羅刹の拳【完結】   作:につけ丸

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「新体操やアーティスティックスイミングもですか……?」





第3話

 夏の日。太陽が地面を焦がすにおいが辺りに散らばって、山向こうの入道雲が穹の蒼さを際立たせていたあの日。

 日が中天まで昇りきって南天で向かうころ。蝉時雨が耳を満たしてしまう小さな公園で、二人の少年が蹲っていた。

 片方の少年は止めどなく流れる血に皮膚が染まるのも構わず、顎を手のひらで抑えて、泣きじゃくっていた。

 もう片方の少年は許しを乞う姿勢で泣きじゃくる少年の前に膝まづいて、血痕とぶよぶよとしたピンク色の塊の付着した石を握りしめていた。

 

 はじまりはなんだったのだろう。

 トモダチになろ、と語りかけられた事か。手を握られた事か。目を合わせた事か。

 ただ言えることは、泣きじゃくる少年にとって全てが不快で嫌忌する行動だった。

 だから拳を振るった。さながら獣が邪魔者や外敵を追い払うように。

 

「痛いっ……痛いよぉ!」

 

 結果は見ての通りだった。右顎から唇にかけて肉の削げおちた裂傷が走り、夥しい出血が少年の服を汚していた。うだるような暑い日だった。汗と血が混ざり合いながら喉を伝って、頬を伝う涙が洗い流した。

 痛い、痛いよ。みぃん、みぃん。苦痛に染まった声が蝉時雨に紛れて掻き消える。苦痛などないのだ。虚偽なのだ。痛みを無くしてしまえば傷も瘉える。消してしまえ。痛みを無くせ。過去を否定する大合唱を鼓膜に叩きつけた。

 ごめんよ、ごめんよ。そしてもう一つの声までも蝉時雨はかき消して、最初っからなかったのだと声高に叫んだ。

 過去が蝉時雨にまぎれて、くだけて、ほどけて、とけていく。でも、そんな訳がなかった。

 

「痛い……。痛い……」

 

 痛みを無くしたくなかった。生まれて初めての"痛み"を無に返したくなかった。

 だって苦痛は喜びだ。生物は生まれる折、痛みを伴う。何かを犠牲にしながら、痛みとともに無から生まれてくる。存在と調和させるものは痛みだ。痛みは怒りを生む。怒りは錨となって存在へと導いた。

 

 涙は痛みからではない。自分がはじめて自分を認識した歓びが、涙を零させた。

 

 幼い彼は痛みを知らなかった。生まれながら人の枠を超えていた少年は、"痛み"を"痛み"だと思えなかったから。だから風に触れれば絶叫するほどの痛みは、生みの痛みだった。

 

 痛みが、ただ現れて名を残すだけだった彼を導いた。

 痛みが、不確かで不鮮明だった彼を人にした。

 痛みが、"彼"を彼にした。

 

 ──今、此処に、いる。

 

 痛みから生まれた一念が悟りとなって幼い少年の心を満たす。それは少年にとって何ものにも代え難い、赤く染まった黄金の記憶。

 あの日。夏の日。本当の意味で彼は生まれたのだ。

 

 

 

 

「夢か」

 

 丑三つ時。東京の親戚の勧めでビジネスホテルに一泊することになった秀信はベッドのなかで目を覚ました。背中や脇に気持ち悪さを訴えかけられ、触れてみると顔を顰めるほど寝汗をかいていた。

 寝苦しい夜だった。今は真冬で少し窓の方へ目を向ければしんしんと霜枯れた夜が広がっているような、暑さとは程遠い季節だったが。

 あの夢を見るときはいつもだ。月に一度は見る夢。夢なのに痛みは鮮明にあって、人によっては悪夢に分類してしまう夢だ。

 でも秀信にとってあの夢は、過去の記憶は、なくてはならない標榜だった。自分が人へ生まれた日の記憶。

 

 首を振って、肺胞に溜まった空気を吐き出す。肺活量があるから長い息になった。ごそごそと棚を漁って湯呑みを取り出し、ポット押してお湯を注ぐ。

 窓辺に椅子を置いて都会の景色を眺めた。百万ドルの夜景とはいかないが、片田舎から出てきたお上りさんの秀信にとって新鮮そのものだった。真夜中でも耳を澄ませば誰かの声や騒音が耳に入る。無音は嫌いだった。

 

「犬……?」

 

 最初、見間違いかと思った。けれど違う。はっきり"見える"。星明かりを掻き消す都会に照らされて、真っ黒な毛皮に覆われた一匹の犬が見えた。

 今日日、野犬などそうそう見かけない。そしてあの黒い犬は、普通の犬ではなかった。なにせ、屋根伝いに、建物を足蹴にして夜空を疾走しているのだから。

 そして──。

 異様な光景に目を凝らし続けていた秀信は、気がついた。あの黒い犬はなにかを追いかけている。逃げる誰かを追いかけている。踵を返して部屋を飛び出した、オートロックなんて文字が脳裏をよぎったが知ったことか。

 間におうてくれよ! 秀信は四肢に力を込め、駆け出した。

 

 

 白く荒い息を吐き出し前面に広がる白を振り払いながら、祐理は逃げていた。追われているのは祐理だった。

 もともと身体が弱く体力が皆無に等しい少女だ。神に連なものである黒い犬から、ここまで奮戦出来ているのがもう奇跡だ。

 けれど僥倖でもあった。神に連なるものだからこそ、気配を察知できた。

 世にはひとつの不可思議な法則がある。それは神話に居るべき神々が、気まぐれに地上へ降り立つという法則だ。神々はまつろわぬ神と呼ばれ、強大な力で地上へ数々の爪痕を残して去っていった。

 万里谷祐理もまた爪痕のひとつだ。彼女は普通の少女ではない……遠い遠い裔とはいえ神の血脈を現代に伝える尊き巫女"媛巫女"のひとりだった。

 そして媛巫女はひとりひとり固有の能力を備えている。祐理は"霊視"と呼ばれる能力を高い精度で発揮できる媛巫女だった。霊視とは占いのようなものだ。勘に近いものでもある。けれど神の遠い裔である彼女の勘だ。

 こうして逃げれているのも、"何かが来る"という勘があればこそだった。

 

 走って走っていつの間にか人気がなくなり、公園に辿り着いてしまった。一目ではわからなかったがここは芝公園、七雄のお社から2キロ近くも逃げていたらしい。虚弱な祐理にとって長距離といっても過言ではなく──遠吠えが夜を切り裂いた。

 天に吠える猛々しい遠吠え。矮小な人の心を挫くなんて容易いことで、祐理はたまらず膝を折って蹲った。胸をかき抱いて、嗚咽を零した。

 

「あっ、あっ、あぁぁああああああ!」

 

 犬の遠吠えだった。どこまで響き渡る聖なる声。()()()祐理はひとつの夢を思い出した。いくつものフラッシュバックが駆け巡る。祭壇。集められた少女たち。不安。恐怖。長身痩躯の老人。

 最大級の恐怖が人が爬虫類であった大昔の脳の地層に叩きつけられた。心身を喪失しなかったのは奇跡だろう。生存本能が意識を繋ぎ止めたのだ。

 のそりと陰影が揺らめく……夜闇をくぐりぬけて現れたのは一匹の犬だった。ただの犬ではない。体躯は象も及ばない、牙の鋭さは狼も及ばない、爪の鋭さは熊も及ばない。

 あれは神に連なる獣。神聖無比なる聖獣なのだ。

 

「哮天犬……」

 

 小さなつぶやきが漏れた。もしかしたら唇が震えただけだったかも知れない。けど、黒い犬は……哮天犬と思しき犬は祐理を睥睨し、今度こそ祐理は思い出した。

 あの夢は夢なんかじゃなかった。夢は過去だった。自己を守るために自ら封じた、凄惨な過去の記憶。

 人を塩の柱に変えてしまう"エメラルドの瞳"は虚妄ではなく、神々を戯れに弑する荒ぶる羅刹の君も偽りではなかった。

 哮天犬がふたたび吠えた。

 目の前の人間が自分から意識外したのが気に食わなかったのか、大きく、大きく、吠えた。嬲られる思いだった。遠吠えが轟くたびに心が砕かれる、いっそ一思いにに喉を砕いて欲しい。

 

 思考が通じたのか、哮天犬が前のめりの姿勢になった。牙を剥き、爪を逆立て、土砂を蹴りあげ祐理へ向けて一直線に飛びかかった。

 ──鮮血が舞った。

 地面に飛び散った血が街灯の灯りに照らされ赤を反照していた。それでも祐理は生きていた。それどころか痛みがなかった。

 当然だ、血を流したのは祐理ではないのだから。

 

「荒木、さん……?」

 

 恐怖が驚愕に早変わりする。

 彼はニッと白い歯を見せながら「間に合ったごたの」と笑った。腕を哮天犬に噛まれながら、痛みを毛ほども感じさせない素振りで祐理に笑いかけた。

 今日の昼に出会った……身体が大きいだけの、裏の世界のにおいなんて全く感じさせなかった少年が突如現れ、颯爽と助けに来てくれたのだから。

 驚嘆すべき光景だった。なにせこの世の真実を知っていようがいまいが、呪術師であろうがあるまいが、ただの人間が神に連なる獣を阻むことなど不可能だ。あってはならないのだ。

 祐理の心中などそっちのけで哮天犬はその間にも怒りをみせた。噛みつき腕に刺さった牙を抜こうとし……微動だにしない。

 ギチギチ。固まり切ったゴムを無理やり動かしたような音を犬の優れた聴覚は捉えた。哮天犬はこの瞬間、本気で困惑した。顎の力は強力無比、それなのに外れないのだ。筋肉を締め上げた、ただそれだけで牙も動きも封ぜられてしまった……いや、そもそも何故只人相手に、顎では()()()()などと敗北を認めてしまったのか。

 容貌魁偉。人の中にあって人ではないもの。雄々しく美々しく逞しい。陰翳から吹き出した黒い犬は、薄明かりに照らされる人から外れた魔人の姿を垣間見た。

 祐理はひたすらに俯いていた。それでも彼女生来の生真面目さで、勇気を振り絞って細く開けた目は、弱々しく光る街灯の影をしっかり捉えていた。

 腕を振り上げた影が、拳を振るった。それだけで脅威は去った。言葉にすればたったそれだけ。たったそれだけで人が獣を追い払った。

 哮天犬はさながら車に轢かれた獣のごとく下半身を引き摺って、いびつな動作で退いていった。引き際を知る名犬であった。

 

 

 こつ、こつ。と足音が聞こえて目の前で止まった。

 恐る恐る顔を上げると鬼が立っていた。鬼と見紛うほど禍々しい人が立っていた。

 伸びてきた手にビクッ、と肩を強ばらせ……伸びきた手もまた強ばって臆病な猫の手を思わせる動きで引っ込んだ。

 

「すまん」

 

 ハッと顔を上げた先には居心地悪そうな秀信が居た。居場所のなさそうな人がいた。ただそれだけだった。腰が抜けて動けない祐理に、彼は離れたところに座り込んでぽつりと零した。

 

「怖かったろう」

「ごめんなさい……」

「ははは。わしぁ……なんというんだろうな。自分で言うのも何だが、ちょっと努力すりゃあどんな種目の金メダルだって取れるらしいからの」

「え」

 

 頬をかいてつとめて優しい声音で語る秀信に、祐理はふいと視線を戻して目を瞬かせた。心なしか目が輝いている気がする。

 

「新体操やアーティスティックスイミングもですか……?」

「…………………………」

 

 ちょっと無理かもしれん。秀信は目を反らし頬をかきながら、ちょっとだけ考えて、「頑張れば……あるいは?」と呟いた。それから自分がシンクロやらリボンを舞わせて新体操をしているイメージが飛び込んできて、どうにも可笑しくて肩を震わせてしまった。

 祐理も顔は俯むかせてはいたが肩が揺れていて。さっきまで確かに漂よっていた微妙な空気が吹き飛んでしまったのを悟った。

 ひとしきり笑うと祐理がハッとして秀信の腕を取った。

 

「血が」

 

 言われてみれば、さっき噛まれた場所からどくどくと流血していた。すっかり忘れていた。

 

「なぁに、気にするごたなか。唾つけとりゃ治る治る」

「じっとしていてください。治癒の術の心得なら少しはあります」

 

 ぴしゃりと強い語気で詰め寄られ、口を閉じて顎を引いた。それから彼女の手が淡い光を放ったかと思うと、秀信の傷がみるみる塞がっていく。呪術など毛ほども知らぬ秀信は瞠目し、人知を超えた御業のように思えた。

 それから傷が完全に消えると、祐理は厳かな所作で体を戻した。終わったらしい。

 

「あの……お聞きにならないんですか」

 

 主語を抜いた言葉で、きっと、いくつかの事柄を指した言葉なのだと思った。追われていた理由、黒い犬、先程の術。

 秀信は無言だった。そのままおもむろに立ち上がると、祐理の前で背中を向けしゃがみ込んだ。昼と同じようにおぶるつもりらしい。今度は素直に従って背に手を置いて、ゆっくりと彼は歩き出した。

 道はお昼も通っていたから覚えはあって、夜道の暗ささえどうにか出来れば案内がなくとも進むことができた。

 

「むかし、むかし……というほど昔でもないか。十年ほど前だったか。九州の寂れた片田舎に、それはそれは強い餓鬼がいた」

「え」

 

 なんの話しかわからず、困惑を口にして、直ぐに言葉を噤んだ。きっと昔話なのだ。誰の、なんてわかりきった昔話。

 

「曰く、嬰児のころに鉄板を握りしめ鉄球に変えた。

 曰く、二歳のころには迷い込んだ猪を投げ飛ばした。強さの理由は何だったんじゃろうなぁ……元来、巨驅の血筋だったのか、そいとも先天的に筋肉が発達しやすか身体だったことか……或いは、虎や熊みたいに強さに理由なんてなかったかも知れん」

 

 強い語気でも、揺らぎもなく、ただ淡々と秀信は言葉にした。

 

「ひとつだけ分かることは、そん餓鬼が途方もなく"強い"ことは確かじゃった。五歳になる頃には、"鬼"だとか"負け知らず"だとか、そんな呼ばれ方をしとった、らしい」

 

 顔が暗闇に隠れて見えない。祐理も好んで見ようとはしなかった……地面に敷かれたモザイクに揺れる幾重もの影に目を落とした。

 

「そうして大人たちは決まって口にする──()()()()()()()()()()()、と。こんな片田舎に収まる器ではない。こんな場所に居ていい神童ではない。ここから出て大きな世界に行くべきだ。外に出るべきだ」

 

 彼の語気は変わらない。けれど、手のひらに伝う彼の鼓動は自分のものより些か早かった。

 

「そうだ──ここに居てはいけない」

 

 祐理は思い当たるものがあった。人は理解できないもの、人から外れたものを、"かみ"と呼び馴らわし祭り上げる。そうする事で自分たちの理解できない存在を、枠組みに収めて常識の範疇に貶めてしまうのだ。きっと彼も。

 

「物心ついたばかりの人格すらあやふやで、自我も薄かった頃じゃ。弱くて凡庸な人間しか居らん、対等と思える人間なんぞおらん。そいつは悟った。人は弱い。自分より強いものなんぞ、この世におらん。居るはずがない。だからここに自分の居場所はない」

 

 彼は孤高であった。

 彼の歩む道を阻むものはおらず、老若男女の誰もが畏怖を込めた目で彼を仰ぎ見て、彼もまたそれを拒まなかった。

 彼は孤独であった。

 彼と同世代の、まだまだ幼い子供たち……しかし鋭敏な感覚を備えた子らは総じて距離をとった。彼もまた抜身の刀身さながらの雰囲気を隠すことはなかった。

 どこまでも己と他人は分け隔てられている。わかり合うことはなく、わかり合う必要もない。天上天下唯我独尊。まさに彼のためにある言葉であった。

 

「しかしな、有為転変は世の習い。ある日、そいつにも転機が訪れた」

 

 俯いたままの祐理に構わず、秀信は一転して明るく楽しげな声音で語り出した。重箱に納められた大切な思い出を紐解くように。

 

『おっす! ぼく□□□□ってんだ! いえもちかいしさ、トモダチになろーぜ!』

 

「そいつを恐れない例外(バカ)が現れたんじゃ。近所に住む普通の子供だったはずでの……傍からみても凡人の域を出ない同い年の子供じゃった。特徴があるとすれば意志の強そうな瞳だけか。

 素直に驚いた。そんな平々凡々な子供が恐れ知らずに自分と友達になろうと笑いかけたんじゃからな」

 

 クツクツと愉快そうに笑い、「神童だの怪童だの呼ばれとる餓鬼より、誰も彼も忌避しとった奴に平然と声を掛けてくる凡人の方がわしは凄い奴じゃと思う」と、心底楽しそうに言った。

 

『おいに、話、掛けるな』

 

 彼はすぐに突き放した。驚いたのもあったし、プライドもあった。だが一番の理由は……友達になろう、と言われたのが初めてで、どうしていいのか見当もつかず戸惑ってしまったのだ。

 

「弱っちくなんてない! じゃあ勝負しろ、ぼくが勝ったらトモダチな! それでどーだ!」

 

 結局、彼の申し出を受けた。最初は軽い気持ちで、自分に向かって威勢のよい事をいう子供なんて今までいなかった。物珍しい。だからか、心が動かされたろう。

 そうして勝負が始まった。

 

「──戦いはわしの負けじゃった。人は強かった。それを思い知れた……そして叶うなら、あの日のままで居続けたい。そう思って今まで生きてきた」

 

 話は終わりだった。なんてことはない。どこにでもいて、ありふれていて、けれど唯一無二の、誰かの話だった。

 

「自分で言うのもなんだが、他人よりも強い身体を持っちょるからの……普通に生活を送っとるだけでも変化の荒波がざぁざぁと訪れよる」

「荒木さんは……変わりたくないんですね」

 

 小さく頷く。

 変わりたくない。昔のままでいたい。そんな欲求は誰しも持っているものだ。郷愁とも似ているようで違う、追憶の情。

 彼は人並み外れていた、だからあの日の記憶は黄金だった。

 しかし彼は容貌魁偉だった。優れすぎる身体が、変わらずに居続けたいなどという想いなど踏み躙って、変化へと手ぐすねを引くのだ。

 

「…………」

 

 識っている感情だった。奇天烈で比類ない能力を有しているのは万里谷祐理という少女も同じだったから。彼女は霊視の才に優れている。おそらく歴代でも最高位の精度を誇るだろう。

 でもそんなもの望んでいた訳では無い。天命なのだと諦めはした事はあっても、喜んだ記憶は少なかった。才のせいで"最悪の存在"に目を付けられ、拭えないトラウマだって生まれた。二年前に起きたあの凄惨な事件を経て、今の今まで平素で居られたのは忘却という形で封をしていたからに過ぎない。

 

「力は……怖いです」

 

 そうだ、力は怖い。偽りのない本音だ。二年という月日の経った今でさえ、過去に意識を向ければ身体の芯が青褪め、指先から震えが走った。でも彼の前で嘘は騙りたくなかったし、相応しくもなかった。

 そうじゃの、と寂しさを隠さず秀信は同意した。

 

「私も優れた能力を宿していると誉めそやされる事は、一度や二度ではありません。媛巫女という地位にあって、敬られるのも才があるからに他なりません。……人を終えられた"羅刹の君"と恐れられる方に出遭い、見初められたのも才があったせいです」

 

 それでも、とその先の言葉は続かず……秀信は目を瞠った。首元に柔らかな感触が広がった。肩と背中に置かれていた手の感触はいつの間にか消えていて。

 祐理をおぶっていたはずの秀信は、祐理に抱きすくめられていた。後頭部にはおでこが預けられていて少女の毛髪と腕の汗腺から由来する匂いが、心臓に早鐘を打たせた。思わず足を止める。

 祐理はその先の言葉を口にするために大きな勇気が必要だった。力の塊である秀信を肯定すれば、自分の裡に秘めた力も肯定してしまう。力は結局力でしかない。方向性が違えど根源では同じだ。

 そしてそうすれば忌まわしい過去も……恐怖し記憶から消し去っていたはずの過去だって肯定に繋がってしまうのだ。

 それでも。声にならない唇の揺らぎが言葉になって秀信の両の耳に届いた気がした。

 

「あなたが。荒木さんが。居てくださって良かったと、そう思います」

 

 噛み締めるように、口を引き結んで目を瞑った。目を開けたらきっと前は見えなかっただろうし、言葉は言葉にならなかったはずだ。大きく息を吐いて、大きく揺らいでしまった自分を糺す。

 背中に伝わるぬくもり。今が真冬で良かった。彼女の体温を強く感じ取れる幸運に感謝した。

 

 ああ、居るのだ。

 

 自分は、此処に居るのだ。

 

 顔は見えなくても、誰かがそこにいるのだ。ひどく満足してしまった。

 

 

「……万里谷」

「はい」

「……わしは、いて、よかったと、思うか」

 

 応じる返事は、合わさった頭に伝わる頷きだった。

 

「思います。敵を追い払ってくださったから、ではなく」

 

 救われたと思った。自分をまた見つけられた気がした。

 そうか、そうか。

 なんどもなんども、自分でも呆れるほど繰り返して、二人は日常へ帰っていった。

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