あの人のことを、ちゃんとは分かっていなかった。
特別な出会い方なんてしていない。いたって普通の出会い方だった。出会ったと言っていいのかも怪しいけど、とりあえずお互いに知り合ったと言える日は間違いなく入学式の日だった。
讃州中学校に入学して、定番の自己紹介が行われる。クラスの席の角4人がジャンケンして、勝った人から蛇の目に自己紹介が行われた。
「い、犬吠埼樹です。よ、よよよよ、よろしくお願いします!」
めちゃくちゃ緊張して、めちゃくちゃテンパってたのをよく覚えてる。それでクラスのみんなが笑ったのも、仕方ないんじゃないかな。俺だって笑いを溢してしまった。申し訳ないと思ったけど、不覚にも笑ってしまった。
別にそれがあったからと言って、犬吠埼さんはクラスの中心になったわけでもない。その日はたしかに話題の中心になったけど、次の日からはそうでもなかった。犬吠埼さん自身が控えめな性格をしてるのもあったんだと思う。
だから俺も、用事があるとき以外は犬吠埼さんと話すことはなかった。俺も犬吠埼さんも、ジャンケンに負けていった結果音楽係になって、それで偶に話すぐらいだった。勇者部に入ってると知った時は意外だと驚いた。勇者部の先輩たちはとても活動的で、大人しい犬吠埼さんが一緒にいる姿を想像できなかったから。
「私のお姉ちゃんが勇者部で部長してるんだ」
納得の理由だった。犬吠埼さんは姉妹で仲がいいって話を、クラスメイトから聞いたことがあった。
「お姉ちゃんは私の憧れだから。ああいう人になりたいなって。……なれるかわからないけど」
形だけだったけど、犬吠埼さんを応援した。その言葉が本気なのかどうか。軽く聞き流してしまったその時の俺には、その真意を推し量ることはできなかった。
犬吠埼さんと話すのは、本当に係で一緒に何かする時だけ。それも仕事の話が圧倒的に多い。だから、友達から犬吠埼さんのことを聞かれても、なんとも言うことはできなかった。質問も漠然としていて「犬吠埼ってどんな人?」だった。
男子で犬吠埼さんと離しているのは俺くらいなもので、「そういえば」と話のネタのために振られるわけだが、期待されても困る。軽く話しただけで何が分かるわけでもなく、表面的なことしか答えられないのだから。
──意外性なんてない
そう思っていた。
「犬吠埼って歌上手かったんだな!」
「凄えよな!」
音楽のテストがあった。人前に出ることが苦手な犬吠埼さんは、緊張していて全然歌えていなかった。それなのに、本番ではしっかりと歌えていた。後日聞いてみたら、勇者部の人たちからメッセージカードならぬ、メッセージページをサプライズで貰っていたらしい。それが犬吠埼さんの支えになって、しっかりと歌うことができたそうだ。
「私、歌うことが好きなんだ。人前だと緊張しちゃって全然歌えてなかったんだけど、これからは好きな歌をどんどん歌っていける! と、思う……」
自信満々に言い切らなかった。それがなんだか犬吠埼さんらしかった。犬吠埼さんの歌声はとても心に響いて、優しい気持ちになれる。そんな魔法にかけられてしまう。
犬吠埼さんの歌を好きになった。話すことは全然ないから、放課後に一緒に遊ぶとかもない。休みの日にどうこうとかもない。音楽の授業で、犬吠埼さんの歌声を聞くことが、新たにできた楽しみの一つだった。
「犬吠埼さんは、病気の影響で声が出なくなってしまいました。お医者さんは、いずれ治ると仰っていますし、皆さんもこれまで通り接してあげてください。それでは──」
夏休みが終わったら、犬吠埼さんの声が失われた。
その事実に理解が追いつかない。先生の話が全然入ってこなくて、俺はずっと混乱したままだった。休み時間に犬吠埼さんに話を聞くことにした。係のこと以外で話しかけるのは初めてだったけど、緊張することはなかった。たぶん、もう緊張状態だったからだと思う。
医者からどう言われてるのかを具体的に聞いた。
本当に完全に治るのか。いつに治るのか。どういう治療法を使うのか。
『具体的にはまだ調査中なんだって。でも、治らないわけじゃないって聞いてるから、きっと治るよ』
何だそれは……。
そんなの……。
好きな歌も歌えない! もしかしたらいつまでも歌えない! そんな現実があってたまるか! 何一つ悪いことをしていないのに、それなのに!
叫びたい気持ちを全部抑えて「そうなんだ。じゃあ、俺が見つけてみるよ」と気休めにもならないことを言うしかなかった。
俺はその日から勉強を始めた。医者になるための勉強を。喉、具体的には声帯の治療についても並行して。最初は何一つ分からなかった。専門用語が理解できないし、学校で習ってないことがいっぱい書かれてた。
読むことに苦労する。理解するにはその何十倍も苦労する。だけど諦める気は一切無かった。犬吠埼さんの歌をまた聞きたい。その一心で。
「今は治療法がないのなら、俺が新しいのを見つけたらいいだけだ」
何度も自分に言って聞かせた。
分からないところが理科っぽいなと思ったら、職員室で理科の先生に聞いてみた。数学なのかなと思ったら、職員室で数学の先生に聞いてみた。
先生に聞くのは休み時間にして、放課後は図書室で勉強した。勉強に集中できる環境だったし、職員室にも近かったからありがたい。図書室には小説とか文庫本以外にも、勉強のための本もある。まさか図書室をこんなにありがたく思う日が来るとは思ってもいなかった。
そうやって勉強を続けていくと、高校生レベルの数学と理科……化学って言うの? は理解できるようになった。数学っているのだろうか、とか思ったりもしたけど、念の為に勉強を続けてた。
「医学のは、図書館で探さないとな」
文化祭も近づいてる。1年生は特に何かするわけじゃないし、部活にも入ってないから準備とかはない。そんなわけで、図書館で本を借りて、学校の図書室で勉強する。
そうやって進めていたのに──
「みなさん、ご心配おかけしました。この通り、声が治りました」
犬吠埼さんの声が治った。
クラス中でお祝いの声が響く。拍手が鳴り続ける。俺も拍手をしていたけど、内心ではそれどころじゃなかった。
犬吠埼さんの声が治ったことは喜ばしい。それは願っていたことだ。だけど、そう簡単に割り切ることなんてできない! だって、治療法は見つかってなかったのに! そう聞いていたのに! どうやって治ったって言うんだ!
「なんの為に俺は……!」
学校の近くにある林を歩く。空は晴れているのに雨が降ってきた。狐の嫁入りって言うらしいんだけど、今は自分の心が現れている気がした。
喜ばしいと思うと同時に、無力感に苛まれる。適当な木に背中を預けて、ズリズリと座り込む。項垂れていると風が強くなり、雨を体中に浴びる。顔が濡れてるのは雨なのか、それとも俺の雨なのか。何もわからなかった。
雨がしばらく止みそうにない。何だか珍しい気がする。そう思っていると、不意に全然雨が当たらなくなった。雨が止んだのか? そう思って顔を上げると、雨は止んでいなかった。人がそこに立って、俺を雨から守ってくれている。
「犬吠、埼……さん……?」
「ありがとう」
「ぇ?」
何を感謝されてるんだ。最近何かしたっけ?
いや、何もしてない。犬吠埼さんに何か手伝ったことなんて、1学期しかない。まだ、声を出せてた時しか……。
「お礼を言われることなんて何もしてないよ?」
「ううん。してくれたよ」
「してない! 俺は何も! 何も……できてない……!」
「……私知ってるよ。お医者さんになろうと勉強を頑張ってたこと。本気で治療法を見つけようとしてくれてたこと。ちゃんと知ってるから、だから、ありがとう」
「ぁ……」
何か言おうとして、だけど何も言えなくて。
ただ、自分の心が救われた気がして。
雨が止んで、日の光が眩しく思える。
「雨止んだね」
犬吠埼さんが木漏れ日を眩しそうにして、手で影を作る。日の光よりも明るくて、日の光も暖かい笑顔が向けられた。
犬吠埼さんは強い人だ。この人が見てくれてたように、俺も犬吠埼さんの様子を見てた。声が出なくてもいつも通りに過ごして、できる限りのことを全力で取り組んで。挫けず、真っ直ぐに前を見続けてた。そんな姿をいつしか目で追うようになって。
強くて、優しい心を持っている犬吠埼さんはとても眩しくて。何よりも眩しい人から、帰ろうと手を差し伸べられる。俺はその手を握れず、しばらく俯いてから顔を上げた。
「犬吠埼樹さん、あなたのことが好きです」