「…………???」
「いえ、心底不思議そうな顔をされても困るんですよアイリーン様」
読んでいた図鑑を閉じて、元の場所に戻そうと立ち上がるユーリは、付いてくるアイリーンに背中越しに声を掛ける。
「貴女は王女様ですよね?」
「そうねえ」
「そんな人を組み手と称して普通に殴ったらどうなると思います?」
「あなた私に当てられると思ってるの?」
「そういう意味ではなく」
本棚に図鑑を戻すと、ユーリは違う本を探そうと並べられた背表紙に視線を動かす。
「というか、仮にアイリーン様が王族でなくとも俺は進んで殴り合いなんてしませんよ」
「あら。お優しいのね」
「……優しいというか……嫌な思い出が甦るから好まない、というか……」
「?」
なんのことかと小首を傾げるアイリーンは、苦い表情をするユーリの横顔を見上げる。
「あらゆる武器・武術を使いこなせるようになりなさいと言われ、10歳の頃からつい最近まで──15年ほど痛め付けられておりまして」
「あぁ、そういう……」
「お陰で死線を潜り抜ける力は身に付きましたからね。先生には感謝していますよ。あっはっはっ。あっはっはっはっ!」
「壊れちゃった」
壊れた機械のように乾いた笑い声を上げるユーリに、アイリーンは自分のことをしれっと棚にあげつつ憐憫の目を向けていた。
「はっはっは────あ?」
「ん?」
「……これは、子供向けの小説」
それからふと、視界に入った本を手に取ると、おもむろにパラパラとページを捲る。
「ふぅん。勇者が魔王を倒す話か……」
「あー。そういうのって子供に人気よね」
「勇者、勇者ねぇ。──アイリーン様、勇者って実在したりするんですか?」
「…………」
「なんですかその顔は」
アイリーンは、『なにを言ってるんだこいつは』とでも言わんばかりに呆れた表情をした。
「そういうの信じてるのは子供だけよ」
「さいですか……」
そう言って小説を戻すユーリだが、その脳裏に、かつて小さい頃に育ての親からあっけらかんと言われた言葉を想起させる。
『遊理、私が昔、勇者を
当時は幼かったこともあり、なんの冗談だと笑ってスルーした言葉。
けれども現在、こうして自分が奇妙な事態に巻き込まれていることを考えれば、あの話は事実だったのだと受け入れることができる。
「勇者がいる異世界と居ない異世界があるのか。先生のこともシルヴィアならわかるかな」
「なんか言った?」
「いえなんでも。……さて、ちょっと身内に聞きたいことが出来たので、帰りますね」
「えーっ!? ちょっとユーリくんっ! 私と鍛練する約束は!?」
「した覚えがないので……」
──さらっと約束したことにされてる……と独りごちるユーリに、恥も外聞もかなぐり捨てた動きでおんぶのようにしがみつくアイリーン。
「戦ってくれないとこのまま絞め落として訓練所に引っ張ってくわよ!」
「脅しには屈しない……!」
「──なにを騒いでいるのですか」
「…………うげっ」
流れる動作で両腕を首に巻き付けるアイリーンに、ユーリは落ちないように支えながらも淡々と返す。すると、不意に本棚の影から声と共に女性が現れる。それは黒髪の使用人──ヴァレンティナ・ヴァレンタインであった。
「『うげっ』ではありません。図書室ではお静かに、以前にも言いましたよね?」
「すみませんヴァレンティナさん、アイリーン様に手合わせをねだられたものですから」
「あっ、私のせいにした」
「客観的に見ても貴女のせいですからね」
「そうでしょうね、お嬢様はいささか……ワガママが過ぎますので」
「ひい」
ヴァレンティナの言葉と眼差しに、アイリーンは短い悲鳴を上げてユーリから降りて背中に隠れる。完全に躾られている……と呟いて、ユーリはヴァレンティナに更に声を向けられた。
「手合わせ……といいますと、お嬢様とタチバナ様が、ですか?」
「そうなりますね」
「……以前、商業都市では別々の場所で戦っていたこともありましたが、そういえば確かに……タチバナ様の実力は把握しかねておりますね」
「──えっ」
うずっ、と。ヴァレンティナの言葉に熱がこもる様子をユーリは感じ取った。
「タチバナ様、もし宜しければ──わたくしがお相手致しましょうか」
「…………う────ん」
ヴァレンティナからの突然の申し出に、ユーリは悩むそぶりを見せる。すると、横合いから顔を覗かせたアイリーンが口を開いた。
「ユーリくん、1つアドバイスしてあげる」
「なんでしょう」
「いい? ──モロに食らったら死ぬわよ」
「──あ、立ち合う前提で話進んでますねこれ」
──王国騎士団隊長の座に立つ青年、ザック。彼は訓練用の木剣を片手に、鎖帷子の上に軽鎧を着こんで訓練所に訪れていた。
「──ん」
ギィ……と扉を開くと、ドーナツ状の観戦席で休憩している他の騎士と──そのなかに紛れているアイリーンを見つけて、彼は露骨に嫌そうな顔をする。
それから
「誰か射撃訓練をしているのか?」
「おっ、隊長。いや違うんすよ、めっちゃ強い使用人の……ヴァレンティナさん、居るでしょ? あの人と殴り合ってる奴が居るんです」
「……ヴァレンタインと……?」
国から支給されている単発式ライフルの銃身を肩に当てて置いている男にそう言われて、ザックは下のフィールドを覗き込む。
そこに居たのは──
「……ユーリ殿!?」
「あらザック、あなたもしかしてユーリくんのこと知ってるの?」
「殿下……ええ、はい。ユーリ殿を国王陛下の指示で城に招いたのは私です」
「へぇ~」
そう返して、アイリーンはユーリたちに視線を戻す。ザックもまた、手の甲や腕、肘でヴァレンティナの拳を受け流すユーリを見る。
「──我々ですらヴァレンタインを相手に30秒ともたないというのに……」
アイリーンが訓練所で本気を出せない騎士を相手に暴れ、それをヴァレンティナが咎めて彼女をボコボコにし、ヴァレンティナが相手ならと調子に乗った騎士をついでにボコボコにする。
──という事態が城内で定期的に発生するため、ヴァレンティナ・ヴァレンタインという女性はヒエラルキーの上の方に存在していた。
余談だが、ザックもまた『国王直属の部下があっさりとのされてはメンツが立たない』と立ち上がり、約28秒で床に沈んだ過去をもつ。
「……ユーリ殿は今、何分立っている?」
「えー……数えた限りでは……そろそろ5分っすね。大半は1分以下で沈む方に賭けてました」
「賭けるな馬鹿者」
「ちなみに私は5分30秒におやつのドライフルーツ全部賭けてるわ」
「賭けないでください」
ザックはそう言って部下たちとアイリーンを叱るが──その視界の端で、ちょうどユーリがヴァレンティナのフックを顎に食らっていた。
「あ」
「あっ」
「あーあ」
ザック、部下の男、アイリーンが同時に呟く。三人と他の騎士たちは、ヴァレンティナが膝から崩れ落ちるユーリを咄嗟に支える光景を、遠巻きに眺めるのだった。