シャワーを浴びた後、真夜は、食堂で朝食をとっていた。背後には今日付けで真夜の世話係となった葉山が控えている。
真夜が1人黙々と食事を取っていると、背後から声が掛かった。
「真夜様、本日のご予定は如何なさいますのでしょうか?」
「いつも通り地下に籠るつもりだったけれど、何かあるのかしら?」
真夜は目を向けることなく食事を進め、淡々と返答をした。
「差し出がましい具申かもしれませぬが、病院で診察を受けてみては如何でしょうか?」
ピクリと真夜の食事の手が止まる。
「…どうしてかしら?」
努めて平静を装って答える。だが、それは果たして効果があっただろうか。
「御自覚がないので?」
真夜には、この葉山の言葉が、いつもの穏やかな声音ではなく、無機質で感情が取り払われた機械音のように冷たく感じられた。
「自覚も何も、思い当たる節がございませんわ」
それでも、真夜は気丈に即答した。
「……」
「……」
沈黙が場を支配する。
段々と空気が冷たくなっていく。葉山が魔法を使ったという訳ではない。だが、真夜は葉山から発せられる圧に自分の体温が奪い取られるような錯覚を覚えていた。
真夜は怖くて後ろに向くことができなかった。だから、背後の葉山がどんな表情をしているかも分からない。
真夜の知る葉山の顔は、意外かも知れないが少ない。彼女が知っているのは普段の無表情な顔、歳相応のおっとりとした雰囲気に見合っている落ち着いた優しい微笑みの顔のみ、と言っても差し支えないぐらいだ。それに加えて、真夜が自意識を自覚してから、葉山が真夜に対して小言を言う事はあれど、怒りの表情を見せた事はついぞ無かった。ゆえに、後ろから感じる初めての雰囲気に戸惑い以上に恐怖の感情が芽生えた。それを物語るように、彼女のお箸を持った手は、小さいながら震えており、彼女の思考は停止状態に陥った。
主従関係にあるなら、強者は間違いなく主人であるし、弱者は従者である。だが、今の2人においては立場が逆転していた。魔法力でも、圧倒的に真夜の方が優れているにも関わらず、四葉の中では現当主の英作の次に権力を有しているにも関わらず、その真夜が弱者になっているのである。
「真夜様」
先に口を開いたのは葉山だった。
真夜は、口を開けなかった。
「私は貴女様を幼少の頃より、お世話をさせて頂いております。もっとも私の仕事のほとんどは英作様の身の回りのことでございましたが、その中にも真夜様のお世話をさせていただく機会は十分とございました。その私が、四葉家に忠誠を誓い何十年と経ち、四葉家の皆様方を誰よりも観察し、お仕えしてきた私が、四葉家の最重要人物である貴女様の異常を見抜けないとでもお思いですかな?」
葉山の口から発せられる言葉は、重かった。その中には、自負と忠誠をありありと示され、今この自分の判断は間違いの余地がないという自信も感じられた。今の葉山の顔には無表情が浮かんでいるのか、はたまた眉にシワを寄せているのか、それとも哀しげに俯いているのか。
「今朝の真夜様の尋常で無い程の汗の量。就寝はいつも穏やかな貴女様に限って、今朝の事態は危険信号であられるに違いありません。昨日まで御付きしていた女中の行動も不可解ではございますが、なるほど、今の真夜様の現状を加味致しますと、おそらく口封じをしておられましたな」
「……」
真夜は下を向いて、顔を曇らせていた。
「真夜様、ここは一つ、誠に恐縮ではございますが、この私と取引を致しませぬか?」
「…取引?」
次に葉山がしたのは、『取引』の持ち掛けだった。この言葉を境に、葉山たちを取り巻く空気が和らいでいく。
「そうです。本日、もし私の具申を考慮していただき診断をお受けくださるのであるならば、その診断が急な対処を要する病に直結しなかったのであれば、英作様への御報告は真夜様の任意のタイミングまで我慢いたしましょう。英作様には少し背を向けることの後ろめたさを感じは致しますが…」
「…『急な対処』とは何処まで許してもらえるのかしら?」
真夜は、少し考えて、葉山の提案を前向きに捉えた。
「そうですな。最悪、半年…いや、3ヶ月程度でいかがでしょう?」
真夜は、自身の左手を下腹部に添えて、右手の人差し指を机に着けて、ゆっくりと円を描くように擦り付けている。
一分程、真夜はまたも考え込んだ。
「葉山さん、その取引、乗らせていただきますわ」
葉山の背後には、四葉家で唯一立場が上の英作がいるのにも関わらず、葉山は真夜の事を優先させると言っているのだと彼女は考えた。それに葉山なりの最大限の譲歩であるとも。だが現状から言えば、もしここで断ったとしたら、否応無く英作の耳に入るだろう。結局、真夜は葉山の取引に乗る以外の道は残されていないのである。
真夜は後ろに振り向いて、葉山を見た。
目を向けた先には、慣れ親しんだ柔和な笑みを浮かべる一人の執事の姿があった。
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真夜と葉山の取引によって、成立した事項はその日のうちに実行され始めた。
「…葉山さん、準備が宜しいのね」
他に誰もいない診療所で、真夜は控えて葉山に口を窄めて責めた。
葉山は「ホッホッホ」と笑っているだけだった。真夜が自分の取引に応じると確信があったのであろうか、朝食後、直ぐに真夜は葉山の運転する車に乗せられ、ここへ連れて来られた。
当然、今、真夜たちがいるのは四葉の息がかかっている診療所である。
本家には唯の『お出かけ』と言う風にしてある。だから今、この場所にいるということは診療所の女医と看護師数人しか知らない。さらに用意の良い事にこの診療所では、この日、真夜の診察のみにしているようだった。
しばらくして、真夜の待っている部屋に女医が看護師たちを引き連れてやって来た。
検査は、やや長時間に及んだ。医療技術の発展により、現代におけるあらゆる検査の結果は1日あれば、より正確により詳しく出るようになっている。
また、診察途中に女医の判断により、真夜の検査内容が通常のものより少し拡張されてはいたが、別段変化なく終わっていった。
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時刻は夕方に差し掛かり、真夜は今朝居た部屋の中で葉山から給仕された紅茶を優雅そうに嗜みながら、結果を待っていた。そんな時間が幾分と過ぎる。
「葉山さん」
真夜は、控える葉山に話し掛けた。
「如何致しましたか?」
真夜はお茶請けの菓子に手を伸ばそうとしていたが、それをやめて、葉山には目を向けず、天井へと向けた。
「私のお願いを聞いてくださる?」
物憂げに天井を見つめる真夜から次に出た言葉は弱々しかった。
「なんなりと」
葉山は間髪を入れずに即答した。
「もし、……もし今回の結果が芳しくなかったとしたら、代わりに私の悲願を叶えて欲しいの」
「…急にどうされました?」
葉山は、真夜の言葉に疑問を覚え、少々困惑した表情を浮かべた。
だが、そんな葉山の戸惑いをよそに、真夜はそのまま言葉を続けた。
「研究所の試料保管室の最奥に、私の冷凍卵子があったわ」
背後の葉山が息を飲んだのが分かった。
「お父様の御触書と一緒に…。当然、葉山さんも知ってらしたのでしょう?」
「…」
「精子の選定は既に終わってるわ。後は、代理母の選定だけ。私が産めないのは残念だけれど…仕方ないわよね」
「真夜様……」
「後ちょっとで漕ぎ着けられたのだけれど…伯父様と葉山さんに疑われていたのは、私の落ち度だわ。夜中の腹痛と希望への心酔で、外に十分目を向ける余裕が無かったのね…ここ1ヶ月の成果と計画案は自室の金庫の中にあるわ。後はお願いできるかしら?」
真夜は首だけを葉山の方に向けて、微笑んだ。悲痛な面持ちの葉山を見て、彼女はなんだかおかしくなって更に破顔した。真下の床には水滴がしたたり落ちていた。
「伯父様に知られたら、もしかしたら止められるかもしれないし、今私が頼れるのは葉山さんだけ」
「……」
「……」
「……」
「…葉山さん…頷いて頂戴」
葉山の顔が霞んで見える。
「……お願い……」
真夜は、葉山の手を取り、顔を伏せた。
「……」
葉山は動けずに、縋る真夜の姿を見つめていた。
「真夜様ー!」
バンっ!と音を立てて、急に扉が開かれた。
その人は女医だった。走って来たのか、息切れを起こしている。
「真夜様!ろう、ほ……」
女医が目にした光景を見て、茫然となった。
涙を流して葉山の手を握る真夜。ただ事ではない雰囲気が、今更ながら認識できたらしい。
その場に立ち尽くす女医を尻目に、真夜はゆっくりと姿勢を元に戻し、目尻を拭った。
「…結果は出まして?」
真夜の言葉に、女医は意識を回復させる。
「はっ、はい!」
女医は、やや動揺を残しながらも、部屋に入って来た時ほどではないが、興奮冷めやらぬ雰囲気で真夜に近付いた。
「真夜様!朗報かも知れません!」
「朗報?」
真夜は、訝しげに女医を見る。
だが、女医から告げられた次の言葉に、真夜は自分の耳を疑う事になった。
「はい!真夜様の生殖機能の一部、子宮のみではございますが、回復されている可能性があります!」
「えっ…!?」
真夜と葉山は、目を見開いた。特に葉山に至っては、今までの彼では考えられないくらい滑稽な姿を見せていた。
女医は、そんな2人の姿も当然と捉えて言葉を紡いだ。
「順を追って大まかに説明いたします。私が今朝、真夜様からお話をお伺いした時に、真夜様は『下腹部に違和感がある』とおっしゃられました。その時は、まだこうなるとは思ってもみなかったですし、通常の検査でも異常はございませんでした。ですが、だからこそ、私は、身体の異常が無いにも関わらず下腹部の事を真夜様がおっしゃられたことに懸念を持ち、少々検査内容を追加しました。そして、様々な吟味を重ねていくうちに一つの可能性が浮上して来ました。いえ、この言い方は適切ではありませんね。言い直します。それしか残らなかったのです」
彼女の言葉には、はっきりと自信が伴っていた。
「…それは…本当に、確かであるのか?」
重々しく、葉山が声を若干震わせながら問うた。
「はい。裏付ける資料はここに…あれ?」
女医が差し出した手には何も無かった。
「す、すみません!高揚のあまり、書類を忘れてしまいました!すぐに取って参ります!少々お待ち下さい!」
と言って、女医は駆け足で部屋を出て行った。
部屋の中には、沈黙がやって来た。
しかし、それも長くは続かなかった。
「……は、…やま…さん…」
未だに事態を半信半疑で受け入れられていない真夜が、途切れ途切れに呼び掛けた。その顔には先ほどから変化は無い。対照的に、葉山の目尻には、彼には到底似つかわしく無いものが滴り落ちていた。
葉山は、一つ、ゆっくりと深呼吸して、口を開いた。
「真夜様、おめでとうございます。これで憂いは無くなりましたな」
その言葉が、真夜の心に深く貫かれた。
そして、堰き止められていたものが崩壊した。