白衣に緋袴をまとい、黒髪と言うにはいささか茶色味が強いだろうか。
なんでこうなっとるんじゃ?
そう疑問を漏らすのも無理からぬ状況に彼はあった。
白い息をため息に変えそうになるのを押し留めながら歩く秀信の背には、すやすやと心地良さそうに眠る少女がひとり。華奢な少女の温かさを肌に受けながらも、空いた片方の手でガリガリと頭を掻いて、秀信は何故こうなったのかを反芻していた。
○◎●
生まれ故郷の町から旅立った秀信は、半日と経たずに東京の地に足を下ろした。
拍子抜けするほどすんなりと着いてしまったが、まあ、九州の片田舎から関東といえど飛行機を使えばそんなものである。
彼が今いる場所は港区にある芝公園駅の駅前で、この近くに住む親戚を訪ねる計画だった。空港を出る前に一報は入れていたので日が傾くまで散策する算段であった。
「おっ、こっからでも東京タワーの見えるとか」
東京を訪れるのは初めてだが、何とか迷子にならずに済んでいる。地図アプリがなければ即死だった。
今日の東京の気温は二月とは信じられないほど暖かくて、素肌に触れる空気の柔らかさは春のほのめかすそれのよう。
芝公園をゆっくりと歩き、珍しい真冬の燦めく陽気に当てられながら、東京タワーを目指してぶらぶら歩いていた時のことだった。
背の高い秀信だからこそ気付けたのだろうか?
「────ん?」
いや、言葉をそのままにすれば語弊がある。倒れているわけではないが、随分と弱々しい。
疲労困憊の様子でよろよろと歩き、時折、膝を付いてなんとか進んでいる。
あまり見ない奇妙な出で立ちの少女だった。白衣に緋袴をまとい、黒髪と言うにはいささか茶色味が強いだろうか。腰まで届きそうな淡い色合いの髪を揺らす少女で───
「──てっ! 眺めてるなや!」
誰かが手を差し伸べる気配もない、思い切って駆け出し少女の元へ急ぐ。辛いのだろう、懸命に進む彼女の双眸には涙が潤み、日焼けと言う物を知らない白い肌は、白を通り越して少し青い。
「おい、大丈夫とか!?」
「………………?」
「お前だ。そこの…………名前が分からんが、その、倒れかけの」
「あ……。す、すみません、少し立ちくらみがして……もう大丈夫で…………」
そこで彼女の言葉は途切れた。
くずおれる少女。秀信は咄嗟に動き、あわや地面にぶつかる寸前に彼女を抱き止めた。
「お、おい! ……む、気を失ったのか」
一瞬、取り乱しそうになったが顔色をうかがい、脈を測るなどして少女の健康状態を診る。どうやらただ眠ってしまっただけのようだ。
どこかで休ませよう。
ここにいても迷惑になるだけ、秀信は彼女を抱えて大股で歩き出した。
○◎●
「…………」
「気が付いたか」
ベンチに横たわっていた少女が目をぱちくりと瞬いて、こちらへ視線を寄越した。
どうやらまだ状況整理が上手く行ってない様子で、辺りを見渡し、身体に掛けてある秀信のコートを不思議そうに眺めては小首を傾げた。
しかし、すぐに……
「………………。……………………っ!?」
「お?」
「も、申し訳御座いません! 見ず知らずの方の前で倒れてしまって……! そ、それに介抱までしてもらったようで、なんとお詫びすれば良いか」
意外と俊敏な動作で身を起こした少女の口から、見掛けに違わぬとても丁寧な言葉が返ってきた。元来の白さと今さっきまでの青さが、ひっくり返ったように羞恥で赤くなった彼女に、今度はこちらが取りそうになる。
自分まで取り乱しては元も子もない。だから秀信はなんとか平常心を繋ぎ止めて、笑い飛ばすことにした。
「ガッハッハ! なあに、気にするごたーことはなか! おぬしが倒れよった時はたいそう驚いたが、まあ、困ったときは助け合いじゃ。ほれ」
「あ、ありがとうございます」
「ん」
彼女が寝ている内に、近くの自動販売機で買っておいたポカリを手渡す。
力が入らないのだろうか? 懸命にペットボトルの蓋を開けようとしているが、なかなか開かない様子だった。
スッと少しだけ強引に奪い取って、パキリと蓋を取って再度手渡す。そのときには借りてきた猫のように縮こまる少女の姿があった。
「すみません、飲み物まで戴いて……。お礼は必ずさせていただきます……」
上目遣いで秀信を見ながら、蚊の鳴くようなか細い声でお礼を言う彼女は元が少食なのだろう、コートを掻き抱くようにして縮こまりながら、雀の涙くらいの量をちびちびと飲んでいく。
やはり良い所の生まれなのか。飲み方ひとつ取っても所作が上品で、食事となればいつも取り合いになって口に入れれば勝ちな自分とは月とすっぽんだ。
「気にせんでよかて。今さっきも言ったが、好きでやっちょることやっけんな。それに、だいぶ薄着ばってん寒うはなかとか? なんならもう一枚、貸してもよかぞ」
「いいえ大丈夫です! それにここまでお世話になっていて何もせずに居るなんて私が許せません! 必ずお礼はさせて頂きますのでっ!」
わたわたと手を振って、今度はぐっと可愛らしく拳を握る少女。
忙しなか女ん子じゃのう。そがんか、と返した口元が緩んでいたことに秀信はついぞ気付かなかった。
対する少女も訛りの強い言葉に、地方の方……九州の方かしら? と自分よりも遥かに逞しい偉驅を見上げていた。
「そんで、なんでまたあがんところで倒れとったんじゃ? 言いとうなかなら言わんでもいいが、気になっての」
「届け物があって出掛けていたんです。いつもならこんな事にはならないんですけど、今日は早朝から少し……体調が悪くて……」
「無理しすぎたか」
「はい……」
小さい身体をさらに縮こまらせて恐縮する少女。ひとつ一つ動作するたびに小さくなっていく彼女に思わず苦笑が漏れた。
少し出歩くだけで倒れる、か。うぅむ、想像がつかん……。
正直、世が世ならば戦士として歴史に名を刻めそうな秀信にとって万里谷という少女は宇宙人にも思えた。
「そう言えば自己紹介がまだじゃったの。わしは荒木秀信、観光で東京にきちょる田舎もんじゃ。よろしく頼む」
「万里谷祐理と申します。こちらこそ、よろしくお願いします。それに改めて、荒木さん。先程は助けていただき、ありがとうございました」
「ガッハッハ、そうかしこまらんでよかて。見たところ万里谷、でよかか? ……は同い年くらいじゃろ。気にするごたーことはなか」
「……? 万里谷で結構ですけれど、私は今年で十四歳ですから、荒木さんからすればだいぶ年下になると思いますし呼び捨てで構いませんよ?」
「わしは、十四じゃ」
少々顔を引き攣らせ、年齢を短く零した。まあ、同世代でも抜きん出て恵まれた身体を持つ秀信だから仕方のないことではあった。
そもそも秀信は物心がついた頃から、正確な年齢を言い当てられたことはない。
十歳あたりまではまだ五歳ほど上に見られるくらいだったが、今となっては二十歳にも間違えられる始末である。
決して老け顔という訳ではないのだが、満腔より滲み出る有り余った貫禄が、そう錯覚させてしまうのだ。
「そ、そうだったんですか!? 私ったら、てっきり年上の方だと思ってました……すみません」
ふたたび萎れた花さながらにしゅんとしてしまった祐理に、しまった! と解りやすい表情を湛える秀信。
「女心がわかってないね秀……」という故郷からの思念波を感じ取った気がしてギクリとしてしまう。
「うんにゃ、こっちも過敏に反応してつっけんどんな態度を取ってしもうた。すまん。よし、これでお相子じゃ。それにいつもの事やっけん、よかよか」
「でも……」
「で、万里谷。ここにおっても仕方なかろ、どっか休めるとこはなかか? ここまで付き合ったんじゃ、送ってやるぞ」
秀信の強引な言葉に期せずして、くすりと幼さと可憐さを含んだ笑みを零した。
どうやら短い間にも秀信の人となりは察しが付いたようで、祐理は仕方がない人ですねと言わんばかりに微笑んでいた。
「もう。……そうですね、ここから一番近い休める場所と言えば七雄のお社でしょうか」
「七雄のお社? そりゃ万里谷の神社か」
白衣に緋袴。絵に描いたような装束衣装にさすがの秀信もなるほどと当たりをつけ、相違はないようで祐理も静かに頷き、言葉を続けた。
「はい、そこが私の担当するお社なんです。お手伝いもさせて頂いてますし、少しくらいなら休ませて貰っても大丈夫なはずです」
「じゃ、行くか」
「え?」
「ん? 動くとは早かほうがよかろ。ほれ。まだ? おぶってやるけん」
おもむろに秀信は立ち上がると、祐理の前に躍り出た。背中を向けしゃがみ込み、バッチコイ! と言わんばかりだ。
ぽかんと小さな口を開け、常なら優しげな眦も今では大きく見開いている。それくらい今しがた秀信が放った言葉はとっぴな言葉だったのだ。
「そ、そんな! 流石にそれは申し訳ないですしっ、それに殿方とそんな……それも初対面の方と……」
「そがん言うても、ここでジッとしとっても辛かだけじゃろ。よかけん、早う」
「…………」
一時の間、躊躇っているのかピクリとも動かず無言の時間が流れたが、ついに観念したのかおずおずと祐理が背中に体重を預けてきた。
妹とは全然違うのう……。五つ下の元気な盛りで少し隙を見せれば背に飛びついて来る妹とは全く違う、お淑やかな彼女の所作に今まで意識していなかった照れが顔を出してしまう。
「よ、よろしくお願いします荒木さん」
「ん」
少し頬が熱を持ってしまったのを悟られないよう、前を向いて返事もぶっきらぼうになってしまった。
ゆっくりと歩き出す。頑丈な妹や弟ではないし、ましてや殺しても死ななそうな幼馴染たちでもないのだ。記憶にないほど繊細な気遣う動作で歩を進める。
だが、それにしても軽い。まるで羽のようだ。肉をもっと付けんか、と口内から漏れる瞬間、南の方から凄まじい思念波が喉を貫き、ゲフンと誤魔化すように咳払いして口を噤んだ。
背中で不思議そうに小首をかしげている気配がしたが、気にしない。
「取り敢えずこっちの方向でよかか?」
「あ、はい! 公園から少し離れた場所にありますから」
「よし」
そこで会話は途切れた。
ゆっくりゆっくり歩いていく。都心でこんなにも暖かな昼下がりの時間だと言うのに、すれ違う人は皆無だった。
けれどもやはり真冬なのは変わりなく、風もないのにしんしんと冷えてしまって、少しの間座っていただけなのに足先が痺れていた。
空に揺蕩っていた白い雲はいつの間にか晴れて、奇跡の起きたかと見紛うほど青一色。空を見上げれば視界の隅に対象な赤を宿した背の高い塔が見え、横たわるビル群が城壁のように見えてあの塔が楼閣ようですらあった。
枯れた木々のさざめく心地良い音色に耳を傾け、光が爛漫と降り注いで視界を楽しませてくれる。
まるで二人だけ賑やかな世界から切り離されて、静かな深い森に迷い込んでしまったようだ。
季節の訪れはいつも気まぐれで唐突だ。まだまだ冬なのにこんなにも温かいとのどかな春の訪れを感じて、日を跨げば肌を裂く冬が戻ってくるのだろう。
秀信はなんとなはなしに、生命の息吹香る森から騒がしい絢爛な都へ向かう心持ちになりながら、背に感じる布越しの鼓動を静かに聴いていた。
「………………」
ゆっくりゆっくりほぐれていく。こんな風におぶって貰うのはいつ以来だろう、そもそも異性の人とこんなに肌を触れ合った記憶がどこにも見当たらない。
強張っていた手足が、少しずつ少しずつ弛緩していって、力強い彼の背中に……ああ、気付けばもう広い背中に身体を預けていて。
自分よりも少し温かい人肌の温度と心の臓が奏でる鼓動に、睡魔の甘い誘惑が訪れる。抗えそうにない甘美な誘いに、ゆっくりと意識は溶けてしまった。
○◎●
七雄のお社はだいぶ判りにくい場所にあった。高級ホテルや学校、テレビ局に大使館とが立ち並ぶ街並みの一画に細い小道がある。まずはそこを見つけなければならなかった。大通りから入れる小さな道だが、よくよく気をつけてなければ見落としてしまいそうだった。
祐理を背負い七雄神社なる場所に向かっていたのだが、気付けば背中の姫君はいつの間にやら夢の国に旅立っておられ、起こすのも忍びなく仕方なしの人づてに尋ねてなんとか辿り着いた次第である。
尋ねているときに向けられた生暖かい視線がなんとも居心地悪かった。まあ、自業自得だ。
小道を抜けるともうすぐそこだ。何百段とありそうな石段を軽々と登りきれば、都心にこんなにも風情のある場所があるのかと、嘆声が出そうなほど静かで威のあるお社が出てくる。周りを木々に囲まれ、悠然と佇むお社は言い知れない幽玄さがあった。
宮司さんに事情を話すと、社務所にある専用の和室に通された。手早く布団を敷いた宮司さんは祐理を寝かせるよう促すと、静かに退室していった。
あまり愛想はなかったが、こちらをかなり慮っているのは挙措のひとつ一つを見れば察するのは容易だった。
「起きたか、よう眠っとたのう……。いつの間にか眠っとたけん驚いたぞ。ガハハ!」
「……すみません。またご迷惑を」
「起き上がらんでよか、そのまま寝とれ。なぁに気にするごたーことはなか、おぬしは軽かったからのう? ここまで運んでくるのは大分楽じゃったぞ」
「まあ。ふふっ」
「おっと、すまんすまん。野郎ばかりとつるんどったけんが、こがん機微の分からんとたい。許してくれ」
「いえ、そんな。私、荒木さんとお話するのは楽しいです。異性の殿方とこんなに話したことはありませんでしたけど、こんなに楽しいのは久しぶり……」
そ、そうか。照れくさそうに鼻頭をポリポリと掻いてなんとか誤魔化す。けれどもあまり意味はなかったようだ。
見ればこちらが誤魔化す必要もなく彼女は顔伏せて、こちらを見てはいなかったのだから。それでも白衣と淡い色合いの髪からのぞく肌が紅葉のように赤く染まってるのを、どうしても目線が拾ってしまう。
「あ、あー……そう言えば。宮司さん、かのう? えらいお礼ば言われたぞ、なんでも大切な巫女様を助けていただいたとか、安らかに眠られておられるとか」
「……そうですね。言われてみればそうかもしれません、今さっきみたいな何もない穏やかな眠りはここ最近、なかったと思いますから……」
祐理は顔を伏せたまま、声を震わせていた。今さっきまで血色の良かった肌は、気付けば青白さを取り戻していた。
「……なんかあったとか?」
そこで彼女は口をひしと噤んだ。秀信としても深入りすべきではないのではないか、とささやく声が聞こえたが、何故か引き下がろうとは思わなかった。ただの好奇心がもたげたのではないのは確かだがうまく言葉にできない。なんというのだろうか? 放っておけないのだ、彼女が。稚拙だがそんな気持ちだった。
意を決したようにぎゅっと拳を握った祐里は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「三年前……からでしょうか。眠りに就くたびに悪夢を見るようになったんです……。怖い……とても怖い夢でした……。夜な夜なうなされることもありましたし、元々身体が弱かったんですが眠れなくて良く体調も崩すようになってしまって……」
「夢、か」
「はい。それも普通の曖昧な夢じゃないんです。夢の中の私は……どこかの、大きな儀式に参加していて、私だけじゃなく他にも多くの同じ境遇の方々が集められているんです……。それを高い所で、人の形をした見上げるほど大きな……ナニカが睥睨していて……。でも瞼を瞑ればハッキリと思い出せるんです。あの恐ろしい……」
そこで彼女の言葉が止まった。彼女の手がぶるりと震え、凛とした声色が沈む。よほど恐ろしいのだろう、彼女の元々白かった肌がさらに蒼白となって、額にも大粒の汗が吹き出だしている。
思考より先に手が動いていた。辛そうな彼女に無理はしなくていい、と手を握る。
下の弟も妹も眠るときにこうすると、表情が穏やかになるのだ。けれども祐里はそこで言葉を止めることはなく、懸命に舌を動かし残った言葉を紡いだ。
「───エメラルドの瞳が……」
でも、と呟いて伏し目がちだった視線を上げて、傍に座る秀信に焦点を合わせた。嬉しそうに秀信の手を取って、先ほどとは真逆の穏やかな表情を湛えて。
「ありがとうございます。ふふっ、どうしてでしょう? 荒木さんと一緒に居たらあの悪夢を見なくて済みましたから……。甘えてしまって、こうして夢のことまで話してしまいました」
蕾のほころぶ笑み、とはこの事を言うのだろう。かぁ、と両頬が熱を帯びるのを自覚しながら誤魔化すようにガッハッハと笑って身振り手振りを加えて「そがんことはなか」と首を振る。
そう言うと今度は祐理が「いいえ、そんな事はありません!」身を乗り出し、意外と強い声音で反論した。
この時初めて秀信は眼前の少女が見た目にそぐわない、芯の強い子なのだと謙遜合戦繰り広げながら、気が付いた。
秀信自身が言っていたように彼はあまり女性経験がないのだ。どうしてもその容姿が足かせとなって、異性……どころかクラスメイトでさえも秀信の人柄を知らない者たちは距離を取ってしまう。
祐里も箱入り娘さながらに異性と関わって来なかったのと同じように、秀信もまたそれほど大きく変わらないくらいには同世代の異性と話した記憶がなかった。
それでも気性が合うのだろう。不思議と彼彼女の会話は途切れてしまう事はなく、今日が初めて会ったのが信じられないほどに打ち解け合っていた。
それからどれくらい時間が流れたのだろうか……?
なんだかんだで陽も傾きはじめている。そういえば東京タワーを見物にいく予定だったがすっかり忘れていたことに気付く。
だけど秀信は全く残念だとは思っていなかった。それはこの目の前の少女との奇縁を、秀信もなかなか好ましいものだと感じていたからかも知れない。
「そいぎ、おいもそろそろお暇するばってん……もう倒れんごとの」
「あ、もう行かれるんですか」
「近くの親戚を訪ねるごとなっちょるけん、あんまり遅くなるわけにはいかんのじゃ。明日には日光に行こうと思っとるけんのう」
それを引き留めたのは意外にも祐里の方からだった。
「なら、せめて電話番号だけでも教えて下さいませんか? 荒木さんが日光から帰ってらっしゃたら、その時改めてお礼をさせていただきたいんです。……ここまでお世話になって、何もできないなんて申し訳なくて悶々としてしまいます」
「む」
これまで彼女のお礼を、という言葉を固辞し続けていた秀信だったが、今度ばかりは身体の関節が動かなくなったように固まってしまった。
出会ってから弱々しい姿を見せていた彼女の凛とした姿に驚いたのかも知れないし、懇願する彼女の上目遣いの瞳にやられてしまったのかもしれない。ともすれば南の方角からもはや波として幻視できるほどの何かに気圧されたのだろうか。
それに少しだけ惜しかったのだ。ここで別れてしまえば、おそらくこの目の前の少女との縁は完全に途切れてしまうだろうから。
「ま、電話番号くらいならぜんぜんよかぞ。またこれから何かあるかもしれんからのう」
「ふふ、ありがとうございます。荒木さん」
どこか言い訳をするようにそっぽを向きながら、懐から携帯電話を取り出す秀信。
そんな彼にしっとりと微笑んだ彼女の柔らかい笑みは、まるで山間に咲き揃う桜を彷彿とさせ、これで何度目になるのか秀信の頬を紅潮させながら、どうしようもなく彼の心を攪拌させた。
秀信は初めて味わう心のうねりに翻弄されながらも、抗うことなくその心地の良いうねりに身を委ねていた。