羅刹の拳【完結】   作:につけ丸

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そうして荒木秀信は人を終えた。





第11話

 空が白みはじめた霜枯れた朝。万里谷祐理は白い息を吐きながら、日課である境内の掃除に精を出していた。いつもなら朝でも凛として居る彼女の佇まいはどこか虚ろだった。

 少女の胸を占めるのは、一人の少年だけであった。

 件の少年とは三日ほど連絡がとれず、やきもきしていたのだが……昨日になってやっと連絡が付いた。それは良かった。良かったのだが。

 

「はぁ。あの時の荒木さん……なにかとても思い悩んでいらっしゃいました……。それに、あの時からなんだか胸騒ぎが……」

 

 真っ白なため息ひとつ。気になりだすと責任感の強い彼女はとことん気になってしまう。あのあとまた連絡を取ったのだが繋がることはなく、気になって寝不足気味であった。

 変な事を言ってしまわなかっただろうか。傷付けたりしなかった? あのとき何を言ってしまったんだろう。

 自罰的な思考ばかりが空回りする。

 

「なにもなければ良いのですが……」

 

 彼女がこうして心を乱すのも無理はなかった。祐理が持つ感性の鋭さは生来のもので、そして理由があった。

 そもそも万里谷祐理という少女は"普通の人"とは言いがたい。九法塚幹彦らの呪術側に近く、古の神々の血伝えるという『媛巫女』に数えられ敬られる乙女だ。

 本人にあまりその自負はないが、的中が六割に達するほどの強大な霊視能力を備え、ただの勘や嫌な予感でさえ無視できないほど。

 

「やはり何か───」

 

 言葉は、そこまでだった。

 

 カラン。手に持っていたはずの箒が転がり、境内に乾いた音がいやに響いた。

 おかしい。ゆるゆると何故か強ばった視線を向ければ、手が、ひどく震えていた。日本においては比類なき霊視の的中率を誇る彼女だからこそ"観えた"。

 

()()()()()()()()()

 

 まるで、まるで……そう、見上げるほど巨大な巨人が突如として現れ、睨み据えられている感覚。正確には猿。しかしただの猿と思うなかれ。石から生まれ龍を降し最後には仏の記別を得るに到る。

 大鬧天宮を引き起こし天を相手取って暴れ回った、天にすら斉しい大妖怪。それが関東の上空に現れた。

 神職に就き、幼いころからそちら側の教育を施されていた祐理は知っていた。相対したことがなくとも、判った。

 間違いない、これこそ── 

 

「──まつろわぬ神……」

 

 おののいた唇から呟かれた言霊が祐理を蝕んだ。両の手で身体を掻き抱く。明らかに厳冬の寒さだけではない、冷たさ。死が目前に迫ったことによる、寒さ。すべてを掠奪する冬の冷たさではなく、死をもたらす絶対零度の刃で心臓を貫かれた感覚であった。

 はじめてではない。毎日、毎夜、感じていた。二年の月日の間、忘れ去ろうとし、数日前までは封じ込めていた過去(トラウマ)

 けれど無理だった。あの刻み込まれた恐怖は決して記憶を無くそうと消せるものではなかった。"東欧の魔王"に見初められ、とある儀式の生贄に消費された傷は。

 

 しかし、今、眼前に聳える現実もそれと同じ質量をもって祐理に降り掛かった。いや、真っ只中にいるから悪夢すら霞むほど底知れない恐怖を覚えた。

 そして恐怖に震えるなか、なぜかそこに知っている気配を見つけた。見つけて、しまった。

 

「荒木、さん……?」

 

 わななく小さな花弁のような唇からまろびでた言葉は、恩人の名。

 今までの恐怖は退出し、代わりに訪ねて来たのはさながら赤熱する炉に投げ込まれような焦燥。汗腺と涙腺から雫が溢れ、大地に足を着くことが罪深く思えるほどの焦りに祐理は声を張った。

 

「荒木さん……!」

 

 喘ぐように手を伸ばす。けれど、意味などない。

 か細い蜘蛛の糸のような希薄な気配は、大いなる存在の濁流さながらの気配に呑まれ露と消えてしまった。

 鋭すぎる超感覚を持つ彼女は、気付いてしまったのだ。あの恩人が、『神』の手によって消え去ってしまった事を。

 

 

 

「おるわおるわ、うじゃうじゃと!」

 

 明朗闊達な声が響きわたる。声の主は巨躯を誇る精悍な少年。容貌魁偉な風貌に違わず居丈高に雲の上で

 ふんぞり返り、天から地上を見下ろしていた。

 出で立ちはひどく奇妙だ。京劇の演目"美猴王"に出てきそうなほど派手派手しく、けれど京劇では再現し得ないほどの"威"があった。

 人の姿をしていながら人など歯牙にかけない超越者。あれこそ『まつろわぬ神』。ありとあらゆる災厄の具現。

 

「さぁて、今からでも人間どもで遊び回るのも良いが……。やはりこの孫様が暴れまわるには()()粗野な面貌では華がない。はは、我は洒落者ゆえのう」

 

 鼻歌を歌いながら嘯く斉天大聖はどうやら奪った身体がお気に召さなかったらしい。この身体を捨てると言う。用のなくなった秀信の身体から飛び出そうとした。の、だが……。

 

「アダダダ!? な、なんじゃあ!」

 

 全身の皮を剝かれそうになった痛みにたまらず叫んでしまった。

 

「……むぅ、あの小童の身体を奪って現世に飛び出してきたは良いが、思いの外()()()()しまったらしいのう。漆でも使ったようにへばり付いて離れんわ」

 

 正攻法では取れぬか。ふうむ。

 どうやら相性が良すぎたらしい。引き剥がそうとすると痛みが走った。腕を組み左の指でトントンと鳴らしながら、引き剥がす方式を思案する。

 ──ん? あれは? 

 幸いにも……人類側から見れば不運にも……良いものが見付かった。右拳を握りしめ、その場所へとんぼを打った。

 日光から見て南西の方角。だだっ広い人間がうじゃうじゃいる平野を抜けた先に、雪化粧で施された霊峰があるではないか。

 斉天大聖が知る由もないが霊峰の名を()()

 三百年前の大噴火を最後に今の今まで噴火していない……未だにくすぶり続ける日本最大の活火山である。

 

「お誂え向きにあるではないか、いい塩梅の山が! これも日頃の行いが良いからじゃのう、は──はっはっはっ!」

 

 哄笑を轟かせる大聖。固く握りしめていた右拳を空に振りかぶって、すいすいと雲を霊峰のもとへ走らせた。

 

「善哉、善哉。よし、あの霊峰を噴火させればこの殻も燃え尽きる! 『鋼』たる我も鍛え上げ、人間どもも地獄に叩き落とせる! 一石二鳥どころか三鳥じゃのう!」

 

 彼の言った『鋼』とは、その名の通り"鋼の肉体"をもった軍神を指す言葉である。

 神々は不朽不滅にして不老不死だ。

 デメテルやイナンナをはじめとする豊穣を司り、生と死を権能とする神々は大地母神と呼ばれる。そして、それらとは逆の立ち位置に属する神々が居る。さながら陰と陽のごとく。

 それは斉天大聖も含む戦神や軍神だ。戦場での不死を司り、戦いに特化し、鎧さながらの鋼の肉体を宿しているもの達だ。火山と鉱石は『鋼』の一党にとっては産湯のようなものだ。『鋼』を剣と例えればいいか。

 ともかく封印から抜け出したばかりの斉天大聖にとっては最高の滋養となった。

 行動は早かった。迅雷の如くひとっ飛びし、あっという間に富士山の火口まで辿り着いた。眼下には地獄さながらに赤々と蠢動するマグマの湖が広がっていた。

 

「うむ、これほどの量があれば我が力を高めるには十分じゃろうて」

 

 したり顔で笑った。気合を入れると右拳が動き、おっ? と驚きながら包拳礼でもするかのように左の手のひらで受けた。

 うん? 独りでに動く右拳が、腹部を、胸部を、肩を、顔面を、急所を狙って殴りかかってくる。痛くはない。痛くはないが驚いた。

 右手が勝手に動きよる。驚きに目を剥く斉天大聖だったが、すぐに元凶を突き止めた。

 

「あ、あの小童め! まぁだ自我を保っておったのか!? とことん面倒くさい奴じゃのう!」

 

 まつろわぬ斉天大聖を、最後の最後まで阻もうとするのはやはり荒木秀信。秀信は大聖に取り込まれた時点で、意識は大海に落ちた一滴の雨粒のように溶けて消えるはずであった。

 けれど、そうはならなかった。霞んでいく意識を繋ぎ止めるものがあったのだ。

 これからが本当の最終ラウンド。残った気力をかき集め乾坤一擲、最後の抵抗に出た。 

 

 

 

 時は少し戻る。

 七雄のお社で祐里が焦燥感に襲われている真っ最中だった……物陰から"哮天犬"が現れたのは。祐理の驚きは相当であった。ぐちゃぐちゃだった思考が空っぽになるほど。

 けれども、それがよかったのかもしれない。無音の世界で音が良く通るように、祐里のなかにスッと哮天犬の思念が伝わった。荒木秀信に力を貸してくれ、と。

 

「あ、あなたは……いったい……?」

 

 哮天犬は応えず、ひとつの動作を取った。

 朝日に照らされた哮天犬は壮絶な美を誇っていて……人などより遥か高い次元に在った。漆黒の毛皮に覆われ、赤いのたくった呪印と黄金色の瞳だけが黒を遮る色で、神に(したが)うに相応しい神獣で……その哮天犬が頭を下げた。ただの少女である祐理へ。

 その時、祐理は理解した。霊視を介することなく多くを悟ってしまった。そして昨夜、秀信がひどく思い悩んだ問いを投げかけてきた理由も。

 きっと世の裏側の事情に巻き込まれたに違いない。その事件の発端で張本人……というには語弊があうが、哮天犬が目の前にいて頭を下げた。何よりの証拠であった。

 

 自分は、あの時、何と答えた? 

 

 哮天犬が頭を垂れた事実など放り出して思考を占めたのは、あの問答だった。血が凝固し一気に引き抜かれ氷水にすり替えられた思いだった。

 最後まで見届けるなどと。最後の最後まで巻き込まれろなどと。

 荒木秀信という少年はただの人だ。人であることを願っていたし、誇らしく思ってもいた。変わることを嫌がっていた。そんな彼が、人間の命など塵にも等しい神々の闘争に巻き込まれた──それはきっと彼を死地に向かえと囁き使嗾したも同義だ。

 

 俯いて苦渋を浮かべた顔に、湿り気を帯びた鼻先が触れた。哮天犬が眼前に歩み寄って、睥睨していた。

 哮天犬は言葉もなく述べた。行こう、と。

 蜘蛛の糸のようにかぼそく……けれど確かな縁がある。それに縋って行くのだ。存在を捨て去って居なくなった彼の元へと。心の底からこんこんと沁みだす想いに従って。

 祐理が決意を瞳に宿すと、哮天犬が天に向かって咆哮した。祐理の身体がくずおれて地面に伏した。けれど意識は哮天犬の背にあって、肉体と魂魄が別れていた。こうでもしなければ、彼の元へは行けないのだ。

 哮天犬が穹へ駆け出した。うつむいた視線の先にある閉じられた手は、寒さだけではない白さで染まっていた。

 疑問は掃いて捨てるほどにある。哮天犬は……いや、哮天犬の主は身勝手だった。けれど、嘘をついてる気が毛ほども感じなかった。真に彼を想い遣って憂う感情があった。

 だから信じることにした。迷いはなかった。……やることは判ってる。なら、今はそれだけで十分。

 ──顔を上げる。

 もう不運を嘆くか弱い少女はどこにもいない。瞳に決意を宿し、凛と立つ乙女だけがいた。胸の上で手を重ね『神』ではない誰かに祈りを捧げる。"人"である、あの人へ祈りを捧げる。

 

 どうか此処に居てください、と。

 

 媛巫女の地位も、身体も捨て去って、たった一人の少年の居場所になろうと少女は誓った。

 

 

 

 いつの間にか山の麓に立っていた。

 ここは生まれ故郷だ、と周りの景色を見てすぐに気づいた。幼いころから駆け回り、少し見ればわかるほど頭に焼きついた景色だった。

 今、麓から見上げる山もよく知っている山だ。むかし、もう十年も前か。最初なんてとっくに忘れてしまったけど……幼馴染みと五人で飽きるほど遊んだ場所だった。顔ぶれはたまに変わる事があったけど、いつも同じ日常が流れていた。

 

「見ろよ、黒曜石見つけた! こいつで槍作ろうぜ!」

「物騒だなぁ……あ、でもさーさっきいい感じの樫の枝見つけたんだよね」

「少し長いな。それに一本しか作れん」

「なんでみんな作る気満々なの? というかどこで使うの?」

「そんなのチャンバラやるに決まってる!」

 

 みんなで馬鹿をやって、たまに大怪我してしこたま怒られて、でも笑えればそれで良かった。十分だった。それがよかった。それでよかった。

 でも人は変わる。時間という絶対軸のなかで生きる自分たちが生きている限り。人が人である限り。

 不変ではいられない。

 それが嫌だった。

 ひとつ感情が剥がれ落ちれば、もう止まらなかった。

 昔に戻りたかった。

 ずっとずっと、遊んでいたかった。

 勉強なんかほっぽりだして、どうやったら山のてっぺんに一番速く着けるを考えたかった。卒業式が嫌いだった。始業式は参加したことがなかった。部活なんかするよりも、川で駄弁りながら釣りでもしたかった。

 でもずっとはいられない。

 ずっと同じではいられない。

 必ず変化が訪れる。……それがどうしようもなく嫌だった。

 

 だから、背を向けたのだ。

 

 周りを見れば、二人だけになっていた。

 二人きり、山頂の拓けた場所で静かに向かい合っていた。はじめての友達は言葉もなく、しっかりと己を見ていた。

 ああ……これだ。出会ってからいつもそうだった。

 どうしようもなく心が()()()()のだ……あの真っ直ぐな瞳に見られると。

 自分が変わりたくないと踏みとどまった時は、いつもあの瞳が少し先に場所から見据えてきて……そして言葉もなく問いかけてくるのだ。

 

 ───お前はそれでいいのかよ、と。

 

 目、醒ませよ。自分を人にしてくれたあいつは、大人びた雰囲気でニッと微笑んで、ゆっくりと去っていった。

 分かっていた。

 あいつが居たから虚ろだった自分が自分になれた。彼の居る場所が自分の帰る場所だった。()()()と想い続けられる場所だった。

 家出したあいつが帰って来た時、ひどく腹を立ててしまったのは、あいつに置いてけぼりにされた気がして……居場所が無くなって自分も消え去りそうで……それがたまらなく嫌だった。

 でも、もうあいつは変わってしまった。

 

 だったら変わらなければならなかった。過去にしがみついてては、いけなかった。

 

 

 ざぶん、と秀信は唐突に海のなかへ落ちた。一滴の水となって大海とひとつとなった。でも自分が広がり薄まり海となっていく。

 思考が這い出た先は此処だった。

 此処は何もない。きっと自分が帰るべき場所なんだ、秀信は悟った。生まれ出ずるものは無から現れる。無という何もない何でもある場所から、自分を象り生まれて世界を認識する。

 斉天大聖を呑んで呑まれて、秀信は帰ってきた。海のなかは光の届かない無明の世界で、自分が曖昧になった。慣れ親しんだ感覚だった。悩みも苦しみもない……もう自分が変わってしまうのが怖いなどと悩まなくて済む心地の良い場所。

 居なくなってしまおう。

 そうして居なくなろうとして。

 

 ──あなたが。荒木さんが。居らしゃって良かったと、そう思います──

 

 何かに引っかかった。耳元で……耳は無くなったから、きっと魂魄に、誰かの言葉が聞こえた。

 此処は誰も居ない場所。なのになぜ誰かの声が聞こえるのだ? ……だが疑問が口をつくことはなかった。湧き上がったのは喜びだった。

 自分はすんでのところで消失を免れた。あの声が在ったから、此処に居られる。生き残れた。心を満たすのは生への感謝だった。自分が居なくならなかったことへの喜びだった。

 生きていたい。誰かと一緒に居たい。無いはずの手で胸を掻き抱いて、嗚咽を漏らした。

 

 ふと悟った。此処に帰ることは途方もなく変わることだった。存在から無への転化だった。名を遺すことも、存在の証明もできず、ただ消え去る。それがどうしようもなく怖かった。

 一も二もなく叫んだ。

 

「わしは……わしは此処におるぞ!」

 

 その言霊は撃鉄であった。

 濁り切った感情に溢れた広大な澱が一気に反転し、煌く感情が大爆発を起こす。

 ゴウ、ゴウ。その瞬間、血潮のうねりがうるさいほどに耳朶を叩いた。止まっていた歯車が動き出す。

 

 果たして答えはあった。

 それも二度と会うことはないと覚悟していた少女から。

 

『そこにいらっしゃるのですね荒木さん!』

「居る……居るぞ……!』

 

 どうして彼女が聴こえたか、なんてどうでもよかった。秀信は叫んだ。存在を誇示するように。

 

『わしは此処に在るぞ……万里谷!」

『はい……はい!』

 

 深い闇を切り裂いて、哮天犬に乗った祐理が姿を現したのはその瞬間だった。伸ばされた手を掴んで身を任せる。二人が触れ合うと同時、哮天犬は闇へと溶けた。

 無のなかに二人だけが在った。とても奇妙な感覚であった。己と彼女との境界がひどく曖昧になって混じり合っている感覚……それは、ある意味で官能的でもあった。

 感情や思考だって共有できるほど混ざりあって……でも"二人"は"一つ"には決してならなかった。

 距離も視界もすべてが曖昧な、無のなかで、秀信はかけがえのない言葉を交わした。それは他者の受容であり、無の否定。自分と他者を別かつ儀式だった。

 

 秀信は言った。

「祐理。わしは、わしはお前が来てくれてよかった」

 祐理は言った。

「私もです秀信さん。私も、あなたが居てくださって良かった」

 

 彼女の小さな身体を包んだ。壊してしまわないか冷や冷やしながら、こわごわ腕を広げて彼女を掻き抱いた。すると応えるようぬ、いつの日かと同じく抱きすくめられる感触に笑みが零れた。

 祐理のぬくもりを感じ、秀信の存在を刻んだ。二人は限りなく近く、隣り合わせにいながら、決して交じり合うことは無い。近くにいることで求め合い、別たれることで安定した。痛みとは違う、存在の証明だった。

 

「なぜ、ここに」

『私は……あなたに酷いことを言ってしまいましたから』

 

 首を振った。そんなことはないと。

 でも祐理は翻さなかった。

 

『私が"見届ける"などと言わなければ秀信さんは普通で居られたはずです。此処に来なかったはずです』

「いいや、わしは望んできた。帰るべき場所に帰ってきたんじゃ……それはきっとお前の言葉がなくとも変わらん」

『ですが』

「祐理よ。どうか償いだの、罪悪感だの、つまらんもので曇らんでくれ。お前は笑っていちゃくれんか」

『秀信さん……』

 

 少しだけ顔に影を落とした祐理は、すぐに顔を上げると秀信を見据えた。彼女には二つの目的があった。ひとつは秀信と再会すること……もう一つは。

 

「このままじゃあ日本は終わるんじゃな」

 

 躊躇う祐理にかまわず秀信は断じた。斉天大聖が地上に現れたならば……という危機感はまつろわぬ斉天大聖と最初に相対した時から抱いていた。

 祐理は諦めを滲ませた顔で、小さく頷き、そしてつぶやいた。

 

『どうか最期まで一緒に』

 

 決然とし凛とした彼女は途方もなく美しかった。秀信はもう何も言わなかった。十分だった。静かにうなずく。二人は居るべき場所へ戻る覚悟を決めた。

 でも同時にたまらなくなった。できればこんな再会はしたくなかった。争いに巻き込みたくなかったのは秀信も負けず劣らずだった。

 七雄のお社で畳に敷いた座布団の上でお茶でも飲みながら土産話に花を咲かせたかった。日常でこそ出会いたかった。

 でも。

 

 虚空から『斬竜刀』があらわれ、手に取って二人で構える。

 

「「凶を浄め、災を退け、厄を祓う───是すなわち幸いなる者の霊験なり。かくあれかし!」」

 

 一気に振り下ろす。

 

『斬竜刀』から禍祓いの呪力があふれ秀信を封じていた呪縛に穴を空けた。身体に負荷が掛かる感覚が襲った。重力に似ていて……でも違う。斉天大聖の呪縛から解き放たれた精神が、肉体のある場所へ戻されているのだ。

 

 祐理と繋がっていた手が解けていくのを感じる。遠くなっていく祐理は静かに微笑んでいた。離れたくなかった。

 ああ、この子がたまらなく好きだ。

 独りぼっちになるとほどけて消えてしまう死地だとしても変わらず凛とした彼女に、あたたかな粉雪のような想いを押し止めることが出来そうになかった。

 

「どこまでもお傍にいます秀信さん」

 

 彼女の言葉が聴こえて、秀信は自分の新しい場所を見つけた。どんなに変わっても傍に居ると、居てよかったと言ってくれる誰かがいる。肯定し続けてくれる誰かがいる。もう迷う必要はなかった。

 帰ろう。帰るんだ。一緒に日常へ必ず。

 

 そうして荒木秀信は──人を終えた。

 

 

 意識が切り替わった。

 間髪入れず、身体の支配権を取り戻そうとするが、考えを変えた。全部を取り戻すのは不可能だと気付いたからだ。大海と一滴の雫。それくらいには斉天大聖と自分に差があった。

 じゃが人体を壊すには指さえ動けば十分じゃ! 

 一滴の雫は大海になり、大海は自分になった。決して交わらない少女がいる限り、自分は居て、ならば……秀信はまたたく間に右手の支配を取り戻した。

 殴り掛かる。何度も何度も。快音が響いて秀信の放った右拳は左手に防がれてしまった。さすがは音に聞こえし斉天大聖。これしきの事、切り抜けて当然。

 

「小童ァ、まだ我に抗うか! これで何度目じゃ!」

『ガッハハハ! おぬしの呪縛が簡単に破れるもんじゃったからのう……体力が有り余っとるんじゃ!』

 

 けれどここで止まるものか。拳を壊しかねないほど固く硬く堅く、巌さながらに拳を握って左手を押し込めていく。

 

『遊んでくれやぁ……!』

「こんのガキャア……!」

 

 憤怒に染めた大聖が左手を解いて、拳を振った。それは一本の鉄槌にも似て、秀信の宿る右手半分を抉り取った。

 血が噴き出す。痛みが襲う。声なき声を叫ぶ。

 だけど秀信は消えなかった。それどころか存在をさらに確かなものへと変えた。

 痛みは存在の証だ。

 痛みは復讐と怒りを。復讐は他者をより強く認識し、怒りは錨となる

 自己を世に調和させる。

 人に与えられた痛みによって荒木秀信は人になれた。そして人を終えた秀信は新しい痛みを得て、生まれ変わった。

 

「わしは、お前の敵じゃ斉天大聖」

 

 己は拳を向けた。敵も拳を向けた。

 拳を握るには敵意がなければならない。敵意のためには痛みが。痛みのためには存在が。拳を握る動作は、秀信の存在証明の果てにある。荒木秀信は神から生まれ"神の敵対者"であることを選び取った。

 

「認めてやろう小童! 貴様はそこいらの三流の『神』なんぞよりよっぽど手強い敵であると!」

『そいつは重畳ォ! んじゃそんまま素直に死んどけやァ!』

 

 拳を虚空に向けあった奇妙な鬩ぎ合いだった。支配権の奪い合いなのだ。呑むか、呑まれるか。どちらも引かない、一進一退の鬩ぎ合いが続く。本来ならばまつろわぬ神と人間の勝負など目に見えている。だが斉天大聖がその神威で押し潰そうと、決して荒木秀信という存在は消えなかった。

 理解が出来なかった。神の意に反して存在し続ける人間など理解の外だった。しかし秀信も退けないのなら斉天大聖もまた退けなかった。この抵抗こそ夢見た解放という悲願への最後の障害なのだ。

 これさえ凌げばあとはどうとでもなる。

 目の前の嫌にしぶとい人間も殺せる。幽世に引き込もっている古老とかいう奴らも手は出せなくなる。二郎真君も万全ではなく容易く打払える。

 

『斉天大聖……。そうか、お前は……』

 

 斉天大聖の情念が流れ出てくる。秀信は般若の形相を浮かべる斉天大聖を見て、ひとつのことを悟った。

 斉天大聖もまた生きようとしていた。神という……《不死の領域》から訪れたものが、必死に。滑稽さすら取り繕うことなく。

 だから悟ったのだ。

 生き抜きたいと願う自分と何ら変わらないのだと。神だろうと痛みが平気な訳じゃない、居なくなりたい訳じゃない。だったらこの因縁は誰にも渡してはいけない。二郎真君にだって。古老にだって。幹彦にだって。

 自分の手で引導を渡さなければ。

 

 だって斉天大聖は自分で、自分も斉天大聖なのだから。

 

『共にゆこう。斉天大聖』

 

 斉天大聖が驚愕に染まった。今まで喰らい合っていたものが、心の隅から隅まで受け入れて、笑い掛けてきたのだから。

 

「や、やめよ!」

 

 ──お前はわしじゃ。わしはお前じゃ。

 

 ──不本意じゃが、お前はわしの身体に入り込んで、身体を奪い取り、我らはひとつになった。

 

 ──わしとお前。大海と雫ほど隔てられようと一つになったならば斉天大聖……お前もわしじゃ。

 

 声なき声が斉天大聖の頭蓋を揺るがした。自慢の鉄頭などくぐり抜けて、意思が沁みこんでくる。言葉はいらない。言葉は他者へ伝えるものだから。

 

 ──黄泉路への旅は一人では寂しかろう……おいが同道してやる。

 

「我もろとも死ぬ気か小童! この孫様とおぬしの命が等しいとでも言うのか!?」

 

 ──応。そして、お前とわし。化け物ふたつの命を掛け合わせようとも、たった一人の命にも代えられぬ。ならば何故人々に災いを齎せようか。

 

「ぐ、ぉぉおおお! 我に、我に、入ってくるなぁああっ!」

 

 斉天大聖と交わり、苦悶を耳にしながら、秀信の脳裏に浮かぶのはひとりの少女だった。野山に咲き誇る桜を思わせる微笑みを浮かべる少女。彼女の手のぬくもりを、肌に感じる。いつまでも此処に居たいと願うほどの心地良さで……ふと斉天大聖の動きが止まった。

 荒木秀信と斉天大聖は全てを共有している。視界も思考も、そして首元に触れる誰かが抱きしめてくれる暖かさも。

 斉天大聖は親を知らない。石から生まれ火の産湯に育まれた『鋼』の武神だ。最初から王で、最後まで強者だった。

 だから未知だった。誰かが抱きしめてくれるぬくもりなど。

 いいものだろう、誰かに認められるのは。秀信の声を聴いて……それは途方もない隙。秀信は容易く身体を掌握した。拳を握る。振り下ろされた拳は秀信に胸部に突き刺り、皮を、血を、肉を、心臓を食い破った。

 

 静寂。

 けふ、力なく肺からせり上がる血と空気を吐き出す。痛みは感じなかった。ただ全能感にも等しい達成感が胸中を占めていた。

 

「ふふふ……そうら、見ろ……。我らの命とは、こんなにも、軽い、もの、だろ、う……?」

 

 ぐらり。くずおれた身体は雲から滑りおち、龍の咢さながらの火口へ落ちていった。

 

「はは」

 

 未練も執着も、すべて忘れて笑ってしまった。

 夏の日の空みたいだった。山向こうの入道雲が穹の蒼さを際立たせていたあの日のような空がいっぱいに広がっていて。

 自分が生まれた日の穹で死ぬのも悪くなかのう、と呵呵大笑しながら落ちていった。

 

 ……ふんっ、敗けたわ。

 意識の途切れる瞬間、呆れ切った声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

『かぁー! 敗けた敗けた! まったく、この孫様に三度ならず四度も歯向かうとは! まっことしつこい人間じゃった!』

 

「───うふふふ。わたくしも驚いていますわ。天すら揺るがした斉天大聖さまを討ち果たす人間がいるなんて思いもしませんでしたもの。斉天大聖さまとこの子の戦い、しっかり見届けさせて頂きましたわ!」

 

『来おったなパンドラ! 愚かな女よ! クク、はじめるのか……あの忌々しい神殺し生誕の秘儀を?』

 

「ええ、ええ! もちろんでございますわ! この子はその条件を満たしましたわ! 神を弑逆するという条件を! 

『鋼』にも抗しうる武の天稟と、神に向かっていく無鉄砲さを以って! まさにわたくしの義息にふさわしい子ですわ!」

 

『やんぬるかな! 討たれてしまってはもう遅いんじゃがのう……。たしかにこやつ自身は性根のまっすぐな奴じゃ、だが神殺しが現れれば地上は麻のごとく乱れ、現世と幽冥の均衡は失われる! それが気がかりではある』

 

「それは杞憂と言うものだ斉天大聖」

 

『ほう! これは驚いた、二郎殿ではないか! 我の推測では顕現はまだ先じゃと踏んで居ったが……?』

 

「ああ、彼が心配でね。飛んで参ったのだが……フフ、やはり私の愛し子だった少年だ。必要はなかったようだな」

 

『なるほどのう……では、先刻の杞憂とは?』

 

「なに。そのものが神殺しとなれば私が必ずや討つ。ゆえにそのような心配は無用なのだ」

 

「あら、では二郎真君様。あなたも私の子供たちと覇を競い合ってきた『鋼』の系譜に習い、後顧の憂いを断つために此処でこの子を討たれますか?」

 

「ははは、無粋なことを言わないで欲しいものだな。そのような事はしない。彼とは正々堂々と戦い、そして打ち砕く。そう言う約束なのだから」

 

「あらあら。二郎真君様と決闘の約束をするなんて大変な子みたいね。……ふふ、痛い? 苦しい? でも我慢しなさい、その痛みはあなたを最強の高みへ導く代償なのだから! 

 ───では皆様、祝福と憎悪をこの子に与えて頂戴! 羅刹の王となる運命を背負った子に、聖なる言霊を捧げて頂戴!」

 

『ふん。荒木秀信よ、よっく聞け。おぬしはこの天にも斉しき孫様を討ち果たした初めて弑逆した神殺しとなる! そしておぬしはこの孫様の───天すら騒がした美猴王の権能を得る! 我の権能はとびっきりじゃからのう……おぬしに扱えるとは到底思えぬ! ふたたび相見えた時には奪い返してやる故、それまで震えて待っておるが良い!』

 

「我が友、秀信。まさか本当に神を弑逆してしまうとは……因果とは奇っ怪なものだな。しかし君との逆縁、必ず果たすことになるだろう。それまで精々武を磨いておくのだな!」

 

 

 

 

 

 

「うぅむ、死に損なったか……」

 

 無骨な岩肌の感触を受けながら、目を覚ました秀信はボソリと零した。

 頬を掻きながら、あたりを見渡す。どうやらまだ富士山の山頂付近にいるらしい。見惚れそうな銀世界と、空気の清涼さにそう当たりを付けた。

 

 勝ったのか、あの斉天大聖に。

 確証はなかったがなんとなく分かった。己が生きている……それが何よりの証拠だろう。

 あの『神』に……いや、斉天大聖に勝ったなどと未だ信じられない。けれど確信はあった。

 身体を見れば、砕いた手も大穴が空けた左胸も綺麗に治っている。まるで全てが夢だったと言わんばかりに。

 けれどそんな事は有り得なかった。脳裏に焼き付いた記憶の数々が現実にあったことなのだと囁いている。

 

 奇妙な出来事に巻き込まれたもんだ。胸中で独り言ちる。

 幹彦さんたちの思いは遂げられただろうか。最期までともに戦った少女は。疑問と悩みは間欠泉のように吹き出てきて、だけどすぐに考えるのはやめた。

 こんな所でぼぅっとしているな。悩む時間があるなら動け。強敵は……楊二郎はすぐにやってくる。

 剣を研げ。拳を揮え。足踏みなどするな。

 動いてから考えろ。動きながら考えろ。……それが正解なのだから。

 

 すっくと立ち上がり、そして───声を掛けられたのは山を下りようとした時だった。

 

「「「おや」」」

 

 その声は、大きかった。

 声量の話ではない。

 まるで雷鳴が大気を震わせどこまでも伝わっていくように、声は高いところから来て落ちてきた。

 

「「「こんな場所に人が……いや、神殺しが訪れるとは。なんという奇縁であるか」」」

 

 何故、今まで気付かなかったのか? まるで妖怪の大入道さながらの巨人が空を持ち上げながら、秀信を見下ろし語り掛けているではないか! 

 

「こりゃあたまげた……『まつろわぬ神』っちゅーやつは、ホントに何でもありじゃのう……」

 

 あんぐり口を開けた秀信は、そう呟く他なかった。

 

「「「見た所、なかなかの剛力の持ち主と見た。どうだろう我輩の代わりにこの空を持ち上げてはくれないか───?」」」

「なんじゃそりゃあ! ───御免被るのうッ!」

 

『まつろわぬ神』アトラス。

 荒木秀信が"神殺し"として初めて出会った『まつろわぬ神』であった。

 

 

 かくして"人間"であった荒木秀信の奇妙な旅は幕を閉じる。これより始まるは『猿魔王』と名を残した、一人の魔王の歴史である。

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