「ようマスター、空いてるかい?」
私は扉を開いて入ってきた彼女を一瞥して、再びグラスを磨く作業に戻る。彼女もここの常連、一番奥のカウンター席に無断で腰掛けた。
「まったく、もう少し愛想とかそういったものがあんたにも必要じゃないか?」
必要ないです。と呟いて、グラスを取り出す。氷を入れ、バーボンを注ぐ。
コースターを彼女の前に置き、グラスとチェイサーを静かに出した。
これが、彼女のいつもの注文だった。
「わかってるじゃないか」
彼女はカランと氷を鳴らしながら、琥珀色の液体を飲み込んでいく。その様子を横目に私は冷蔵庫から材料をとりだす。本日のお通しは、しめさばのセビーチェ。作り置きしていた分を小皿に盛り付ける。
「今日は魚ね。こいつにもぴったしだ」
彼女――トンプソンと自ら名乗るその人形は、ウイスキーを楽しみながらカウンターに肘をついた。
「なあ、マスター」
何か?と言わんばかりに、私は視線を向ける。目の前にいるのは、酒の匂いのするにやけた常連だ。
「あんたそろそろ彼氏の一人や二人はつくらないのか?」
私は洗い物を済ませると、無視をしてグラスを拭き始める。
「まったく、せっかく良い容姿で生まれたんだから少しはだな――」
「トンプソンさんには関係のない話です」
ついつい言葉が漏れてしまった。恥ずかしい。つねに冷静を心がけているのに、失態だ。
「ほらほら、どうせこんな場末の酒場なんて誰も来ないんだからさ。あんたも飲みな。代金はしっかり払うからさ」
彼女はポケットから掴みだしたお札をカウンターの上に置いた。二人分にしても多すぎる金額だ。
私はため息をついて、それからグラスをとりだす。氷、ウィスキー、ジンジャーエールの順に静かに注ぎ、軽くステア。私がいつも好き好んで飲むジンジャーハイボールのできあがりだ。
口に含めば、ウィスキーの香りとジンジャーエールの香りが混じり合って鼻に抜ける。
「まったく、素直に私と飲めばいいものを」
「他に客が来たらどうするんですか」
「別に1杯飲んだからといって接客できないわけじゃないだろ?」
暗に肯定する意味で肩をすくめてみせる。だろうなといわんばかりに、彼女も笑った。
「少し飲ませてくれよ」
二口目にさしかかろうとしたところでストップがかかった。
しぶしぶ渡すと、彼女はグラスの半分以上を一気に飲んでしまう。さすがに人形と言えど、褒められた飲み方ではない。
「いいねぇ、私好みのバランスだ」
返されたグラスを一気に私も煽ると、流しにグラスをおく。洗うために水を出そうと蛇口に手を伸ばして――視界がぶれた。
「ほら、いわんこっちゃない」
いつの間にかトンプソンさんがカウンターの内側に来ていた。どうやら私は倒れてしまったらしい。おかしい、濃く作ってはいても、普段はここまでは酔わないはずなのに……
「最近ずっと練習していただろ?疲れてるんだよ」
トンプソンさんはいわゆるお姫様抱っこというもので私をソファ席まで運んでくれた。
「あまり無防備な姿を見せるなよ」
私はふふふと笑って、見せたらどうなるんですか?と聞いた。
「ははは、そうだな。私が食っちまうぞ?」
私は首を横にふる。彼女は私の視線に気づいたのか、自分の左手を目の前に持ってくる。
その薬指には、銀色の指輪が、淡い色の照明を反射して煌めいていた。
「ああ、なんだそんなことか」
トンプソンさんは、指輪を外して握りつぶした。割れた指輪を灰皿の中へと放り投げた。
「それで、これがなかったら食っちまっていいのか?」
そのときの私はへんな顔をしていたと思う。驚愕というか困惑というか、そんなよくわからない感情がいくつも混ざりあった表情だったのだと思う。
「気にするな。あれはただの印。あれはただ見やすくするためだけの証さ」
頭の上にハテナが浮かび上がってたみたいで、トンプソンさんは説明してくれた。
いわく、強化のための改造をした印として贈られるもので、基地の人形のなかで左手の薬指につけることが暗黙のルールになってるらしい。
「だから私に相手なんていないのさ。あれも量産できるただの指輪だ。だからな?泣くなよ」
いつのまにか流れていた涙を、トンプソンさんはその指で拭ってくれる。
「それで、返事はどっちなんだよ、マスター」
私の返事は――
――もちろんYESだ。
店の扉がきしむ。珍しく新たなお客さんのようだ。トンプソンさんはハットを深く被り直し、開こうとする扉をおさえる。
「すまない、今日は私の貸し切りなんだ」
そう言って扉は閉まる。鍵をかけ、玄関の照明スイッチも消される音がする。
「それで、注文には応えてくれるんだろうな?」
「……もちろん。だって私はこのバーのマスターですから」