【旧約】狂気の産物   作:ピト

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36話 慶春会

 ──────西暦2096年、元旦

 

 赤石山脈の山々に囲まれた地図には載ってない村がある。その村の中央に聳える一際大きな伝統的な日本家屋の屋敷は、日も昇らぬ内に活動を開始した。本家の使用人たちが慶春会の準備に慌ただしく、しかし、静かに屋敷内を行ったり来たりしていた。

 尽夜が目を覚ましたのは、使用人たちが動き出してしばらく、太陽の光が薄っすらと空を白く照らし始めた頃だった。隣でまだ安らかに眠っている深雪を起こさないように静かに布団から脱し、足音を殺して離れを後にした。母家に足を踏み入れると、待っていたと言わんばかりに水波に捕まり、甲斐甲斐しく世話を焼かれた。朝食を取った後は、今一度身を清め、水波と数名の女中によって純白の羽織袴を着付けられた。一番上には干支である龍が美しく厳かに描かれた、裾が地につくほど大きな袞竜の御衣を思わせる衣を羽織る。更には、男の身分にも関わらず、女中たちに全力を挙げて化粧を施されたのである。流石に尽夜も化粧となると気が進まず、拒否しようとしていたのだが、それを見越していたように「奥様の御言い付けにございます」と言われれば、断ることはできなかった。そうして、ようやく解放されたのは、慶春会まで残り一時間を切った頃だった。

 そのまま部屋で一人、茶を立てて、暇を潰していると、襖越しから声が掛かった。

 

「尽夜様、奥様がお見えになりました」

「どうぞ」

 

 茶を立てている途中だった故に横向きのまま返事をした。襖が開かれる音がしたが、部屋の前で気配は止まったままだった。

 尽夜は茶筅を木製の茶筅立てに預けて向き直る。その目線の先では、金糸をふんだんに使った黒留袖を着た真夜が固まっていた。

 

「母上、あけましておめでとうございます」

 

 新年の挨拶を、軽く平伏しながら述べる。真夜は尽夜の声に意識を取り戻し、まるで幼子のように慌てながら、恥ずかしさから頬を朱に染めていた。

 

「…えっと、尽夜さん、あけましておめでとう」

 

 尽夜は既に用意されていた座布団に真夜を誘った。真夜は流石に現当主らしく気の持ち直しも早いようで、優雅に座るその所作は美しかった。

 

「……何度見ても尽夜さんのそのお姿には慣れないわ。今年は化粧も相まって一層素敵よ」

「ありがとうございます。母上もお綺麗ですよ」

「ふふふ、ありがとう」

「母上、抹茶は飲まれますか?」

「せっかくなのだけれど、途中でお花摘みに行く訳にはいかないから遠慮するわ。お食事の席までは、我慢することにしてるの。それより、深雪さんはどうだったかしら?」

「はい。母上の十年来の御命令は達成致しました。一時的な婚約も引き受けてくれるそうです」

「そう。…予定通りね」

 

 真夜は満足そうに頷いた。

 

「……………あの、母上?」

「何かしら?」

「何故、こちらに擦り寄っておられるのでしょうか?」

 

 着物が着崩れしないようにしずしずと真夜が尽夜に近付いていた。

 

「……駄目?」

 

 尽夜の正面に一寸の隙間もなく膝が合わさるまで近寄った真夜は、コテンと首を傾げた。

 

「……いつものようになさるのはお控えください。母上も俺も着物や化粧が崩れます。手直しする時間も、もう然程ありませんから」

「………むぅ」

 

 真夜はまるで幼女のように可愛らしく頬をぷくっと膨らませた。実年齢を考えると痛々しいかもしれないが、真夜の場合は非常に良く似合っていた。

 

「慶春会が終了するまで我慢なさってください」

「……むー!分かってるわよ。でも新年最初の尽夜さんを深雪さんに取られたの!毎年私だったのに!」

 

 駄々をこねる子供が、成長して、お気に入りの玩具を初めて譲った時のような感じであろうか。

 尽夜は苦笑いして、自分の左隣りをポンポンと軽く二度叩いた。すると、真夜は嬉しそうにそそくさと移動して、着物が崩れないように注意しながら腕を絡めた。知らない人が見れば、仲の良過ぎる親子に見えるか、はたまた少し歳の離れた恋人に見えるか、微妙なライン。機嫌をコロっと直した真夜は、葉山が呼びに来るまで尽夜と談笑に花を咲かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────慶春会

 

 真夜は葉山が呼びに来たことで、名残惜しそうにしながら尽夜の腕を離して、慶春会の会場に向かった。

 静寂が部屋に訪れる。

 尽夜は目を閉じて、集中力を高めた。閑散とした部屋は、一人で落ち着くには最適な場所だった。

 

「尽夜様」

 

 しばらくすると、襖の奥から再び声が聞こえた。

 尽夜は目を開けた。

 

「入れ」

 

 尽夜が答えると、襖が開き、馴染みの瓜二つの顔が頭を同時に下げた。控えめな振袖姿をした水波と千波からは緊張した様子が窺い知れた。

 

「奥様、分家の方々、次期当主候補様方、皆様お揃いにございます」

「中の様子は?」

「御命令通りの座席配置ゆえに、皆様は少々困惑気味にあらせられます」

「そうか」

 

 尽夜は立ち上がりながら、軽い報告を受けた。水波と千波の横を通り過ぎると、彼女たちは顔を上げて尽夜の三歩後ろに付き従った。

 

 会場が近づくにつれて、人々の喧騒具合が増していく。会場の入り口の前に立つと、背後に居た水波と千波が前に進み出て、他の使用人たちに合図を送った。

 

「御当主様御子息、次期当主候補、四葉尽夜様、おなーりー」

 

 時代の差異を感じさせる口上が聞こえ、襖が開かれた。会場の内に控える使用人たちが一斉に平伏するに至る。

 会場の大広間には先程までの喧騒がピタリと止み、静粛に誰も何も喋らなくなった。いや、喋れなかったというのが正しい。誰もが姿を現した尽夜に、先刻の真夜と同じように固まり、息を呑んだ。

 良質な着物を身に付け、女性のような滑らかな肌にはより一層映えさせる化粧を施し、端正な顔立ちに合った艶やかな髪、母親を彷彿とさせる数々のパーツ、そしてその姿から滲み出る貫禄が広間の空気を虜にしていた。

 尽夜はお辞儀をすることなく歩を進め、分家陣より一段高く造られた座に用意されてあった座布団に、威風堂々と膝を折り、一度両腕をひらつかせて袂を正した。

 場を見渡すと、尽夜の方に向いていない真夜を別にして、全員が目を見開いていた。なぜなら、尽夜の座った場所は、同じ高さに正座している真夜の左斜め後ろであり、広間の最奥、昨年までは真夜が座っていた場所、つまり一番の上座であったからだ。

 真夜はほくそ笑みながら、手元に置いてあった小さなベルを鳴らした。

 

「皆さん、あけましておめでとうございます」

 

 真夜に続いて、新年の挨拶が唱和された。ベルに助けられた者も少なくない。むしろ大半がそうだった。真夜は満足そうに左右を見渡した。

 

「本日は喜ばしい新年に加えて、あと4つ、皆さんに良いお知らせをお聞かせすることができます。私はこれを心より嬉しく思います」

 

 真夜はまず、羽織袴姿の勝成とその横に居心地が悪そうに座っている琴鳴を見た。

 

「この度、新発田家のご長男である勝成さんとそのお隣にいらっしゃる堤琴鳴さんが婚約なされました」

 

 幾つものざわめきが起こった。注目が勝成と琴鳴に集まる。囁かれている言葉には、「やはり」や「ようやく」といった予期されていたと思わしきものが多かった。

 

「この先、楽しいことばかりではなく、色々と苦労もあるかと思いますが、まずはお二人の前途に盛大な祝福をお願いします」

 

 拍手が沸き起こった。真夜の「色々と苦労もある」の部分に頷いている者も多い。琴鳴の事情を知っていれば、納得の反応と言えるだろう。それでも、会場は好意的な雰囲気で満たされており、琴鳴は安堵の表情を見せた。そして、勝成が真夜に平伏するのに合わせて、琴鳴は感謝の念を込めて深々と頭を下げた。

 

「さて次に、今皆さんが最も関心を寄せていらっしゃることをここで発表致します」

 

 一座が水を打ったように、シンッと静まり返った。

 

「ふふっ。皆さん、既にお気づきのようですね」

 

 真夜が焦らすように笑う。それでも、僅かでも音を立てるような者はおらず、次の言葉を今か今かと待っていた。それが真夜にとって満足なのか不満なのか内心を窺うことはできない。真夜は笑顔のまま一度左斜め後ろを向いて、再度一座に顔を戻した。

 

「次の当主は、ここにいる私の息子、尽夜さんに任せようと思います」

 

 一拍おいて、われんばかりの拍手が鳴り響いた。特に拍手は、本家の使用人の間で盛んだった。

 

「正式な挨拶などはまた別の機会に。ここはそういう固い集まりではございませんので」

 

 会場に少し笑い声が聞こえた。しかし、例年よりは小さな声だった。例年であったならば、顔を赤くした男性陣が大きな声を上げて笑うのだが、今年は誰も現時点で酒に手を伸ばしてはいないらしい。

 

「そして3つ目です。私の息子の尽夜さんは、司波家のご長女の深雪さんと婚約しました」

 

 一際大きなざわめきが生じた。

 当事者の深雪は顔を伏せて、表情は窺い知ることはできなかった。

 

「このことについてはまだお話しすることがありますが、あと一つのことにも少々関係しているので、先にそちらを申し上げたいと思います」

 

 広間のざわめきを余所に、真夜は達也の方に目を向けた。達也は一瞬だけ誰にも分からない程度に反応したが、総じては落ち着きを払っているように見える。

 

「最後のお知らせですが、今をもちまして、司波家を四葉家の正式な分家に加え、その当主をご長男の達也さんに任せたいと思います」

 

 空気が静まり返った。ほとんどの者が困惑しており、特に分家の当主陣は眉を顰めている。深雪は驚きはしつつも、少し嬉しそうに達也を見ていた。

 

「御当主様」

「あら、貢さん、何かしら?」

 

 貢が、我慢ならないという感じの声を出した。

 真夜は今席において「黒羽殿」と呼ぶのが普通であるのだが、「貢さん」とあえて呼んだ。それが貢にとって余計プレッシャーとなることを知っているからだ。現に貢は少したじろいでいた。

 

「……私は達也殿が分家の当主になることは反対です。彼は我々の罪の象徴。そんな地位を与えるべきではありません」

「新発田家も黒羽殿に賛同致します」

 

 貢の異議に、新発田家当主の理が便乗し、続けて椎葉家や静家や真柴家の当主も同じように貢に賛同する意向を表明した。

 しかし、その流れに乗らない分家も存在した。

 

「津久葉家は御当主様に賛同致します」

「なっ!!??」

 

 分家当主陣唯一の女性である津久葉冬歌は、落ち着いた色留袖を着ており、凛とした声音で発言した。他の分家当主たちは睨むように冬歌を見ている。

 

「司波家の分家参入については異論ありません。しかし、尽夜殿の婚約者の件ですが、婚約者ともなれば、本会において隣席に位置取るのが普通。ですが、深雪さんは尽夜殿の隣にはおられず、ましてや一段低い場所に座っていらっしゃる。これは何か御理由がございますでしょうか?事の御説明次第では分家の」

「津久葉殿」

 

 冬歌の言葉を真夜は途中で遮った。

 

「今から全て御説明致します。…でもその前に、大丈夫?夕歌さん?」

 

 真夜の台詞によって、冬歌はハッと隣を見た。そこには顔を青白くさせた夕歌がいた。

 

「……大丈夫です」

 

 誰がどう見ても大丈夫では無さそうだが、夕歌は気丈に答えた。

 

「休ませてあげたいのは山々なのだけど、貴女にも関係があることです。退出は認めません。誰か、夕歌さんにお水を用意してちょうだい」

 

 一人の使用人がさっと部屋から出て行った。冬歌は何か言いたげにしていたが、結局何も言うことができず、夕歌を心配そうに見つめることしかできなかった。

 

 真夜が話し始めた。昨晩のように感情移入はなく、ただただ事実説明をした。

 ・尽夜と真夜には非常に強固な精神的な繋がり、『鎖』が存在すること

 ・『鎖』が無くなれば、世界が滅ぶであろうこと

 ・物理的に対抗できるのは達也のみであること。それ故に達也は英作前当主に生かされたということ

 ・平和的に対抗するには『鎖』の継承しかないこと。継承者を探すには婚約者は足枷になること。しかし、立場上対外的にパフォーマンスしなければならず、その役目を深雪に任せたこと

 

 ……以上です」

 

 空気は重苦しいものだった。真夜が説明し終わっても、なかなか声を出す者は現れなかった。そんな状況下で古来より胆力があるのは女性と言われているが、事実無根ではあるかもしれないが、今はそれが当て嵌まった。それに加えて、発言した女性は他の人にとってみれば意外というか驚く人物だった。

 

「……御当主様、つまり深雪さんは尽夜さんの婚約者であって、婚約者ではないということでしょうか?」

 

 その人物とは少し前まで顔色が悪かった夕歌だった。今は幾分マシになっているが、それでもこの空気の中で発言する気力など何処から湧いているのかと言った具合である。

 

「夕歌さん、その認識で構いません。今回の婚約はあくまでもカモフラージュ。本当のお相手を、尽夜さんが自ら選べるようにするためのね。重要なのは、尽夜さんに選ばれる(・・・・)ということ。そのお相手が、今回は話がなくなるでしょうけれど深雪さんでも、他家のお嬢さんでも、もちろん夕歌さん、貴女でもいいのよ」

 

 真夜はニッコリと夕歌に微笑んだ。

 

「…しかし、本当に他家から婚約という私事に横槍など入るでしょうか?」

「津久葉殿。私はまず間違い無くあると思っております。特に十師族からの横槍は必ずあるでしょうね。我々は現状でも十師族の中で二つ三つ頭が抜きん出ていますから。彼らが尽夜を通して我々に取り入ろうとすることや深雪さんを引き込もうとするのは当然です。みすみす見逃す訳がありませんわ」

 

 真夜は自信満々に質問に答えていく。

 

「御当主様。今までの御説明では、尽夜殿のご事情は理解できれども、達也殿が分家当主となる理由が理解できません」

「黒羽殿。もう少し想像力を働かせてくださいな。達也さんも他家からの引き抜きの対象なのですよ。FLTのシルバーにして『灼熱のハロウィン』の当事者、前者だけでも莫大な価値があります」

「…では、FLTに閉じ込めておけば良い話です」

「あらあら、新発田殿。随分なことをおっしゃられるのね。でしたら、逆にお聞きしますけれど、いったいどのようにして達也さんを閉じ込めておけるというのです?尽夜さん以外、まともに達也さんのお相手にならないのに」

「で、ですが…」

 

 尚も食い下がろうとする分家当主陣に、真夜はため息を吐いた。

 

「そもそも、あなた方は御自身の首を自ら絞めていることに気が付いておりませんの?達也さんは四葉家の収入の約ニ割強に関与しております。それだけでも現状の扱いは不当ではありますが、…これは些細なことです。むしろ、あなた方が勘違いされていらっしゃるのは達也さんが四葉の罪の象徴だと思っておられるところですわ。達也さんはあなた方が生み出したのではございません。故人の姉さん、四葉深夜が腹を痛めて産んだ子供ですよ。私と尽夜さんのような制約を持って生まれて来たのではない、普通の子です。私が亡き後、あなた方を守れる唯一の矛であることをいい加減理解なさってくださいな。…まあ、それをご自分から手放そうとしていらしている訳ですけれどね」

 

 真夜が嘲笑しながら言う。

 

「…いいでしょう。では、この場の皆さんでこの話にケリをつけようじゃございませんか。皆さん、一度お立ちになって。使用人の皆さんもご参加くださいな」

 

 真夜の号令によってまばらに人が立ち上がる。スッと立ち上がる者と腰が重い者の両方がいたが、やがて全員が揃った。

 

「本日のお話の全てを受け入れてくださる方は、今から一分以内にお座りください。もしお一人でもお立ちになられている方がいらっしゃるようなら、この場でじっくりとお話し致しましょう。皆さんどうぞご自分の正直な行動をお取りくださいね」

 

 その言葉を最後に、まずは真夜が座って、葉山が時計を確認した。五秒と経たぬ内に尽夜と達也と深雪が座り、使用人や執事全員がそれに続く。達也を正面から嫌悪していたあの青木までもがすぐに腰を下ろしたことに、達也は少々驚きだった。元次期当主候補たちは尽夜の予想通りに。分家ではやはり一番最初に津久葉家が座った。

 葉山が半分過ぎたことを知らせる頃には、分家当主陣しか残っていなかった。それも、貢が自分の子供たちの圧力に負けて腰を下ろすと、他もそぞろに続いていき、残り十秒を切った時には全員が揃っていた。

 

「奥様、お時間です」

 

 葉山が恭しく告げる。

 

「ふふふ、満場一致、ですわね。では最後に一つだけ、尽夜さんがこの席に座っていらっしゃる理由はご理解いただけますね?今後、この子の指示は私の指示と相違ないとお考えください。…ああ、ご安心ください。尽夜さんは私がいる限り、四葉の守護神ですから」

 

 真夜が艶やかに微笑む。葉山は真夜の様子を汲み取って、使用人たちに食事を出すように指示する。

 話し声が聞こえたのは、食事の挨拶が唱和されてからだった。

 

 

 

 

 食事が開始されてから一時間程度が経過した。広間には喧騒が蔓延っている。分家当主陣がやけ酒をハイペースで行い、ベロベロに酔った所を文弥と亜弥子がしたたかにお年玉を巻き上げている姿は、例年通りでおもしろおかしい。達也と深雪は慶春会の雰囲気に戸惑いつつも、順応してきている。先刻の空気はどこへやらで、学校のことであったり、仕事のことであったり、それぞれの家庭のことであったりと、楽しそうな会話がそこらかしこから聞こえてくるのがいつもの慶春会。今年が例外だっただけである。

 尽夜は真夜と一緒に個別で挨拶に来る人に対応したり、葉山が使用人の代表として大袈裟に平伏するのを苦笑いで受けたりしていた。挨拶の波が落ち着いてきた頃、夕歌が近くにやって来た。顔色は平常通りで、無理をしている感じも見受けられない。

 

「夕歌さん、あけましておめでとうございます。体調の方は大丈夫ですか?」

「あけましておめでとうございます、尽夜さん。ええ、もう大丈夫。心配してくれてありがとう」

「御無理はなさらないでくださいね」

「そうするわ。…ところで、少し外の空気を吸おうと思っているのだけれど、ご一緒にどうかしら?」

「……俺も少し出たいと思ってましたし、お付き合いいたします」

 

 夕歌の提案に尽夜が了承すると、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせる。そして、近くに座って今のやりとりを聞いていた深雪に向かって不敵な笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、深雪さん。そういうことだから、このまま(・・・・)尽夜さんは貰って(・・・)いくわね」

「ええ、夕歌さん。貸して(・・・)、差し上げます。そのまま(・・・・)、返してくださいね」

 

 対して深雪は、目の笑っていない笑顔で応酬した。彼女たちは互いに上品に笑いながらも、剣呑な雰囲気が隠れていなかった。尽夜はそれを見なかったことにして、他の大人の女性陣と話している真夜に一言告げてから席を外した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────四葉本家、庭園

 

 サクサクと下駄が雪をつんざく音がゆっくりと鳴り、空間に吸い込まれ消えていく。風は無く穏やかで、空一面を覆う白い雲からは同色の雪がほろりほろりと優しく舞い降りていた。

 一本の唐傘に、一組の男女が寄り添って相合い傘をしており、4つの二の字が向かう先には石垣に囲まれた池があった。池といっても水面であったらしき場所には雪が降り積もっているため、池の輪郭が見えているだけだった。二人は石垣の前に立つと歩みを止めた。正確には、尽夜が止まったから夕歌も止まった。夕歌は不思議そうに、右手で唐傘をさしている尽夜を見上げている。元々、夕歌は広間の縁側で涼もうと思っていたのだが、尽夜の提案で本家内の庭園に出て来たのである。だから、尽夜がどうして石垣の前で止まったのかが、夕歌には分からないのである。尽夜は唐傘を持っていない左手を前に突き出して、軽く優しく横に薙いだ。それに合わせて池の表面に積もっていた雪が舞い上がり、隠れていた池の全容が露わになった。

 

「…………綺麗………」

 

 夕歌は現れた情景を前に釘付けで、ぽつりと感想をこぼした。池の表面は氷が張っているが、氷の下の水中では紅白の鱗を纏った錦鯉がゆうゆうと泳いでいた。

 

「………冬のこの池はこんな風になってるのね。知らなかったわ」

 

 夕歌は景色に目を向けたまま喋った。

 

「お気に召したなら何よりです」

 

 一匹の鯉が二人の方に寄って来た。その近付いて来た鯉に合わせて、夕歌は膝を曲げて屈んだ。その際に、顔前に垂れた髪を耳にそっとかき上げる。その仕草は色っぽかった。

 

「……ねぇ、尽夜さん。三年前の今日のことは覚えてる?」

「はい」

「…私は高校の三年間、魔法力をひた隠してて鬱憤が溜まっていたわ。それに四葉のしがらみで人とは完全な上辺の付き合い、それにも限界が来てた。何の為に生きてるのかわからなくなってた。歳を重ねる度に、何を拠り所にすれば良いのか分からなかった」

 

 近くにいる鯉は、いつの間にか二匹になって、二人の前で留まっていた。夕歌はそれを懐かしそうに眺めている。

 

「あの日、尽夜さんは慶春会から私を連れ出してくれて、貴方の部屋で休ませてくれて、貴方と話している内に私は自分の心を打ち明けていて、いつの間にか貴方の胸で泣いていたの。最初はただ静かな所に行きたかっただけで、尽夜さんのことは、都合の良い年下の子が、都合の良い場所を提供してくれたとしか思ってなかった。でもあの日、尽夜さんは予想外に私を救ってくれた。私の心をほぐして、隣に寄り添ってくれて、私を理解してくれた。家族ですら気付かなかった私の部分に初めて踏み込んでくれた。あの日、耳元で囁いてくれた貴方の優しい言葉が、貴方の腕の中の温もりが、まだ私の中に残ってるの。あの日から、私の心の拠り所は尽夜さん、貴方なの」

 

 夕歌は、知らなかったでしょう?と言いながら立ち上がり、尽夜の方に体ごと向けた。近くにいた鯉は既に離れてしまっている。夕歌の表情は、晴れやかでいて儚げに見えた。

 

「私は後悔してる。尽夜さんへの恋心を自覚していても、私のプライドが邪魔をして、五歳も離れている貴方に自分から近付くことを良しとしなかった。いつも尽夜さんのことを遠くから見つめることしかできなかった。…つまらない見栄よね。こんな私だから、私じゃない誰かが尽夜さんの隣に立つのは当然だって薄々理解してた。だから、今日が、私の遅い初恋に終止符が打たれるんだって、……覚悟してた」

 

 夕歌は右手で左手の肘を掴んだ。

 

「……せめて、初恋の人を祝福しようって、五歳も年上なんだからお姉さんらしく、ちゃんと笑顔で受け入れようって……」

 

 瞳は潤んで、今にも溢れ出しそうで、それを必死に我慢していた。

 

「結果はあの通り……。無様よね。それに尽夜さんの事情を知って、まだ間に合うと分かった時に安心した私ってなんて卑しい女なんだろうって思ったわ。でもね、一度貴方を失いかけて分かったの。貴方の存在って私の中で自分が思っているより大きいの。だから、今度は動くわ。貴方が私を選んでくれるように。そして、私以外が選ばれてもちゃんと祝福できるように」

 

 夕歌は満面の笑顔を尽夜に向けるが、その拍子に耐えきれなかった涙が一筋だけ流れてしまっていた。尽夜は袂からハンカチを取り出して、一歩夕歌に近寄り、優しく涙を拭う。

 

「冬のこの庭景色を教えたのは、夕歌さんだけです」

「…………この女たらし…………」

 

 夕歌は嬉しそうに頬を染めた。

 

 

 

 

 ──────西暦2096年1月2日

 

 魔法協会を通じて四葉家から十師族、師補十八家、及び主要百家数字付きに向けて以下の通知がなされた。

 

 ・四葉尽夜を次期当主に指名したこと

 

 ・四葉尽夜と司波深雪が婚約したこと


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