「──本人が分裂しないだけ、さっき、よりは、楽だが……っ!」
影を纏った吸血鬼の男が、
しかしその数も徐々に増して行き、屋根の上をパルクールのように跳ね回るユーリを捕らえるべく、枝分かれした影が迫り来る。
「うおっ──と、とっ、とおっ!?」
屋根を削り、煙突を破壊し、ユーリの居た空間を一瞬遅れて通過する槍のような鋭さを兼ね備えた影の鞭。もはや枯れ木と表現するのが適当と言わざるを得ない
「……よし」
跳躍から自由落下までの数拍で、現状の打破を考案する。『まさかなんの策もないわけがないだろう』と内心で独りごちて、ユーリは着地と同時に逆に男へと肉薄した。
「──ォォォオオオオ゛オ゛!!!」
男は吼えながら両腕分の影を収束し、散弾のような軌道で無数のトゲ状に拡散させる。
近づくにつれて影の密度が増し、自分目掛けて飛んでくるトゲが
「まるで獣だな、理性すら失って──なにが吸血鬼だ? 誇りは……どうしたっ!」
「────ッ」
眼前まで接近したユーリは、そう言って男の腹に翳した手のひらから小規模の嵐を発生させて叩き込む。分裂で避けるという思考が間に合わず、モロに食らった男は、ベリベリと影を剥がされたように纏う姿が解け──空中に投げ出される。
ぶわりと舞ったのは、ちょうどエイミーが走ってくる方向で、ユーリは疲労を見せる動きで重いため息をつきながら一言呟く。
「……花は持たせるぞ、エイミー」
「まっ──かせなさぁぁぁい!!」
ダンッ! と、エイミーは力強く跳ねる。脱臼した左腕は動かず、全身に痛みが走り、杭は紛失し、最後に残された武器は右の拳のみ。
けれども、痛み以外にも全身を駆け巡る
獣人の気ままさと暴れたいという本能的な意志を捩じ伏せ──右手の銀のネックレスを拳に巻いて、十字架を拳面に垂らすと、エイミーは男に叩き込むべく腕を振りかぶる。
「ぉぉぉおおおっ──ルァアアアッ!!!」
「────私の負けだ」
拳が顔面に捩じ込まれ、振り抜いた刹那──エイミーの耳は男のそんな言葉を捉えた。
ドンッと空気を破裂させるような音と共に、凄まじい勢いで軌道を変えて空中を弾き出されたように吹き飛び、煙突を粉砕し、街灯を破壊して、男はその場から離れた位置の広場に落下する。
舗装された石畳に着地したユーリは、殴り抜いた姿勢のまま落ちてきたエイミーの落下予想地点に下から上へと暴風を発生させて落ちる速度を遅らせると彼女に着地させた。
「エイミー、無事か?」
「づっ──私はいいからヤツにとどめ! 肩はめ直したら追いかけるから!」
「……了解っ」
こくりと頷いて、ユーリが踵を返す。
殴り飛ばされた方角に急いで向かうと、そこには──殴られた位置を中心に顔半分がヒビ割れた、仰向けで倒れたままの男が転がっていた。
警戒心を隠さずに、静かに懐から杭を取り出しながら歩み寄るユーリの気配を察知して、男はポツリポツリと語り始める。
「……これが、人間の強さというものか」
「そうだな。変化の無い種族と、弱くても変わろうとする種族では、意志の強さは違うだろうさ。吸血鬼は強い、でも……それだけだ」
「……く、く。それだけ、か」
興奮が冷めたかのように、一転して冷静な口調で男は淡々と続ける。
「……この世界に、我々の居場所は無い」
「お前……いや、お前たちはもしかして──」
「……気づいた時には
割れた顔を隠すように首を曲げてユーリを見ると、男が哀れむように言う。
「……貴様にはあるか? 帰る場所が」
「あるさ。忘れたことなんか無い」
「……貴様には居るか? 会いたい者が」
「……居るよ。俺はまだ……あの日、育ての親に、『ただいま』と言えていない」
目尻と口角を歪めて、ユーリは絞り出すように、誰にも言ったことのない胸の内を吐露する。その理由は、目の前の男がもうじき死ぬからだろうと、頭の片隅で他人事のように思案した。
──その時、視界の端で、チカッと光が煌めいた。それはユーリにとってはありがたく、吸血鬼にとっては忌々しい聖なる光。
「…………夜明けだ」
いったいどれだけの時間戦っていたのかもわからない激戦の果てに、ユーリはまぶたを細めて昇り始めた太陽を見る。
ユーリの後ろで射し込む陽光を浴びて、体の末端から灰となりながら、男は尚も言った。
「──暖かいな。こんなものを当然の権利の如く浴びられる貴様ら人間を……生まれて始めて、羨ましいと思ったかもしれん」
「……そうだな」
ユーリは、消滅するまで男に振り返らなかった。せめて同情はするまいと、哀れむまいと、そう考えて並んで陽の光を浴びる。
「──うおっ」
一瞬吹いた強風に巻き上げられた男の灰が散り散りとなり、宙に舞って消えて行く。それを見届けたユーリは──しみじみと口を開いた。
「……この世界で、一番長い夜だったな」
──関節を嵌め直した左腕の調子を確かめるエイミーと共に領主の屋敷に戻ったユーリは、辺り一面の灰の山の傍らで武器を手に汗を拭うレイクとフォースの二人と合流した。
「お疲れ、二人とも」
「もう二度とこんな仕事したくねえ」
「……全くだな」
「二人が愚痴をこぼすなんてよっぽどだねぇ」
レイクが渋い表情で呟き、フォースが同調する。その会話に、エイミーが苦笑いする。
灰の山が風に煽られ消えて行くさまを見て、ユーリは疑問を投げ掛けた。
「どのぐらい相手にしたんだ?」
「あ~~~……20から先は数えてないな」
「にじゅう……5は居た気がするな」
「それ正確に数えてないと受付さんが困るぞ」
長剣を鞘に納めながら数えるレイクに、フォースは指折り数えてから訂正した。
そうしていると、屋敷の中から現れたふくよかな男性──この街の領主が会話に混ざる。
「いやはや、お疲れさまでした」
「ああいえなんと言いますか。屋根や街灯や煙突を幾つか壊してしまったので、むしろそれらの修理費を幾らかお払いしようかと」
「ほっほっ……街のための税金ですからな。このくらいは想定の範囲内ですぞ」
「……さいですか」
最悪の場合、街の損壊の修理費用がこちら持ちだったかもしれない。そんな考えもあったからかほっと胸を撫で下ろすユーリだったが、その横で「あ!」と声をあげたエイミーがポケットから取り出したネックレスを見せた。
「これと同じネックレスってある?」
「ふむ……たしか、街のアクセサリーショップに同じものがありましたな」
「うおおおちょっと行ってくる!!」
借りたネックレスであるにも関わらず、十字架部分は曲がり、チェーンも千切れている。
少女が起きるまでに新品を用意しなければならなくなったエイミーが疲労困憊の体に鞭打って駆けずり回ったのは、また別の話。