている風だった。
「……すみません」
尽夜はバツが悪そうに顔を背けた。
「……あと数年もしたら『あれ』も解かれるのかしらね……」
深夜は尽夜から目を離してどこかを見ている。その表情からは何を考えているのかは読み取れない。『あれ』という代名詞に側にいた穂波は疑問を抱く。しかし結局は口を挟めなかった。彼女を置いてけぼりにしたまま会話は続いていく。
「……それはありえません」
「……それは、できない、という意味かしら?」
「いえ、しない、という意味です」
「……なら、寿命はどうする気?」
「どうもしません。それは『終わり』を意味しますから」
「……そう」
二人の会話は不明瞭な事が多く、穂波は全く理解ができなかった。
「叔母上」
「なにかしら?」
深夜からの話題を切り、尽夜は真剣な顔で話し始めた。
「折角の機会ですので、聞きたいことがあります」
「いいですよ」
「では、叔母上。貴方は、いつまで隠し続ける気ですか?」
その言葉は深夜の表情を険しくするだけの効果があった。彼女は尽夜に鋭利な眼差しを突き刺す。睨み合いはしばらく、深夜が口を開くまで続いた。
「……やっぱり貴方には無意味ね」
「お褒めの言葉として受け取っておきます」
尽夜は一礼して応えた。
「……まあ、いいです。回答ですけれど、お墓まで持って行くつもりよ。私にはその資格がないもの……」
穂波はこの言葉を発した自分の主の姿に驚愕した。
普段何も関心がないような深夜に、自分が仕えてから初めて人間的な情動の変化を見て取れる。それが穂波にとって何よりも珍しいことだった。
「あの子達を愛せない私は醜いでしょう?」
「いいえ、なんとも思いません」
「ふふ、でしょうね」
意味の分からない言葉はこの場にいる誰もが聞いていたにも関わらず理解できた者はいなかった。
「………お待たせしてしまって申し訳ありません」
その時ちょうど深雪が帰ってきた。
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私は兄を見送ってからお母様たちの待つシェルターへ帰って来ました。
「お待たせして申し訳ありません」
「深雪さんが謝る必要は無いわ。勝手な行動をした達也を連れ戻しに行ってきてくれたのよね?それで、達也は何処に?」
ニコヤカに尋ねるお母様はかなり怒っていらっしゃるご様子。
「あの……お兄様はそのまま戦場に向かわれてしまいました」
「お兄様?」
私のお兄様に対する呼び方に引っかかりを覚えたのか、お母様からはただならぬプレッシャーが放たれました。私はその事に気付いて、少し失敗したような表情を浮かべていました。けれど言い直すことはしません。
「護衛対象である深雪さんを放っておいてそんな勝手な事を……やっぱりあの子は欠陥品ね」
お母様が「はぁ……」ため息を吐かれながらおっしゃられたのは突き放した、見切ってしまったセリフだった。私は義憤にかられるよりも、ゾッと背筋に嫌なものが走った様な感覚に陥った。
(……自分の子に対してどうしてここまで非情になれるの?)
私はそう思い呆然となった。
「まあ、いいわ。今回はそれなりに働いてくれたことだし、好きにさせましょう。お待たせしました、案内してください」
お母様は案内の為に待っていた兵隊さんに声を掛けた。私はお母様のお兄様に対する「それなり」という評価に口を挟めなかった。
防空司令室は装甲扉を五枚通り抜けた先にあった。窓が無い、どころか直接外に面している壁も無い。学校の教室四個分くらいのフロアで、中は三十人前後のオペレーターが三列に並んだコンソールに向かって座っている小ホールと壁からホールの大型スクリーンに向かって突き出した八つの中二階個室からなっていた。
私たちは前面がガラス張りになった個室の一つに通され、私は肩を貸していた尽夜さんを椅子に座らせた。
「盗聴器や監視カメラの類は見当たりません。どうやら高級士官や防衛省幹部の視察用の部屋みたいですね。それから前面のガラスは唯のガラスではありません。警視庁にも同じものがありました。この司令室でモニターしている任意の映像を映し出す事が出来るものです」
どうやって調べたのか分からないし、私には普通のガラスにしか見えなかったけれども、桜井さんが言うことは信頼できる。
「お母様、一つ教えていただきたい事があるのですが」
桜井さんが卓上モニターを見ながらコンソールを操作している間に、私は思いきってお母様にさっきの事を訊ねてみる事にした。
「お兄様が先ほど、本当に大切だと思えるものは私だけとおっしゃったのですが……何故『大切なもの』ではなく『大切だと思えるもの』なのか、理由をお訊きしたところ、お母様に教えていただくようにと……」
「そう、達也がそんな事を」
私の質問を眉を顰めながら聞いていたお母様が、つまらなそうにそう呟いた。
「……そろそろ教えてあげても良い頃かしらね」
そしてお兄様と同じ様な事を仰った。そこに何か重大な秘密を感じて、私は緊張に身を強張らせた。
「でもその前に……深雪さん、達也の事を『お兄様』と呼ぶのは止めなさい。他人の耳目がある場所では仕方のない部分もあるから構わないけど、四葉の者だけしかない場所で達也を兄として扱うべきではないわ。貴女はもしかしたら真夜の後を継ぐかもしれないのだから、あのような出来そこないを兄と慕い依存しているなどと見られるのは貴女にとって大きなマイナス点となりかねない」
「そんな言い方……! 実の子に対して出来そこないなんて!」
私は思わず遠慮を忘れてお母様に喰って掛った。
「私も残念だとは思うのだけど、事実だから仕方ないわ」
「そんな事ありません! お兄様はそのお力で尽夜さんを助けてくださいました!」
「さっきの事? そうね、あの程度の事はやって見せてくれないと……あの子は、あれしか出来ないのだから」
私の精一杯の反論に、お母様は今まで聞いた事の無いくらいの冷淡な声で答えた。それはすっかり諦めきっている様な声色だった。
「達也が貴女に話して聞かせるべきだと言ったのなら、私は別に構いません。そうね、何から話してあげましょうか……」
不意に、壁いっぱいの窓は映し出す風景を変えた。桜井さんが操作を終え映し出してくれたのだ。私は桜井さんに目を向けた。彼女は無言で私たちを、私とお母様を見ていた。
彼女に口を挟むつもりが無いのは、訊いてみる迄もなく明らかだった。彼女が私の知らない多くの事を知っている、と言う事も。
「達也は、魔法師としては欠陥品として生まれました」
お母様は何処か遠くを、過去を振り返るような目をされていました。
「あの子をそういう風にしか産んであげられなかった事には責任を感じないでもないけど、達也が魔法師として如何にもならない欠陥を抱えている事は事実。達也は生まれつき二種類の『魔法』しか使えません。
反論の言葉は思い浮かばなかった。
「でも私たち四葉は十師族に名を連ねる魔法師で、魔法師でなければ四葉の人間ではいられない。魔法が使えないあの子は四葉の人間としては生きられない。だから私たちは、私と真夜は七年前、あの子にとある手術を施す事にしました。もっとも、あの実験の動機はそれだけではなかったのだけども……」
実験? お母様がお兄様に?
「人造魔法師計画。魔法師ではない人間の意識領域に、人工の魔法演算領域を植え付けて魔法師の能力を与えるプロジェクト。その精神改造手術を達也に行った結果、あの子の感情に欠落が生じてしまったのです」
人造魔法師計画、その単語は私の耳の中で不吉に響いた。そしてお母様の言った言葉に首を傾げた。
(精神改造手術? 感情に欠落?)
「いえ、感情と言うより衝動と言った方が適切かしら。強い怒り、深い悲しみ、激しい嫉妬、怨恨、憎悪、過剰な食欲、行きすぎた性欲、盲目の恋愛感情……そういう『我を忘れる』ような衝動を、残った一つだけの例外を除いて失ってしまった代わりに、達也は魔法を操る力を得ました。ただ残念ながら人工魔法演算領域の性能は先天的な魔法演算領域の性能に著しく劣っていて、結局ガーディアンとしてしか使い物になりませんでしたが」
まさか、と思った。そんなはずない、と思った。
「その『手術』を……お母様がなさったのですか?」
そう思いながら問い返さずにはいられなかった。
「私がしたのはほんの一部、大部分を任されたのは貴方の隣にいるわ」
私はバッと隣を向いた。そこには尽夜さんがスクリーンを見つめている。私はただ否定して欲しかっただけなのに、現実は想定を遥かに超えるショックと共にやって来た。
魔法演算領域は、大脳にそのような器官があるのではなく、つまるところ精神の機能の一つ。人工の魔法演算領域を付加すると言う事は、精神の構造を改変するという事。それはお母様だけの魔法だった『精神構造干渉』を使わなければ不可能な事……。それを尽夜さんも使えて、おそらくお母様の口ぶりからではお母様以上の腕を持っている?
「……何故、そんな事を」
「理由は既に説明しました。それより貴女が知りたがってた事をにお答えしましょう」
(ああ、そうなのですか……)
私にも解ってしまった。気づいてしまった。その実験で感情の一部を失ってしまったのがお兄様だけではない事という事に。
それが魔法の副作用か、それとも罪悪感かもっと別の精神作用によって引き起こされたものなのかは分からないけど、私は初めて『魔法』に恐怖を覚えた。人の心をこんな風に、残酷に変えてしまう『魔法』に対して。
スクリーンの中では、お兄様が大型拳銃そっくりのCADを敵兵に向けている。お兄様の視線の先で、敵兵が次々に塵と化していく。
「達也が完全に失わなかった例外……それが答えです。あの子の中に残った唯一の完全な衝動は、兄妹愛。妹、つまり貴女を愛し、護ろうとする感情。それがあの子に残された、唯一の本物の感情なのですよ」
途中で声を上げてお母様の言葉を遮りたかった。訊かなければ良かった、訊きたくなかった。そんな事を言いたかったが、そんな事が私に許されるはずも無かった。それが分かっていたから、無意識に口を両手で押さえたのかもしれない。もしくは条件反射か。悲鳴なんて出てこないくらい衝動を受けていたから、口を押さえなくても声は出なかったのかもしれない。
「達也は自分の事を良く知っていますから。『大切だと思える』というのはそういう意味でしょう。私の事はただ『母親』と認識しているだけで、そこに当然付随すべき親子の愛情は存在しません。達也が心から大切だと思えるのは、深雪さん、貴女だけです。」
「お母様はそうなる事を……意図的に選ばれたのですか?」
自分が訊ねているのに、他人が喋ってる様に聞こえる。私ではない私が、私の身体を動かし私に質問させているような感覚さえある。
「そこまでハッキリと意図した訳ではありませんけどね。ただ、キャパシティの関係で残せる衝動が一つだけであるなら、それは貴女に向ける愛情であるべきだと考えていましたよ。私よりも貴女の方が、達也と共に在る時間は長いのですから」
「それをお……いえ、あの人にお話しになったのですか」
「もちろん話しましたよ。あの子はあれで常識に拘っているところがありますからね。親に愛情を抱けないなんてつまらない事で悩む必要はありませんから」
そうおっしゃられた時、微かに、子供に愛情を抱けないお母様の苦悩が垣間見えた気がした。
「まだ何か、訊きたい事はありますか?」
「……ではもう一つ……尽夜さん…尽夜さんには影響は無かったのですか?」
お兄様の実験に一部のみ担当したお母様ですら精神に異常をきたしているのに大部分を担当した尽夜さんに私が見る限りではそのような疾患が見られないことを不思議に思った。
当の尽夜さんはスクリーンに映る兄の姿を見続けており、私とお母様の会話に入って来ない。目も向けられることなく、仕方がないため、お母様に聞くことにした。
「……あの実験では私が見る限り達也のような感情の欠落などは出ませんでした。尽夜さんは私以上に、いえ、私など足元にも及ばない程の『精神干渉魔法』を使えますから。まあ、意図的に私達にそう見せないようにしているだけかもしれませんけれど…」
お母様は、尽夜さんは大丈夫とおっしゃられたことで私の中で少しの安堵が訪れました。
「しかし、尽夜さんは達也以上の爆弾をある意味抱えている状態です」
「爆弾?」
深夜は深刻そうな顔をしていた。
「今は真夜のお陰で大丈夫ですけれどね」
私はお母様の言う『爆弾』がなんであるか分からない。
「……お母様、『爆弾』とは?」
恐る恐る尋ねました。
「それは今の貴方には話すことはできません。お話したとしても受け入れられないと思いますから。これは然るべき時に然るべき人から聞きなさい」
そう言ってお母様は尽夜さんから目線を外す。もう、お母様がどこを見ているかも分からない。
お兄様が戦線に参加してから大亜連合の地上部隊が制圧されて、捕虜の移動を開始していた時、迎撃部隊の慌ただしい撤退が開始された。それは敵の別働隊、多数の艦隊が粟国島北方から接近して来たからだ。
スクリーンに映し出される撤退の風景に動かない影が3つ。司令部の人達はその三人に通信を通して怒鳴り散らしています。私はその内の1つが見知った顔、つまりお兄様であると認識した時、息を呑んだ。
しかし、言葉が出ない。誰かに助けを求めるということも憚られるという刷り込まれた精神を私は恨んだ。一番頼りになる尽夜さんは今は絶対に動けないからどうすることもできなかった。
「奥様、お願いがあります」
すると桜井さんがお母様に願い出て、チラッと私を一瞥した。
「なにかしら」
突然の事だったにも関わらず、お母様の声には少しも不自然なところが無かった。まるで穂波の『お願い』の内容まで既に知っているような口調だった。
「達也君を迎えに行きたいのですが…」
私の桜井さんを見る目は、大きく見開かれていました。
「それは、今、あそこに、迎えに行きたいという事?」
「はい」
「穂波、貴女は私の護衛なのだけど?」
その貴女が私の側を離れるの? とお母様が言外に問う。お母様としては当然の問い掛けであり、桜井さんとしては答えられない問い掛けだった。
「……す「まあ、いいわ」」
お母様が桜井さんの謝罪を遮る。
「敵艦を放置しては、この基地も安全かどうか分からないものね。それに、尽夜さんが動けないけれども居るのだから万が一もないでしょう。尽夜さん、できますか?」
「深雪と叔母上の安全は保証致します」
お母様は尽夜さんに問いかけて、尽夜さんはそれに即答した。
「穂波、達也は『あれ』をやるつもりのようだから、その手伝いに行ってらっしゃい」
「『あれ』?」
お母様が認めてくれた事に驚きながらも、桜井さんはお母様が言う『あれ』という言葉が気になり、反射的に質問していた。
「理論上可能だと分かっているだけで実際にやってみた事は無いはずだけど、そこは何か考えがあるのでしょう。あの子は目端は利く方だから」
どうでもよさそうな言い方だったが、私は母親が息子を自慢しているのだと思うようにした。
「ありがとうございます。尽夜君、奥様をよろしくお願いします」
桜井さんはお母様と尽夜さんに深々と丁寧に頭を下げてからお兄様の元へ向かった。それが私の見た桜井さんの最後のお姿でした。
---------2092年、8月17日、那覇空港
私は空港で飛行機の発着のアナウンスを聞きながら6日前のことを思い出していました。
桜井さんがお兄様の元へ向かった後、スクリーンを操作する人がおらず、私が知っている映像はニュースで流れていたものしかありません。
水平線に突如として現れた光。
押し寄せる波に洗われて形を変えたビーチ。
勝利の凱旋。
それが世間に共有されたあの後の顛末です。
私達だけが知っているのは敵を滅ぼしした光の正体はお兄様のお力によるものだということ。質量をエネルギーに変換し、その莫大なエネルギーを以て全てを焼き尽くす戦略級魔法『マテリアル・バースト』を操る戦略級魔法師。それがお兄様の真のお姿。
この戦いにおける英雄。
そしてこの戦いで帰らぬ人となった桜井さん。犠牲者の合同葬儀で荼毘に付された彼女の遺骨は、彼女の遺言に従い、お兄様の手によって残らず海へ撒かれました。
お兄様は哀しい顔をなされることなく淡々と行っています。哀しいと思うこともできないのでしょう。お兄様は涙を流す私を背中をさすって慰めてくださいました。
「深雪、そろそろ中に入るよ」
「はい、お兄様」
私がお兄様を『お兄様』と呼ぶことに対してお母様は何も言わなくなりました。お心の中では苦々しいとお思いになられているかもしれませんが、私は改めることはいたしません。私はお兄様に対しては自分に正直でありたいと思います。
そして私は一つ決心いたしました。
私の尽夜さんはあの戦いの後、本土の病院へと叔母様の指令により向かいました。尽夜さんはお母様にお教えしていただいた『爆弾』を抱えておられます。
私の命は尽夜さんによって繋がれました。私はそれを尽夜さんに一生を掛けてお返ししようと思います。
私の尽夜さんが『爆弾』を抱えていらっしゃるのであれば、それを一緒に抱えて、そして取り除ける様に尽力致します。お母様のおっしゃる然るべきときに備えて……私は尽夜さんと共に生涯を全うします。
--------2095年、11月6日、四葉本家、応接室
深雪の意識はドアをノックされる音で戻った。部屋の中には達也と風間少佐が先週の横浜侵攻の後のことを話していた。ノックの音で室内に緊張が走る。
「失礼します」
扉が開かれ、恭しく一礼したのは年嵩の執事。先ほど真夜の面会が遅れると言伝にきた少年とは格が違う、見るからに高い地位を有する初老の男性だ。
ただ、彼の口からはそれ以上の口上は無かった。ただドアを開けるだけの簡単な仕事であれば、この老人の役目ではないはず、にも拘らず。
だがその事を達也も深雪も、そして風間も不審には思わなかった。むしろこの役目はこの老人でなければ務まらないだろう、と揃って同じ事を考えていた。
「お待たせ致しました」
老人の背後には屋敷の主の姿と、
「………」
無言で彼女の背後で佇む青年の姿があった。
深雪の回想は終了しました。
深雪が尽夜に好意を持つ理由は説明できたかなと思います。
四葉家次期当主について
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尽夜
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深雪