羅刹の拳【完結】   作:につけ丸

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鬼だ。
悪鬼だ。
地獄から現れた餓鬼に違いない。





第5話

 あのとき、"戦う"と即答出来なかったことに。

 あのとき、斉天大聖を恐れてしまったことに。

 あのとき、覚悟が出来ていなかった自分に。

 

 秀信は恥じた。

 

 あれが幼少のころより共にいた彼らなら。あれが自分に痛みを教えてくれたあいつなら。

 今このとき、誰よりも前を駆け、誰よりも無鉄砲に、誰よりも傲岸に笑っていたに違いない。

 だと言うのになんだ、この体たらくは? 

 

『人の子よ。ここは退きたまえ。あの巨猿は今の君では到底太刀打ちできない力を秘めている。ここは一度退き、策を練り、力を蓄えるのだ』

「───断る」

 

 二郎真君の声が聞こえる。彼は「退け」という。けれど、それこそ「否」である。秀信は巨猿をにらみ付けた。まったく退く気がないことを示すように。

 

「お前の言うとおり確かにあいつは強か。んなこと、お前に言われんでも分かる……。ばってん此処で退けんやろうが」

『何故?』

「此処でわしが退けばどうなる。幹彦さんらは逃げられんやろうが……それに二郎真君と言ったか。お前は斉天大聖とかいうエテ公を倒すつもりなんじゃろう? あのエテ公は巨猿より強いんじゃろう? ならあいつを倒せんといかんだろう!」

『む。……だが、あれは神獣だぞ? 人の子が……それこそ英雄と呼ばれる者が命を賭けて倒せるか倒せないかの強大な存在だ。今の君に万が一にも勝ち目はあるまい』

「ふん! ここで終わったなら、おいはそこまでの男だったと言う事じゃ!」

 

 二郎真君はそこでやっと理解した。取り憑いたこの少年は、途方もなく愚かである、と。

 たしかに分身たる哮天犬を退け、自分の眼鏡に適った。その才気は比類なく、制御するのも一筋縄ではいかないだろうとは予想していた。しかしこれほど聞かん坊で、猪突猛進だとは思いもしなかった。

 

 ────GYAAAAAAAAAAAA!!! 

 ────ウォォオオオオオオオオオオッ!!! 

 

 大音声を轟かせ、秀信はシンプルに突っ込んだ。幹彦たちの静止の声が聞こえるが、振り切って進む。

 先の闘いで秀信は大きく疲弊している。それは間違いない。そして先天的に筋肉量が多い特徴を持つ者はおおよそ息切れしやすい傾向にあった。

 だが秀信は当て嵌まらない。

 人間の筋肉にはおよそ二種類あると言われている。遅筋と呼ばれる赤い色をした、力はないが持久力に長けた筋肉だ。

 もう一つは速筋と呼ばれる白っぽく、持久力はないが瞬発力と大きな力を発揮する筋肉が。

 もし。もし赤い筋肉と白い筋肉の長所……持久力、瞬発力、筋力に優れた第三の筋肉があるとしたら。

 もし。もし生まれつき全身の筋肉が第三の筋肉で構成され、それが一部の隙も無く()()であったならば。

 極めつけに筋肉を抑制する物質が分泌されにくく、先天的に筋肉が過剰な特徴を備えていたならば……。

 それはとんでもない素養を備えた人間となるではないか。それこそ英雄と呼ばれるような……。

 これを兼ね備えた奇跡的な人間こそ、荒木秀信。二郎真君に見出された未だ成熟するに至っていない少年であった。

 

 鼓膜に伝わる血のさざなみが、周囲の音を掻き消していく。筋肉の収縮が祭りで奏でられる雅楽となって鼓膜に届いた。

 身体が火照って仕方がなかった。抑えていた激情の枷が外れていく。対して指先が冷たくなった。アドレナリンが大量に分泌され、脳に血が集中しているのだ。

 発汗した汗や流れ出る血が湯だち、熱を持った身体はもう限界だと言わんばかりに軋みんで、ぎこちない。

 けれども足は止まらなかった。逸る心は収まらなかった。見据えた視線は揺るがなかった。

 神獣へ向け、地面を踏み砕くほど激しく踏み出し、死を恐れぬ戦士の如く猛然と突き進む。 

 巨猿もまた地を駆けていた。

 しかし烈火の如き秀信へ虫かなにかを見下ろすように無感動な視線を送るだけ。

 その余裕はまさに圧倒的強者としての振る舞いに他ならない。

 

 近づけば近づくほど、巨猿の威容は凄まじい。昨晩の哮天犬などより、よっぽど威圧感を感じた。当然だ、秀信は知らぬことだが哮天犬は二郎真君の眷属。

 主人が敗北し布へと身を窶したのだ。眷属である哮天犬もまた零落するのは道理。だからこそ秀信は勝てた。

 だが今度はどうだ。正真正銘、万全な神の眷属だ。全身をおおい躍動する強靭な筋肉、口腔から覗く太く黄ばんだ犬歯、戦意を根こそぎ奪う射竦める鋭い眼光、赤いオーラを纏っているかと見紛うほどの覇気……。

 こんな生物が現世で暴れれば大きな街ですらひとたまりもない。

 

 ───じゃがここでこいつばブッ倒さんと、おいは前には進めん! 

 

 頑迷なまでに斉天大聖への反骨心を迸らせる。舐めきっている斉天大聖にもこの巨猿にも、そして二郎真君にも一矢報いねば気が収まらなかった。

 身体の芯から震える上がる恐怖を怒りに変え、そのまま勢いよく巨猿の脛へむけ拳を振り下ろした! 

 

「ッウラァッッッ!!!」

 

 咆哮とともに放った拳は、確かに巨猿を捕らえた。同時に、ドム……、と間抜けた音が脛と拳の間から聞こえた。

 その後にはしんと静寂だけが残った。

 静寂と同時にぶわり、と全身から冷汗が噴き出すのを自覚する。まるで重ダンプの巨大なタイヤを殴ったかのように全く手応えがなかった。

 秀信には己の拳と力の強さには絶対の自信があった。

 今までの生涯の中で、この拳を振るえばどんな喧嘩相手も沈み、さらに先刻の猿たちにも通用したのだから、この巨猿にも必ず痛打を与えられると踏んでいたのだ。

 だがどうだ、この無残な結果は? 幼い子供が大人に戯れているようではないか。

 その衝撃たるや青天の霹靂さながらであった。

 秀信の胸中は驚愕や羞恥、怒り。視界すら白く染める激情に覆い尽くされた。

 

 動きが、止まる。

 それはこの戦場であって悪手以外の何物でもない。

 巨猿が動く。

 遊びは終わりだと言わんばかりに。足元の虫を払うように敏捷な動作で足を振りあげ、硬直した秀信に引導を渡そうとする。

 

『くっ……! 致し方あるまい』

 

 その瞬間、巨猿の動きを察した二郎真君が叫んだ。右腕の布の模様じみた『目』がうごめき、秀信を拙い傀儡子が操るように動かしたのだ。

 ズォン! と轟音じみた風切り音が響き、ギリギリで身を捩った秀信だが、気が付けばその風圧で五メートルは吹き飛ばされた。

 なんとか両足で着地し、同時にバックステップ。ギクシャクとした、だが理に適った動きで、巨猿と距離をとる。

 その時にはもう秀信も正気に戻っていた。

 

「呆けておった。……すまん」

『構わない。そも私が拐かしたのだからな、貸し借りなどありはしない。……しかしこれで分かっただろう。退け。でなければ、死ぬぞ』

 

 やはり首を振る。だが以前と違い、決して意固地になっている訳ではない。

 さっきとは打って変わって、秀信の頭は冷えていた。

 

「無理じゃ。お前も分かっとろう? あの巨猿の速さからはわしは逃げ切れん。……それに、何度も言うが、ここでわしだけが逃げても、幹彦さんらは逃げ切れん」

『……ならば私に身体を預けてはくれまいか? 私も鋼の末席を占める者として、神獣であれ武技で仕留めて見せよう』

 

 その言葉に秀信は逡巡を見せたが、結局頷きはしなかった。

 

「言ったじゃろう、あいつはわしが倒さねばいかんと。死ぬ気でやりゃあ、なんとかなる。なんとかする。わしは今までそがんして生きてきた」

『……はぁ、仕方がない。全く、これほど二郎真君たる私を悩ませる人の子など居ただろうか? ならばあまり気は進まないが、あれに対抗する(すべ)を教えよう』

「対抗する術、じゃと?」

 

 そこまでだった。巨猿が襲いかかってきたのだ。

 電光石火。秀信が動いた、と認識した瞬間にはもう眼前で腕を振り上げていた。

 こなくそ! 思考するより早く、本能のままに飛び退き、紙一重で、避けきれた。

 轟! と豪快に衝撃音が鳴り響き、その拳の強さを物語るように地面が蜘蛛の巣状に罅割れていく。

 前回の焼き増しだ。拳圧で吹き飛ばされ、デジャヴに襲われる。けれども立ち直りは見違えるほど早くなった。

 

「術とは!?」

 

 二郎真君に向け、鋭く問いかける。

 

『前準備だ。耐えてみせよ』

 

 その瞬間、全身の至るところに鋭い物で突かれた感覚を覚えた。クぉッ、と呼気が漏れ、着地した瞬間、転がりそうになるのをなんとか防ぐ。

 これが前準備ちゅうやつか!? 唐突に起きた異変に、目を白黒させる秀信。

 

『君の身体にある二十七の経穴を突いた。これで君の経脈が叩き起こされたはずだ』

「経穴!? 叩き起こした!? ──うおっ!?」

 

 二郎真君の言葉の意味を考える余裕もなく、巨猿が迫った。今度はその長大な腕をフルスイングし、薙ぎ払ってくる。

 倒れ込むようにゴロゴロ転がり、寸での所で躱す。

 

『下腹部、臍下丹田になにか感じるものはないか?』

「────!」

 

 たしかに、なにかを感じた。暖かみのあるものを。ほんの少しだが。

 

『説明は後回しにしよう。その力、この戦いでものにせよ。いま君も言ったな? 死ぬ気でやる、と。ならばそうせよ───死中にこそ活あり』

「無理言うてくれるわ!」

 

 そう言い合っている間にも巨猿は止まらない。ひび割れた地面を掴み、そのまま無造作に投げつけてきた。 

 礫を投げつけるという単純だが、天然の砲弾だ。かつては投石にて巨人殺しを為した英雄もいる、バカにはできない。

 それもただ石塊を投げるのではなく、砂礫を掴めるだけ掴んでは投げつける散弾じみた攻撃。

 

「痛ぅッ!」

 

 避けるのは不可能。咄嗟に両手をクロスさせガードしたが、またたく間に赤く一直線状の筋が身体中に出来上がった。痛覚が鋭い叫びを上げる。膝を付きそうになるのを堪え、走り出す。

 それを逃す巨猿ではない。すぐさまふたたび、投球フォームに入った。

 今度は、まずい。

 巨猿の掌中にあるのも。それは三、四メートルは軽くありそうな巨大な石くれ。あれに当たればひとたまりもない。

 いま頼れるのは己の親からもらった二本の足だけ。風より早く駆けよ、と疾走する。

 

 ──GYAAAA!!! 

 

 巨猿の咆哮と同時、石くれが投擲された。あれは間違いないなく直撃ルート……。悪態をついて四肢に力を籠めるが、避けれるヴィジョンが見えない。

 万事休すか! そう思った瞬間だった。

 ──熱を感じた。マグマのように渦巻き、激しい潮流さながらに猛るものを。

 場所は、下腹部……臍下丹田と呼ばれる場所。

 先刻、二郎真君に促され感じたような曖昧なものじゃない。荒れ狂う波濤のごときチカラが確かにここにある。

 

『───その力を、足へ注げ。それで活路は拓ける』

 

 言われ、思いっきり踏み込んだ足に目一杯の力を注ぎこんだ。

 やり方は二郎真君がお膳立てしてくれているらしい。この臍下丹田から湧き出るチカラを流れ……まるで血管を流れる血の如く動き、初めて感じたといのに違和感なく受け入れ扱うことが出来ていた。

 ───疾ッ! 

 地面をこれでもかと踏み砕き、超加速。直後、後方にて轟音が響き、あの石くれを見事躱したことを悟った。

 

「凌いだぞ!」

『うむ。こと戦いに関しては才気凛々であるな君は』

 

 歓声をあげ、九死に一生を得ることができた喜びをあらわにする。

 ぶっつけ本番で、今まで触れたことの無いおかしなチカラを使いこなさなければならなかったのだ。

 彼の喜びはひとしおだった。二郎真君も、たしかな安堵と惜しみない称賛を送った。

 

 ……けれど、それがいけなかった。

 

 ゆらり、と秀信の視界が陰った。ゾクリとこれまでにないほど警鐘が打ち鳴らされ、足を地面に打ち付けて急ブレーキをかける。

 その判断は正解でもあり間違いでもあった。

 ここで止まらなければ、そのまま巨猿に突っ込んでいただろうし、止まっても巨猿の長大な腕で殴打されることは自明の理であった。

 逃げ場は、ない。

 石くれを投擲すれば、逃げることに必死になっている秀信の逃走経路は絞られる。この巨猿は秀信の挙動はどう動くのかそれを完全に見切っていた。秀信の想像以上に巨猿は俊敏であり、したたかであった。

 ────ゴシャッ! 

 秀信と二郎真君に聞こえたのは肉を強く殴打した不快な音だった。

 次いで空白が襲う。それは肉体も精神も理解を拒絶したような、一時の停滞。

 しかしそれも須臾の時間。骨が、肉が、血が、皮という肉袋からまろびでているのを理解した……。

 ぬるりとした怖気が秀信のあらゆる正の感情を蹂躙していく。

 思考がまともに動いていたのはそこまで。叫ぶ暇もなく意識を置き去りにする衝撃とともに、景気よく吹き飛んでいた。

 

 その先に乱立する木々をも巻き込んでなお、秀信は止まらなかった。

 いくつもの大木を穿って轟音を響かせながら豪快に吹き飛んでいく。

 神獣という埒外の生物の、一撃。攻撃が当たった時点で体が破砕しなかったのが奇跡だった。

 砲弾じみた勢いで吹き飛んだ秀信が、ぶち当たる軒に勢いを削がれ、ついに停止する。

 ……あとには凪ぐような沈黙だけが残った。まるで果てた戦士を悼むような静寂が。

 あんな一撃を受けて、只人が生き残っているはずがない……そう確信させるに足りうる凄味が巨猿の一撃にはあった。

 天罰を下せば、用はない……残った人間を屠るのみ。

 ───天罰。

 そう、この行いはただの罰であった。秀信は戦いだと考えていても、圧倒的強者である巨猿はそれくらいにしか捉えていなかった。

 人と、神に連なるもの。雲泥、と例えてもいいほどの絶対的な開きがそこにはあった。

 

 だが。踵を返した巨猿が一歩を踏み出そうとした時───それは起きた。

 こつん、と小石が後頭部に当たったのだ。

 蚊に刺されたかと思うほど、なんの痛痒にも介さない出来事。だと言うのに、巨猿の動きは止まり後ろを振り返っていた。

 

 果たして()()は現れた。

 

 ガラガラと音を立て瓦礫の山から立ち上がるナニカがいたのだ。

 そのナニカは、赤かった。

 あれは"人"か? 否、そうではない。そんなことはあり得ない。あってはならない。神獣の一撃は天罰に等しい。天罰を受けて立てるものが人である筈がない。

 ならば何者か? 

 血化粧で面貌を紅へと変え、衣を朱へと染めたあれは何者だというのか。

 あの足取りもおぼつかず、焦点すら定まっていない死体同前の存在は、そう時を待たずして鬼籍に入るだろうあれはなんだ。

 瀕死だ。間違いない。だというのになんだあの満腔の覇気は。戦意は。闘志は。もはや可視できるほどに茹だつオーラに知れず、神獣たる己が総毛立った。

 あれは人ではない。人であってたまるものか。

 ───では何者か? 

 鬼だ。悪鬼だ。地獄から現れた餓鬼に違いない。

 ───あれは、まずい。

 あれは己を……ひいては主さえをも脅かすものだ。巨猿は確信とともに前傾姿勢を取った。そこに侮りはなく、獅子が全力で狩りをするような敵意と殺気のみがあった。

 

「…………」

 

 立てたか。顎が砕け、どうにも口が回らない秀信は独り言ちるように胸中でそう零した。満身創痍だ、猿との戦いからすでにボロボロだったが、今は輪をかけてひどい。

 痛覚もどこかおかしくて痛いのか痛くないのかすら曖昧で……いや、痛い。逆巻いた皮膚や肉が、空気に触れるだけで絶叫をあげたくなる痛みを感じた。

 だったら何故曖昧などと感じたのか。きっと、自分が曖昧なのだ……居るのか居ないのか、希薄で薄弱になってしまった。

 

 だから痛みが必要だった。生きるために、生き残るために。あのまま臥せっていたほうがマシだった、と思えるほど痛い。でも痛みが彼を彼にする。朦朧とする意識が鮮明になる。

 

 今まで語り掛けてきた二郎真君からの応答はない。腕に巻き付いた布を見れば、今さっきまであった筈の『目』の模様がなくなっている。何某かの理由でいなくなったらしい。それとも愛想を尽かされたか。

 ま、そっちの方が丁度よか。

 どうでもよかった。わかることは一つ。ここからは秀信一人の戦いだった。

 だれにも言い訳しない。誰にも言い訳できない。逃げ場などなく負ければ終わり。一回こっきりの大勝負。けれども手柄はすべて独り占め! ビタ一銭も渡す必要はない、喉がひりつく命を賭けた大死合! 

 ……なんとも燃えるではないか。

 ちぎれ飛び痛みを伝える機能を放り出そうとする神経に活を入れる。霞み赤く染まった視界でしっかりと敵を捉えた。敵はすでに動いていた。速い。

 あの巨体からなぜあんなスピードが出るのか不思議なほどの速度。だけど、秀信は、しっかりと"観えて"いた。

 刹那の思考を巡らせる。あの巨猿に長期戦なんぞもっての外。電光石火の短期決戦で臨まねばならない。

 

 ───どうせ、身体も長うは持たんじゃろうしな。

 

 自重するように、口角を吊り上げる。故に、シンプルにこの一発の拳に───全身全霊を賭ければいい。

 心臓の鼓動が痛いほどに高まって、臍下丹田から湧き出るチカラも湯水のごとく止まらない。身体が芯から燃え上がりそうなほど熱かった。まるで酩酊しながら射精感に溺れているような退廃的な気分にすら陥って。けれども視界に映る敵はしっかり視えていた。

 すべての事象がスローモーションになっていく。網膜に映るすべての色が白と黒だけとなった。まるで映写機がゆっくりと動きを止めていくような、時を経るごとに世界の時間は伸びていく。逸る心が体感速度を押し上げていく気がする。

 と同時、バチバチと脳内で放電したかと錯覚する鋭い痛みが走り、次いで断続的にあぶられるような痛みが苛んだ。

 嵐のように荒れる心。これ以上なく火照った体。頭痛の止まらない頭。

 無我の境地とはまるで正反対。澱み、穢れ、煩悩、怒り。そんなネガティブで、けれども、激しいものばかりが、噴火した火山さながらに溢れかえって、犇めき合っている。

 荒木秀信。お前はいつだって最強だ。なんの理由もなく。己が己であるだけで。こんなところで終わる男では決してない。

 敵を倒すなんぞ、葉っぱの裏にひっついたイモムシを潰すくらい簡単なことだ。敗北なんてありえない。何でもできる。できないことはない。一番だ。だから勝てる! 勝つ! 必ず!!! 

 己を鼓舞し、高めていく。それは鉄を熱し、精練するのにも似て。 

 

 行くぞ荒木秀信! 気張れ───ッ!!! 

 

 落ちてきた巨大な拳の甲を、上から掌でなぞるように受け流す。皮が摩擦で、焼け落ちた。痛みが、自分と敵の境界線となって別かった。 

 下へ落ちていく拳の勢いを利用し、己を独楽のごとく体を回転させ、上方へ向かう。転がりながら腕に右足から着地する。転びそうになった。かまわん踏み込め。

 巨猿と視線が交錯する。

 明らかな敵意を含んだ視線を真っ向から受け止め、睨み返す。それでいい。

 巨猿の腕は地面に突き刺さって止まっている、故にチャンスはこの時のみ。

 臍下丹田の力を足に込める。最初やった時より格段に送り込んだ量も、速さも、精度も上がっていた。

 

 ───疾ッ! 

 

 腕から頭部まで十メートルの距離を一息に詰めた。息がかかるほど接近し、拳を引き絞る。キリキリと矢を弦につがえるように。

 今までの借りを返すように。膨れ上がる戦意を凝縮し、圧縮するように。万感の思いを込め、目一杯に溜めた拳を……

 

「───ッ!」

 

 眼球へ叩き込んだ! 

 拳は見事、巨猿の眼を捕らえ、巨猿は大きくのけ反る。秀信は人間という種の中でも最高峰の膂力を持っている。

 そんな彼が全力全開で……それも「気」なんて言う未知の力でブーストされた渾身の一撃を放ったのだ。

 さしもの神獣である巨猿といえど、抗すのは不可能。巨猿は脳がシェイクされ見事失神し、

 

「勝っ……たぞ……ッ!」

 

 力を使い果たした秀信は満面の笑みを浮かべ、そのまま地面に落ちていった。

 

 

 ○◎●

 

 

 どうやら意識を失っていたらしい。それが短かったのか、長かったのか、判断を付ける術はない。

 ただ一つわかることは身体は鉛じみた重さで、あたかも糸が切れたようにピクリとも動かない、ということだけだ。

 目線を動かし、巨猿を探せば。すぐそこに居た。烈火の怒りで色づいた瞳でこちらを睨めつけ、けれどどうやら三半規管が狂っているらしい。立ち上がろとして、すぐに倒れ伏す。

 現状は何となく理解した。

 ……こっから一刻も早う逃げんといかん……。だが秀信も限界を迎えていた。

 これまで、か……。斉天大聖までたどり着かんかったが……あの巨猿には勝った。それで良しとするか。どこか満足したような笑顔を浮かべ、意識が薄くなって……

 

「──荒木君! 大丈夫か!? 神獣に一人で戦いを挑むなんて、無茶なことを!」

「ひどい怪我です……。治療の術を、早く!」

「若、急ぎましょう。神獣もまた動き出します」

「ああ! みんな、撤退だ!」

 

 薄れゆく意識の中で、誰かに担がれる感覚を覚え、それを最後に秀信の意識は消失した。

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